エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]

Archaeological Site of Aigai (modern name Vergina)

  • ギリシア
  • 登録年:1996年
  • 登録基準:文化遺産(i)(iii)
  • 資産面積:1,420.81 ha
  • バッファー・ゾーン:4,811.73ha
世界遺産「エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]」、直径110m・高さ13mを誇るフィリッポス2世の墳丘墓
世界遺産「エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]」、直径110m・高さ13mを誇るフィリッポス2世の墳丘墓。中央は現在、ヴェルギナ美術館のエントランスとなっている (C) Rufus210
世界遺産「エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]」、フィリッポス2世の墓
世界遺産「エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]」、フィリッポス2世の墓 (C) Sarah Murray
世界遺産「エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]」、ゼウスの娘ペルセポネが冥界の王ハデスに奪われるシーンを描いたフレスコ画、ペルセポネの略奪
世界遺産「エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]」、ゼウスの娘ペルセポネが冥界の王ハデスに奪われるシーンを描いたフレスコ画、ペルセポネの略奪
世界遺産「エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]」、フィリッポス2世の母であるエウリュディケを描いたフレスコ画
世界遺産「エゲの考古遺跡[現在名ヴェルギナ]」、フィリッポス2世の母であるエウリュディケを描いたフレスコ画

■世界遺産概要

テッサロニキの西約55km、ピエリア山脈の麓に位置する古代都市エゲ(アイガイ)はマケドニア王国(前808~前168年)前期の首都であり、ギリシアでも最大級の宮殿跡が残されている。死者の町ネクロポリスでは300基以上の墓が発見されており、マケドニア王国の繁栄の土台を築いたフィリッポス2世のものと見られる墓も含まれている。

○資産の歴史と内容

エゲの地は紀元前3000年紀から人の居住の跡があり、山麓には数百の墳丘墓が集中している。紀元前8世紀頃からマケドニア人が住み着き、都市として発達したようだ。伝説によると紀元前8~前7世紀、半神半人の英雄ヘラクレスの血を引くマケドニア人カラヌスがマケドニア王国アルゲアス朝を建国し、エゲを首都として整備したという。マケドニア王国はギリシアの諸ポリスと異なり、都市国家ではなく複数の都市を持つ領域国家で、一夫多妻制を認めるなどペルシア的な文化を持っており、当初ギリシア人たちはマケドニア人をバルバロイ(異国語を話す野蛮民族)として扱っていたようだ。しかし、紀元前6世紀後半に裁判でギリシア人として認められ、紀元前504年頃に国王アレクサンドロス1世はマケドニア人としてはじめてオリュンピア大祭(古代オリンピック)に参加した。ペルシア戦争(紀元前499~前449年)では形的にアケメネス朝ペルシアについたが、両者の講和を計ったり情報を流すなどギリシアのポリス連合を支援した。

アレクサンドロス1世の死後、マケドニアは内乱が続いて混乱するが、ギリシアのポリスがアテネ(世界遺産)のデロス同盟とスパルタのペロポネソス同盟に分かれて争ったペロポネソス戦争(紀元前431~前404年)には参加せず、国力の回復と版図の拡大を図った。この頃、アルケラオス1世が首都をエゲから北のペラに遷し、ギリシア文化の取り込みを行った。エゲは首都としての座を失ってもマケドニア人の故郷であり聖地として重要視され、宮殿やネクロポリスは変わらず使用された。

