ミール城建造物群

Mir Castle Complex

  • ベラルーシ
  • 登録年:2000年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:27ha
世界遺産「ミール城建造物群」、ミール城の西ファサード。中央が門塔
世界遺産「ミール城建造物群」、ミール城の西ファサード。中央が門塔。塔はそれぞれレンガ層・漆喰・窓・壁龕などで飾られている
世界遺産「ミール城建造物群」、庭園の池から眺めたミール城
世界遺産「ミール城建造物群」、庭園の池から眺めたミール城。左が南ファサード、右が東ファサード (C) Pavel Kuritsyn
世界遺産「ミール城建造物群」、ミール城の中庭。左の塔が門塔、その右が北ウイング
世界遺産「ミール城建造物群」、ミール城の中庭。左の塔が門塔、その右が北ウイング (C) AleBurd
世界遺産「ミール城建造物群」、イギリス式庭園とスヴャトポルク=ミルスキー礼拝堂
世界遺産「ミール城建造物群」、イギリス式庭園とスヴャトポルク=ミルスキー礼拝堂 (C) AleBurd

■世界遺産概要

ベラルーシ中西部、フロドナ州カレリチに位置する城で、15世紀後半~16世紀初頭にかけてリトアニア大公国の名家であるイリニッチ家によってゴシック様式で創建された。1568年に同じく名家として知られるラジヴィウ家の手に移るとルネサンス様式で改修された。17~19世紀にかけて多くの戦争に巻き込まれ、最新の要塞設備とバロック様式の要素が加えられた。これにより中世から近代にかけての中央ヨーロッパ城塞・要塞建築の集大成といえる名城に仕上がった。

○資産の歴史

中世、ミール城のある地域は中央ヨーロッパの交易拠点として知られ、北ヨーロッパと南ヨーロッパ、東ヨーロッパと西ヨーロッパを結ぶ交易路の要衝だった。異教徒に対する宣教の拠点でもあり、後にはローマ・カトリックと正教会の境となった。こうした背景もあってさまざまな民族・文化が交流・融合した。

ベラルーシの地には6~8世紀にバルト系民族が定住しており、その後、現在のベラルーシ人の祖先のひとつとされるスラヴ系のラジミチ人が入植した。10世紀にキエフ大公国(キエフ・ルーシ)からポロツク公国が独立し、1392年にリトアニア大公国に編入された。といってもリトアニアでは多くのベラルーシ人が活躍し、その中枢を占めていたという。リトアニアはキリスト教国ではなかったため、北方十字軍の中心をなすドイツ騎士団と戦争を繰り返した。

1385年のクレヴォ合同によってリトアニア大公国とポーランド王国の同君連合が成立し、リトアニア大公ヨガイラとポーランド女王ヤドヴィガの結婚や、リトアニアのキリスト教への改宗などが定められた。こうしてポーランド=リトアニア連合王国が成立し、キリスト教に改宗したヨガイラが王位に就いてヴワディスワフ2世に改名し、ヤギェウォ朝がスタートした。1569年にはルブリン合同が成立し、両国が正式に統一して選挙で同じ君主(ポーランド王とリトアニア大公)を掲げる共和国(ポーランド=リトアニア共和国)となった。

ミール城の立つ土地は15世紀にゲディゴルドヴィチ家の私有地となり、15世紀後半にリトアニア大公国の名家であるイリニッチ家に引き継がれた。この頃、ポーランド=リトアニアはしばしばクリミア・ハン国の攻撃を受けており、イリニッチ家は王家にも対立勢力を抱えていた。また、イリニッチ家が伯爵号を熱望していたこともあって、堅牢な石造の城が待望された(神聖ローマ皇帝は石造の城の所有を爵位の条件のひとつとしていた)。

15世紀後半から16世紀初頭にかけて、イェジイ・イヴァノヴィチ・イリニッチがミリャンカ川とザムカヴァ川の合流点の小高い丘にゴシック様式のミール城を建設した。城塞はおおよそ75m四方で厚さ3mほどの城壁で囲まれており、四方と西面中央に5基の塔を備えていた。塔はいずれも高さ約25mの5階建てで、底面は正方形ながら上層は八角形となっていた。しかし、この城は完成には至らず、彼の孫によって1569年に大貴族として知られるラジヴィウ家のミコワイ・クシシュトフ・ラジヴィウ・シェロトカに遺贈された。

ミコワイ・クシシュトフはこの城をラジヴィウ家の宮殿のひとつとして整備し、ルネサンス様式で増改築を行った。一説ではネスヴィジのキリスト聖体教会(世界遺産)などを手掛けたイタリア人建築家ジョヴァンニ・マリア・ベルナルドーニが関わっているといわれる。北と東の城壁を増築して3階建ての居住区とし、3基の塔を改修したうえ西中央の門塔を改築してバービカン(楼門や甕城)や堀・跳ね橋を設置した(バービカン等は19世に撤去)。また、城塞の東にイタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)を造営し、城の周囲170×150mほどに砲撃を防ぐための堡塁(敵の攻撃を防ぐために砂・土・石・コンクリートなどで構築された陣地)を巡らせ、その前に堀を掘って水で満たした。こうした増改築は17世紀はじめに完成したようだ。

