ヴァッハウ渓谷の文化的景観

Wachau Cultural Landscape

  • オーストリア
  • 登録年:2000年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:18,387ha
  • バッファー・ゾーン:2,942ha
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、デュルンシュタイン。山上の遺跡がデュルンシュタイン城跡、青い塔はデュルンシュタイン修道院
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、デュルンシュタイン。山上の遺跡がデュルンシュタイン城跡、青い塔はデュルンシュタイン修道院
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、メルクの街並み。左の建物がマリア・ヒメルファールト教会
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、メルクの街並み。左の建物がマリア・ヒメルファールト教会
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、メルク修道院。双塔が修道院教会
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、メルク修道院。双塔が修道院教会
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、メルク修道院教会の見事なフレスコ画と装飾
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、メルク修道院教会の見事なフレスコ画と装飾 (C) Uoaei1
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、アックシュタイン城から見下ろすヴァッハウ渓谷
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、アックシュタイン城から見下ろすヴァッハウ渓谷
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、右がシェーンビューエル城、左の小さな建物がシェーンビューエル修道院
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、右がシェーンビューエル城、左に小さく見える建物がシェーンビューエル修道院
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、ゲットヴァイク修道院
世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」、ゲットヴァイク修道院 (C) Arcomonte26

■世界遺産概要

オーストリア北部に展開するヴァッハウ渓谷はドナウ渓谷の一部で、世界遺産にはドナウ川のメルク~クレムス(クレムス・アン・デア・ドナウ)間の約36kmが登録されている。山々を縫うように流れるドナウ川の自然景観と、山頂に立つ城や修道院、河畔の町や村、斜面のブドウ畑が一体となった美しい文化的景観が広がっている。

○資産の歴史

ヴァッハウ渓谷では旧石器時代の遺跡が発見されており、ヴィレンドルフ(ヴィレンドルフ・イン・デア・ヴァッハウ)では紀元前2万年以前にさかのぼると見られる石像「ヴィレンドルフのヴィーナス」が発見されている。新石器時代(紀元前4500〜前1800年)や青銅器時代(紀元前1800〜前800年)の集落跡は数多く、鉄器時代にはケルト人のハルシュタット文化(紀元前800〜前400年)が伝わり、ノリクムと呼ばれるケルト王国が成立した。

紀元前15年にローマ人がノリクムを征服すると、ドナウ川がゲルマン民族との国境となった。マウターン(マウターン・アン・デア・ドナウ)にあるファビアニス要塞はヴァッハウ渓谷の出口を守るローマ帝国・ドナウ艦隊の駐留拠点で、入口はメルク要塞が押さえていた。453年、「ノリクムの使徒」と呼ばれる聖セヴェリヌスがマウターンに修道院を建設すると、多くの修道士や巡礼者が集まって宗教的中心地となった。

976年からヴァッハウはバーベンベルク家の辺境伯領に組み入れられた。1156年に伯爵から公爵に昇格してオーストリア公国が成立したが、オーストリア公ハインリヒ2世は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサと対立して領地の大半を没収された。その後、クエリンガー家やオーストリア公となったハプスブルク家による支配が続くものの、ヴァッハウ渓谷はドイツ諸国との争いが相次いで安定しなかった。ヴァイセンキルヒェン(ヴァイセンキルヒェン・イン・デア・ヴァッハウ)やヴェセンドルフ(ヴェセンドルフ・イン・デア・ヴァッハウ)、ザンクト・ミヒャエル、ヨヒングのように中世から近代にかけて独立したコミュニティを形成する町もあった。

イングランド王リチャード1世が第3回十字軍遠征の帰り道、この地を通過したのもこの時代だ。遠征でリチャード1世に恨みを抱いたオーストリア公レオポルト5世は彼を捕らえて神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡し、1192~93年のあいだヴァッハウ渓谷のデュルンシュタイン城に幽閉した。渓谷はこのように各国の目が届きにくい場所であり、領有が争われ、強盗が暗躍するような地域だった。

ヴァッハウ渓谷では11~12世紀頃から町や村が築かれたようだが、詳細はわかっていない。そうした町や村は城や砦の下で発達した。一例がマウターンやメルクで、ローマ時代のファビアニス要塞やメルク要塞がベースとなった。12世紀にはデュルンシュタイン城やアックシュタイン城、シェーンビューエル城が建設され、麓に城下町が形成された。これらの城と山や川が調和した絶景は渓谷のハイライトとなっている。地域の中心的な都市が上流のメルクと下流のクレムスで、いずれも城壁で囲まれた城郭都市となっていた。

15~16世紀に町の家々が石造化され、16世紀にはオスマン帝国の脅威もあって教会堂が要塞化された。ザンクト・ミヒャエルの要塞教会は800年頃に創建された現存する渓谷最古の教会で、ゴシック様式の教会堂が高さ7mの堅牢な壁で守られている。10世紀創建のヴァイセンキルヒェンの教区教会も堅牢な壁と高い塔を持つ要塞教会で、近郊にはタイゼンホーファーホフと呼ばれる要塞も残されている。こうした教会堂や城塞・宮殿の多くの建物が15~17世紀にルネサンス様式やバロック様式で改修されている。

