リヴィウ歴史地区

L'viv – the Ensemble of the Historic Centre

  • ウクライナ
  • 登録年:1998年、2008年軽微な変更、2023年危機遺産登録
  • 登録基準:文化遺産(ii)(v)
  • 資産面積:120ha
  • バッファー・ゾーン:2,441ha
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、奥の山がムソキー・ザモック、その手前の左の塔がドミニコ教会、右がウスペンスキー教会
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、奥の山がムソキー・ザモック、その手前の左の塔がドミニコ教会、右がウスペンスキー教会
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、リヴィウ市庁舎の時計塔から東側を眺める。中央左がドミニコ教会、右がウスペンスキー教会、下のタウンハウスの左から2番目の黒い建物がブラック・ハウス、そのふたつ右の緑色の屋根がコルニャクト宮殿、右端がルボミルスキー宮殿
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、リヴィウ市庁舎の時計塔から東側を眺める。中央左がドミニコ教会、右がウスペンスキー教会、下のタウンハウスの左から2番目の黒い建物がブラック・ハウス、そのふたつ右の緑色の屋根がコルニャクト宮殿、右端がルボミルスキー宮殿
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、リヴィウ市庁舎の時計塔から見たラテン大聖堂
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、リヴィウ市庁舎の時計塔から見たラテン大聖堂
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、中央が聖ユーラ大聖堂、右手前がメトロポリタン宮殿
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、中央が聖ユーラ大聖堂、右手前がメトロポリタン宮殿 (C) Fed4ev
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、聖パラスケヴァ教会のイコノスタシス
世界遺産「リヴィウ歴史地区」、聖パラスケヴァ教会のイコノスタシス (C) Ivan Sedlovskyi

■世界遺産概要

リヴィウはウクライナ西部の主要都市で、古来、ポーランドやリトアニア、スウェーデン、オスマン帝国、オーストリア、ソ連などさまざまな大国の支配を受け、東西ヨーロッパの文化が融合した。その結果、歴史地区はビザンツ、アルメニア、ロシア、ルネサンス、バロック、コロロ、セセッション、アール・ヌーヴォーといった種々の芸術様式が混在する美しい街並みを生み出した。なお、本遺産はバッファー・ゾーンの修正に伴い、2008年に軽微な範囲変更が認められている。

○資産の歴史

リヴィウは5世紀半ばにバルト海と地中海、中央ヨーロッパとアジアを結ぶスラヴ人の交易都市として発達した。9~10世紀にモラヴィア王国の主要都市となり、10世紀末にキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の支配を受け、11世紀はじめにはポーランド公国に征服された。13世紀にハールィチ・ヴォルィーニ大公国の大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチが息子レーヴにちなんで「リヴィウ」と命名。13世紀にモンゴル帝国の侵攻を受けて破壊されるが、レーヴはリヴィウを再興して首都として整備した。

14世紀にポーランド王国とリトアニア大公国の争いに巻き込まれ(ハールィチ・ヴォルィーニ戦争)、国土は両国によって分割されてリヴィウはリトアニア大公国の下に入った。14世紀にポーランドのカシミール3世がリヴィウを占領し、ポーランド人の入植を進めてローマ・カトリック化を図った。カシミール3世の死後、ハンガリー王ルイ1世がポーランド王を継承してリヴィウを治めた。この後、ポーランドとリトアニアはたびたび合同・同盟を繰り返し、1569年にポーランド=リトアニア連合王国が成立する。

この頃、リヴィウは東西ヨーロッパのハブとして重要視され、堅固な城壁や要塞が築かれた。ヨーロッパ各地の民族が暮らす国際都市で、宗教的にもローマ・カトリックのラテン大聖堂、正教会の聖ユーラ大聖堂、アルメニア教会のアルメニア大聖堂と3つの司教座が集中し、16世紀にはプロテスタントの勢力も進出した。ただ、17世紀にオスマン帝国の侵略を受けて町は荒廃した。

ロシア、プロイセン、オーストリアという3国の「国王たちの菓子」といわれたポーランド=リトアニアは1772年、1793年、1795年の3度にわたるポーランド分割を受けて消滅する。リヴィウは第1回ポーランド分割でオーストリア領となり、ハプスブルク家の支配下に入った。この過程でドイツ化政策が進められ、ドイツ語の公用語化やバロック建築による街の整備が行われた。

第1次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、ロシアから独立したポーランド共和国と独立を目指すウクライナの間で戦闘が起こるが、ポーランドがこれを鎮圧。第2次世界大戦でポーランドはナチス=ドイツとソ連で分割され、リヴィウはソ連に吸収された。ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人が去った戦後、リヴィウのロシア化が進められた。1991年にウクライナが独立すると、リヴィウはウクライナ西部の主要都市となり、リヴィウ州の州都に指定された。

リヴィウの都市レイアウトや建築には上記のような複雑な歴史が反映されている。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は2件で、「ムソキー・ザモックとピザムチェ、セレドミスティア」と「聖ユーラ大聖堂/聖ゲオルギオス聖堂の建造物群」となっている。

