ヴェローナ市

City of Verona

  • イタリア
  • 登録年:2000年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:444.4ha
  • バッファー・ゾーン:303.98ha
アディジェ川と世界遺産「ヴェローナ市」、サン・ピエトロ城からの絶景。右手前の塔はサンタ・アナスタシア聖堂の鐘楼、右奥の塔はランベルティの塔
アディジェ川と世界遺産「ヴェローナ市」、サン・ピエトロ城からの絶景。右手前の塔はサンタ・アナスタシア聖堂の鐘楼、右奥の塔はランベルティの塔
世界遺産「ヴェローナ市」、ヴェッキオ城(カステルヴェッキオ博物館)とカステルヴェッキオ橋。橋の白い部分が石造、赤い部分がレンガ造となっている
世界遺産「ヴェローナ市」、ヴェッキオ城(カステルヴェッキオ博物館)とカステルヴェッキオ橋。橋の白い部分が石造、赤い部分がレンガ造となっている
世界遺産「ヴェローナ市」、左はピエトラ橋、中央右の塔はヴェローナ大聖堂の鐘楼、右のドームはサン・ジョルジョ・イン・ブライダ教会
世界遺産「ヴェローナ市」、左はピエトラ橋、中央右の塔はヴェローナ大聖堂の鐘楼、右のドームはサン・ジョルジョ・イン・ブライダ教会
世界遺産「ヴェローナ市」、ヴェローナの象徴、アレーナ・ディ・ヴェローナ
世界遺産「ヴェローナ市」、ヴェローナの象徴、アレーナ・ディ・ヴェローナ
世界遺産「ヴェローナ市」、ヴェローナ・ゴシックの傑作サンタ・アナスタシア聖堂
世界遺産「ヴェローナ市」、ヴェローナ・ゴシックの傑作サンタ・アナスタシア聖堂

■世界遺産概要

イタリア北部ヴェネト州ヴェローナ県の県都ヴェローナ市は古代から近代まで2,000年の歴史を誇る古都で、旧市街にはローマ時代のアンフィテアトルム(円形闘技場)やテアトルム(ローマ劇場)から中世ロマネスク&ゴシック様式の聖堂、近世ルネサンス様式の宮殿まで時代時代の名建築が集中している。

○資産の歴史

ヴェローナは紀元前4~前3世紀ほどに誕生した町で、ローマ時代にイタリア北部ポー平原を横断するポストゥミア街道やガリカ街道、クラウディア・アウグスタ街道が交差する要衝となり、紀元前49年にムニキピウム(自治都市)に指定されると地域の主要都市として急速に発展した。アディジェ川と城壁に囲まれた町はデクマヌス・マクシムスとカルド・マクシムスという直交するメインストリートを中心に整然と区画され、現在のエルベ広場にフォルム(公共広場)を置いていた。その南西のボルサリ門と南東のレオーニ門は当時の城壁に設けられた城門だ。そして城壁の外に、イタリアではローマのコロッセオに次ぐ規模を誇るアンフィテアトルムのアレーナ・ディ・ヴェローナをはじめ、テアトルム(ローマ劇場)やピエトラ橋、ガヴィ門などが築かれた。

476年の西ローマ帝国滅亡後、東ゴート王国、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ランゴバルド王国、フランク王国などの支配を受け、長らく中世の低迷期を迎える。キリスト教が浸透した時代でもあり、ヴェローナ大聖堂、サン・ゼーノ聖堂、サント・ステファノ教会、サン・ロレンツォ教会、サン・フェルモ・マッジョーレ教会など数多くのロマネスク様式の教会堂が築かれた。

ヴェローナがふたたび飛躍するのは1136年にコムーネ(自治都市)として独立して以降だ。有力貴族による共同統治がはじまり、皇帝派=ギベリンの町として神聖ローマ皇帝の支援を得ると、パドヴァやヴィチェンツァ(世界遺産)など多くの有力都市を支配下に収めた。

