ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院

Benedictine Convent of St John at Müstair

  • スイス
  • 登録年:1983年
  • 登録基準:文化遺産(iii)
  • 資産面積:2.036ha
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、中央が修道院教会と鐘楼、左が聖十字架礼拝堂
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、中央が修道院教会と鐘楼、左が聖十字架礼拝堂 (C) Martingarten
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、聖十字架礼拝堂
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、聖十字架礼拝堂
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、修道院教会のアプス部分
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、修道院教会のアプス部分。さまざまな時代のフレスコ画が混在している (C) Andreas Faessler
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、イエスが聴覚障害者に癒やしを与えているシーンを描いたカロリング朝期のフレスコ画
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、イエスが聴覚障害者に癒やしを与えているシーンを描いたカロリング朝期のフレスコ画
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、アプス中央下段のフレスコ画『サロメを踊るヘロデの饗宴』
世界遺産「ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院」、アプス中央下段のフレスコ画『サロメを踊るヘロデの饗宴』(C) Ziegler175

■世界遺産概要

ベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院はイタリア国境に近いスイス・アルプス南端の町ミュスタイアに位置する修道院で、8世紀の創設から現在るまで1,200年以上にわたって修道活動を続け、8~9世紀にさかのぼるフランク王国カロリング朝期の貴重な建築やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)を伝えている。

○資産の歴史と内容

481年、ゲルマン系フランク人であるクローヴィス1世がフランク王国を建国し、ガリア(おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる地域)の多くを支配した。ゲルマン系諸民族は多くが異教徒であるか、異端とされるキリスト教アリウス派を信奉していたが、クローヴィス1世は妻にめとった王妃クロティルダの影響もあって異教からアタナシウス派に改宗して教皇の支持を得た。フランク王国はキリスト教を利用し、征服を神の恩寵を受けた聖なる王による支配として正当化し、教会ネットワークを利用して統治を進めた。800年にローマ(世界遺産)のサン・ピエトロ大聖堂(世界遺産)でカール大帝が教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を戴冠され(カールの戴冠)、フランク王国はローマ帝国の後継となった。カール大帝は征服に際してキリスト教への改宗を強要し、教会や修道院を築いて支配体制を固めた。同時に学校を建設して教育を充実させ、古典研究や写本製作・キリスト教美術の振興を図ったため、8~9世紀に古典復興に基づくキリスト教文化の興隆が起こった(カロリング・ルネサンス)。

カール大帝が各地に築いた教会・修道院のひとつと伝えられているのがミュスタイアのザンクト・ヨハン修道院だ。伝説によると、アルプスを縦断中にカール大帝は吹雪に巻き込まれ、神に祈りを捧げつつ、生還できたら修道院を捧げるという誓いを立てたという。こうして775年にザンクト・ヨハン修道院の建設がはじまった。この時代の建築とされるのが聖十字架礼拝堂と修道院教会で、礼拝堂の考古学調査によって建築年代が785〜788年であることが確認された。聖十字架礼拝堂は全長12m・幅6mの三葉式(クローバーの葉のような3つの出っ張りを持つ様式)のバシリカで、もともと聖十字架に捧げられたもので、その後プライベートな礼拝堂として使用された。2011年の修復では8世紀末のフレスコ断片が発見され、梁天井の一部はヨーロッパ最古の木製天井であることが明らかになった。修道院の中心的な施設である修道院教会も同時期の建設で、3つのアプス(後陣。祭壇などが置かれる東側の半ドーム形の出っ張り)を持つ単廊式(身廊のみで側廊を持たない様式)バシリカとして建設されたようだ。内部はフレスコ画で覆われており、壁一面に『旧約聖書』や『新約聖書』の物語が描かれていたが、15世紀頃に白塗りされて封印された。

9世紀にベネディクト会に所属し、同会の修道院となった。山賊やイスラム教勢力の圧力を受けて外壁を設け、10世紀には塔と居住施設を兼ねた城塞としてプランタ塔が築かれた。また、1035年には敷地内にロマネスク様式の司教邸が建設され、付属施設としてフレスコ画で彩られた聖ウルリッヒと聖ニコラウスの礼拝堂が設置された。12世紀に司教邸が増築され、1167年頃に女子修道院となった。この頃、修道院教会に新たにロマネスク様式のフレスコ画が描かれた。13世紀のある日、よからぬ思いを抱いて聖体拝領のサクラメント(イエスの身体の一部であるとされるパンとワインをいただく儀式)に出た修道女アグネスは、聖餐のパンを食べずに隠し持っていると、パンが血肉に変わるという奇跡が起きた。この聖血の奇跡の物語が伝わると、ふたたびパンに戻った聖餐の断片を収めたオステンソリウム(聖体顕示台)に祈りを捧げるために、数多くの巡礼者が訪れるようになったという。

1488~92年にかけて修道院教会は後期ゴシック様式で改修された。身廊は2列の列柱を持つ三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)となり、尖頭アーチやリブ・ヴォールトで装飾された。15世紀後半にカロリング朝期やロマネスク様式のフレスコ画は白く塗り込められ、その上にゴシック様式のフレスコ画が描かれた。1528年に修道院教会は教区教会となり、これを記念して1530年に鐘楼が建てられた。鐘楼はその後増築を続け、1644年に現在の姿になった。1642年にはロマネスク様式の司教邸の一部にバロック様式の司教邸が増築され、1758年には聖血の奇跡に捧げられたグレース礼拝堂が建設されオステンソリウムが供えられた。残念ながらオステンソリウムと聖餐の断片は第2次世界大戦中の混乱で失われた。

1810年に修道院は解散の危機を迎えるが、修道院(abbey)から小修道院(priory)に形を変えることで存続が決定した。1894年、修道院教会で9世紀前半までさかのぼるカロリング朝期のフレスコ画が発見された。1947~51年の調査と修復で「最後の審判」「ダビデ王の生涯」「エジプトへの逃避」といった状態のよい135点を中心に800か所に及ぶフレスコ画が確認された。ヨーロッパで数少ないカロリング・ルネサンスの傑作の発見ということで、宗教界や学界を騒がせた。

■構成資産

○ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

修道院の建造物群は中世盛期・カロリング朝期のもっとも一貫した建築であり、9世紀前半のフレスコ画は同時期のもっとも大きくでよく知られた傑作である。「最後の審判」をはじめとするカロリング・ルネサンスの形象的なフレスコ画はキリスト教の図像的テーマの進化を理解するうえで特に重要なものである。

■完全性

資産は外壁に囲まれた修道院エリアの全建造物と農業のための付属的な施設・設備を含んでおり、顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素をカバーしている。

■真正性

1947~51年の修復キャンペーン以来、すべての作業は完成当時のオリジナルの状態を尊重し、歴史的・考古学的調査に基づいて行われている。修道院はいまなおベネディクト会の修道女のための宗教施設として活動を続けており、資産は素材的な点からのみならず機能的な点からも真正性の条件を満たしている。

■関連サイト

■関連記事