シャルトル大聖堂

Chartres Cathedral

  • フランス
  • 登録年:1979年、2009年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iv)
  • 資産面積:1.06ha
  • バッファー・ゾーン:62.41ha
シャルトルの街並みと世界遺産「シャルトル大聖堂」。左の双塔が西ファサード、中央のバラ窓が南ファサード、右がアプス
シャルトルの街並みと世界遺産「シャルトル大聖堂」。左の双塔が西ファサード、中央のバラ窓が南ファサード、右がアプス
世界遺産「シャルトル大聖堂」、西ファサード。鐘楼の双塔、左がゴシック様式の北塔、右がロマネスク様式の南塔、中央下がロイヤル・ポータル
世界遺産「シャルトル大聖堂」、西ファサード。鐘楼の双塔、左がゴシック様式の北塔、右がロマネスク様式の南塔、中央下がロイヤル・ポータル
世界遺産「シャルトル大聖堂」、西ファサードのロイヤル・ポータル
世界遺産「シャルトル大聖堂」、西ファサードのロイヤル・ポータル。ドアの上の横石がリンテル、その上の半球状のスペースがティンパヌム、さらに上のアーチ部分がアーキヴォールト。ティンパヌムについて、左は天使に支えられたイエス、中央はイエスとテトラモルフ(4生物。人、ライオン、ウシ、ワシ) 、右はイエスとマリア (C) Rolf Kranz
世界遺産「シャルトル大聖堂」、北ファサードの北ポータル
世界遺産「シャルトル大聖堂」、北ファサードの北ポータル。イエスやマリア、預言者、使徒、聖人らのおびただしい数の彫像が刻まれている (C) PsamatheM
世界遺産「シャルトル大聖堂」、左が身廊、右が翼廊。身廊の上部を支えているアーチがフライング・バットレス、下部には通常のバットレス(控え壁)が見える
世界遺産「シャルトル大聖堂」、左が身廊、右が翼廊。身廊の上部を支えているアーチがフライング・バットレス、下部には通常のバットレス(控え壁)が見える
世界遺産「シャルトル大聖堂」、クワイヤを取り囲むクワイヤ・スクリーンの彫刻群
世界遺産「シャルトル大聖堂」、クワイヤを取り囲むクワイヤ・スクリーンの彫刻群。ゴシック様式とルネサンス様式の約200体の彫刻が立ち並んでいる
世界遺産「シャルトル大聖堂」、中央のステンドグラスが「ベル・ヴェリエールの聖母」
世界遺産「シャルトル大聖堂」、中央のステンドグラスが「ベル・ヴェリエールの聖母」。上段にサンクタ・カミシアをまとったマリアと幼いイエスが描かれている
世界遺産「シャルトル大聖堂」、左は北ファサードのバラ窓で、中央のイエスを膝に抱えたマリアを中心に天使や使徒らを描いている。その下は5連ランセット窓、右は翼廊のクリアストーリー
世界遺産「シャルトル大聖堂」、左は北ファサードのバラ窓で、中央のイエスを膝に抱えたマリアを中心に天使や使徒らを描いている。その下は5連ランセット窓、右は翼廊のクリアストーリー
世界遺産「シャルトル大聖堂」、身廊床のシャルトル・ラビリンス
世界遺産「シャルトル大聖堂」、身廊床のシャルトル・ラビリンス。迷路のような全長261.5mの一本道で、これ自体が巡礼路となっている (C) Fab5669
世界遺産「シャルトル大聖堂」、アプスの至聖所、中央下は聖母被昇天像、上は7連ランセット窓
世界遺産「シャルトル大聖堂」、アプスの至聖所。中央下は聖母被昇天像。イエスは自ら天に昇ったが、人であるマリアは神によって天に引き上げられたため被昇天と呼ばれる。上は7連ランセット窓 (C) Quentin Doussaud

■世界遺産概要

パリの南西80kmほどに位置するウール=エ=ロワール県のシャルトル市に位置する大聖堂で、正式にはシャルトルのノートル=ダム大聖堂(カテドラレ・ノートル=ダム・ドゥ・シャルトル/シャルトルの聖母大聖堂)という。「ノートル=ダム」が「我らの貴婦人」を意味するように聖母マリアに捧げられており、聖遺物(イエスやマリア 、使徒や聖人の関連品)としてマリアが羽織っていたと伝わる聖衣サンクタ・カミシアを所蔵している。創建は4世紀と伝わっており、現在の建物は11~12世紀に建設されたロマネスク様式の大聖堂をベースに、13世紀はじめにゴシック様式で再建されたものだ。ゴシックの時代を切り拓くゴシック建築の先駆けであり、ポータル(玄関)やクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)の彫刻装飾や、教会の四方を彩るステンドグラスはゴシック芸術の最高峰のひとつと讃えられている。なお、本遺産は2009年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定された。