1259〜1387年に実権を握ったのがデッラ・スカラ家(スカリジェリ家)だ。ローマ時代の城壁を拡張して外側にスカリジェリの城壁を築き、要衝に城や砦を建て、町にゴシック様式の宮殿や教会堂を建設した。その象徴が居城・ヴェッキオ城(カステルヴェッキオ)で、アディジェ川に架かるカステルヴェッキオ橋とともに建設された。シニョーリ広場のポデスタ宮殿は同家の宮殿、アルケ・スカリジェレは同家の霊廟、エルベ広場のガルデッロ塔は同家が造らせたヴェローナ初の時計塔だ。モンタギュー家とキャピュレット家の抗争を描いたシェイクスピアの悲劇『ロミオとジュリエット』はこの時代の作品で、キャピュレット邸は「ジュリエットの家」とも呼ばれている。この抗争自体はフィクションだが、物語に描かれているような貴族の争いは熾烈を極め、有力貴族はデッラ・スカラ家からミラノのヴィスコンティ家、パドヴァのカッラーラ家(カッラレージ家)へと移り変わった。

1405年にヴェローナはヴェネツィア共和国の版図に入り、商業都市として大いに繁栄する。ヴェネツィア(世界遺産)はヴェローナをルネサンス様式の城郭都市に変えるために建築家ミケーレ・サンミケーリを起用。既存の城壁や要塞を改修し、コムナーリの城壁(市壁)を建設し、ヌオーヴァ門(新門)やパーリオ門、サン・ゼーノ門といった城門を整備した。ミケーレ・サンミケーリはまたポンペイ宮殿(現・然史博物館)やカノッサ宮殿、ベヴィラックア宮殿などを設計したほか、ヴェローナ大聖堂やサンタ・マリア・イン・オルガノ教会、ポデスタ宮殿など数多くの教会堂や宮殿にルネサンス様式を加え、ルネサンス様式のファサードを設置して町の景観を変えた。

1797年にナポレオンの侵攻を受けてヴェネツィア共和国が滅びるとフランスの支配下に入り、1814~15年のウィーン会議を経てイタリア北東部にロンバルド=ヴェネト王国が成立。オーストリア皇帝が同国の国王を兼ねたため、実質的にオーストリアの支配を受けた。そして1866年、イタリア王国がプロイセン=オーストリア戦争に勝利すると、その版図に組み込まれた。この頃、産業革命がはじまって城壁外に新市街が発達し、旧市街はその役割を終えた。オーストリア時代の建物には軍事施設であるアルセナーレ・フランツ・ジョセフI(フランツ・ヨーセフ1世のアーセナル)、サン・ピエトロ城、グラン・グアルディア宮殿などがある。

○資産の内容

世界遺産の資産としては、中世に築かれた城壁内が地域で登録されている。範囲はアディジェ川両岸に広がるスカリジェリの城壁の内側で、ヌオーヴァ門、パーリオ門、ムーラ公園、稜堡、堀などが残る西岸の一帯から、ヴェスコヴォ門、ジュスティ庭園、サン・ピエトロ城、サン・フェリーチェ城などを含む東岸の一帯となっている。

城壁について、ローマ時代の城壁や城門はわずかな遺構が残るのみで、共和政ローマの門と帝国時代の門が二重に重なるレオーニ門や、ローマ時代のメインストリートであるデクマヌス・マクシムスのエントランスだったボルサリ門などが残されている。

デッラ・スカラ家のカングランデ1世・デッラ・スカラが1320年代に建設を開始した城壁や堀がスカリジェリの城壁で、当時は高さ8〜9m・厚さ1.3〜1.4mの城壁だったが時代時代に強化された。この時代に築かれた城塞がサン・フェリーチェ城やサンタ・トスカーナの稜堡だ。1530年頃からヴェネツィアの主導でミケーレ・サンミケーリによる都市改造が行われたが、その一環としてスカリジェリの城壁が強化され、大砲に対応するものとなった(ヴェネツィアの城壁)。また、城壁の内側、ヴェッキオ橋からアレアルド・アレアディ橋にかけてコムナーリの城壁(市壁)が建設された。アレーナ・ディ・ヴェローナ周辺によく残っている城壁がこれだ。19世紀にはオーストリアの軍事建築家フランツ・フォン・ショルによって城壁が強化され、各所に三角形に突き出した稜堡が設置された(オーストリアの城壁)。主な城門としては、ミケーレ・サンミケーリが設計したルネサンス様式のヌオーヴァ門やパーリオ門、サン・ゼーノ門、同時代に川の左岸に築かれたサン・ジョルジョ門、コムナーリの城壁に設けられたブラ門などがある。

