サンマリノ歴史地区とティターノ山

San Marino Historic Centre and Mount Titano

  • サンマリノ
  • 登録年:2008年
  • 登録基準:文化遺産(iii)
  • 資産面積:55ha
  • バッファー・ゾーン:167ha
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サンマリノの街並み。左手前がグアイダ塔、その奥がチェスタ塔、さらに奥がモンターレ塔
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サンマリノの街並み。左手前がグアイダ塔、その奥がチェスタ塔、さらに奥がモンターレ塔
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、チェスタ塔から眺めたグアイダ塔
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、チェスタ塔から眺めたグアイダ塔
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、グアイダ塔から眺めたチェスタ塔
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、グアイダ塔から眺めたチェスタ塔
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サンマリノ政庁の自由広場
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サンマリノ政庁の自由広場
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サン・フランチェスコ門
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サン・フランチェスコ門
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サンマリノ大聖堂
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サンマリノ大聖堂 (C) Przemysław Jahr / Wikimedia Commons
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サンマリノ共和国の国旗
世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」、サンマリノ共和国の国旗。3基の塔はグアイダ、チェスタ、モンターレで、文字は "LIBERTAS" で自由を表している

■世界遺産概要

サンマリノは世界でもっとも古い共和国であり、現存する唯一のイタリア都市国家だ。グアイダ、チェスタ、モンターレの3基の塔を中心に標高739mのティターノ山の断崖を利用して堅固な城郭都市を築き上げ、1,700年にわたる独立を勝ち抜いた。

○資産の歴史

伝説によると、ダルマチア海岸ラブ島出身の石工職人マリノは敬虔なキリスト教徒で、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによる弾圧から逃れるためにイタリアのリミニに渡り、さらに301年にリミニを見下ろすティターノ山に登って町を切り拓いたという。こうして誕生したのが聖(サン)なるマリノの町=サンマリノで、聖マリノが築いた礼拝堂の場所に立ち、彼の聖遺物を収めているのがサンマリノ大聖堂だ。サンマリノが記録に登場するのは6世紀はじめで、山上に小さな修道院がたたずんでいたという。885年にはキリスト教コミュニティが成立しており、951年頃に教区に指定された。ただ、10世紀以前については建造物など目に見える証拠は残されていない。

サンマリノの独立性は1296年に書かれた文書に示されており、ティターノ山頂周辺は修道院を中心とする宗教自治区となっていた。山の頂には要塞を兼ねたグアイダ塔が立っており、周囲は城壁で囲われていた。この頃、山麓ではボルゴ・マッジョーレの市場町が築かれ、山頂とともに発達した。サンマリノは当初から元首を置かない僧院共同体によって運営されていたようで、11世紀頃から選挙で選ばれた「アレンゴ」と呼ばれる議会が代表者である執政官を選出した。この執政官もふたりおり、任期を6か月に限定して独裁を防いだ。

13~14世紀にかけて、城壁の北に展開していた教区を取り込んで第2の城壁が張り巡らされた。この過程でグアイダ塔の南の峰に第2塔チェスタ、さらに南に第3塔モンターレが建設された。また、1360年代にフランシスコ会がサン・フランチェスコ修道院を創設し、付属教会堂としてサン・フランチェスコ教会を設置した。15世紀半ばには3つの門を持つ第3の城壁が建設され、都市は西に大きく拡張された。このエリアには有力貴族の邸宅が数多く建てられた。城壁は16世紀に補強され、1549年・1559年にふたつの堡塁が増設された。16世紀にはボルゴ・マッジョーレにサンタ・キアラ修道院が築かれている。

