ロスキレ大聖堂

Roskilde Cathedral

  • デンマーク
  • 登録年:1995年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:0.4ha
  • バッファー・ゾーン:1.5ha
世界遺産「ロスキレ大聖堂」。双塔は西ファサード、奥の尖塔はクロッシング塔、中央下のドームはクリスチャン9世の礼拝堂、その上の縞模様はクリスチャン4世の礼拝堂
世界遺産「ロスキレ大聖堂」。双塔は西ファサード、奥の尖塔はクロッシング塔、中央下のドームはクリスチャン9世の礼拝堂、その上の縞模様はクリスチャン4世の礼拝堂 (C) CucombreLibre
世界遺産「ロスキレ大聖堂」、右は西ファサード、中央のドームはクリスチャン9世の礼拝堂、左はフレデリク9世の埋葬地
世界遺産「ロスキレ大聖堂」、右は西ファサード、中央のドームはクリスチャン9世の礼拝堂、左はフレデリク9世の埋葬地
世界遺産「ロスキレ大聖堂」、内陣から身廊を眺める。下は内陣の石棺群、その上はクワイヤ
世界遺産「ロスキレ大聖堂」、内陣から身廊を眺める。下は内陣の石棺群、その上はクワイヤ (C) Plasticpeer

■世界遺産概要

ロスキレはシェラン島中部、首都コペンハーゲン中心部から西30kmほどにある都市で、11~14世紀頃にはデンマーク王国の首都が置かれていた。ロスキレ大聖堂は10世紀の創建で、12~13世紀に現在見られるロマネスク・ゴシック様式で再建された。代々の国王の石棺を収めるデンマーク王室の墓廟であり、美しいレンガ・ゴシックは北ヨーロッパのゴシック建築の雛形となった。

○資産の歴史

ロスキレはユトランド半島とスカンジナビア半島を結ぶシェラン島の交通の要衝であり、島の奥に位置しながらロスキレフィヨルドと呼ばれるフィヨルド(氷河が山をU字形に削ったU字谷に海水が流れ込んでできた氷河地形)によって海と結ばれた良港でもあり、陸路と海路の中心として10世紀頃に開拓された。980年頃にはキリスト教に改宗したデンマーク王国イェリング朝の「青歯王」ハーラル1世によってロスキレ大聖堂の前身となる木造教会が建設された。ハーラル1世がポーランドで遠征中に亡くなると、その遺体は息子「双叉髭王」スヴェン1世によってロスキレ教会に運ばれて埋葬されたと伝えられている(墓や棺は発見されていない)。

スヴェン1世はイングランドを征服し、短期間ではあったがデンマーク、ノルウェー、イングランドの国王となり、その息子「大王」クヌート1世(イングランド王として。デンマーク王としてはクヌーズ2世)の時代に3国の王位に就いて北海帝国を成立させた。クヌート1世の治世の1020年頃、ロスキレ教会に司教座が置かれてロスキレ大聖堂となり、1030年と1080年に石灰岩を用いてノルマン様式の石造教会堂に改築された。クヌート1世はキリスト教を帝国各地に宣伝したことでローマ・カトリック諸国から高い評価を受け、北ヨーロッパ社会を西および南ヨーロッパ社会に近付けた。1035年にクヌート1世が死去すると後継者争いの末に分裂し、北海帝国はわずか7年で崩壊した。

12世紀後半、イタリア・ロンバルディアの職人からレンガ造がもたらされ、1170年頃に司教アブサロンがレンガ造のロマネスク様式で大聖堂の再建を開始した。アブサロンの死後、司教ペーダー・スネソンが引き継ぐが、東半分が建設されたところで計画は変更され、北フランスで開発されたゴシック建築が導入された。フランスのピカルディのほか、ノワイヨン 、サンス、ラン、アラス、パリ、ベルギーのトゥルネーなどの教会堂を参考に建設が進められ、1275年までにほぼ完成した。内装についてはその後数世紀を費やして礼拝堂や祭壇、チャプター・ハウスなどの建設が続けられた。

14世紀、デンマークの摂政マルグレーテ1世はノルウェー王ホーコン6世と結婚し、5歳の息子オーロフ2世をデンマーク王に即位させた。ホーコン6世が1380年に亡くなるとオーロフ2世がオーラヴ4世としてノルウェー王位を継ぎ、両国は同君連合(同じ君主を掲げる連合国)となった。オーロフ2世はわずか17歳で急死するが、マルグレーテ1世は姉の娘の息子にあたるエーリヒにまずノルウェーの王位を継がせた(ノルウェー王エイリーク3世)。さらにスウェーデンと戦って打ち破るとスウェーデンの王位に就かせ(スウェーデン王エリク13世)、同年中にデンマークの国王にも即位させた(デンマーク王エーリク7世)。これにより1397年に3国によるカルマル同盟が成立し、実質的にマルグレーテ1世の帝国が完成した。マルグレーテ1世が1412年に亡くなるとソレ・クロスター教会に埋葬されたが、まもなく遺体はロスキレ大聖堂に移された。これ以降、ロスキレ大聖堂はデンマーク王の埋葬地となった。カルマル同盟は1523年のスウェーデンの離脱で崩壊したが、デンマークとノルウェーは同君連合デンマーク=ノルウェー二重王国として継続した(デンマークが主体であるため、以下ではデンマークと表記)。