○資産の歴史

古代、シャルトル大聖堂の立つ場所にはケルト人の祠が存在したとの伝説が伝わっており、後に女神信仰が聖母信仰に置き換わったものともいわれる。聖リュバンのクリプト(地下聖堂)がこの時代に関わるものともいわれるが定かではない。これまでに大聖堂は5度ほど建て替えられているが、最初の聖堂はローマ時代の4世紀前後に築かれ、司教アヴェンティン・ド・シャルトルの名を取って「アヴェンティン大聖堂」、後に「シャルトル大聖堂」と呼ばれるようになったという。743年頃にマリアに捧げられた大聖堂がアキテーヌ公ウナール1世の攻撃を受けて焼失したことが記録されており、これがシャルトル大聖堂に言及した最古の記録となっている。まもなく大聖堂は再建されたが、これも858年にヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)の襲来を受けて破壊された。

まもなく再建され、876年にはカール大帝の孫に当たる西フランク王シャルル2世によって「聖処女のベール」「聖なるチュニック(一種の上着)」とも呼ばれる聖衣サンクタ・カミシアがもたらされた。伝説によると、大天使ガブリエルから懐胎を告げられた受胎告知の際にマリアがまとっていたチュニックで、東方遠征でカール大帝が入手し、シャルル2世に渡ったものとされる(異説あり)。これ以降、シャルトル大聖堂はローマ(世界遺産)やサンティアゴ・デ・コンポステーラ(世界遺産)と並ぶヨーロッパ有数の巡礼地となり、特にマリア聖誕祭、聖燭祭、受胎告知の祝日、聖母被昇天祭といったマリアの祭日には大いににぎわった。

911年にノルマンディー公となったヴァイキングのロロが大聖堂を包囲したが、サンクタ・カミシアを見せると撤退したという。しかし、962年にノルマンディー公とシャルトル伯の戦闘が激化し、大聖堂は破壊された。新たに建設された大聖堂も1020年の落雷で焼失した。

司教のフルベルトはイングランド王クヌート1世をはじめ世界中の王室や貴族から寄付を集め、ヨーロッパ最大級のロマネスク様式の大聖堂を目指して建設を開始し、1037年に奉献された。現在の大聖堂の基礎と聖フルベルトのクリプトはこの時代のものだ。1134年の大火でシャルトル市内は甚大な被害を受け、シャルトル大聖堂も西ファサード(正面)や鐘楼が燃えた。これを受けて1130~50年代にロマネスク様式で再建され、現在の南塔が築かれた。

1194年にふたたび大火が起こり、今度は西ファサードとクリプトを除くほとんどが焼失した。サンクタ・カミシアも燃えたと思われたが、数日前に地下の聖リュバンのクリプトに移されていて難を逃れた。こうした奇跡もあって多くの寄付が集まって再建が急ピッチで進められ、1230年までにほとんどがゴシック様式で建て直された。南と北のファサードだけでなく、西ファサードについても中央にバラ窓とランセット窓(細長い連続窓)が設けられ、身廊やアプス(後陣)はステンドグラスで彩られ、ポータルやクワイヤ・スクリーン(内陣であるクワイヤと外陣である身廊を仕切る聖障。ルード・スクリーン/チャンセル・スクリーン)は繊細なゴシック彫刻で飾られた。この革新的な初期ゴシック様式の大聖堂は1260年に奉献された。

1506年に鐘楼の北塔が落雷で焼失し、1513年までにゴシック様式で建て替えられた。これでゴシック様式とロマネスク様式が対比する双塔が完成した。また、北塔の基部には1520年に天文時計を備えたルネサンス様式の時計のパビリオンが設置された。16世紀にはフランス王の寵愛を受け、フランソワ1世、アンリ2世、アンリ3世らが巡礼し、1594年にはアンリ4世の戴冠式が行われた。そしてクワイヤを取り囲むクワイヤ・スクリーンが設置され、200体を超えるゴシック様式とルネサンス様式の彫刻で飾られた。

