リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン

The works of Jože Plečnik in Ljubljana – Human Centred Urban Design

  • スロベニア
  • 登録年:2021年、2023年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(iv)
  • 資産面積:19.132ha
  • バッファー・ゾーン:210.908ha
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、トルノヴォ橋
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、トルノヴォ橋 (C) Doremo
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、リュブリャナ城から見下ろしたコングレス広場
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、リュブリャナ城から見下ろしたコングレス広場 (C) Leandro Neumann Ciuffo
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、中央が国立大学図書館、その奥の並木道がヴェゴヴァ通り
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、中央が国立大学図書館、その奥の並木道がヴェゴヴァ通り (C) Elekhh
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、右が三本橋、中央上がフランシスコ会受胎告知教会、左の川沿いにアーケードが伸びている
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、右が三本橋、中央上がフランシスコ会受胎告知教会、左の川沿いにアーケードが伸びている (C) Mihael Grmek
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、プレチニック市場の北ファサード
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、プレチニック市場の北ファサード (C) domdomegg
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、リュブリャニツァ水門
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、リュブリャニツァ水門 (C) Struc
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、バルジュの聖ミハエラ教会
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、バルジュの聖ミハエラ教会 (C) Mueffi
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、プレチニコヴェ・ザレのプロピュライア
世界遺産「リュブリャナのヨジェ・プレチニックの作品群-人間を中心とした都市デザイン」、プレチニコヴェ・ザレのプロピュライア (C) Bočko Metod

■世界遺産概要

第1次世界大戦後、オーストリア・ハプスブルク家による長きにわたる支配から解放されたスロベニアの中心都市リュブリャナは同地出身の建築家ヨジェ・プレチニックを起用して、近代社会のニーズに応えつつ、古代からの歴史と文化を反映し、スロベニアのアイデンティティ確立に貢献する都市の設計を依頼した。プレチニックは並木道やプロムナード(遊歩道)・堤防・橋・公園といった公共スペースを整備し、国立図書館や教会堂・礼拝堂・市場・墓地といった公共施設を設計し、緑や歴史的建造物との調和を図りつつ、モダニズムの潮流とは異なる独自の視点からリュブリャナの都市改造を行った。これにより「プレチニコヴェ・リュブリャナ(プレチニックのリュブリャナ "Plečnikove Ljubljane")」と呼ばれる独創的な都市景観が誕生した。

なお、2023年の軽微な変更では資産とバッファー・ゾーンが若干拡大された。

○資産の歴史

現在のスロベニアの首都リュブリャナはアドリア海の北東65kmほど、アルプス山脈とバルカン半島のディナル・アルプス山脈の間に位置し、この間の回廊を通じてオーストリアやハンガリー方面に抜けることのできる要衝に位置していた。また、町を流れるリュブリャニツァ川はサヴァ川の支流であり、そのサヴァ川はドナウ川に通じているため河川港としても重要な役割を果たした。

この地には紀元前の時代から集落が存在し、ローマ時代には「エモナ」と呼ばれる要塞が築かれ、やがて城郭都市に発展した。ローマ帝国末期からゲルマン系の諸民族が侵入し、476年の西ローマ帝国の滅亡後、6世紀頃に南スラヴ人の一派であるスロベニア人が定住をはじめたとされている。12世紀にはゲルマン系の名称で「ライバッハ」と呼ばれていたが、まもなくリュブリャナの名称が使われるようになったようだ。1335年にはオーストリア公国(15世紀半ば以降はオーストリア大公国)の下に入り、ハプスブルク家の支配を受けた。

リュブリャナは芸術で名高いヴェネツィア(世界遺産)に近いこともあって芸術で名を馳せ、1511年の大地震で破壊されると街並みがルネサンス様式で再建された。しかし、1597年に町にやってきたイエズス会はルター派が奨励するゴシック様式や人間中心を掲げるルネサンス様式を認めず、ローマ・カトリックの総本山であるバチカン(世界遺産)やローマ(世界遺産)で完成したバロック様式を奨励した。イタリア人のバロックやロココの建築家・彫刻家を招いて数多くの建物を建設したため、町の中心部の宮殿や邸宅の多くはバロック様式のファサード(正面)を持っていたという。18世紀にはギリシアやローマの古典建築を模した新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)が流行し、街並みにさらなる彩りを与えた。