代表的な軍事建築にはヴェッキオ城=カステルヴェッキオがある。カングランデ2世・デッラ・スカラが1354~56年に築いたと伝わるデッラ・スカラ家の居城で、もともとはサンマルティーノ・イン・アクアーロ城と呼ばれていた。ほとんど装飾のない重厚な赤レンガ造のゴシック建築で、おおよそ長方形の平面プランの各所に7基の塔を持つ。当時は宮殿を兼ねていたが、その後は主として城塞として使用され、ヴェネツィア時代には大砲に備えて強化された。現在はカステルヴェッキオ博物館として公開されている。全長120mを誇る隣接のカステルヴェッキオ橋も同時期の建設で、下段が石造、上段が赤レンガ造のツートーンとなっている。

サン・フェリーチェ城はスカリジェリの城壁の北東端に築かれた城塞で、デッラ・スカラ家によって14世紀はじめに築かれた。15~16世紀にヴェネツィアが強化し、対大砲用の稜堡が築かれた。18世紀末のフランスのナポレオン1世の侵略によって破損したが、19世紀にオーストリアが修復・再建を行った。

サン・ピエトロ城は市街を見渡す美しい景色で知られるサン・ピエトロの丘にオーストリアが築いた城塞だ。ローマ時代には神殿、中世にはサン・ピエトロ教会が立っており、14世紀に城塞となった。1852~58年にオーストリアがロマネスク・リバイバル様式で再建。下部が石造、上部がレンガ造の重厚な建物で、均等に窓が確保されており、宮殿建築に近いデザインとなっている。

ヴェローナの古代遺跡の筆頭がアレーナ・ディ・ヴェローナだ。西暦30年頃、当時の城壁の外に築かれたアンフィテアトルムで、長径139m・短径109m・高さ30mの楕円形で、客席は2層のアーチによって支えられており、25,000人以上を収容した。その外輪をかつては3層アーチ・大理石製のファサード(正面)が取り囲んでいたが、1117年の地震で倒壊して現在は一部しか残っていない。内部も大きな被害を受けたが、16~17世紀にかけてヴェネツィアによって修復が進められた。剣闘士や猛獣の戦いの場で、現在ではコンサートや野外オペラなどのイベントが開催されている。

ローマ劇場テアトルムはギリシア時代のオデオン(屋内音楽堂)を共和政ローマ時代の紀元前1世紀に再建したものだ。半径35mほどの半円形で、アレーナ・ディ・ヴェローナと同様、かつてはファサードが存在したが、現在は遺構のみが残されている。

古代遺跡には他に、1世紀半ばに築かれた記念門でルネサンス美術に多大な影響を与えたガヴィ門や、紀元前2世紀頃の建設とヴェローナ最古を誇る全長92.8mの石橋・ピエトラ橋などがある。

代表的な宗教建築にはヴェローナ大聖堂、正式名称サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂がある。この場所にはローマ時代にミネルヴァ神殿があったと見られ、4世紀に教会堂に転用されたようだ。8~9世紀にロマネスク様式の教会堂が建設され、1117年の地震で倒壊した後、再建され、1187年に奉献された。現在の大聖堂の平面プランはこの時代のものがベースとなっている。15世紀にゴシック様式で改修され、16世紀にはミケーレ・サンミケーリによって内部がルネサンス様式で改装された。特にファサードが特徴的で、中央に上下2層のポータル(玄関)を持ち、柱は2頭のグリフィン(ワシの頭とライオンの身体を持つ怪物)によって支えられている。ファサード上部には鋸歯(きょし。ノコギリの歯)状のアーチ装飾であるロンバルディア帯(ロンバルド帯)や柱廊装飾ロッジア、身廊のサイドにはポリクロミア(縞模様)が見られ、イタリア・ロマネスクらしい意匠となっている。ラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で、内部の礼拝堂は各時代の内装で彩られている。特にアプス(後陣)に描かれた画家パオロ・ヴェロネーゼのフレスコ画やティツィアーノの祭壇画「聖母被昇天」は名高い。鐘楼はロマネスク様式をベースに頂部はルネサンス様式となっており、高さ75mとランベルティの塔に次ぐ高さを誇る。