18世紀後半にクワイヤなどが改修され、クワイヤ・スクリーンは撤去されて建築家ヴィクトル・ルイによる錬鉄製の門に置き換えられた。至聖所には中央に聖母被昇天像(マリアの肉体と魂が天に引き上げられる姿を描いた像)が設置され、周囲には大理石レリーフが掲げられた。

1789年のフランス革命後、ジャコバン独裁期に「理性の崇拝」と呼ばれる非キリスト教化運動が起こり、パリのノートル=ダム大聖堂(世界遺産)やシャルトル大聖堂は一時的に「理性の神殿」と呼ばれる無神論的な宗教の神殿となった。この際に一部のステンドグラスや彫刻・祭壇・宝物・家具等が破壊され、あるいは持ち去られた。

1836年に工事中の過失から木造屋根が焼失し、金属フレームと銅板葺きで再建された。当初、屋根は金属の光沢で輝いていたが、すぐに緑青(ろくしょう)で覆われ、現在見られる緑色のシルエットを生み出した。近代に入ってより明るいステンドグラスに取り替えようという運動が持ち上がったが、そのまま維持された。中世のステンドグラスはたしかに暗かったが、不純物を含んだ微妙な色合いは二度と出せないものとされ、特にその神秘的な青は「シャルトル・ブルー」と讃えられた。

第2次世界大戦(1939~45年)では爆撃に備えてステンドグラスや宝物はドルドーニュなどの地方に退避され、あるいは地下のクリプトに厳重に保管された。1944年8月にはドイツ軍の拠点になっているという情報からアメリカ軍に爆撃命令が下されたが、兵士が疑問を唱えて命懸けで大聖堂を確認し、鐘を鳴らして無人を伝えたことから爆撃は中止された。この兵士には後にフランスとアメリカ、両政府から勲章が与えられた。

シャルトル大聖堂は破壊と再建を繰り返してきたが、13世紀以降は決定的な破壊を免れてその姿をいまに伝えている。

○資産の内容

シャルトル大聖堂は全長約130m・幅46m、「†」形のラテン十字式の教会堂で、身廊は高さ37m、北塔は115mを誇り、11~13世紀のロマネスク・ゴシック時代にはヨーロッパもっとも大きくもっとも高い教会建築だった。基礎とクリプトは11世紀、西ファサードはバラ窓や装飾・北塔を除いて12世紀のロマネスク様式で、それ以外の多くは13世紀のゴシック様式、北塔は16世紀のフランボアイヤン・ゴシック様式(火焔式)となっている。ステンドグラスは3つのバラ窓を含めて176窓、彫刻は約3,500体に及び、ステンドグラスの80%。彫刻の90%以上は中世・近世のオリジナルが引き継がれている。

シャルトル大聖堂を特徴付けるひとつの要素がゴシック建築の3大要素がもたらした高く明るい内部空間だ。ロマネスク様式の教会堂は高い身廊を左右の重厚な側廊で支える「凸」形の断面を持ち、身廊は高所に設けられた小さなクリアストーリー(高窓)から採光するだけで明るくすることができなかった。シャルトル大聖堂では交差リブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)で天井の重みを柱のみに集中させ、頂部が尖ったアーチを描く尖頭アーチで高さと上昇感を確保しつつ横に広がって崩壊しようとするスラスト(水平力)を弱め、アーチを描くフライング・バットレス(飛び梁)で身廊を支えることで側廊の負担を減らした。交差リブ・ヴォールト、尖頭アーチ、フライング・バットレスの3大要素によって壁を中心とした構造(壁構造)から柱を中心とした構造(柱梁構造)に移行したことで全体は軽くなり、より高くすることや、壁を取り払ってステンドグラスを設置することができるようになった。また、側廊はそれまで下からアーケード(下層のアーチ部分)、トリビューン(側廊の階上廊。ギャラリー)、トリフォリウム(側廊の屋根裏部分)という3層構造で、身廊はこれより1段高く、クリアストーリーを付けて4層構造としていた。シャルトル大聖堂ではトリビューンを廃止して3層構造とし、その分クリアストーリーを広げて大きなステンドグラスを設置した。これらはいずれもシャルトル大聖堂ではじめて使われた技術ではないが、各地で試行錯誤された要素の集大成となった。

