アニの考古遺跡

Archaeological Site of Ani

  • トルコ
  • 登録年:2016年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)(iv)
  • 資産面積:250.7ha
  • バッファー・ゾーン:432.45ha
世界遺産「アニの考古遺跡」、右の建物がアニ大聖堂、中央奥は城塞
世界遺産「アニの考古遺跡」、右の建物がアニ大聖堂、中央奥は城塞
世界遺産「アニの考古遺跡」、アニの市壁
世界遺産「アニの考古遺跡」、アニの市壁 (C) Ben-Bender
世界遺産「アニの考古遺跡」、ティグラン・ホネンツ聖グリゴル教会
世界遺産「アニの考古遺跡」、ティグラン・ホネンツ聖グリゴル教会
世界遺産「アニの考古遺跡」、アブガムレンツ聖グリゴル教会
世界遺産「アニの考古遺跡」、アブガムレンツ聖グリゴル教会
世界遺産「アニの考古遺跡」、エミール・エブール・ムアメラン・コンプレックスのエブール・マヌーチェヒル・モスク
世界遺産「アニの考古遺跡」、エミール・エブール・ムアメラン・コンプレックスのエブール・マヌーチェヒル・モスク (C) Dosseman

■世界遺産概要

アニはトルコ北東部の東アナトリア地方カルス県のオジャクリ郊外に位置する都市遺跡で、トルコ-アルメニア国境を形成するアルパチャイ川の西岸に広がっている。アニはシルクロードの要衝で交易都市として発達し、特にバグラトゥニ朝アルメニア(アルメニア王国。885~1045年)の時代に首都として繁栄した。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)やセルジューク朝、グルジア王国など多彩な国家・文化・民族・宗教の影響を受け、特に中世のアルメニア建築を筆頭にキリスト教とイスラム教の重要な遺構が数多く残されている。

○資産の歴史

アニ渓谷には紀元前1200~前1100年ほどから人類の居住の跡があり、特にボスタンラル渓谷では火山灰が堆積してできた柔らかい凝灰岩の断崖を掘って岩窟住居や地下トンネルが築かれた。やがてアルメニア人が入植をはじめ、4世紀にはカムサラカン家が三角形状の台地の南端に城塞を建設した。カムサラカン朝の下でアニの開発がはじまり、町は発展し、宮殿や初期キリスト教の教会堂などが建てられた。

8世紀後半にバグラトゥニ家が取って代わり、804年にアッバース朝(イスラム帝国)のカリフ(イスラム教創始者ムハンマドの後継者でありスンニ派最高指導者)からアルメニア公に封じられ、885年にはアショト1世がアルメニア王位を与えられてバグラトゥニ朝がはじまった。イスラム王朝であるアッバース朝はキリスト教信仰を認める一方で新たな教会堂の建設を制限していたが、バグラトゥニ朝では例外的に多数の教会堂が建設された。

当初、首都はバガランやシラカヴァン、カルスに置かれていたが、961年にアショト3世がアニに遷都して町を整備した。この頃、キリスト教国であり正教会の盟主であるビザンツ帝国と、アッバース朝をはじめとするイスラム教諸国の間で対立が激化していた。続くスムバト2世は両者の国境付近に位置するアニ防衛のために全長約5kmの二重の市壁を建設した。次のガギク1世の時代にアルメニア教会の総主教座(総本山)が置かれていたドゥヴィンがイスラム教勢力の攻撃を受け、992年に総主教座がアニに遷された。さらにこの頃、イラン系のソグド人が中国から中央アジア、ペルシア、メソポタミア、アナトリア、ヨーロッパに抜けるシルクロードの「オアシスの道」を利用して活発に交易を行い、アニも重要な中継地となった。こうしてアニはアルメニアの政治的・経済的・宗教的な中心地となり、11世紀はじめまでに人口は10万をはるかに超え、城郭都市の数多くの城門から「40門都市」、あるいは多数の教会堂から「1001教会都市」などと称された。

ガギク1世の没後、 長男ホヴァネス・スムバトと次男アショト4世の間で後継者争いが勃発し、兄がアニ、弟がその他の地域を支配した。ホヴァネス・スムバトはビザンツ帝国の後ろ盾を得るためにビザンツ皇帝を後継者に指名。これを受けて彼の死後、皇帝ミカエル4世がアニの統治権を引き継いだ。アショト4世の息子ガギク2世はこれに反発してアニを攻撃したが、1045年に降伏してバグラトゥニ朝は滅亡した。

1064年には大セルジューク朝(セルジューク帝国)のスルタン(王のような地域支配者)であるアルプ・アルスラーンがこの地を占領し、1072年からその支配下にあるクルド系のシャッダード朝が統治した。イスラム王朝の下でモスクが建設され、あるいは教会堂がモスクに改修された。12~13世紀にかけてシャッダード朝とキリスト教国であるグルジア王国の間でアニを巡ってたびたび戦闘が行われた。1199年にグルジア王国のタマラ女王がアニを支配下に置き、ザカリアン家に統治権を与えてザカリアン朝が開始された。ザカリアン朝はバグラトゥニ朝の支配域の多くを取り戻し、その後継となった。アニは繁栄を取り戻し、市壁が強化され、数多くのキリスト教の教会堂が整備された。

