ボローニャのポルティコ群

The Porticoes of Bologna

  • イタリア
  • 登録年:2021年
  • 登録基準:文化遺産(iv)
  • 資産面積:52.18ha
  • バッファー・ゾーン:1,125.62ha
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、サンタ・カテリーナ通りのポルティコ群
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、サンタ・カテリーナ通りのポルティコ群 (C) Ste Bo77
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、サント・ステファノ広場のポルティコ群。左端がデビアンキ宮殿、右がイゾラーニ宮殿
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、サント・ステファノ広場のポルティコ群。左端がデビアンキ宮殿、右がイゾラーニ宮殿
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、マッジョーレ広場。左がポデスタ宮殿、正面がバンキ宮殿とバンキのポルティコ、右がサン・ペトローニオ聖堂
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、マッジョーレ広場。左がポデスタ宮殿、正面がバンキ宮殿とバンキのポルティコ、右がサン・ペトローニオ聖堂 (C) Vanni Lazzari
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、上がサン・ルカの聖母の聖域のドーム、その右に伸びているのがサン・ルカのポルティコ
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、上がサン・ルカの聖母の聖域のドーム、その右に伸びているのがサン・ルカのポルティコ (C) Maurizio Moro5153
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、バンカ・ディタリア宮殿のポルティコ
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、バンカ・ディタリア宮殿のポルティコ (C) Scgsweleven
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、左がサンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂、ポルティコに囲まれた正面の広場がセルヴィ・ディ・マリア広場
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、左がサンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂、ポルティコに囲まれた正面の広場がセルヴィ・ディ・マリア広場 (C) Alessandro Siani
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、ボローニャ最古級を誇るイゾラーニ邸のポルティコ
世界遺産「ボローニャのポルティコ群」、ボローニャ最古級を誇るイゾラーニ邸のポルティコ (C) Alessandro Siani

■世界遺産概要

ボローニャはイタリア半島の付け根に近いイタリア北部エミリア=ロマーニャ州の州都で、紀元前の時代からの古都として知られる。創立1088年を誇るヨーロッパ最古の大学・ボローニャ大学で知られるように屈指の文化都市で、建築・絵画・音楽・料理とあらゆる面でヨーロッパをリードした。そのボローニャの建築的象徴がポルティコだ。本遺産は全長62kmに及ぶ市内のポルティコの中で12の地域のポルティコ群を登録している。

ポルティコはもともと柱で神殿を取り囲んだ周柱式のギリシア神殿に由来し、列柱廊を用いたポータル(玄関)を示す。ローマ時代に神殿に多用され、ルネサンスの時代に一般の建物に導入された。ボローニャにおいてポルティコは土地を有効活用する目的で発達し、建物の玄関を飾るだけでなく、隣の建物のポルティコと接続して屋根付きの歩道を形成するいわゆるアーケードや、建物と独立して屋根付きの列柱廊が長く伸びたコロネードに発展した。構成資産の12地域は単独の建築物、アーケード、コロネード、ポルティコが連なる道、ポルティコに囲まれた広場などあらゆる形状と機能の、また12世紀の木造からレンガ造・石造を経て20世紀の鉄筋コンクリート造まであらゆる時代と素材のポルティコを含んでいる。

○資産の歴史

ボローニャの地には紀元前6世紀頃にエトルリア人の都市フェルシナがあった。紀元前189年に共和政ローマの支配下に入って植民都市ボノニアが建設され、紀元前89年にはローマ市民権を得て自治都市ムニキピウムに指定された。エミリア街道の要衝として発達し、ローマ帝国の下でイタリア最重要の都市のひとつに数えられた。476年の西ローマ帝国の滅亡とともに衰退するが、都市としてありつづけ、5世紀と8世紀には市壁が建設された。10~11世紀に交易都市として繁栄を取り戻すと人口が急増し、12世紀はじめにコムーネ(自治体)として独立すると新しい市壁が建設された。この繁栄のひとつの証が1088年創立のボローニャ大学で、神聖ローマ帝国と教皇庁が認める最高の教育機関であるストゥディウム・ゲネラーレに選出された。