西ファサードについて、鐘楼の南塔はロマネスク様式で、高さ105m・3層・八角形で頂部に太陽を掲げている。一方、北塔はゴシック様式で高さ115m・4層・正方形で月を掲げている。中央に直径12mを誇る当時最大級のバラ窓を備え、「最後の審判」をテーマとしたステンドグラスで彩られている。バラ窓の下は縦長の窓を3つ並べた3連ランセット窓で、イエスの子供時代やエッサイの木などテーマとした大聖堂でもっとも古いステンドグラスとして知られる。下部はロイヤル・ポータルと呼ばれる玄関で、3つのドアがあり、それぞれのドアの横の柱や上のリンテル(まぐさ石。柱と柱、壁と壁の間に水平に渡した石)、ティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)、アーキヴォールト(アーチ部分の迫縁装飾)はおびただしい数の彫刻で覆われている。題材は『旧約聖書』や『新約聖書』の物語が中心で、中央ドアのティンパヌムはヨハネの黙示録、北はイエスの昇天、南はマリアの生涯を主題としている。こうしたステンドグラスや彫刻の多くが12世紀の作品で、バラ窓は13世紀のものが伝えられている。

北ファサードと南ファサードも同様にバラ窓とランセット窓を持ち、北ポータルと南ポータルも数多くの彫刻で飾られている。北ファサードのバラ窓は幼いイエスを抱くマリアを中心に数々の天使や預言者の姿が描かれており、南ファサードのバラ窓はイエスを中心に『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」をテーマとしている。ランセット窓や北ポータル、南ポータルの彫刻群の題材も『旧約聖書』や『新約聖書』の物語が多い。これらの多くは13世紀のもので、ランセット窓については12世紀のものも存在する。

内装について、身廊やトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)、クワイヤは下層(側廊)も上層(クリアストーリー)もステンドグラスで飾られている。アプスの周歩廊に並ぶ放射状祭室は礼拝堂のテーマに沿った絵柄が選ばれ、アプス上部の7連ランセット窓は中央上段の聖母子像を中心に受胎告知などイエスとマリアの物語や天使・預言者・使徒らが描かれている。もっとも有名なステンドグラスは「ベル・ヴェリエールの聖母」と呼ばれる12世紀の作品で、サンクタ・カミシアをまとったマリアと膝に抱えられたイエスを描いており、シャルトル・ブルーの象徴的な作品となっている。彫刻について、全長約100mに及ぶクワイヤ・スクリーンに約200体もの彫刻が集中している。基本的にイエスとマリアの物語を描いており、1510年代にゴシック様式で建設がはじまったものの、1520年代にはルネサンス様式に変更され、1710年代に現在の姿が完成した。おおむね壁の上段がゴシック様式で、下部がルネサンス様式となっている。ピラールの聖母礼拝堂に収められているピラールの聖母(ピリエの聖母/柱の聖母)像はスペインのサラゴサで柱の上に降臨したと伝わる聖母の姿を刻んだ16世紀の彫像で、巡礼者の中で人気が高い。

身廊の床に描かれている「シャルトル・ラビリンス」と呼ばれる直径12.89mの円形の図形は12世紀に敷設されたもので、それ自体が巡礼路となっており、迷路状の一本道をたどって261.5mを進むと神の威光を示すバラ状の中心に到達する。ラビリンスはギリシア神話で怪物ミノタウルスを封印したクレタ島の迷宮ラビュリントスのことで、英雄テセウスが討伐したことで知られる。中世、人々はテセウスをイエス、ミノタウルスをサタンになぞらえ、困難に打ち勝ち神に至る道の象徴としてラビリンスの巡礼路を教会堂の床に描いた。

地下には2基のクリプトがある。聖リュバンのクリプトは9世紀に確立されたクリプトで、創建はさらに以前にさかのぼると見られ、ローマ時代の壁も発見されている。聖フルベルトのクリプトは11世紀の創建で、全長220mを誇るフランス最大のクリプトとなっている。U字形の通路のようなクリプトで、地上の側廊などに対応していることからもともと1階として設計されたものと見られる。クリプトには聖衣を入れた聖遺物庫を収めたノートル=ダム地下礼拝堂や、洗礼所である洗礼者ヨハネ・ギャラリー、12世紀のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)が残る聖クリメント礼拝堂、ステンドグラスが美しいマグダラのマリア礼拝堂などがある。