サン・ゼーノ聖堂あるいはサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂の前身は4世紀に築かれたヴェローナの聖人ゼーノの礼拝堂とされ、9世紀に教会堂が建設されて806年に奉献された。10~11世紀に東フランク王で神聖ローマ皇帝でもあるオットー1世の支援でロマネスク様式で建て替えられ、1117年の地震後に再建された。14世紀にゴシック様式に改修され、16世紀には内装にルネサンス様式が加えられた。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式の教会堂で、外装に見られるポータル、ロンバルディア帯、ポリクロミア等はイタリア北部のロマネスク様式をよく表している。派手なゴシック装飾は見られないが、ポータルの12世紀のレリーフやドアのブロンズ・タイルには『旧約聖書』や『新約聖書』の物語が描かれている。内装で名高いのはイエスの生涯を描いた主祭壇の祭壇画で、画家アンドレア・マンテーニャによるルネサンス様式の作品となっている。また、クリプト(地下聖堂)には聖ゼーノの棺が収められている。1045~78年に築かれたロマネスク様式の鐘楼は高さ62mで、サン・ゼーノのクロイスター(中庭を取り囲む回廊)は18世紀に廃院となった修道院の名残で、赤大理石の二重の柱が中庭を取り囲む特徴的な空間となっている。

サンタ・アナスタシア聖堂は5~6世紀、東ゴート王テオドリックの時代の創建と伝わる歴史ある教会堂で、13世紀後半~15世紀はじめにドミニコ会の教会堂と修道院として建設された。デッラ・スカラ家の支援を得て建設が開始されたが、同家の衰退のため完成は遅れ、奉献は1471年となった。ゴシック様式のラテン十字形・三廊式の教会堂だが、フランスやドイツのゴシック建築のように高さへのこだわりや壁面を覆い尽くすような装飾は見られず、サン・ゼーノ聖堂と同様にロマネスク様式のような重厚さを持つイタリア特有のゴシック様式となっている(ヴェローナ・ゴシック)。ファサードのポータルがユニークで、白・黒・赤の大理石を使用した3色のポリクロミアで、ティンパヌム(タンパン。ポータル上のアーチの内側の部分)はフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)とレリーフ、柱上は聖母子像で装飾されている。内部にはゴシックやルネサンス、バロック様式など数多くの礼拝堂があるが、特に名高いのが15世紀に築かれたペッレグリーニ礼拝堂で、画家ピサネッロのフレスコ画や彫刻家ミケーレ・ダ・フィレンツェのレリーフで覆われている。

これ以外に代表的な宗教建築として、ローマ神殿跡に創建されたとの伝説が伝わるヴェローナ最古級の教会堂で12世紀のロマネスク建築がいまに残るサン・ジョヴァンニ・イン・ヴァッレ教会、ファサードのロンバルディア帯やポリクロミアが印象的なヴェローナ・ゴシックの傑作サン・フェルモ・マッジョーレ教会、ロマネスク&ゴシック様式にミケーレ・サンミケーリ設計のルネサンス様式のファサードを加えたサンタ・マリア・イン・オルガノ教会などが挙げられる。

代表的な宮殿建築として、シニョーリ広場のポデスタ宮殿が挙げられる。デッラ・スカラ家のカングランデ1世・デッラ・スカラが14世紀に築いた宮殿で、ヴェネツィア時代には判事の事務所となった。1533年頃、ポータルがミケーレ・サンミケーリ設計によるルネサンス様式の大理石製のものに置き換えられ、ヴェネツィアの象徴であるサン・マルコのライオン像のレリーフが掲げられた。隣接のサンタ・マリア・アンティカ教会はデッラ・スカラ家の私設礼拝堂として使用されたロマネスク様式の教会堂で、アルケ・スカリジェレは同家の霊廟で、霊廟にはゴシック様式の記念碑や石棺などが収められている。

ラジョーネ宮殿は12世紀に建設された四角形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、長らく議会や司法府・税務署・保健所などを含む庁舎として使用され、ヴェネツィア時代にはこの前で穀物市場が開かれた。ロンバルディア帯やポリクロミア、ロッジアを駆使したロマネスク&ゴシック様式を主としており、中庭の階段などにルネサンスの要素を加えている。南東の角に設置されたランベルティの塔も同じく12世紀の建設で、ヴェローナの歴史的建造物としてはもっとも高い84mを誇る。塔の頂部の八角形の鐘楼は15世紀に追加されたものだ。隣接するカピターニオ宮殿(カンシニョーリオ宮殿)も同種の宮殿で、14世紀の建設で、ルネサンス様式のファサードはミケーレ・サンミケーリによって16世紀に設置されたものとされる。