1809年にフランス皇帝ナポレオン1世がスロベニアに侵攻。市民はフランス軍を圧政からの解放者として歓迎した。ナポレオン1世はスロベニア語を公用語として認めたため、はじめて教育現場で用いられた。1813年にオーストリア帝国(1867年以降はオーストリア=ハンガリー帝国)の版図に入ってハプスブルク家の支配下に戻るが、ナポレオン1世が広めた自由・平等の理念や民族自決の思想は拡大し、独立の気運が高まった。

1848年にオーストリアの首都ウィーン(世界遺産)からリュブリャナまで鉄道が開通し、1857年にはアドリア海沿岸のトリエステまで延伸された(オーストリア南部鉄道)。これにより経由地としての重要性を失った一方で、都市化・工業化が一気に進んだ。この影響で町にも歴史主義様式(ゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式といった中世以降のスタイルを復興した様式)やモダニズムの建築が普及した。

1895年4月14日のイースターの日にM6.1のリュブリャナ地震が発生し、建物の約10%が倒壊した。リュブリャナは新たな都市計画を策定する必要に迫られ、ウィーン美術アカデミーなどに相談を持ち掛けた。同アカデミーにはウィーン分離派=セセッションの中心人物で近代建築を推進したオットー・ワーグナーがおり、その弟子である若手建築家カミロ・ジッテやマックス・ファビアーニらが提案を行った。彼らの都市計画は採用されなかったが、特にファビアーニには数多くの建物の設計が依頼され、直線的で幾何学的な構造を持ち、シンプルで機能的なデザインを特徴とするセセッション様式が広まった。こうして町には歴史主義様式やセセッション様式の建物が増えたが、これらは主としてドイツの様式と考えられ、それらから脱却したスロベニアらしいスタイルの確立が望まれた。そこで脚光を浴びたのがリュブリャナ出身の建築家ヨジェ・プレチニックだ。

1872年にリュブリャナの家具職人の家に生まれたプレチニックはウィーンに出てオットー・ワーグナーの下で建築や内装を学び、卒業後は才能を認められてワーグナーの設計事務所で働いた。1901年に個人スタジオで独立し、ウィーンのツァッヒェルハウスなどを設計した。1911年にプラハ(世界遺産)に移って芸術工芸大学で教鞭を執りつつ、主任建築家としてプラハ城を含むフラッチャニ地区の改修を担当した。

第1次世界大戦(1914~18年)でドイツをはじめとする同盟国が破れ、オーストリア=ハンガリー帝国が滅亡した。オーストリアはハンガリーを失い、ハプスブルク家を追放して君主を置かない共和政に移行した(オーストリア共和国)。スロベニアは「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人の国」を意味するセルブ=クロアート=スロヴェーン王国の一部となった。この国は1929年に「南スラヴ人の国」を示すユーゴスラビア王国に改称している。

プレチニックは自分の都市設計や建築が故郷リュブリャナで開花する日を夢見ていた。1921年にリュブリャナに戻ると新設された建築学校の教授に就任。市に対して包括的な都市計画案を作成し、都市改造を提案した。

プレチニックが目指したのはスロベニアの歴史を引き継ぎ、スロベニアを象徴するにふさわしい都市の創設と、市民の暮らしに焦点を当てた人間を基準とした都市の設計だ。そのためにアテネのアクロポリス(世界遺産)を模してリュブリャニツァ川東岸の丘とリュブリャナ城(世界遺産外)を「スロヴェン・アクロポリス」として景観の中心に置き、その西に陸と川のふたつの軸を設定し、この陸軸と水軸を中心に町を設計した。緑地や過去の歴史的建造物との調和を考慮しつつ、道路やプロムナード・堤防・橋・公園といった公共スペースを整備し、国立図書館や教会堂・礼拝堂・市場・墓地といった公共施設を建設して都市の改造を進めた。プレチニックは当初、リュブリャナ城の大幅な改築と巨大な議会の建設を計画していたが、こちらは実現しなかった。

建築について、プレチニックのデザインはモダニズム建築で一般的なシンプルで直線的なスタイルとは一線を画すもので、ギリシア建築を範とした新古典主義様式に近いもので、リュブリャナの過去の建築とよく調和した。また、伝統建築やその技法を使用し、掘り出した岩や石を建材として再利用するなど地元の素材を多用した。これらは伝統を守ることに加えて、1929年の世界恐慌の影響による不況と財源不足に対応するものでもあった。