ボローニャにおいてポルティコの建設は11世紀頃に開始されたと見られる。確認されている最古のポルティコは1041年のもので、マッジョーレ通り沿いに建設された木造のものと考えられている。ポルティコは市壁内の土地が限られている中で、人口が増加してスペース不足が深刻化した問題に対するひとつの解決策として普及した。自分の土地から道路に張り出してポルティコを建設し、ポルティコ内を歩行者用の通路として開放する代わりに2階以上のスペースを使用した。同じような建物が続くことで歩行者はポルティコの中をアーケードのように歩きつづけることができた。こうした違法建築は1211年頃から規制がはじまり、他の都市では取り締まりを受けて排除されたが、ボローニャでは1288年の法律で合法化され、むしろ義務化された。城壁内の市民はポルティコの製作や管理・装飾が義務付けられ、ウマが通れるように幅2.7m以上であることなどといった規定が設けられた。特に商人はこうしたスペースを全天候型の市場として使って商いを行った。

1380年に全長7kmを誇る新しい市壁が完成し、城郭都市は拡張された。15世紀にはベンティヴォーリオ家、16世紀には教皇による統治下で町の再開発が進み、多くの教会堂や宮殿が建設された。建築様式もロマネスク様式やゴシック様式からルネサンス様式に変わり、町はより華やかに彩られた。この頃、14~15世紀に木造のポルティコから当初はレンガ造、後には石造への建て替えが進められた。木造では梁(はり。柱の上に水平に置く横架材)で上部構造を支えればよかったが、レンガ造や石造ではアーチを架けて天井を築く必要があることから筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)や交差ヴォールト(筒型ヴォールトを交差させた「×」形のヴォールト)を駆使したポルティコがデザインされ、ゴシックの尖頭アーチやルネサンスの半円アーチが通りを飾った。この過程でしばしば道路とポルティコ内の通路を区別する石壁が築かれた。石壁は地下まで続いており、ポルティコの地下スペースの擁壁となった。人々はポルティコを公共の空間として開放する代わりに地下と2階以上のスペースを私有地として使用することができた。1567年には木材の使用が禁止され、石造のポルティコが普及した。また、16世紀後半には後期ルネサンスの旗手アンドレア・パッラーディオ(1508~80年)がローマ風のポルティコとドームを取り込んでパッラーディオ様式を確立し、ボローニャにも持ち込まれた。

17~18世紀にはポルティコを備えた見事な宮殿や教会堂・公共建築の建設が活発化した。一例がサン・ルカのポルティコで、ここにおいてポルティコは建物から独立し、教会堂や修道院といった施設へ向かう通路沿いにコロネードの形で築かれた。また、建築家アントニオ・ガッリ・ビビエーナが1763年に完成させたボローニャ市立劇場(テアトロ・コムナーレ)はバロック様式の劇場の周囲にポルティコを取り付けたもので、近世の新しいスタイルに先鞭を付けた。こうした傾向は1796年のナポレオン1世の入城・フランスの支配時代にさらに推し進められた。1859年にボローニャ中央駅がオープンして鉄道が開通し、町は大きく拡張されて城外の開発が進められた。1861年にはイタリア王国が成立し、ボローニャもその下に加わった。

20世紀に入って鉄筋コンクリートが普及するとアーチを作る必要はなくなり、モダニズムの近代的なポルティコが普及した。最たる例がトレノ・デッラ・バルカで、鉄筋コンクリートの集合住宅の1階をピロティ(壁がなく柱で構成された開放空間)のように開放してポルティコとする画期的な構造となっている。一方で歴史的なポルティコは建物とともにその価値が認められて保全された。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は12件で、いずれも地域で登録されており、それぞれの中にポルティコのある建築物やコロネードとして独立したポルティコが含まれている。

「サンタ・カテリーナとサラゴッツア」はサラゴッツア地区のサンタ・カテリーナ通りの住宅群を登録したもので、12~13世紀に建設された最古級のポルティコ群となっている。それぞれの建物が独自のポルティコを持ち、全体として200mを超えるアーケードを構成している。もともと道路だった部分にポルティコを建設して占有したもので、ボローニャのポルティコの原型といえる。労働者階級の住宅として建設されたため似たデザインで、一般的に幅約3.8mで大きな建物はその倍数となっている。ポルティコの高さは低く、石柱で支えられており、梁や天井など一部に木造の構造が残されている。開口部はアーチもあるものの直線的な梁で支えられているものが多い。また、通りの始点に聖母マリア像が収められているのも中世の通りの特徴だ。