ミケーレ・サンミケーリが設計したルネサンス様式の宮殿の一例がポンペイ宮殿だ。1535~40年に建設されたラヴェッゾーラ家の宮殿で、16世紀にポンペイ家によって買収されてこの名が付いた。ファサードの1階は石積みの柱、2階はドーリア式のピラスター(付柱。壁と一体化した柱)を連ねたルネサンスらしいデザインで、中庭も柱とアーチを連ねたルネサンス様式となっている。ミケーレ・サンミケーリによって1527年頃に建設が開始されたカノッサ宮殿も似た造りで、ファサードの1階は石積みの柱だが2階は2本のコリント式の四角いピラスターが対になって並んでおり、頂部には彫像が並べられている。これらはマニエリスム様式の要素を含んだものとなっている。パオロ・ヴェロネーゼやジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロといった巨匠の絵画で名高く、ロシア皇帝アレクサンドル1世やオーストリア皇帝フランツ2世、フランス皇帝ナポレオン1世らを迎えたことでも知られる。ベヴィラックア宮殿も同時期の類似した宮殿で、1530年頃の建設と見られ、2階のコリント式のピラスターと大きな窓が特徴的だ。オルベットやティントレットの絵画などでも有名。

重要な宮殿建築としては他に、後期ルネサンス様式の旗手アンドレア・パッラーディオが設計したヴェローナ唯一のパッラーディオ建築・デッラ・トーレ宮殿、15世紀の建物ながら17世紀にバロック様式で改修されたマフェイ宮殿、ヴェネツィア提督ニコロ・ドナが建築家ドメニコ・クルトーニに依頼して1609年に建設を開始し1853年に完成した新古典主義様式のグラン・グアルディア宮殿などがある。

■構成資産

○ヴェローナ市

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ヴェローナはその都市構造と建築において2,000年以上にわたって途切れることなく発展し、各時代の最高レベルの芸術要素を取り込んだ際立った町の例である。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ヴェローナはヨーロッパ史のいくつかの段階において城郭都市・要塞都市としてきわめて重要な証拠である。

■完全性

ヴェローナには2,000年の歴史を示す多くの遺跡や建造物があり、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンスといった各時代の重要な要素がほとんど手付かずで伝えられている。市壁によって19世紀の産業や鉄道の開発から保護された結果、その都市構造は卓越した一貫性と均質性を示している。

ヴェローナの建造物群は第2次世界大戦中に大きな被害を受けたが、戦後1946年の再建計画によって本来の構造が維持され、修復は細心の注意を払って実行された。この過程でICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)の初代会長でありヴェローナの遺産監督者でもあるピエロ・ガッツォーラ教授が重要な役割を果たした。

歴史都市に対する大きな脅威は存在しない。19世紀後半まで町は河川の洪水に悩まされてきたが、現在は水害対策によって対処されており、地震に関しても低リスクと分析されている。さらに観光についても歴史的資源に対するリスクをコントロールするために十分に管理されている。

■真正性

ヴェローナの真正性は高いレベルで維持されている。この町は2,000年以上にわたってアディジェ川の畔にたたずんでおり、ローマの都市形態は現在の街路のレイアウトに引き継がれ、都市構造は第2次世界大戦までほぼ無傷で伝えられた。要塞都市という側面について、防衛システムは長期にわたる軍事的使用の継続性を通じて十分に保持されており、ローマ時代の門やルネサンス期の稜堡などにその長い軍事史が表現されている。

第2次世界大戦後に行われた建物と都市の修復は19世紀半ばに確立されたイタリアの伝統に基づく修復原則に基づいており、歴史的・物理的証拠を尊重して行われた。この原則は建物と都市の構造を無傷で維持し、都市の修復基準を満たしつつ破壊されたエリアを慎重に都市の中に組み込むことで全体として連続性を生み出すように意図されている。たとえばローマ時代の橋は文書資料の慎重な調査と崩れ落ちていたもともとの素材を再利用して再建されている。

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