ヒエラポリス-パムッカレ

Hierapolis-Pamukkale

  • トルコ
  • 登録年:1988年
  • 登録基準:複合遺産(iii)(iv)(vii)
  • 資産面積:1,077ha
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、パムッカレの石灰華段丘
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、パムッカレの石灰華段丘
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、パムッカレの美しい石灰棚
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、パムッカレの美しい石灰棚
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、パムッカレの石灰棚。外側にはつらら石が垂れ下がっている
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、パムッカレの石灰棚。外側にはつらら石が垂れ下がっている
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、ヒエラポリスのテアトルム
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、ヒエラポリスのテアトルム
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、ヒエラポリスのフロンティヌス門
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、ヒエラポリスのフロンティヌス門
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、遺跡が沈んでいるアンティーク・プール
世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」、遺跡が沈んでいるアンティーク・プール (C) José Luiz Bernardes Ribeiro / CC BY-SA 3.0

■世界遺産概要

アナトリア半島西部・エーゲ海地方のデニズリ県に連なるチョケレス山脈の麓に位置するパムッカレはトルコ語で「綿の城」を意味し、白い石灰棚が連なる石灰華段丘の美しいカルスト地形(石灰岩などが溶食されてできる地形)で知られる。温泉の効能から紀元前の時代から湯治場として利用され、紀元前2世紀ほどから温泉都市ヒエラポリスとして繁栄した。

○資産の歴史

アナトリア半島はヒマラヤ山脈からアルプス山脈にかけて伸びているアルプス=ヒマラヤ造山帯に属し、中生代(2億5,000万〜6,600万年前)に海底で造り出された石灰岩層が約6,000万年前にはじまった造山運動の影響で隆起したと考えられている。炭酸カルシウムを主とした石灰岩層は水に溶けやすく、パムッカレの地下には過飽和状態まで石灰分を溶かし込んだ地下水が流れている。チュルクス平野から100~200mほど駆け上がったパムッカレの丘には水温35~100度ほどの温泉(カルスト泉)が17か所から湧き出しており、320mほど移動してこの丘を流れ落ちている。

空気に触れたり冷やされる過程で溶けていた石灰分は炭酸カルシウムとして沈殿する。これが「石灰華」で、石灰華が積もった沈殿岩を「トラヴァーチン」という。石灰華は最初、柔らかいゲル状の物質で、岩肌や底に堆積して白い層を作り出す。柔らかい内は容易に崩れて分散するが、水の流れが少ない壁際などに堆積して厚い層となり、やがて流れをせき止めてトラヴァーチンのプールを形成する。プールの底が水流で削られるのに対し、壁面は石灰華が覆い重なって大きな石灰棚へと成長する。棚の外側では水滴から沈殿した石灰華がつららのように垂れ下がってつらら石となり、下に落ちた水滴からも少しずつ盛り上がって石筍(せきじゅん)を形成する。両者が結び付いて石柱となり、カーテンのような石幕や滝のような石滝に発達する。

パムッカレの丘は約6kmほど伸びているが、石灰華段丘はこのうち全長2,500m・幅500mほどを占め、高さ1〜6mの石灰棚が100以上も連なっている。これらは現在も成長を続けており、平均年1mmほどずつ石灰華の層が厚みを増している。

パムッカレでは4つの主な水源から平均35度の温泉が毎秒25リットルほど湧き出している。温泉に浸かったり飲んだりすることの効能は古代から知られており、数千年前から治療目的で利用されていた。紀元前2世紀はじめにアッタロス朝ペルガモンがこの地を征服すると、同世紀後半にはペルガモン王エウメネス2世が都市として整備したという。この都市は、ペルガモンの伝説上の創始者であるテレポスの妻であり、女性部族アマゾンの女王ヒエラの名前にちなんでヒエラポリスと名付けられた。

アッタロス朝最後の王アッタロス3世の時代には後継者となる子供がおらず、紀元前133年に王国を共和政ローマに遺贈した。これに対して反乱が起きたが、共和政ローマは紀元前129年に鎮圧して版図に収めた。ヒエラポリスにはやがて羊毛や織物といった産業が生まれ、交易都市としての役割も果たすようになり、ローマ人やアナトリア人、ギリシア人、ユダヤ人といった多彩な民族が暮らすアナトリアの主要都市となった。

キリスト教は1世紀に伝わり、使徒パウロの影響で最初の教会堂が建設されたとされる。この地で生涯を閉じたのがイエスの十二使徒のひとりであるフィリポで、80年代にローマ皇帝ドミティアヌスの命で逆さ十字に張り付けられて処刑されたと伝わっている。その跡地に建てられたのがフィリポのマルティリウム(記念礼拝堂)で、ヒエラポリスはキリスト教の聖地としても巡礼者を集めるようになった。