これらの結果、リュブリャナはスロベニア人にとって故郷といえる美都市となり、「プレチニコヴェ・リュブリャナ」と呼ばれるに至った。プレチニックは1938年にスロベニア科学芸術アカデミーのメンバーに選出されたほか、1957年に亡くなるまでに名誉市民や国家功労賞、プレシェーレン賞など多数の賞を受賞した。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は7件となっている。

「トルノヴォ橋」はグラダシュチカ川に架かる全長17mの橋で、コングレス広場へ続く陸軸の始点であり、またグラダシュチカ川からリュブリャニツァ川へ続く水軸の始点にもなっている。かつて付近には馬繋があり、人々はこの橋と脇に立つトルノヴォ教会(洗礼者ヨハネ聖教会)を横目に町の中心部へ入った。もともとこの場所には木製の橋が架かっていたが、1929~32年にプレチニックの設計で、コンクリート製で側面に白い石灰岩を並べたアーチ橋に建て替えられた。白色と大きなアーチ、シンメトリー(対称)が際立つ美しい石橋で、橋の四隅にピラミッド形の尖塔、中央部に大きなピラミッド形尖塔とスロベニアの彫刻家ニコライ・ピルナトによる洗礼者ヨハネ像が立っており、トルノヴォ教会の尖塔と調和するよう設計されている。また、橋の上や周囲の広場・堤防にシラカバをはじめとする街路樹を植え、ボラード(一種の杭)を並べて視線を誘導することで、橋のデザインを際立たせてその彫刻的な存在感を高めている。そしてここからはじまる道路や堤防沿いの緑はリュブリャナの陸軸と水軸を際立たせ、全体の景観に大きなアクセントを加えている。

「ヴェゴヴァ通り沿いの緑のプロムナード」はコングレス広場から国立大学図書館辺りまでのヴェゴヴァ通りを中心とした一帯で、陸軸の中心を形成している。北に位置するコングレス広場は150×100mほどの長方形の空間で、樹木の植えられた北の一帯はスヴェツダ公園と呼ばれている。ローマ時代には広場の南に沿って城壁が走っており、ローマ時代の城壁や城門の跡が残されている。中世や近世にはカプチン修道院が立っていた場所で、カプチン広場として知られていた。広場の周囲にはバロック様式の聖三位一体ウルスラ教会や新古典主義様式のカジノ・ビル、ネオ・ルネサンス様式のスロベニア・フィルハーモニー・ビルやリュブリャナ大学本館といったリュブリャナを代表する歴史的建造物が立ち並んでおり、都市景観を際立たせている(ただし、こうした建造物は資産に含まれておらず、バッファー・ゾーンに留まっている)。プレチニックによる広場の改修は1927年にはじまり、一帯をコンクリートで覆い、歩道や縁石・ボラードで区画しつつ、クリ(後にアカシア)を植えて幾何学式庭園のような景観を生み出した。また、聖三位一体ウルスラ教会のファサードを改修し、ガーバー階段を設置して川へのアクセスを確保するなど、1940年頃まで改修は続いた。コングレス広場から南に伸びるヴェゴヴァ通りは全長270mほどの道路で、東側にはカエデの並木道が伸びており、周辺の道路や公園・テラスにはブナやシラカバ、ポプラなども植えられており、ナポレオン1世による解放を記念したフランス・イリュリア記念碑(ナポレオン記念碑)やスロベニアの詩人シモン・グレゴルチッチ像、音楽家のアントン・フェルスター像やエミル・アダミッチ像など、記念碑や偉人像が数多く配されている。通りの周囲には大学や中等学校・音楽院といった公立の教育施設や、文化協会・気象台・国立大学図書館などの公立の文化施設が集中している。プレチニックは1929年にフランス・イリュリア記念碑周辺の景観設計を依頼され、ヴェゴヴァ通りの開発に取り組んだ。コングレス広場にフランス軍が駐留するなど一帯は解放の象徴であり、またスロベニア語による教育がナポレオン1世の統治時代にはじまったことから教育施設が集中するこの場所にフランス・イリュリア記念碑を打ち立て、文化人の記念碑や像が立ち並ぶこととなった。また、通りにはローマ時代と中世の城壁があり、これらを取り込むことで歴史性を強調した。国立大学図書館の場所にはもともとバロック様式のアウエルスペルク宮殿が立っていたが、1895年の地震で倒壊した。国立大学図書館の移転が決定し、1931年にプレチニックに設計が依頼され、1936~41年に建設された。図書館は「□」形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、下階は切石、上階は切石とレンガの組み合わせで、ファサードのイオニア式円柱と一面の窓ガラス、厚いコーニス(屋根と外壁の間の水平部分)が、古代と近代が融合した独特の外観をもたらしている。これらに加えて列柱廊を採用した中央階段や読書室のシャンデリアやガラス屋根、鉄製の欄干や柵など、プレチニックは内装や家具の設計も行った。