ヴァッハウ渓谷の町や村の発展には修道院が大きく貢献した。地域の主要産業は林業や農業、特にブドウ栽培とワイン生産だが、9世紀頃からバイエルンとザルツブルクの修道院が森を開墾して築き上げたものだ。11世紀には近郊で修道院の設立が相次ぎ、1083年にゲットヴァイク修道院、1089年にメルク修道院、少し遅れて1410年にデュルンシュタイン修道院が設立された。いずれも堅牢な城壁を持つ要塞修道院として知られ、17~18世紀にバロック様式で改修されている。こうした修道院は町ができると教区教会を建設し、要塞教会として町の守護にあたった。

ローマ時代にはじまったワイン生産は修道院ワインの時代を経て18~19世紀に科学的手法を導入して増大した。一時はフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)の流行で他の地域と同様、ブドウの木は全滅するが、接木によって回復し、グリューナー・ヴェルトリーナー種とリースリング種の世界的な産地となり、現在の農業景観が完成した。

○資産の内容

世界遺産の資産としてはドナウ川のメルク~クレムス間の約36kmが地域で登録されており、ゲットヴァイク修道院のみが飛び地となっている。

主な自治体として、まずメルクが挙げられる。ローマ時代以前からの歴史を持つ古都で、ローマ時代にはメルク要塞が渓谷の南西を押さえていた。10世紀に辺境伯レオポルト1世が要塞をメルク城として整備し、ベネディクト会のランバッハ修道院の所領となった後、1089年頃に同修道院の一派がメルク修道院を建設した。16世紀の宗教改革でオーストリアも新教(プロテスタント)と旧教(ローマ・カトリック)の争いに巻き込まれるが、メルク修道院は旧教側の対抗宗教改革(反宗教改革。ローマ・カトリックの教会改革運動)の拠点として活動を行った。現在のバロック様式の堅牢な僧院や修道院教会は18世紀に建築家ヤコブ・プランタウアーやアントニオ・ベドゥッツィらによって築かれたもので、画家ヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤーのフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)やヨハン・ポックのスタッコ(化粧漆喰)細工をはじめ、見事なバロック&ロココ装飾で彩られた美しい修道院が誕生した。特に修道院教会の天井フレスコ画はオーストリア・バロックの最高峰のひとつと評される。町の主要教会堂が教区教会であるマリア・ヒメルファールト教会(マリア被昇天教会)で、創建は1020年頃までさかのぼる。15世紀にゴシック様式で改修されたバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で、西ファサード(正面)の中央に高さ55mのスパイア(ゴシック様式の尖塔)を持つオーストリア・ゴシックらしい意匠となっている。これ以外にメルクの歴史的建造物としては、1575年に建設されたルネサンス様式のラートハウス(市庁舎)や、修道院が町に贈ったコロマン噴水などがある。郊外にはシャラブルク城やアルトシュテッテン城といった城があるが、これらは資産には含まれていない。

シェーンビューエル(シェーンビューエル・アン・デア・ドナウ)もローマ時代に要塞が築かれていた場所で、1073年頃に要塞が立っていたドナウ河岸の高さ約40mの岩場にシェーンビューエル城が建設された。14世紀頃にメルク修道院の所領となり、メルク防衛のひとつの拠点となった。ランドマークとなっているバロック様式の塔は19世紀はじめに増築されたものだ。町はその城下町として発達し、城の礼拝堂が教区教会として機能していた。城の北東500mほどには1760年代に築かれたシェーンビューエル修道院があり、修道院の完成後は修道院教会が教区教会となった。修道院にはイエスが生まれたベツレヘムの洞窟(世界遺産)や、イエスが亡くなったエルサレムの聖墳墓教会(世界遺産)を模した礼拝堂があり、巡礼地として多くの巡礼者を集めている。

シェーンビューエル城の北東約7kmの山中にあるのがアックシュタイン城だ。12世紀はじめに渓谷を見渡す標高480mの山頂に築かれた城で、川岸のシェーンビューエル城とともに防衛拠点となった。宮殿や礼拝堂・庭園などを有する城塞だったが、1529年の第1次ウィーン包囲の前後にオスマン帝国によって破壊され、以降は軍事機能に特化した要塞として再建された。城は17世紀に放棄されて廃墟となった。

シュピッツは9~16世紀のあいだベネディクト会のニーダーアルトアイヒ修道院の所領だった土地で、バイエルン公国の飛び地だった。町の西に12世紀以前から立っていたというヒンターハウス城があり、13世紀にはニーダーハウス城が建設されて町の中心となった。前者は早々に放棄されたが、後者は17世紀に火災で荒廃してバロック様式で再建されている。バイエルンが17世紀にこの地を売却すると修道院の活動も終了し、12世紀創建のゴシック様式の教会堂がシュピッツ教区教会として教区教会となった。