西暦17年と60年に大地震がヒエラポリスを襲った。現在見られる都市遺跡はほとんどこの後に築かれたもので、特に2世紀はじめに皇帝ハドリアヌスが大規模な都市を建設し、2世紀後半~3世紀にかけてセプティミウス・セウェルスが改装しておおよそ完成した。3世紀はじめに見事な都市を目にしたカラカラがヒエラポリスに帝国の聖域としてネオコロスの称号を与えると、都市はさらに発展し、人口は10万人を超えて最盛期を迎えた。

313年のミラノ勅令でキリスト教が公認され、380年に国教となり、392年にキリスト教以外の宗教が禁止される過程でキリスト教の聖地として整備され、神殿は閉鎖された。395年に東西ローマ帝国が分裂してビザンツ帝国(東ローマ帝国)の版図に入ると、ヒエラポリスには司教座が置かれてアナトリアの中心的な司教都市となり、6世紀にはユスティニアヌス1世によって大司教区に昇格した。

7世紀、ヒエラポリスはササン朝ペルシアに侵略され、さらに大地震によって壊滅的な被害を受けてほとんど放棄された。12世紀にルーム・セルジューク朝の下で町として再興されたが、1354年の大地震で完全に放棄された。

○資産の内容

世界遺産の資産としては、パムッカレの石灰華段丘とヒエラポリスの都市遺跡に加えてその周辺が広く登録されている。

ヒエラポリスの都市遺跡は南から北に伸びる石灰華段丘の上、東側一帯に広がっており、かつては石灰華段丘が広がる西面を除いた三方を市壁に囲われていた。南北をメインストリートである全長約1kmのフロンティヌス通りが貫いており、城壁の北にフロンティヌス門(北門)、南に南フロンティヌス門(南門)が設けられた。門は時代によって増改築が行われ、ビザンツ時代には内側に北ビザンツ門・南ビザンツ門が設置された。

町はアクロポリス(都市の中心となる丘)のアゴラ(公共広場)を中心に展開し、アゴラの周辺には神殿が立ち並んでいた。この場所はローマ時代以前から祀られており、アナトリアで広く信仰されていた太陽神レアベノスや大地の女神キュベレなどに捧げられた聖域だったようだ。ローマ時代に築かれた中心的な神殿がアポロン神殿で、太陽神アポロンを中心に月の女神アルテミスやキュベレなどが祀られていた。アポロン神殿の地下はプルートニオンと呼ばれる冥界の王プルート(ギリシア神話ではハデス)の聖域で、有毒ガスを噴出する地下洞窟が冥界に通じていると考えられていた。ニンファエウムは泉の妖精ニンフの聖域で、キリスト教が普及した4世紀にアポロン神殿とプルートニオンが閉鎖されたのに対し、ニンファエウムは噴水庭園としてビザンツ時代まで稼働していた。ビザンツ時代には神殿群の南やアゴラの北にバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)が建設され、教会堂として使用された。

神殿群の西、現在ヒエラポリス博物館がある場所がかつての南大浴場で、アゴラの北には北大浴場があった。現在、大浴場跡の東にあるアンティーク・プールはもともとクレオパトラ(クレオパトラ7世)が浸かったと伝わる温泉だったが、692年の大地震で温泉が破壊され、湯が遺跡に流れ込んで遺跡プールが誕生したという。

東門近くに位置するのがテアトルム(ローマ劇場)だ。ハドリアヌスが2世紀はじめに築いたとされる劇場で、セプティミウス・セウェルスが206年頃に完成させた。ファサード(正面)は全長90mほどで、3階建てのスカエナエ・フロンス(テアトルムの舞台背景の壁)があり、半円形の客席は約15,000人を収容した。市壁を出た北側にもう1基、テアトルム跡が残されている。これ以外にも城内にはギムナシオン(屋内競技場・体育館)やラトリナ(公共トイレ)、貯水槽をはじめ数々の遺構が残されている。

市壁の北東にたたずんでいるのが聖フィリポのマルティリウムだ。フィリポが処刑されたと伝わる場所で、これを記念してビザンツ時代に大理石パネルとモザイクで覆われた直径20mほどの八角形ドームを持つ方形の礼拝堂が建設された。近くにフィリポの墓があると考えられおり、候補地もあるが、決定的な証拠は見つかっていない。