「リュブリャニツァ川の堤防と橋に沿ったプロムナード」は水軸とその周辺で、おおよそリュブリャニツァ川が二手に分かれる南の分岐点から北のファビアーニ橋の手前までをカバーしている。リュブリャニツァ川の水量の減少や湿地の排水を目的に18世紀から運河や水門の開発が進められ、20世紀はじめに堤防が整備された。コンクリートで覆われた殺風景な景観に対し、市は1913年にウィーンの建築家アルフレート・ケラーに景観設計を依頼。ケラーは緑化などを進めたが、第1次世界大戦の影響で計画の半分も完了せずに終了した。1931年、プレチニックに新たな景観設計が依頼され、1932~38年にかけて工事が行われた。プレチニックが主に手掛けたのは川に沿った堤防の緑化とプロムナードの設置、トルノヴォ埠頭、ススタルスキー橋(セヴリャルスキー橋/コブラー橋/靴屋の橋)、三本橋(トロモ橋)、プレチニック市場(プレチニック・アーケード)、リュブリャニツァ水門の設計だ。トルノヴォ埠頭はプルルスキー橋からプレシェーレン広場まで1km強にわたって伸びる埠頭で、堤防に沿って縁石・石の階段・砂の小道・ヤナギの並木・生垣が設置された。ススタルスキー橋は1931~32年に建設された全長23m・幅10mほどの橋で、鉄筋コンクリートのスラブ(板状の建材)を使ったアーチを持たない板状の桁橋となっている。橋の上には両側にコリント式に似たそれぞれ6本の柱が並んでおり、橋の外側に1本ずつイオニア式の柱がたたずんでいる。欄干もトスカーナ式(あるいはドーリア式)を思わせる小さな柱を並べたような形状で、近代的な橋に歴史的なデザインが施されている。この橋から三本橋までプロムナードが伸びており、情緒ある散歩道となっている。プレシェーレン広場の南端、三本橋のある場所には中世から木橋が架かっており、1842年にフランツ橋と呼ばれる二重アーチが美しい石橋に建て替えられた。橋が手狭になったことからより広い橋を求められたプレチニックは1931~32年にかけてフランツ橋の両隣に2本の歩行者用のコンクリート橋を新設。こうして3本の橋が並ぶ三本橋が完成した。また、プロムナードにアクセスするために階段を設置し、ポプラなどを植えて周辺の景観を整えた。プレシェーレン広場にはその象徴であるバロック様式のフランシスコ会受胎告知教会をはじめ、ネオ・ルネサンス様式のメイヤー宮殿やフィリポフ邸など数多くの歴史的建造物が見られるが、橋やプロムナード・街路樹がこうした景観を引き立てている。プレチニック市場はメサルスキー橋(ブッチャー橋/肉屋の橋)とズマイスキ橋(ドラゴン橋/竜の橋)の間に位置するリュブリャナ中央市場の川沿いに伸びる全長226mのアーケード(屋根付きの柱廊)で、プレチニックの設計で1940~42年に建設された。広場側1階・川側2階のネオ・ルネサンス様式の建物で、広場側にはコロネード(水平の梁で連結された列柱廊)が伸び、川側にはトスカーナ式のポルティコ(列柱廊玄関)を中心に2層の半円アーチが立ち並ぶ美しいファサードが広がっている。リュブリャニツァ水門は町の中心部を流れる川の水位と水量をコントロールするために1940年に建設が開始された。ただ、イタリア軍の侵攻を受けて翌年中止され、水門リフトの完成は1955年にずれ込んだ。幅24mの水門で、凱旋門のような3基の水門塔を持ち、トスカーナ式・イオニア式・コリント式の柱頭やグリフィン像などで飾られるなど、古代のエトルリアやギリシア、エジプトの意匠が散りばめられている。