同じ頃、ミコワイ・クシシュトフは約30km南にネスヴィジ城(世界遺産)を建てており、17世紀に入ると主にネスヴィジ城が使用され、ミール城は宮殿としてはほとんど使用されなくなった。ただ、一部の改修は進められ、たとえば宮殿と塔の壁は漆喰で塗られ、ピンク色に染められた。

この頃、ロシア・ツァーリ国との戦争が相次ぎ、1655年に包囲されて大きな被害を受けた。1680年にようやく修復がはじまったが、18世紀に入るとスウェーデンの大国化を阻止しようとはじまった大北方戦争(1700~21年)に巻き込まれ、1706年にスウェーデン王カール12世の攻撃を受けた。

新たにラジヴィウ家の当主となったミハウ・カジミェシュ・ラジヴィウ・ルィベンコはミール城を修復しながらバロック様式の要素を加え、死の直前の1754~62年をここで過ごした。

18世紀末、ポーランド=リトアニアはオーストリア、プロイセン、ロシアによる3度のポーランド分割によって解体され、1795年に消滅した。ラジヴィウ家はナポレオン戦争(1803~15年)でフランス側に立ってこれらの国々と戦った。ミール城は1812年に大きな戦闘に巻き込まれて損傷し、当主のドミニク・ヒェロニム・ラジヴィウはロシア戦役で負傷して死亡した。以降、ミール城は19世紀後半まで放棄された。

1891年にロシアの軍人でベラルーシの貴族でもあるニコライ・スヴャトポルク=ミルスキーが城を購入して修復し、スヴャトポルク=ミルスキー礼拝堂やスヴャトポルク=ミルスキー城(後に撤去)、醸造所、イギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)などを建設した。1922年からは息子のミハイルが建設を進め、1938年まで城に居住した。

第2次世界大戦(1939~45年)ではナチス=ドイツに接収され、捕虜収容所やゲットー(ユダヤ人を隔離・収容した居住区)として使用された。この時代の損傷が修復されるのは1982年に入ってからだった。

○資産の内容

世界遺産の資産として、ミール城と周辺の庭園・遺跡などが地域で登録されている。

ミール城は78×72mのコートハウス(中庭を持つ建物)で、中央に42m四方の中庭を有している。四方を城壁で囲われており、4つの角に地下室+5階建ての塔、西面中央に地下室+6階建ての門塔が設けられている。レンガと石を組み合わせて築かれたゴシック様式の城壁は最大で高さ13m、上部が厚さ2m、下部が3mほどで、東ウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊)と北ウイングは3階建てのルネサンス様式の宮殿となっている。宮殿には寝室や居間・ホールなどの施設に加え、倉庫・ワインセラー・キッチン・醸造所・パン工房・馬小屋などが備えられている。塔は基本的にレンガ造で一部に切石が使用されており、塔の下層は四角形、上層は八角形で、レンガ・漆喰・窓・狹間・壁龕などで装飾されている。塔身のデザインは5基それぞれ異なっており、高さも22~26mと一定しない。

ミール城の北西や北東には17世紀の稜堡の一部が残されている。当時はさらに塔や柵・堀などが設けられていたが、ほとんど残っていない。

ミール城の周辺はイギリス式庭園で、北と東に森、南に池が広がっている。城の東に立つスヴャトポルク=ミルスキー礼拝堂は1904年に建設されたレンガ造のモダニズム建築で、鐘楼とクリプト(地下聖堂)を持ち、ファサード(正面)はイエスを描いたモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)で飾られている。

礼拝堂の近くに立つ監視棟はレンガ造の平屋で、警備員が常駐していた。公園の東にはレンガ造・2階建ての宮殿別館があり、スヴャトポルク=ミルスキー城の城跡やミール醸造所がたたずんでいる。また、ユダヤ人関係の施設も多く、ナチス=ドイツ時代の虐殺場・埋葬地、祈念碑、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)などが立ち並んでいる。

一帯の西端に立つザスラフスキー礼拝堂は住民のザスラフスキー氏が亡き息子のために1909年に建設した礼拝堂だ。

■構成資産

○ミール城建造物群

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ミール城は中央ヨーロッパの城の卓越した例であり、そのデザインとレイアウトに歴代の文化的影響(ゴシック、ルネサンス、バロック)が反映されており、これらが調和・融合することでこの地域の歴史を証言する印象的なモニュメントが生み出された。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ミール城のある地域は政治的・文化的な対立と統合の長い歴史を持ち、それが建造物群の形態と外観に視覚的に反映されている。

■完全性

資料なし

■真正性

資料なし

■関連サイト

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