「サント・ステファノとメルカンツィア」はサント・ステファノ広場を取り囲む13~14世紀の建造物群を登録したものだ。サント・ステファノ聖堂を底辺に三角形に広がる広場で、地面には小石が敷き詰められている。周辺には中世あるいはルネサンスの美しい宮殿や邸宅が立ち並び、大きなアーチを描く優雅なポルティコが連なっている。ポルティコを支える石柱は円柱や角柱とデザインはさまざまで、コリント式やコンポジット式を模した柱も見られ、全体として歩行者が通行できるアーケードとなっている。一部のポルティコの下部には道路とポルティコを区切る壁が見られ、通路を保護するだけでなく、地下まで伸びて地下室の擁壁となっていた。ボローニャ市民にもっとも愛された広場のひとつであり、ポルティコは市場やカフェなどとしても使用され、交流の場となっていた。代表的な建物には、デビアンキ宮殿やベッカデッリ邸(旧・ボヴィ・タッコーニ邸)、ベッカデッリ宮殿(旧・ボヴィ・タッコーニ宮殿)、イゾラーニ宮殿、ボロニーニ・イゾラーニ宮殿、ビアンキーニ宮殿などがある。

「ガッリエーラ」はガッリエーラ通りを中心にマンツォーニ通りやサン・ジョルジョ通りの一部を含む建造物群を登録している。15~16世紀のルネサンス様式の宮殿や邸宅とポルティコが特徴で、近世ボローニャを代表する都市空間となっている。ポルティコにはルネサンスらしい均等な半円アーチが連なっており、多様な柱頭装飾を持つ円柱や角柱で支えられている。ポルティコの床の高さは一定とは限らないが、いずれもよく舗装されており、小さな階段で接続して全体としてアーケードを構成している。特徴的な建物が多く、たとえばカステッリ邸やファーヴァ宮殿はゴシック様式の要素を持ち、華麗な装飾で飾られている。ギラルディ宮殿は15世紀のボローニャを代表するルネサンス様式のポルティコで、7つのアーチで長いポルティコを構成し、植物文様やイルカ、紋章などの装飾が見られる。ふたつの通りの角に位置するコノシェンティ邸は両側にポルティコが設けられており、木製の屋根が架けられている。また、円柱と角柱を並べたデザインは後にボローニャの標準となった。モンテ宮殿はアーチの上に梁を備えたローマ建築を思わせる古典的なスタイルのポルティコで知られる。また、円柱と角柱の組み合わせが独特の雰囲気を醸し出している。これら以外に代表的な建物として、トルファニーニ宮殿、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂、カッチャルピ宮殿、フェリチーニ宮殿、ボナゾーニ宮殿などが挙げられる。

「バラッカーノ」は15世紀に築かれたバラッカーノ劇場とマドンナ・デル・バラッカーノ教会を中心とした一帯で、ボローニャ屈指のルネサンス様式のポルティコで知られる。バラッカーノ劇場はもともとマドンナ・デル・バラッカーノ教会の救貧院・孤児院・音楽院を兼ねた施設として1786年に建設されたもので、コンセルヴァトリオ・デル・バラッカーノと呼ばれていた。サント・ステファノ通り沿いに伸びるポルティコは全長100mを超え、28のアーチが連なっている。柱頭装飾はコリント式のアカンサスの葉や動物像・十字架・紋章などでさまざまに装飾されている。また、劇場とサン・ジュリアーノ教会を結ぶ二重のポルティコも特徴的だ。マドンナ・デル・バラッカーノ教会は1401~18年に建設されたルネサンス様式の建物で、16世紀にポルティコ、17世紀にドームが増築された。

「パヴァリオーネ、バンキとマッジョーレ広場」はネットゥーノ広場、エンツォ広場、マッジョーレ広場からガルヴァーニ広場までアルキジンナジオ通り沿いに連なる16世紀の建造物群を登録したものだ。ボローニャの中核といえる一帯で、エンツォ王宮、ポデスタ宮殿、アックルシオ宮殿、ノタイ宮殿、バンキ宮殿といったボローニャを代表する華麗な宮殿建築や、サン・ペトローニオ聖堂やアルキジンナジオといった歴史的な施設が立ち並んでいる。特にポルティコで名高いのがバンキ宮殿で、1412年にルネサンス様式で建設された後、1565~68に建築家ヤコポ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラによって現在見られるバンキのポルティコが取り付けられた。ポルティコには細い通りに入るためのふたつの大きなアーチを含んでおり、ルネサンスらしい等間隔のアーチに独特のリズムを加えている。また、アルキジンナジオはボローニャ大学の施設で、アントニオ・モランディの設計で1562~63年に建設された。その玄関部分がガルヴァーニ広場に面したパヴァリオーネのポルティコで、41ものアーチが立ち並んでいる。アルキジンナジオは華麗な彫刻やレリーフで飾られた中庭のロッジア(柱廊装飾)も非常に名高い。ポデスタ宮殿は1200年創建と伝わるロマネスク様式の宮殿で、15世紀にルネサンス様式で改築された。高さ47mのアレンゴ塔はボローニャのランドマークとなっているほか、南ファサードを飾るコリント式の円柱と角柱が支えるルネサンス様式のポルティコが独特の外観を演出している。背後のエンツォ王宮は1245年頃に建設された城塞のようなゴシック様式の宮殿で、重厚なロッジアが見られる。