1226年にモンゴル軍が襲来し、当初はその攻撃を退けたものの、1239年に陥落して多数の住民が虐殺され、多くのアルメニア人がクリミア半島に逃げ延びた。当初は宗主国をモンゴル帝国に変えてザカリアン朝が統治していたが、その後イル・ハン国、キプチャク・ハン国、ジャライル朝、黒羊朝、ティムール朝などが入れ替わり、1319年の大地震などもあってアニは混乱し荒廃した。そして1441年にアルメニア教会の総主教座がエレヴァンに遷されると宗教的中心地としての役割を終えた。

その後、ペルシアでサファヴィー朝が興るとオスマン帝国と並ぶ大国に成長し、アニはその版図に入った。サファヴィー朝とオスマン帝国は覇を競ったが、オスマン=サファヴィー戦争の結果、1579年にオスマン帝国の支配下に移った。1605年に壊滅的な地震がアニを襲い、また交易路がアナトリア南部からメソポタミアへ入る南のルートに変わったことから交易都市としての役割も終了し、17~18世紀に放棄されて廃墟となった。

○資産の内容

世界遺産の資産の中心はアルパチャイ川の西岸にそびえる南西を頂点とする三角形状の台地で、加えてその周辺が含まれている。この台地上に市壁で囲われた城郭都市が展開し、南西の頂部に城塞が設けられ、城塞エリアと都市エリアを隔てる城壁があった。

城塞の創建はカムサラカン朝の7世紀にさかのぼり、アニ渓谷を見下ろす台地の頂部に築かれた。6~7世紀のものと見られる教会堂があり、アニ最古の教会堂と考えられている。バグラトゥニ朝の時代には宮殿が建設され、内部に少なくとも5棟の教会堂を備えていた。

市壁について、カムサラカン朝からオスマン帝国の時代までそれぞれの時代で建設・修復・増改築が行われていたが、基本となるのはバグラトゥニ朝のスムバト2世が10世紀後半に築いた全長約5kmの二重の城壁で、内側の城壁が高さ5mほどとより高く、各所に半円形の城壁塔を備えていた。城門はアスランリ門(獅子門/ライオン門)、ウグルン門、カルス門、サトランチ門、アジェマグリ門、ムームー・デレシ門という6基があり、アスランリ門が都市の正門だった。

町の象徴的な建物がアニ大聖堂だ。スムバト2世が989~1001年頃に建設した教会堂で、創設から11世紀半ばまでアルメニア教会の総主教座が置かれていた。1064年に大セルジューク朝がこの地を支配するとモスク(フェトヒエ・モスク)に改修されたが、1124年にグルジア人が教会堂に戻している。中世アルメニアの伝説的な建築家トゥルダトの作品とされ、アルメニア建築の傑作として知られるが、ビザンツ建築の影響を多分に受けている。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)・3アプス式(3つのアプス=後陣を持つ様式)の教会堂で、平面34.3×24.7mとアルメニア建築の教会堂としては異例の大きさを誇る。1319年の地震でドームが倒壊し、やがて教会堂としては使用されなくなったようだ。

ティグラン・ホネンツ聖グリゴル教会は1215年竣工の教会堂で、豪商ティグラン・ホネンツがアルメニアにキリスト教をもたらした「開明者」聖グレゴリオス(グリゴル・ルサヴォリチ)に捧げる教会堂を築いたことからこの名が付いた。内部はイエスの生涯と聖グレゴリオスの生涯を描いた見事なフレスコ画で彩られており、アニ遺跡でもっとも美しい教会堂のひとつに数えられる。ドーム型ホールと呼ばれる特徴的な建築様式で、3アプス式の教会堂ながら中央に円形の広い身廊を持ち、その上にドームを頂いた塔のような円柱形の建物を掲げている。

聖プルキッチ教会(ハラスカル)は11世紀にバグラトゥニ朝の王子アルブガリビがビザンツ皇帝ミカエル4世から贈られた聖十字架(イエスの磔刑に使用されたと伝わる十字架)の断片を収めるために築いた教会堂だ。外壁に19面・内壁に8面を持つ円形に近い多角形のドーム型ホールで、近年までほぼ無傷で伝えられていたが、1955年の嵐で東側半分が倒壊した。

アブガムレンツ聖グリゴル教会は980年頃に築かれたバグラトゥニ家の私設礼拝堂で、聖グレゴリオスに捧げられた八角形のドーム型ホールとなっている。教会堂の北には同家の霊廟が隣接しており、こちらは1040年の建設と伝わっている。