16世紀の宗教改革ではデンマークにマルティン・ルターのルター派(ルーテル教会)が広がり、ロスキレ大聖堂はルター派を含めた新教=プロテスタントに対する旧教=ローマ・カトリックの牙城となった。デンマークは両派の間で揺れたが、国王クリスチャン3世が宗教改革を進めて1530年代にルター派国家となった。ロスキレ大聖堂は牧師ハンス・タウセンによってルター派の教会堂に改修され、多くの礼拝堂や祭壇が撤去され、土地や宝物が接収された。

以後もさまざまな国王による改修を受けた。特に大きな影響を与えたのが1630年代のクリスチャン4世による改修で、屋根をゴシック様式で修復し、西ファサードにふたつのスパイア(ゴシック様式の尖塔)を設置しておおよそ現在の外観を完成させた。1690年代にはローマ・カトリック時代の装飾に満ちたクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)が取り去られ、内陣が王室の石棺を安置する礼拝室となり、小さくなったクワイヤが身廊側に設けられた。

現在においてもロスキレ大聖堂はデンマーク王室の墓廟であり、現在の女王マルグレーテ2世の埋葬地もすでに聖ブリジット礼拝堂に確保されている。

○資産の内容

ロスキレ大聖堂の資産は大聖堂と隣接の礼拝堂・埋葬地で、周辺の広場がバッファー・ゾーンに指定されている。大聖堂は86×28mの三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)のバシリカ式教会堂で、西ファサードに2基、内陣に1基のスパイアを持ち、高さは最高75.7mとなっている。ベースはロマネスク様式ながら多くはゴシック様式で、花崗岩の切石で築かれた土台の上に約250万個のレンガを使って建てられていることから「レンガ・ゴシック(ブリック・ゴシック)」と呼ばれている。レンガは場所や建築年代によって色や形が異なっており、内装についてはもともとレンガ壁は漆喰で覆われていたが、漆喰はほとんど残っていない。

内部には代々の国王が建設した数々の礼拝堂や埋葬地があり、大きな特徴となっている。一例を挙げると、聖アンドリュースの礼拝堂は1396年に建設された最古の礼拝堂で、1485年に建設された隣の聖ブリジットの礼拝堂とともにローマ・カトリック時代の数少ない建造物となっている。15世紀後半にゴシック様式で建設されたクリスチャン1世の礼拝堂(賢者の礼拝堂)はクリスチャン1世と王妃ドロテアのために築かれたもので、淡いフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で覆われた格式高い空間となっている。クリスチャン4世の礼拝堂は17世紀はじめにルネサンス様式で築かれており、クリスチャン4世やフレデリク3世の石棺のほか、デンマーク黄金時代(19世紀前半のロマン主義を中心としたデンマーク芸術の最盛期)を代表する画家ヴィルヘルム・マーストランとハインリック・ハンセンの巨大な絵画が飾られている。1770~1825年と50年以上をかけて建設されたフレデリク5世の礼拝堂は新古典主義様式の礼拝堂で、古代ギリシアの神殿を思わせる白で統一された荘厳な内装を見せる。20世紀はじめに建設されたクリスチャン9世の礼拝堂はビザンツ様式のドーム・バシリカを模倣した新古典主義様式の礼拝堂で、クリスチャン9世やフレデリク8世の石棺を収めている。フレデリク9世の埋葬地は屋根のない八角形のレンガ造で、大聖堂外に設置された唯一の埋葬地だ。本人の願いを聞き入れて1972年に亡くなった後で建設が開始され、1985年に完成して再葬された。

■構成資産

○ロスキレ大聖堂

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ロスキレ大聖堂は北ヨーロッパでもっとも早い時期にレンガで建てられた主要教会建築の卓越した例であり、地域全域にこの種のレンガ造の普及に多大な影響を与えた。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

その形状と設定の両面でロスキレ大聖堂は北ヨーロッパの大聖堂コンプレックスの際立った例である。特にデンマーク王室の墓廟として機能しつづけている何世紀もの間に数多くの補助的な礼拝堂やポータル(玄関)が改修・増築されており、それらの建築様式の連続的な推移は注目に値する。

■完全性

資産にはロスキレ大聖堂とその後に増改築されたすべての礼拝堂や埋葬地が含まれており、法的保護を受けている。今後バッファー・ゾーンの拡張が予定されており、それにより資産と周辺環境との関係が強化され、モニュメントの完全性が強化されると思われる。また、拡張により関連するすべての要素が保護され、大聖堂の価値表現が十全化されると考えられる。

■真正性

他の宗教建築と同様にロスキレ大聖堂も創建以来、数多くの変化を経験してきた。以前の礼拝堂が王室の葬儀用礼拝堂を建設するために撤去されたり、あるいは散発的な火災などによりしばしば修復・改築・再建が行われた。17世紀初頭には宗教改革後の損傷を回復するために行われたクリスチャン4世による大規模な改修によって大幅な変更がもたらされた。19世紀後半には著名な建築家や美術史家と協力して高度な資格を持った教区委員らによって建物全体に及ぶ修復が実施された。2006~09年にかけて屋根と尖塔はさらなる修復を受けた。礼拝堂の修復についてはデザインと素材に深く注意を払いながら継続的に実施されている。こうした大規模な作業の記録は大聖堂と国立博物館のアーカイブに保管されている。

16世紀以降、大聖堂はデンマーク王室の墓廟として使用されており、最近では2000年に葬儀が行われている。機能性の真正性も高いレベルで維持されている。

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