ヴェズレーの教会と丘

Vézelay, Church and Hill

  • フランス
  • 登録年:1979年、2007年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(vi)
  • 資産面積:183ha
  • バッファー・ゾーン:18,373ha
空から見た世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、ヴェズレーの丘。左手前がサント=マドレーヌ・バシリカ
空から見た世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、ヴェズレーの丘。左手前がサント=マドレーヌ・バシリカ (C) Gerbet 21
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、ヴェズレーの丘。右上がサント=マドレーヌ・バシリカ、その左がサン=ピエール旧教会の鐘楼
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、ヴェズレーの丘。右上がサント=マドレーヌ・バシリカ、その左がサン=ピエール旧教会の鐘楼 (C) Office de tourisme de Vézelay
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカの西ファサード。右がサン=ミシェル塔、中央上が妻壁、その下の中央ポータルのティンパヌムは「最後の審判」
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカの西ファサード。右がサン=ミシェル塔、中央上が妻壁、その下の中央ポータルのティンパヌムは「最後の審判」(C) Zairon
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカの身廊中央ポータル。ティンパヌムは「使徒に使命を伝えるイエス」
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカの身廊中央ポータル。ティンパヌムは「使徒に使命を伝えるイエス」(C) Jörg Bittner Unna
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカのロマネスク様式の身廊
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカのロマネスク様式の身廊。紅白のアーチ、その下に柱頭、そして柱が確認できる (C) Office de tourisme de Vézelay
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカの華麗なレリーフと柱頭装飾。中央はギリシア神話の風の精霊アネモイを描いている
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカの華麗なレリーフと柱頭装飾。中央はギリシア神話の風の精霊アネモイを描いている (C) GO69
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカ。手前から奥へトランセプト、クワイヤ、アプス
世界遺産「ヴェズレーの教会と丘」、サント=マドレーヌ・バシリカ。手前から奥へトランセプト、クワイヤ、アプス。ゴシック様式で身廊と雰囲気がまったく違う (C) Zairon

■世界遺産概要

フランス中部のブルゴーニュ地方ヨンヌ県に位置するヴェズレーの丘の一帯を登録した世界遺産。「永遠の丘」と讃えられる丘の頂部にそびえ立つサント=マドレーヌ・バシリカ(サント=マドレーヌ大聖堂)は9世紀の創設で、マグダラのマリア(遊女ながら悔い改め、イエスの処刑・埋葬・復活に立ち会った女性)の聖遺物(イエスやマリア 、使徒や聖人の関連品)や第2回・第3回十字軍の発足・出発の地となったことからヨーロッパ有数の巡礼地となった。12~13世紀に建設された教会堂はロマネスク建築とゴシック建築の傑作で、身廊とナルテックス(拝廊)の柱頭装飾やポータル(玄関)のティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)をはじめロマネスク美術の最高峰とされる彫刻やレリーフで飾られている。

なお、サント=マドレーヌ・バシリカはフランスの世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産でもある。また、本遺産は2007年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定された。

○資産の歴史

ヴェズレーのサント=マドレーヌ・バシリカはもともとベネディクト会の修道院教会で、修道院は隣接するサン=ペールに860年頃に創設された。武勲詩(シャンソン・ド・ジェスト。8~9世紀を中心にフランス中世の栄枯盛衰を描いた英雄叙事詩)の英雄で知られるジラール・ド・ルシヨンが妻のベルトとともに設立したとの伝説も伝わっている。また、ベネディクト会の修道士である聖パディロがマグダラのマリアの墓があるとされるサン=マクシマン=ラ=サント=ボームから遺骨の一部を聖遺物として持ち込み、クリプト(地下聖堂)に奉納したという。

サン=ペールの修道院は873年頃にノルマン人の襲撃を受けて破壊されたため、隣のヴェズレーに移転して丘の頂きに再建された。878年には教皇ヨハネス8世によって修道院教会がマグダラのマリアに奉献された。11世紀に修道院長のジョフロワが聖遺物を公開すると数々の奇跡が起こり、以来巡礼地として人気を博したという。まもなくスペインから続くサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の「リモージュの道」に組み込まれた(巡礼路はスペインとフランスで世界遺産。また、サンティアゴ・デ・コンポステーラ旧市街や大聖堂はスペインの世界遺産)。

増加する巡礼者に対応するため1100年前後から修道院教会の改築が進められ、まずクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)とトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)が改築された。1120年に大きな火災が起きて一部が倒壊したが、身廊や礼拝堂などの改築やナルテックスの建設が進んで1130年代~50年代に完成した。巡礼者の増加に伴って麓の町が発達し、12世紀に人口は8,000~10,000人に達したという。