「サン・ルカ」はボローニャ旧市街からグアルディア山のサン・ルカの聖母の聖域に続く巡礼路としてのポルティコで、建築物から独立したコロネードとなっている。17~18世紀に建設されたもので、始点となるサラゴッツァ門から全長3,796mに666のアーチが連なっている。壁の高さは3.8mで、基本的にレンガ造で一部は石造、屋根は木造でタイルが葺かれている。サラゴッツァ門からアルコ・デル・メロンチェッロ(メロンチェッロのアーチ)と呼ばれる高架橋まで1,520mは平坦だが、ここから上りに転じている。アルコ・デル・メロンチェッロはふたつの道路の交差点に架かっており、道路を妨げることなくその上を歩くことができるように設計されている。また、バロック様式でロッジアを備えており、単調なポルティコの中で荘厳さを演出している。アルコ・デル・メロンチェッロに隣接するサンタ・ソフィア・アル・メロンチェッロ教会の前でチェルトーザのポルティコと接続している。

「ウニヴェルシタとアッカデミア(大学とアカデミー)」はボローニャ大学近くのザンボーニ通り沿いに展開している17~18世紀の建造物群を登録したものだ。ボローニャ大学の施設・設備や学生街が広がる地域で、ボローニャ市立劇場のような文化施設が集中する場所でもある。そんな中でポルティコは学生たちの交流の場であり、文化を楽しむボローニャの人々の憩いの場となっていた。ボローニャ市立劇場は建築家アントニオ・ガッリ・ダ・ビビエーナの設計で1763年に建設されたバロック様式の劇場で、王室の間を含む豪壮な内装で知られる。ポルティコはフルーティング(溝)のないドーリア式の柱に支えられた12のアーチが連なっており、その上はテラスとなっている。正面のパレオッティ宮殿が現在図書館として使用されているなど大学の施設が多いこともあって正面のジュゼッペ・ベルディ広場では多くの学生がくつろいでいる。ポッジ宮殿はポッジ家のために1549~60年に建設されたルネサンス様式の宮殿だが、18世紀にはボローニャ大学の施設となった。ドーリア式の柱で支えられたポルティコと、多くの装飾で飾られた中庭のロッジアが名高い。現在はボローニャ大学の施設となっており、博物館や美術館・図書館などが入っている。

「チェルトーザ」はチェルトーザ墓地からチェルトーザ通り、ピエトロ・デ・クーベルタン通りを経てサラゴッツァ通りに至るチェルトーザのポルティコを登録したものだ。19世紀に建設されたコロネードで、全長570m・幅3.8~4.0m・高さ6.5~7.0mほどで148のアーチが連なっているが、途中のレナート・ダッラーラ・スタジアムのポルティコとアンドレア・コスタ通りの交差点で途切れている。チェルトーザ墓地の正面、リノ運河に架かるポルティコはイオニア式を模した印象的な建物で、墓地外壁のアーチへと続いている。サンタ・ソフィア・アル・メロンチェッロ教会の前でサン・ルカのポルティコと合流しているため、サラゴッツァ門やサン・ルカの聖母の聖域からポルティコを使って行き来することができる。