紀元前382年に生まれたフィリッポス2世の幼少期、マケドニアは混乱が続いており、フィリッポス2世はアテネやスパルタと覇権を争った強国テーベ(テーバイ)に人質に送られた。ここで将軍エパミノンダスに見出され、ギリシア最先端の軍制や文化を学んだという。フィリッポス2世は紀元前359年に王位に就くと国政・軍制改革を推し進めた。ギリシアのポリスにならって都市の機能を強化しつつ、各都市の貴族や地方の豪族を引き締めて中央集権体制を強化した。また、ギリシアの重装歩兵を発展させて「マケドニアン・ファランクス」と呼ばれる戦術を導入した。兵士はサリッサと呼ばれる5mを超えるような長槍を持ち、これをいっせいに敵に向けて針の山のような陣(ファランクス)を作って歩を進めていくもので、ファランクスの周囲に馬に乗った重装騎兵ヘタイロイを配して機動力も確保した。また、フィリッポス2世は優秀な人材をギリシア全域から呼び寄せて登用した。一例が息子アレクサンドロスにつけた家庭教師、大哲学者アリストテレスだ。

フィリッポス2世は聖地デルフィ(世界遺産)を巡る第3次神聖戦争(紀元前356~前346年)に参加して勝利。紀元前338年にはマケドニアの台頭を恐れたアテネとテーベが同盟を結んで戦いを挑むが、フィリッポス2世は紀元前338年のカイロネイアの戦いでこれを退けた。翌年、コリントス同盟(ヘラス同盟)を結成してスパルタ以外のポリスを取り込むと、アケメネス朝に対する戦争を決議した。これは同盟を強めると同時に矛先を外に向け、兵士を集めてポリスを弱体化させつつ人質とする戦略だった。

フィリッポス2世は紀元前336年に暗殺され、その跡を弱冠20歳のアレクサンドロス3世が継いだ。アレクサンドロス3世は紀元前334年に4万の兵を率いてアケメネス朝に攻め込み、数倍~数十倍の敵兵を相手に連勝を重ね、最終的にエジプト、中央アジア、インドの手前にまで攻め込んで大帝国を築いた(アレクサンドロス帝国)。紀元前323年にアレクサンドロス3世が「もっとも王にふさわしい者が国を治めよ」との言葉を遺して病死するとディアドコイ(後継者)戦争が勃発。アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアというヘレニズム3大国が覇を競うが、アンティゴノス朝マケドニアは共和政ローマのマケドニア戦争によって討伐され、紀元前168年に滅亡した。このとき首都ペラとエゲは略奪を受け、宮殿はもちろん城壁まで徹底的に破壊された。ペラはその後も都市として存続したが、エゲは一度は再興されたものの地震で倒壊し、その後は小さな集落となって人々の記憶から忘れ去られた。

19世紀から考古学者たちは幻の都エゲがどこかに存在するという仮説を提唱し、ヴェルギナ付近の発掘を行った。フランス皇帝ナポレオン3世の後援を受けたフランス人考古学者レオン・ユーゼによる発掘が1861年にはじまり、宮殿跡が発見された。1937年にはテッサロニキ・アリストテレス大学の考古学チームが発掘を行い、さらなる宮殿の遺構やマケドニア王国時代の墓を掘り当てた。第2次世界大戦の中断を経た1950年以降に劇場など多くの遺構が発見された。ギリシア人考古学者マノリス・アンドロニコスは1977年に大墳丘と呼ばれる丘を発掘し、4基の墓を確認。そのひとつがフィリッポス2世のものと見られたことからセンセーショナルなニュースとなった。

エゲの都市遺跡は城壁に囲まれたアクロポリス(丘)を中心に展開し、一帯を見下ろす頂に宮殿が立っていた。この宮殿はフィリッポス2世の頃の建設で、建築家ピケオスの設計と見られており、2~3階建てでモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)やレリーフ、彫刻で彩られ、ペリスタイル(列柱廊で囲まれた中庭)にはドーリア式(ドリス式)の柱が立ち並んでいた。宮殿としては当時最大級を誇り、マケドニア建築を代表するもので、その影響はアレクサンドロス帝国を通してアジアにまで及んだ。隣接する劇場は宮殿の付属施設だ。周辺には複数の聖域が整備されており、エウクレイア神殿やキュベレ神殿の跡が発見されている。