1096年にイスラム教勢力から聖地エルサレム(世界遺産)を奪還するために第1回十字軍が派遣された。1099年にエルサレム占領に成功し、エルサレム王国、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国という聖地四国を中心にキリスト教国が建国された。このうちエデッサ伯国が危機に陥ったことから1146年のイースターの日にフランス王ルイ7世や神聖ローマ皇帝コンラート3世をはじめ各地の諸侯がヴェズレーに集まって対応を協議した。このときクレルヴォーのベルナールの演説が奏功し、翌年、第2回十字軍が派遣された。十字軍は目的を果たせなかったが、参加諸侯はエルサレム巡礼の目的は達成した。

1166年にはイングランドで国王ヘンリー2世と対立していたカンタベリー大司教トマス・ベケットがヴェズレーを訪れ、イングランド王室の腐敗を糾弾して破門を主張した。これが1170年のヘンリー2世によるベケット暗殺のひとつの原因となった。ベケットはこの事件後に列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)され、カンタベリー大聖堂(世界遺産)の権威は高まった。

1187年にエルサレムを奪還されたため、1189年に第3回十字軍が結成された。中心人物であるイングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世はヴェズレーで出会い、遠征前にヴェズレー修道院で3か月をともに過ごしてから旅立ったという。この遠征も失敗に終わったが、修道院の名声はローマ・カトリック圏に広く轟いた。

ヴェズレー修道院はベネディクト会から派生したクリュニー会に移っていたが、1162年には会を離れていた。フランシスコ会を開いたアッシジの聖フランチェスコがこの地を訪れると、1217年にフランシスコ会におけるフランス初の修道院として整備した。13世紀後半にはクワイヤとトランセプトがゴシック様式で改装された。

1279年、サン=マクシマン=ラ=サント=ボームでマグダラのマリアの墓が確認され、ヴェズレーに贈られたはずの遺骨が発見された。これによりヴェズレーの権威は揺らいだが、それでも巡礼地としてありつづけ、14世紀にはゴシック様式の鐘楼が建設された。しかし、フランスはイングランドと争った百年戦争(1337〜1453年)で荒廃して巡礼者が激減し、雷が落ちて一部が倒壊した鐘楼の修理費も工面できない有り様だった。1537年には教皇パウルス3世が修道院を世俗化して廃院となった。16世紀に宗教改革が本格化するとユグノー(フランスのカルヴァン派プロテスタント)の活動が活発化し、1560年代にはヴェズレーが占領された。修道院は荒廃して放棄され、18世紀にはチャプター・ハウスを除いてほとんどが売却され取り壊された。

修道院の世俗化とともにサント=マドレーヌ・バシリカは修道院を離れ、1790年に一帯の教区教会となった。ただ、こちらも崩壊の危機にあり、早期の修理が必要とされた。小説『カルメン』の著者で歴史家としても知られるプロスペル・メリメは警告を発し、建築家ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクを推薦。ヴィオレ=ル=デュクは1839~48年にかけて本来の建築様式を維持しながらヴォールト天井の修復・再建を行い、教会堂の維持に成功した。この後も修復は続けられ、1920年にはマグダラのマリアのバシリカとして教皇の承認を受け、巡礼が再開された。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は「ヴェズレーの丘」と「コルビニー」の2件。「ヴェズレーの丘」は丘の全域とその周辺で、林やブドウ園といった後背地を含んでいる。そうした後背地の一部が「コルビニー」だ。

サント=マドレーヌ・バシリカは9世紀に創設されたヴェズレー修道院の付属教会堂で、当初はフランク王国カロリング朝時代のカロリング・ルネサンス(カール大帝が主導した古典復興に基づくキリスト教文化の興隆)の影響を受けた建物だった。12世紀にロマネスク様式で再建され、13~14世紀に一部がゴシック様式に改装された。全長約120m、「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の細長い教会堂で、トランセプトに高さ35mのサンタントワーヌ塔、西ファサードに高さ38mのサン=ミシェル塔(南塔)を頂いている。西ファサードの鐘楼はもともと双塔だったが、落雷で北塔が破壊されて以来、修復されていない。

教会堂の顔に当たる西ファサードは下部がロマネスク様式、鐘楼を含む上部がゴシック様式で、中央上部の尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)の妻壁には上部にイエス、聖母マリア、マグダラのマリア、ふたりの天使の彫像が、その下の5連ランセット窓(細長い連続窓)の脇にはヨハネ、アンドレ、洗礼者ヨハネ、ペトロ、パウロ、聖ベネディクトの見事な彫像が並んでいる。ファサード下部の中央ポータルのティンパヌムは彫刻家ミシェル・パスカルが制作した「最後の審判」で、19世紀のロマネスク・リバイバル様式の作品だ。