「カヴール、ファリーニとミンゲッティ」はファリーニ通り沿いのカヴール広場とミンゲッティ広場周辺の建造物群を登録している。特徴的なのがカヴール広場で、緑あふれるピエモンテ風の庭園の周囲をポルティコを有する資本家たちの豪華な宮殿や邸宅が取り囲んでいる。多くは19世紀に建設されたもので、新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)や歴史主義様式(ゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式といった中世以降のスタイルを復興した様式)が中心で、1861年のイタリア統一・イタリア王国成立を祝って華やかに飾られたものも少なくない。一例がバンカ・ディタリア宮殿(イタリア銀行)で、1865年に建設されたネオ・ルネサンス様式の優雅な建物で、グリフィン、ケンタウロスといった想像上の怪物や草花文様、イタリアの歴史や地理・諸都市を示す絵などで飾られている。ボットリガーリ宮殿は15世紀に建てられた宮殿で、19世紀に建築家アントニオ・ザンノーニが改築して現在の姿となった。1階に角柱によるポルティコ、2階にコリント式の円柱が並ぶロッジアを備えており、折衷主義様式(特定の様式にこだわらず複数の歴史的様式を混在させた19~20世紀の様式)の優雅な姿を見せている。これら以外に代表的な宮殿として、グイドッティ宮殿やカッサ・ディ・リスパルミオ宮殿(貯蓄銀行)、ザンベッカーリ宮殿、ピエトラメッラーラ宮殿、バンコ・ディ・ナポリ宮殿(ナポリ銀行)、アルディーニ・サングイネッティ宮殿などが挙げられる。

「ストラーダ・マッジョーレ」はポルタ・ラベニャーナ広場からポルタ・マッジョーレ広場の手前まで、マッジョーレ通り沿いの建造物群を資産としている。マッジョーレ通りはエミリア街道の一部だった場所で、古代からメインストリートとしてありつづけ、「勝利の道」「凱旋の道」と讃えられた。ボローニャ随一の建造物も多く、高さ97mのアジネッリの塔と48mのガリゼンダの塔からなるボローニャの斜塔(双塔)や、1785年に建設された新古典主義様式の宮殿でバロック・ロココ様式の華麗な内装で知られるエルコラーニ宮殿、新古典主義様式の重厚なファサードで知られるサンタ・カテリーナ教会、13世紀に築かれたボローニャの正門・マッジョーレ門など、多くの歴史的建造物が存在する。ポルティコとしては12~20世紀のものまでバリエーションは豊富で、木造から鉄筋コンクリート造まで多様なポルティコが見られる。イゾラーニ邸は13世紀半ばの建物が残る数少ない例で、高さ9mにもなる木造のポルティコがいまに伝えられている。サンタ・マリア・デイ・セルヴィ聖堂は1346年創建で、ラテン十字形のゴシック様式でおよそ100×20mという堂々たる教会堂だ。ポルティコは14世紀から拡張を続けて19世紀に現在の姿となった。コリント式を模した白いイストリア石による円柱と、赤いヴェローナ石によるアーチのコントラストは洗練されており、東にはポルティコで囲まれたセルヴィ・ディ・マリア広場が広がっている。サンティ・バルトロメオ・イ・ガエターノ聖堂は1517年に建設が開始されたルネサンス様式の教会堂で、未完成で終わった。ローマ神殿を思わせる重厚なポルティコを持ち、美しいレリーフで飾られている。

「マンボ」はボローニャ現代美術館MAMboビルと周辺の建造物群を登録したものだ。もともとMAMboの建物は1917年にパン工場としてオープンしたもので、使われなくなった産業施設を再生するプロジェクトの中で2007年にMAMboが入居した。3階建ての建物はレンガ造で、漆喰で固めて洗練された外観を演出している。ポルティコは巨大な角柱で支えられており、基本的にアーチではなく石の梁で、2か所に大きなアーチを使ってリズムを出している。このふたつのアーチが出入口で、商品の搬入・搬出に適したデザインとなっていた。

「トレノ・デッラ・バルカ」は「電車(トレノ)」と呼ばれるバルカ地区の集合住宅を示す。建築家ジュゼッペ・ヴァッカロの設計で1957~62年に建設された3階建て鉄筋コンクリート造の集合住宅で、全長約600mでわずかに湾曲している。道路に面した1階部分がポルティコで、その内側に店舗が入っており、2階以上は住宅で、中央には中庭が連なっている。ポルティコはピロティのような構造で、建物の1階部分の半分ほどを開放空間としている。また、中庭が連続することで「□□□□□」と電車の車両の連なりのような形となっている。緑の繁る中庭だけでなく周辺にも緑や公園が配されており、全体としてボローニャのポルティコをモダニズム建築で再構成したものといえる。

■構成資産

○サンタ・カテリーナとサラゴッツア

○サント・ステファノとメルカンツィア

○ガッリエーラ

○バラッカーノ

○パヴァリオーネ、バンキとマッジョーレ広場

○サン・ルカ

○ウニヴェルシタとアッカデミア(大学とアカデミー)