「ミルジェ通りのローマ時代の城壁」はローマ時代の14~15年頃に築かれたエモナ時代の城壁を利用してプレチニックが改装したものだ。当時の町は540×430mほどの長方形で、幅2.40m・高さ6~8mほどの市壁で囲われており、ミルジェ通りはその南面に当たる。プレチニックは撤去も叫ばれていたこの城壁を再利用することを提案。1934~38年にかけて工事を行い、城壁の高さをそろえ、並木道や芝と調和させ、トスカーナ式の柱が立ち並ぶ南門やアーチ形のラピダリウム、ローマ(世界遺産)のガイウス・ケスティウスのピラミッドを模したプレチニック・ピラミッドなどを増設して考古学公園に改装した。1960年代にローマ時代の構造ではないラピダリウムやピラミッドの撤去も検討されたが、遺跡を忠実に復元するのではなく、遺跡と町、古代と現代の調和を目指したプレチニックの意志を重視して全体が保存されることとなった。

「バルジュの聖ミハエラ教会」はリュブリャナ郊外のチュルナ・ヴァスの湿地に立つ大天使ミカエルに捧げられた教会堂で、プレチニックの設計で1937年に建設が開始され、1940年に奉納された。一帯はもともと人が住むのに適さない土地と考えられていたが、排水施設の導入で19世紀頃から集落が開かれた。プレチニックは1921年に帰国するとこの地に居を構え、教会堂の設計を依頼された。財政や地盤の問題から工事は遅れたが、土地や建材の寄付など住民の協力を得て、地元の石材や木材を利用して建設が進められた。地盤が軟弱であることから約350本の木杭を打って基礎を造り、切石とレンガの壁を基本としながらも、一部を木とガラスの壁にすることで重量を軽減した。また、鐘楼とエントランスを兼ねた門塔は板のような構造で多くの開放部を持つが、これはデザイン性と軽量化を追求した結果であり、大きなアーチに支えられた列柱階段も同様だ。

「アッシジの聖フランチスカ教会」はリュブリャナ郊外のシシュカ地区にあるフランシスコ会の教会堂で、プレチニックの設計で1925年に建設がはじまり、1927年に奉献された。ネオ・ルネサンス様式の教会堂で、東ファサードには重厚な4本のトスカーナ式の柱が並んだポルティコを有し、上部のオープン・ペディメント(ペディメントは頂部の三角破風部分。三角の上部が開いているものをオープン・ペディメントという)にアッシジの聖フランチェスコ像が据えられている。西のアプスの上にそびえる円形の鐘楼は1930~32年に追加されたもので、2層のロッジア(柱廊装飾)で飾られている。教会堂の内部は20本のトスカーナ式の大理石柱で囲われており、やはりプレチニックが制作した祭壇やランプなどが荘厳さを演出している。アッシジの聖フランチェスコを描いたフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)はフランシスコ会の画家ブレイズ・ファルクニクの作品だ。

「プレチニコヴェ・ザレ-諸聖人の庭」はザレ中央墓地、あるいは単にザレと呼ばれる墓地の一部で、広大な墓地の南西に突き出した三角部分が資産となっている(ただし、1987年に建設された諸聖人教会などは含まていない)。この地には1708年に聖クリストフ教会が建設され、1779年に墓地が開園した。1906年にリュブリャナの中央墓地として拡張され、新たに聖十字架教会が建てられた。「プレチニックのザレ」を意味するプレチニコヴェ・ザレはメイン・エントランスであるプロピュライアや礼拝堂・管理棟・受付棟・休憩所・噴水などからなる複合施設で、1938~40年に建設された。プロピュライアはおびただしい数のトスカーナ式の柱に支えられた2階建てのコロネードで、中央頂部にイエスとマリアの像がそびえており、南北に管理棟と受付棟を備えている。礼拝堂は不規則に配されており、初期キリスト教の教会堂を思わせるイエスとマリアの二重礼拝堂、ギリシア神殿を模した聖ヨハネの礼拝堂、八角形の聖ペトロの礼拝堂、直方体の聖ニコラオスの礼拝堂、ローマ時代の温泉を象った聖アンデレの礼拝堂、ギリシア十字形の聖キュリロスと聖メトディオスの礼拝堂、ユダヤ教やイスラム教など非キリスト教徒にも対応するアダムとイブの礼拝堂をはじめ14堂が散在している。それぞれのデザインはギリシア・ローマといった古典建築から中世の初期キリスト教建築、ルネサンス・バロックといった近世の建築を現代的にアレンジしたものとなっている。プレチニックは1957年にトルノヴォの自宅で死去し、自ら設計したザレの墓に埋葬された。