ポータルの門を抜けると教会堂内部と外部、聖と俗を分ける拝廊=ナルテックスで、東に身廊に入るための3基のポータルが並んでいる。中央ポータルのティンパヌムが有名な「使徒に使命を伝えるイエス」で、1120~40年頃に制作されたロマネスク様式の作品となっている。イエスと使徒の周囲には世界各地の諸民族や大陸・大河のシンボルが描かれており、神の栄光を世界に伝達する使命が示されている。一方、南ポータルのティンパヌムはイエスの子供時代、北ポータルのティンパヌムはイエスの復活を描いたものとなっている。

これらのポータルを抜けると身廊に入る。身廊はロマネスク様式の空間で、天井は「×」形の交差四分ヴォールトと紅白のポリクロミア(縞模様)の半円アーチが交互に並んでおり、ポリクロミアの柱で支えられている。特筆すべきはロマネスク様式の柱頭装飾で、身廊とナルテックスを合わせて118の作品が見られるが、主題はすべて異なっている。題材はギリシア神話や『旧約聖書』『新約聖書』、聖人に関したもので、一例として「ガニュメデスの誘拐」「アダムとイヴの原罪」「モーセと金の子牛」「ヘロデとヘロデア」「ラザロの死」「世界の改宗を祈るペトロとパウロ」「子供を復活させる聖ベネディクト」などが挙げられる。

ラテン十字形の横軸に当たるトランセプトから東、トランセプト、クワイヤ、アプス(後陣)は13世紀のゴシック様式となっている。下から尖頭アーチが連なる大アーケード、柱廊装飾の付いたトリフォリウム、高窓が連なるクリアストーリーというゴシック様式の3層構造で、半円形のアプスには放射状祭室が備えられ、礼拝堂が立ち並んでいる。交差四分のリブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)と尖頭アーチ、大きな窓とステンドグラス、数多くの柱が特徴的で、身廊と比べて明るく軽快で上昇志向の強いゴシック特有の空間が広がっている。

地下のクリプトもロマネスク様式で、マグダラのマリアの聖遺物を収めたレリカリー(聖遺物箱)が収蔵されている。トランセプトの南には会議などが行われていたチャプター・ハウスが続いているが、かつての修道院の施設の一部に当たる。

サント=マドレーヌ・バシリカ以外の歴史的建造物として、まずヴェズレーの市壁が挙げられる。市壁が大幅に拡張されるのは町が発達した12世紀で、全長約1.9kmの市壁が丘を囲っていた。平均で高さ10m・幅2mほどで、14世紀に築かれた5基の塔と、16世紀に築かれた新門、市壁の一部が残されている。正門はサント=クロワ(聖十字架)門だが、19世紀に取り壊された。

サンテティエンヌ旧教会は12世紀に建設されたロマネスク様式の旧教会堂で、18世紀に教会堂としては使用されなくなった。時代時代の増改築を受けたが、当初の基礎が残されており、バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)の重厚な構造が引き継がれている。

サン=ピエール旧教会は17世紀に建設された鐘楼(時計塔)のみが残る旧教会堂だ。創立は1152年とされるが、1804年に鐘楼を除いて倒壊し、身廊部分はポロ広場となった。

コルデル礼拝堂は丘の北東の麓に位置する礼拝堂で、12世紀半ばに第2回十字軍の成功を祈念してクレルヴォーのベルナールによって建設された。聖十字架に捧げられたことからサント=クロワ礼拝堂とも呼ばれる。ロマネスク様式の重厚なバシリカ式教会堂で、身廊の一部はゴシック様式で改装されている。丘の中腹にたたずむ聖ベルナールの十字架はクレルヴォーのベルナールに捧げられている。

■構成資産

○ヴェズレーの丘

○コルビニー

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

ヴェズレーのサント=マドレーヌ・バシリカはブルゴーニュ・ロマネスク美術の傑作である。1120~40年に築かれた身廊は紅白2色のリブ・アーチで効果的に強調されており、アーチを支える柱は様式も主題も多様で独創的な柱頭装飾で飾られている。身廊とナルテックスを分けるポータルはティンパヌムの「使徒に使命を伝えるイエス」を筆頭に見事な彫刻で飾られており、この教会堂を西洋ロマネスク美術の最重要モニュメントのひとつに引き上げている。

○登録基準(vi)=人類史的に重要な建造物や景観

12世紀、ヴェズレーの丘は中世キリスト教のスピリチュアリティが発露する特異点となり、祈祷や武勲詩から十字軍まで多様で具体的な宗教的表現が生み出された。

■完全性

「永遠の丘」ヴェズレーには修道院が創設された中世初期の景観が手付かずで残されている。修道院教会の存在と活動によって丘の麓に町が形成され、周囲には野原や牧草地・森が広がっている。

■真正性

宗教改革の結果、修道院教会を除く修道院の大部分が失われた。廃墟に近い状態だったが、モニュメント修復の第一人者であるウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクによって最初の修復が実施され、1839~48年にかけてヴォールト天井の一部を再建して建物を保全することに成功した。

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