○チェルトーザ

○カヴール、ファリーニとミンゲッティ

○ストラーダ・マッジョーレ(マッジョーレ通り)

○マンボ(ボローニャ現代美術館MAMbo)

○トレノ・デッラ・バルカ(バルカ地区のトレノ)

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、ボローニャのポルティコが国際的に影響を与えたという主張に対し、選択された12件の構成資産がどのように価値観の交流に重要な役割を果たし、ポルティコの世界的な普及に影響を与えたかについて十分には証明されていないと評価した。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

資産を構成する一連のポルティコ群は長い歴史を持つ古都に浸透し、現代の都市の中でも重要な存在であると見なされたポルティコのシステムが選択されている。これらは古代からの起源を持ち、広く普及した建築タイプを模範的な形で示しており、今日まで放棄されずに伝えられてきた一方で、町の歴史的な変容期を通じて継続的に変化してきた。

これらの建造物群は労働者階級の住宅や貴族の邸宅、公共建築や宗教建築などに広く普及したさまざまな年代・タイプ・技術・機能を有するポルティコを網羅しており、12世紀から現代に至る数世紀の間に開発されたポルティコ建築の類型を例示的に表している。素材や様式についても種々のものが採用されたが、都市の拡大と時間の経過に伴う変化にもかかわらず、今日でも変わらず使用が続けられている。

■完全性

構成資産の12件は全体としてその顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素と機能を有しており、資産の完全性は保持されている。構成資産はその設計方針・建築素材・建築技術を特徴付ける実装ツールに関するさまざまな社会的機能を完全に表現することに成功している。

年代的な完全性について、12~21世紀のボローニャのポルティコの建設と維持の継続性を示す特徴は統合的な修復によって維持されており、それぞれの年代を網羅している。機能的な完全性について、幾世紀にもわたる都市の変容と発展を経ながらポルティコの都市における役割は保たれている。構造的な完全性についても都市と建築の両面から検証されている。

都市構造は全体として元のレイアウトを維持しており、構成資産のポルティコにおいても容易に確認することができる。何世紀にもわたって修復や改修が行われてきたが、元の構造の特徴を識別することができる。おおよそにおいて、国や地域・地方の保護法で構成されるイタリアの現行法は時に別々の要素として、時により大きな全体の一部として、ポルティコの適切な保存と強化に貢献しており、視覚的な完全性の維持に貢献している。また、完全性を損なうような圧力を受けた形跡もない。

■真正性

構成資産のそれぞれの要素に関する真正性は歴史的な図像・絵画・彫刻・デザイン図面および実際の形状とデザイン・建設技術・素材、時にはデザイナーに関する知見を増やす多くの古い写真によって検証することができる。こうした膨大な記録遺産は、ボローニャが時とともに変化する都市に対応してつねに新しいポルティコを創造し、それらを有する地域を開発してきた事実を示している。こうした過去の並外れた対応は全体のシステムにおける構成資産の役割を確認し、その特徴とともに資産の普遍的価値にどのように貢献しているかを示している。

12の構成資産からなるポルティコ・システムはそれぞれのオリジナルのレイアウトを完全に確認することができる。資産内における物理的な証拠は今日においても都市開発の各段階に忠実に対応している。さらに、現在見られるポルティコ群はオリジナルのプロジェクトに忠実で同じ特徴を維持しているため、修復が必要である場合も真正性を保持することができている。主に石材のように耐久性のある素材を巧みに使用することで何世紀にもわたって建築の保存が可能となった。こうしたアプローチによって資産に選ばれたほとんどのポルティコは並外れた保存状態が保証された。ただ、ボローニャは第2次世界大戦中にイタリアでもっとも爆撃の被害を受けた都市のひとつであり、本来の真正性を維持しながらも大規模な修復作業が実施された。

真正性は機能面においてもつねに維持されている。1288年に制定された法律のためにポルティコは13世紀の終わりから今日まで維持されることになった。私有地であるにもかかわらず、屋根付きのポルティコのエリアの公共的機能は何世紀にもわたって保たれている。ポルティコは周囲の公共空間と、ポルティコを有する建物の双方に所属する建造物であり、私有地と公有地の官民管理システムは何世紀にもわたって引き継がれ、実施されている。

こうした特徴は社会生活や人間関係・交流のための卓越した場所としてポルティコがコミュニティにとっていまなお有する重要性によって、精神と印象の真正性に反映されている。

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