■構成資産

トルノヴォ橋

○ヴェゴヴァ通り沿いの緑のプロムナード

○リュブリャニツァ川の堤防と橋に沿ったプロムナード

○ミルジェ通りのローマ時代の城壁

○バルジュの聖ミハエラ教会

○アッシジの聖フランチスカ教会

○プレチニコヴェ・ザレ-諸聖人の庭

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、モダニズムとは異なるプレチニックの独創的で創造的な都市設計や建築の価値を認めたものの、それは登録基準(iv)でより適切に述べられるものであり、また構成資産全体について登録基準(i)を満たすものとは証明されていないとしてその価値を認めなかった。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ふたつの世界大戦の間の短い期間に建築家ヨジェ・プレチニックによって行われたリュブリャナ全域に対する都市設計はオーストリア=ハンガリー帝国崩壊後の新国家創設に際し、人間を中心とした都市改造の卓越した例となった。それは空間概念や自然の可能性を突き詰めた調和的な関係に基づいており、新たな都市を建設するのではなく、新しい建造物群やビル・都市施設などを小規模あるいは大規模に取り入れることによって全体の改良を図り、近代的な都市ネットワークへの対応や歴史的建造物の取り込み、新たな都市景観の設定など、さまざまな方法で過去とのつながりを明確化した。こうして生まれた新しい都市空間は特定の用途に限定されずさまざまな機能を有しており、都市全体に新たな意味を付与するものとなった。

■完全性

リュブリャナの都市設計にはふたつの世界大戦の間に築かれたヨジェ・プレチニックによる象徴的な特徴が反映されており、容易に識別することができる。空間的に都市景観は陸軸と水軸というふたつの軸を中心にデザインされており、地形や歴史的な層構造の継続的な使用と解釈に基づいて過去の空間が改良される様子が包括的に示されている。プロムナードは広場や公園・市場・橋などの公共スペースや、建物の位置や用途に由来する空間の継続的な使用を反映しており、それらを元にデザインされている。一連の公共スペースには、スピリチュアルな空間(バルジュの聖ミハエラ教会やアッシジの聖フランチスカ教会、プレチニコヴェ・ザレ)や憩いの空間(ローマ時代の城壁に沿ったミルジェ通りの考古学公園、リュブリャニツァ川の堤防沿いのプロムナード、トルノヴォ埠頭)、経済活動の空間(プレチニック市場)、交流の空間(コングレス広場、三本橋、トルノヴォ橋)、知的・文化的活動の空間(ヴェゴヴァ通り、国立大学図書館)などがあり、公的なアメニティの向上に貢献している。

現在、統一された保護体制によって建物のないエリアはその状態を維持するなど資産の空間は伝統的な用途を守っており、構成資産の完全性を脅かす可能性のある介入から包括的に保護されている。

■真正性

構成資産にはそれぞれの空間本来の環境が保存・強化され、オリジナルの都市設計や特徴が保全されており、外観だけでなくファサードや室内空間・装飾品・細部のこだわりに至るまで本来のデザインが忠実に保たれている。建築素材について、1990年代にほとんどの部材が補強され、継続的な使用による劣化に対して個々に修復や保全処理が施されたが、全体として素材の真正性が損なわれることはなかった。大きな市街地はそのままの形で引き継がれているが、いくつかのケースでは人々の現代的なニーズに応えたり、より高い安全性と構造的安定性を確保するために改修が行われた。わずかな例外を除き、構成資産の本来の機能と目的および特徴は維持されており、屋外スペースは一般の人々が利用できるように開放されている。場所によっては植物の成長や交通量の増加などによる部分的な変化は見られるものの、オリジナルの都市設計は保持されており、過去10年の間、戦略的に対処されている。

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