近郊のネクロポリスには墳丘墓が3km以上にわたって立ち並んでいる。もっとも古いもので紀元前11世紀までさかのぼり、300基以上の墓が発見された。もっとも代表的な墓がフィリッポス2世のものとされる墓で、大理石と金・象牙で装飾された玄室から黄金のラルナックス(納骨箱)と黄金の墓冠、鎧や武器、花輪などが発見された。ラルナックスには人骨が収められており、年代はフィリッポス2世の時代と一致する。隣室は女王の間と見られ、同様にラルナックスと墓冠が見つかっている。これ以外にアレクサンドロス3世の息子であるアレクサンドロス4世の墓や、フィリッポス2世の母エウリュディケの墓などが発見されている。なお、アレクサンドロス3世の墓についてはエジプトのテーベ(世界遺産)に埋葬され、その後アレクサンドリアに移されたと伝わっているが、いまだに発見されていない。

■構成資産

○エゲの古代都市とネクロポリス

○青銅器時代の住居と墳丘墓

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

宮殿の形状や墳丘墓のすばらしい壁画、象牙のポートレートやミニチュアアート、金・銀・鉄の工芸品など、都市遺跡と墓地遺跡の双方にきわめて高品質で歴史的重要性を持つ本物かつ独創的な古典期後期芸術の歴史的・芸術的・美的成果が含まれている。これらの業績の多くは彫刻家レオカレスや画家ニコマコスなど古代ギリシアの偉大な芸術家たちによって生み出されたものである。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

この遺跡はギリシアの古典的な都市国家からヘレニズムとローマの帝国構造への移行期におけるヨーロッパ文明の重要な発展を示す卓越した証拠である。これは一連の王家の墳丘墓とその多彩な内容によってハッキリと示されている。

■完全性

資産には顕著な普遍的価値を伝えるすべての重要な要素が含まれている。厳正保護区では建築活動が禁じられており、古代都市や墓地群・青銅器時代の墳丘墓は十分に保護されている。より広い保護区については建築制限があり、こうした政策によって完全性が保持されている。エゲは宮殿や聖域、マケドニア時代の墓、古代芸術の遺物のようにもっとも完全で包括的かつ手付かずの古代モニュメントを有している。都市や墓地における考古学的な研究と宮殿やネクロポリスの修復プロジェクトは遺跡のマスタープランと国内および国際的な基準と規制に従って進められており、遺跡の文書化と保護に関して多数の肯定的な影響を及ぼしている。半ば山岳といえる景観や河川や植生といった自然環境は古代都市の領域とマケドニア王室の文化遺産の範囲と一致しており、資産の完全性を強調している。

■真正性

エゲの考古遺跡の芸術的・建築的な遺構はその形状・素材・環境について本物であり、真正性を維持している。一般的に発掘は、特に土壌や堆積物の除去は破壊行為であると考えられている。そのためオリジナルの大墳丘はもはや存在せず、オリジナルを模倣したカバー構造で再建されている。この保護シェルターは王家の墓の真正性を確保し、保護するために構築されたもので、墳丘墓の形状と技術的な仕様は遺跡を尊重しており、完璧に調和している。墓の内部については継続的な安定性を確保するために行われた最小限の介入に留まっており、紛れもない本物である。また、宮殿のような遺構もやはり完全に本物である。

地下の神殿形の墓は古代建築における色の使用に関するもっとも保存状態のよい作品のひとつである。また、この墓において古代ギリシアの無傷のファサード(正面)がはじめて発見された。宮殿はペリスタイルを持つ様式の典型であり、哲学的・政治的・建築的信念に基づいた宮殿の完全かつ象徴的な形状は啓蒙された王権概念の原型あるいは視覚表現として機能した。王家の墓のいくつかは遮蔽されており、モニュメントと自然環境をユニットとして保護することで都市と墓地の本来の関係性を保護している。

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