この時代、サンマリノはリミニやウルビーノ(世界遺産)、モンテフェルトロ、教皇庁といったさまざまな勢力から狙われていた。1460~63年にリミニのマラテスタ家による侵攻を受けるが、これを撃退。逆に教皇ピオ2世からドマニャーノ、フィオレンティーノ、モンテジャルディーノ、セラヴァッレといった地区を与えられて領域を山の周辺にまで拡大した(以来、現在まで国境はほとんど変わっていない)。1503年には教皇アレクサンデル6世の息のかかったチェーザレ・ボルジアに占領され、1543年には教皇ユリウス3世の甥にあたるファビアーノが襲来した。こうした危機を乗り越えて、サンマリノは1602年に教皇クレメンス8世と保護条約を結び、1631年には教皇ウルバヌス8世によってサンマリノ共和国としての独立を正式に認められた。これは教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)の対立や、領土拡大を目指す教皇や諸侯・都市の思惑を活用した外交戦略の大きな成果だった。しかし、それでも1739年にラヴェンナ(世界遺産)の アルベロニ枢機卿によって包囲され、教皇領に入るよう脅迫を受けた。しかし、これは自らの勢力拡大を図る裏切りであるとして教皇クレメンス12世は枢機卿を解任し、サンマリノの独立を確認した。

1796年、イタリアをオーストリアによる支配から解放するためにフランスのナポレオンがイタリア遠征を開始。チザルピナ共和国やイタリア共和国の建国を経て1805年にイタリア王国を成立させ、自ら王位に就いた。独立を貫くサンマリノに感銘を受けたナポレオンは土地や武器の提供を申し出たが、サンマリノは中立・独立を掲げてこれを断ったという。ナポレオン失脚後、1815年のウィーン会議でイタリア王国は否定されたが、サンマリノの独立は確認された。

ナポレオン後のイタリアではサルデーニャ王国を中心としたイタリア統一運動リソルジメントが起こり、ガリバルディらの活躍もあって1861年に統一に成功して改めてイタリア王国が誕生する。サンマリノは教皇国家の独立を目指す教皇庁との結び付きが強かったが、多くの難民とともに一時ガリバルディをかくまったため、トスカーナ大公国を中心とした教皇軍の攻撃を受けた。結局1862年にサンマリノの独立維持が認められ、イタリア王国と友好条約を締結した。第1次世界大戦、第2次世界大戦でもサンマリノは中立を宣言。1944年にナチス=ドイツの侵攻を受けたが、これにも耐え抜いた。

サンマリノは伝説上の301年9月3日の独立から現在まで、ほとんどの期間、独立を貫いた。自由を何よりも尊重して中立を掲げ、大国に媚びることはなかった。自由広場に掲げられた自由の女神像や国旗に書かれた "LIBERTAS" はまさにその象徴なのだ。

○資産の内容

世界遺産の資産としてはティターノ山の一帯が地域で登録されている。

サンマリノの代表的な建造物として、まずグアイダ塔、チェスタ塔、モンターレ塔と三重の城壁・城門が挙げられる。3基の塔は3つの峰に築かれており、稜線に沿って城壁が連なっている。グアイダ塔はロッカ塔あるいはプリマ塔(第一塔)とも呼ばれる塔で、創建は11世紀にさかのぼるとされ、15~17世紀に増改築が進んで現在見られる要塞建築となった。規模的には塔というより城塞や要塞で、城壁や鐘楼、サンタ・バルバラ礼拝堂、刑務所跡など多くの施設を含んでいる。チェスタ塔はフラッタ塔あるいはセコンダ塔(第二塔)とも呼ばれる塔で、ティターノ山頂に位置している。ローマ時代から見張りの塔があったとされる場所で、13世紀に本格的な塔の建設が進められ、15~16世紀にほぼ完成した。モンターレ塔あるいはテルツァ塔(第三塔)は比較的小さな塔で、14世紀にふたつの塔と結び付いた要塞システムに加えられた。