ガギク聖グリゴル教会はガギク1世がトゥルダトの設計で1001~05年に建設した教会堂で、やはり聖グレゴリオスの名を冠している。7世紀に築かれ、10世紀に地震で倒壊したズヴァルトノツ大聖堂(世界遺産)の再興を目指して築かれたもので、円形(正確には32角形)の外壁と四葉形の内陣を持つ特徴的なデザインが忠実に再現された。現在、その基礎が残されており、平面プランを確認することができる。

エミール・エブール・ムアメラン・コンプレックスは11世紀後半にシャッダード朝によって開発されたエリアで、アニのベイ(君侯)であるシャッダード家のシャヒンシャによってモスクをはじめ数多くの建物が築かれた。中心的な建物がエブール・マヌーチェヒル・モスクで、アナトリアに現存する最古級のモスクとされる。モスクにはシンプルながら幾何学文様やムカルナス(鍾乳石を模した天井飾り)といった装飾が見られる。1917年に取り壊されたが、ミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)や12~13世紀の礼拝堂の一部は残されている。

これ以外の遺構としては、グルジア王国時代の1218年前後に築かれたグルジア正教会の教会堂である聖ステファノス教会や、3~4世紀建設とされるゾロアスター教の拝火神殿、10世紀の建設で2階建ての橋だったシルクロード橋、大セルジューク朝時代のハマム(浴場)であるキュチュク・ハマム、キャラバンサライ(隊商宿)、市場や商店、厩舎、貯水池などが挙げられる。

また、ボスタンラル渓谷を中心に数多くの岩窟住居や地下トンネル群が見られる。これらは先史時代の遺構であるとともに、中世の岩窟修道院や岩窟教会堂の跡でもあり、フレスコ画が描かれたものも存在する。

■構成資産

○アニの考古遺跡

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(v)「伝統集落や環境利用の顕著な例」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、台地や渓谷・川といった自然的要素が岩窟住居などに影響を与えたことは確かだが、こうした例は周辺地域に広く見られ、自然と人間の相互作用のすぐれた表現あるいは伝統的な土地利用慣行の例として顕著な普遍的価値を構成するほど際立っているという証明がなされていないとして価値を認めなかった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

アニはアルメニアやグルジア、各種イスラムといった多彩な文化的伝統が交流する場であり、それらはモニュメントの建築デザイン・素材・装飾などに反映されている。こうした異文化交流はアニで新しいスタイルを生み出し、アニ特有の建築言語となった。そしてアニの新言語によるデザイン・技術・装飾はアナトリアやコーカサス地方の広範囲に多大な影響を与えた。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

アニはアルメニアの文化的・芸術的・建築的・都市的デザインの発展を表現する卓越した証拠である。また、「アニ派」として知られるアルメニアの宗教建築の技術・スタイル・素材の特徴を見事に示している。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

アニは軍事・宗教・民間建築といったあらゆる建築タイプを備え、7~13世紀の6世紀の間にこの地域に出現したほぼすべての建築スタイルを網羅しており、中世の建築史に関する広い展望を提供している。また、4~8世紀にかけてアルメニア教会建築として開発されたほぼすべての建築プランが一堂に会する稀有な都市と考えられている。さらに、アニを囲う市壁の記念碑性・デザイン性・品質が際立っているのみならず、台地や渓谷周辺の岩窟住居や地下トンネルは火山性の石灰岩地形と関係した中世の建造物群の重要な例である。

■完全性

資産にはアニの顕著な普遍的価値を構成するすべての要素が含まれており、法的に保護されている。記念碑的な特徴を有する建造物の大部分は資産内に現存しているが、地震や人為的な破壊によって一部が失われていたり、修復に失敗したものがあるなど、すべてのモニュメントが安定性に関して深刻な構造的問題に直面している。また、景観に関する視覚的完全性はアルパチャイ渓谷東側での採石活動や、岩窟住居が連なるアルパチャイ渓谷とボスタンラル渓谷の牧草地の不適切な使用によって影響を受けている。トルコ政府は現在、包括的な保全戦略と行動計画の実施を通じて脆弱なこの状況に対応しており、資産の主要素の保全に努めている。

■真正性

深い渓谷には岩窟住居や地下トンネルが張り巡らされ、台地の上にはきわめて印象的なモニュメントが連なっており、いずれも人里離れた辺境に位置している。現代的な開発とも無縁であり、過去に築かれた姿のまま改変されることなく伝えられている。しかし、地震や過酷な気候、一部は人為によって劣化が進んでおり、資産の全体的な真正性に悪影響を与えている。数々の修復プロジェクトで使用された新しい構造が元の建造物の構造を損っている例も見られ、素材・原料・技術に関して真正性を毀損している。現在進められている保全・修復作業ではオリジナルの素材や技術の品質を保持することに重きを置いており、過去に施された不適切な修復箇所を除去することで資産価値の劣化に対処している。

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