至聖所の主祭壇の彫刻は聖母被昇天像で、彫刻家シャルル=アントワーヌ・ブリダンによる18世紀の作品だ。周囲の大理石レリーフはマリアに関する逸話を刻んでおり、イエスの誕生を祝う「羊飼いの礼拝」「東方三博士の礼拝」、マリアへの貢献を誓った「ルイ13世の誓い」などが描かれている。

大聖堂の東には会議などを行うチャプター・ハウスとサン・ピアト礼拝堂が入ったゴシック様式の建物が立っている。1092年創建と伝わるチャプター・ハウスで、1335年に再建され、礼拝堂が設けられた。もともと独立した礼拝堂だったが、14世紀半ばに大聖堂と回廊で結ばれて一体化した。こちらも見事なステンドグラスで知られている。

■構成資産

○シャルトル大聖堂

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

相当に急速かつ一気に築かれたシャルトル大聖堂は建築・ステンドグラス・彫刻・絵画といった装飾の統一性により中世の芸術のもっとも特徴的な側面を完全かつ徹底的に表現している。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

シャルトル大聖堂はフランス国内外におけるゴシック芸術の飛躍に多大な影響を及ぼしている。ランス大聖堂(ノートル=ダム大聖堂。世界遺産)、アミアン大聖堂(ノートル=ダム大聖堂。世界遺産)、ボーヴェ大聖堂(サン=ピエール大聖堂)の建築家らはシャルトル大聖堂の基本設計を模倣してさらに充実させ、ドイツのケルン大聖堂(ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂。世界遺産)やイギリスのウェストミンスター寺院(世界遺産)、スペインのレオン大聖堂(サンタ・マリア・デ・レグラ大聖堂。世界遺産)などへと発展させた。ステンドグラスの分野ではブールジュ大聖堂(サンテティエンヌ大聖堂。世界遺産)、サンス大聖堂(サンテティエンヌ大聖堂)、ル・マン大聖堂(サン=ジュリアン大聖堂)、トゥール大聖堂(サン=ガティアン大聖堂)、ポワティエ大聖堂(サン・ピエール大聖堂)、ルーアン大聖堂(ノートル=ダム大聖堂)、カンタベリー大聖堂(世界遺産)とシャルトル工房の影響は広く及んでおり、作品が普及し拡散した。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

シャルトル大聖堂はゴシック様式の象徴であると同時に建築様式の基本形を確立した建築物であり、ゴシック様式による教会建築の文化的・社会的・芸術的価値を定義付けるもっとも明快な例である。

■完全性

シャルトル大聖堂は建設当初から用いられた技術や取り付けられた芸術作品の革新性と完成度から規範的な存在と考えられており、芸術家や建築家にしばしば参照された建築要素、特に身廊やクワイヤなどは手付かずで保たれている。

大聖堂にはゴシック様式の完全なパノラマを提供するポータルやクワイヤ・スクリーンといった彫刻装飾があり、12世紀半ばに制作された保存状態のよい卓越したステンドグラスや、13世紀前半のもっとも偉大なステンドグラスを含む均質で完全な装飾群を有する。また、内部の修復によりほぼ完全に保存された擬石細工による13世紀の彩色装飾が明らかになった。

後代に追加された装飾要素、ゴシック時代終盤に増築されたヴァンドーム礼拝堂や西ファサードの北塔、時計のパビリオン、ルネサンス時代のクワイヤの回廊、新古典主義時代のヴィクトル・ルイによるクワイヤの展開、産業時代のエミール・マルタンによる鉄構造、近代のステンドグラスの創作といった要素は大聖堂の純粋性を毀損していない。

また、シャルトル大聖堂はボース平野の中で際立った位置を占めている。そのシルエットは周囲25km以上にわたって見上げることが可能で景観に特別なアクセントを与えている。建築と周囲の環境が出会い調和した象徴的な景観であり、多くの画家や作家を通して「天地の間」というシャルトル大聖堂のイメージが喚起・知覚された。

■真正性

シャルトル大聖堂はその構造と装飾の両面、特にほとんど手付かずのポータルとその彫刻装飾、13世紀の偉大なステンドグラスといったアンサンブルを通して傑出した真正性を示している。これらは定期的に保全作業が施されており、すぐれた保存状態を維持している。建物について、重大な変更といえるのは17世紀に行われたクワイヤ・スクリーンの取り壊しと1836年の屋根の焼失である。屋根については1837年に木造屋根に替えて金属製の構造物が設置されたが、19世紀の重要な要素であり、建物の価値を毀損することなく完全に一体化している。

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