市壁の外、北から東にかけて約2kmの範囲に死者の町=ネクロポリスが広がっている。ヘレニズム時代(紀元前323~前30年)からビザンツ時代まで1,200ほどの墓があり、庶民の石灰岩製のシンプルな墓から大理石製で碑文やレリーフ・壁画で飾られた貴族のものまで多彩な墓がそろっている。こうした建築や装飾・副葬品などは当時の生活の様子やその思想・宗教・技術を明らかにするきわめて貴重な史料となっている。

ヒエラポリスやパムッカレから丘の下の村々には数々の水路が築かれており、古代からその水は飲料水や農業用水などさまざまな用途に使用された。一例が織物業で、羊毛から糸を作り、織物を織るさまざまな工程で活用された。

■構成資産

○ヒエラポリス-パムッカレ

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(ix)「生態学的・生物学的に重要な生態系」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

卓越した自然環境を背景に築かれたヒエラポリスはギリシア・ローマ時代の温泉施設の際立った例である。温泉の治療効果を求めて巨大な温泉や水泳用プールをはじめさまざまな温泉施設が建設された。こうした湯治は地域の信仰に根ざした宗教的習慣を伴っており、クトニオス(ギリシア神話の大地の神々)を祀るアポロン神殿は地質学的な断層の上に建設され、地下からは有害なガスが漏れ出していた。セプティミウス・セウェルスの時代に完成したテアトルムは儀式のための行列やエフェソス(世界遺産)のアルテミス神殿に捧げられる供物を描いた見事なレリーフで飾られている。また、ネクロポリスは2km以上にわたって広がっており、ギリシア・ローマ時代の葬儀を広大なパノラマの中で表現している。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

4~6世紀に建てられたヒエラポリスのキリスト教関連のモニュメントは大聖堂や教会堂・洗礼堂をはじめ初期キリスト教のきわめてすぐれた建築を伝えている。中でも重要な建物は市壁の外側、北西部に築かれた聖フィリポのマルティリウムで、象徴的な階段を上った先にある八角形を中心とした建築はそのユニークな空間構成で際立っている。全体は正方形でポルティコ(列柱廊玄関)が付いており、中央の八角形のホールから放射状に伸びた空間には礼拝堂などとして使用されていた長方形や三角形・多角形の部屋が連なっている。

○登録基準(vii)=類まれな自然美

平野を見下ろす高さ約200mの丘に立つパムッカレでは温泉から湧き出す石灰分を含んだ温水が視覚的に見事な景観を作り出している。多量のミネラル分を含んだ水が鍾乳石や石化した滝、最大で高さ6mに達する石灰棚や、石灰棚が並ぶ階段状のテラスを形成しており、炭酸カルシウムの新しい沈殿物層がこれらをまばゆいばかりに白く覆っている。トルコ語で「綿の城」を意味する「パムッカレ」という名称はこの印象的な風景に由来している。

■完全性

本遺産では、純白のトラヴァーチンが堆積した石灰華段丘と多数の温泉を中心とした自然の景観と、テアトルムとネクロポリスを筆頭にギリシア・ローマ・ビザンツ時代の都市遺跡を主とした文化の側面が、強力かつ緊密に結び付いている。資産はほぼ手付かずであり、顕著な普遍的価値を表現するために必要な様子をすべて含み、範囲は資産の重要性を反映していて適切である。

遺跡の完全性に対する主な脅威は、地域経済にとって非常に重要な経済資源である外国人観光客の多さにある。温泉源が地震の影響で小さな池を形成したアゴラ付近の遺跡プールでは何千人もの観光客が古代の柱や大理石の周辺を泳ぐことができる。これにより遺跡は生物学的汚染や大理石の溶食の脅威に絶えずさらされており、破壊が懸念される。関係当局はこの問題を管理するために監視システムの導入を計画している。

■真正性

資産のほとんどの場所に近代的な建物が存在せず、遺跡のモニュメントを容易に鑑賞することができる。たとえばテアトルムでは数千人が参加する公演が開催されている一方で、遺跡の発掘や修復作業は現在も継続して行われている。テアトルムのスカエナエ・フロンス、ギムナシオン、聖フィリポ教会のテンプロン(障壁)をはじめとするすべての修復プロジェクトはアテネ憲章やヴェネツィア憲章におけるアナスティローシスの原則に基づいており、資産の記念碑的・考古学的遺跡は配置・形状・素材といった点で顕著な普遍的価値を真正かつ信頼できる形で表現している。こうした形で北ネクロポリスのマウソレウム(廟)とトリポリス通り、南東のローマ時代の門から石灰華段丘までの市壁、ドミティアヌス門の東に位置するラトリナ、列柱通り、ギムナシオンなどが修復された。また、地震の被害を受けた大浴場の構造は適切に補強されている。

■関連サイト

■関連記事