デュルンシュタインはヴァッハウ渓谷でもっとも美しい町のひとつで、渓谷随一のワイン産地でもある。1150年頃にデュルンシュタイン城が建設され、1192~93年にイングランド王リチャード1世が幽閉されていたことで知られる。宗教改革に際して城塞として再建されたが、三十年戦争(1618~48年)でスウェーデン軍に破壊された。17世紀にはオスマン帝国に対する防衛のために再整備されている。デュルンシュタインはこの城の城下町で、堅牢な城壁で囲まれた城郭都市となっていた。一部に残る城壁やシュターヘンベルク塔、ヴァイグル塔などがその名残だ。1410年にはアウグスチノ会のデュルンシュタイン修道院が設立された。現在見られるバロック様式の建物や内装は18世紀に改装されたものだが、1788年には廃院となった。青と白で彩られたバロック様式の鐘楼は町のランドマークとなっており、内部はイエスの受難を描いたレリーフで彩られている。1719年にブドウ畑の中に建設されたケラー宮殿は修道院の離宮で、バロック様式の宮殿の地下にはセラーを備えていた。廃院とともに売却されたが、現在もワイナリーとして活動している。

渓谷の下流、北東を押さえるクレムスはローマ時代以前から集落があった町で、13世紀に神聖ローマ帝国の税関が置かれて自治都市となり、14世紀には城にハプスブルク家が進出した。宗教改革ではプロテスタントの拠点となり、三十年戦争ではスウェーデンに占領されて多くの建物が破壊された。城郭都市クレムスの中心を担った城塞がゴッツォブルク城で、13世紀にロマネスク様式で建設され、14世紀にゴシック様式で増改築された。19世紀後半に城壁は撤去されたが、旧市街のランドマークであるバロック様式のシュタイナー門をはじめ、クレムザー門やリンツァー門といった城門や、プルヴァー塔などの城壁塔が残されている。これ以外にも歴史的な建造物は数多く、11世紀に皇帝ハインリヒ2世が贈ったと伝わる教会堂で17~18世紀にバロック様式で改修されマルティン・ヨハン・シュミットやヨハン・ゲオルグ・シュミットらの見事なフレスコ画で知られる聖ヴェイト教区教会や、11世紀の創建で15~16世紀に網状ヴォールト(ネット・ヴォールト)天井などゴシック様式の改修を受けマルティン・ヨハン・シュミットらのフレスコ画が見られるピアリステン教会、16世紀にルネサンス様式で建設され18世紀にバロック様式のファサードが増築されたラートハウスなどの例が挙げられる。

ゲットヴァイク修道院は1083年に築かれたベネディクト会の修道院で、クレムスやドナウ川を見下ろす南の丘の山頂に建設された。宗教改革やオスマン帝国の侵攻で荒廃し、1718年の火災で全焼した後、オーストリアを代表するバロック建築家ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントを起用して建て直された。ヒルデブラントはスペイン・マドリードのエル・エスコリアル(世界遺産)を参考に設計を行ったと伝えられている。現在見られる僧院や修道院教会をはじめ、城壁などの防衛施設を除く多くの建物はこの時代のバロック建築で、エル・エスコリアルのように格子状に整然と区画されたプランの中に、外観はシンプルながら壮麗な内装を備えた数々の部屋が設けられた。バロック画家マルティン・ヨハン・シュミットやパウル・トロガーらのフレスコ画をはじめ数多くの芸術作品が見られるほか、修道院図書館の蔵書も名高い。そんな中で修道院教会の身廊は11世紀のロマネスク様式のベースを引き継いでおり、エレントルディス礼拝堂は11世紀創建で後にゴシック様式で改修されたその形がそのまま残されている。

■構成資産

○ヴァッハウ渓谷の文化的景観

○ゲットヴァイク修道院

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(v)「伝統集落や環境利用の顕著な例」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はその価値を認めなかった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ヴァッハウ渓谷は山と川からなる山水風景の顕著な例であり、その長い歴史的発展の重要な証拠が驚くほど残存している。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ヴァッハウ渓谷における建築や住居・農地は、時間とともに有機的かつ調和的に進化した中世をベースとする景観をいまに伝えている。

■完全性

ヴァッハウ渓谷はドナウ川に関連した水域・ブドウ畑・森林・人間の居住地の調和の取れた相互関係を特徴とする文化的景観で、卓越した記念碑的特徴を持つメルクとゲットヴァイクの修道院や数多くの歴史的な町・村はその歴史と発展を示す重要な物理的証拠を提示し、2,000年以上にわたって保持されている。こうした文化的景観は社会的・経済的な発展に応じて数千年にわたって発展しており、今日の景観の中に発展の各段階の痕跡を残している。さまざまな経済的・政治的・環境的理由から20世紀後半の数十年でさえヴァッハウの有機的発展の証拠を消し去り歪めるような過度の介入はほとんど起こっていない。20世紀半ば以降、保護対策が段階的に導入されており、その継続的な実施により将来の資産の保全と保護が保証されている。

■真正性

ヴァッハウ渓谷の特質は農業や森林の景観、町のレイアウト、個々の建造物に表れているが、これらの発展プロセスは進行中で、現代社会においても社会的な役割を積極的に果たしている。人々は伝統的な生活様式を重視し、慎重に開発を行い、こうした生きている文化的景観の保全に努めている。こうした努力もあって真正性は高いレベルで維持されている。

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