「バシリカ・ディ・サンマリノ」と呼ばれるサンマリノ大聖堂はコリント式のポルティコ(列柱廊玄関)を備えたギリシア・ローマ神殿を思わせる新古典主義様式の教会堂だ。創建は聖マリノによる4世紀にさかのぼるとされ、現在の建物は1826~38年に建設された。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊の上下に側廊を設けた様式)の教会堂で、聖遺物として聖マリノの遺骨を収めている。大聖堂の東に隣接したサン・ピエトロ教会は17世紀に築かれた教会堂で、その名の通りイエスの十二使徒のひとりである使徒ペトロに捧げられている。特に彫刻家エンリコ・サロルディによるペトロ像や大理石製の祭壇が名高い。サン・フランチェスコ教会は14世紀後半に建設がはじまり1400年頃に完成した教会堂で、サンマリノの現存最古の教会堂とされる。ロマネスク様式のバシリカ式・単廊式で、バラ窓は17世紀以降に設置された。隣接のサン・フランチェスコ門は同時期に築かれた門塔で、見張り塔や衛兵の詰所としても機能していた。サンタ・キアラ修道院は16世紀後半の創設で、修道院教会は1707年に復元されている。

自由広場にたたずむゴシック・リバイバル様式のサンマリノ政庁はプッブリコ宮殿とも呼ばれる建物で、1884~94年に建築家フランチェスコ・アズーリがゴシック様式の旧市庁舎を模して建設した。屋根に胸壁(凹部と凸部が並ぶ防御用の壁)を持つ城塞のような造りで、市庁舎・州議会・国会議事堂などを兼ねたサンマリノの行政・立法の中枢となっている。正面の自由広場にたたずむ自由の女神像は彫刻家ステファノ・ガレッティによる1876年の作品だ。自由広場を挟んだ反対側に立つパルヴァ・ドムス(小政庁)は14世紀に築かれたロマネスク様式の建物で、サンマリノの最初の公共建築ともいわれ、現在も庁舎として使用されている。ティターノ劇場はピエトロ・ギネッリの設計で1750~73年に建設された260席を持つ劇場だ。

■構成資産

○サンマリノ歴史地区とティターノ山

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(iv)「人類史的に重要な建造物や景観」と(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていた。しかし、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は(iv)について、イタリア唯一の現存する主権都市国家で歴史的な構造や建築を引き継いでいるとの主張に対し、非物質的な側面に基づく主張であり、物質的な価値は証明されていないとした。また(vi)について、芸術・文学作品や自由・独立といった文化的・政治的思想との結び付きを主張したが、関連が明確ではなく、また(iii)で説明されているとして価値を認めなかった。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

サンマリノ歴史地区とティターノ山は13世紀以来、共和国の首都としてありつづけ、途切れることなく発展して独創的な町を築き上げ、市民の自治と自由に基づいて民主主義を確立した。サンマリノは700年以上にわたって継続している生きた文化的伝統の稀有な証拠である。

■完全性

資産には都市構造や建築・城壁・広場・環境など顕著な普遍的価値を構成する要素がすべて含まれている。歴史地区はサンマリノ共和国の首都として行政的・制度的な役割が途切れることなく続いているため、機能的・視覚的・歴史的完全性を高いレベルで維持している。歴史地区は1930年代以降、大きな介入を受けておらず、建物やオープンスペースは良好な状態で保たれている。ただ、バッファー・ゾーンについて現代的な住宅開発が進んでおり、より強力な管理体制が必要である。

■真正性

サンマリノ共和国の領土は1463年以来、変化しておらず、地政学的環境を維持しており、歴史地区についても共和国の首都としての機能・用途・位置・環境・都市構造を保っている。公共的な建物の大半は600年前から同様で、ティターノ山の景観もほぼ変化していない。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて多くの建造物の復元や修復が進められ、特に1925~40年にはジーノ・ツァーニの指揮下で3基の塔や城壁、サン・フランチェスコ教会、ティターノ劇場などが修復された。これらは歴史地区の中世化というロマン主義運動に由来するもので、サンマリノの国家的アイデンティティの表現と考えることができる。

1930年代以降、歴史地区は大きな介入を受けておらず、数々の法律の保護下にあり、良好な状態を保っている。ただ、建造物や周囲の景観の保護に関してはより具体的な法律が望まれる。

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