13世紀頃から城塞が築かれ、長らくリヴィウの防衛拠点となっていたのが「高い城」を意味するムソキー・ザモックだ。当初は木造の城が立っていたが、14世紀に燃やされた後、石造化が進められ、以後は再建と破壊を繰り返した。18世紀後半にオーストリアによって解体され、19世紀に公園として整備された。現在も城壁が残さされている。

「城の周り」を意味するピザムチェはムソキー・ザモックの麓にあたる場所で、リヴィウでもっとも長い歴史を持ち、13~14世紀に創建されたこぢんまりとした教会堂が数多く残されている。聖ニコラス教会はこの時期に築かれたリヴィウ最古級の教会堂で、少なくとも1292年にはこの地に立っていたようだ。「+」形のギリシア十字形・独立十字式(フリー・スタンディング・クロス式)の教会堂で、十字形の交差部にあたる交差廊と東の内陣に扁平なドームを頂いている。ビザンツ様式に重厚なロマネスク様式と地元の伝統的なデザインを加えた独特のスタイルを特徴とする。内装は比較的新しく、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)などは20世紀の作品だが、イコン(聖像)は17世紀のものが伝えられている。聖オヌフリウス修道院も13世紀創設と見られる修道院で、17世紀にオスマン帝国に破壊されてバロック様式で再建された。修道院教会はギリシア十字形・独立十字式の教会堂で、やはりバロック様式で築かれている。聖パラスケヴァ教会も13~14世紀の創建で、17世紀にロマネスク様式やゴシック様式の影響を受けつつルネサンス様式で再建された。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)の教会堂で、城壁のような厚い壁と塔のようなファサード(正面)を持つユニークなデザインとなっている。16~17世紀にリヴィウの画家や彫刻家が集まって制作された美しいイコノスタシス(身廊と至聖所を区切る聖障)は非常に名高い。

「ミドル・タウン」を意味するセレドミスティアは14世紀半ば以後に発達した地域で、近世以降のルネサンス、マニエリスム、バロック、ロココといった様式の巨大で豪奢な建造物が数多く見られる。地域の中心はリノック広場で、142×129mの長方形のさらに中心にリヴィウ市庁舎が座している。リヴィウ市庁舎は1357年頃の創建で、もともと木造だったが15~16世紀に石造化され、19世紀に塔が高さ65mを誇る現在の時計塔に建て替えられた。広場の周囲には16~18世紀にルネサンス様式やバロック様式で建設された44もの「カミヤヌイチャ」と呼ばれるタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)が連なっている。一例がルネサンス様式のブラック・ハウスやバロック様式のルボミルスキー宮殿だ。

セレドミスティアには大きな教会堂が多く、一例としてラテン大聖堂(聖母被昇天メトロポリタン大聖堂)が挙げられる。14世紀半ばにゴシック様式で創建されたローマ・カトリックの大司教区大聖堂で、18世紀にバロック様式に改装され、高さ66mの鐘楼が設置された。全長67m・幅23mほどの「†」形のラテン十字形・三廊式(身廊の両側に側廊を持つ様式)の教会堂で、ベースはゴシック様式ながら内部はフレスコ画やスタッコ(化粧漆喰)細工・彫刻・絵画といったバロック装飾で覆われている。アルメニア大聖堂(聖母被昇天アルメニア大聖堂)は14世紀後半創建のアルメニア教会の大聖堂で、17~18世紀にバロック様式で改築され、現在の鐘楼が設置された。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式の教会堂で、外観はシンプルながら内部は金色や原色を多用した極彩色の空間で、アルメニア教会らしい美しいイコンが見られる。ウスペンスキー教会(生神女就寝教会)は14世紀以前の創建と伝わるウクライナ正教会の教会堂で、現在の建物は16世紀半ばにイタリアの建築家によってルネサンス様式で建設された。ラテン十字形の三廊式の教会堂で、十字形の交差部に巨大なドームを頂いている。内部は白と金を基調とした洗練された空間で、コリント式の柱とドームが荘厳さを演出している。その外部礼拝堂である至聖三者礼拝堂とコルニャクト塔もルネサンス様式で、特に後者は高さ65.8mを誇り、リヴィウのランドマークのひとつとなっている。ベルナルディーン修道院は15世紀の創設と伝わるの修道院で、イエスの十二使徒のひとりであるアンデレに捧げられたことからかつては聖アンデレ修道院と呼ばれていた。16世紀にマニエリスム様式(後期ルネサンス様式)で再建され、18世紀に内装がバロック様式で改装された。付属のベルナルディーン教会はバシリカ式・三廊式の教会堂で、ファサードはマニエリスム様式で、内部はバロック装飾で覆われており、特に天井や壁面を覆うトロンプ・ルイユ(騙し絵)を駆使したフレスコ画が見事。聖ペトロ=パウロ教会は1610~30年創設と伝わるイエズス会の教会堂で、やはり見事なバロック様式の装飾で知られる。

もうひとつの構成資産である聖ユーラ大聖堂の建造物群はウクライナ東方カトリック教会の大聖堂を中心とした施設群で、大聖堂・鐘楼・宮殿・チャプターハウス・庭園・門壁などからなる。聖ユーラ大聖堂はドラゴン退治で知られる聖ゲオルギオスに捧げられた大聖堂で、聖ゲオルギオス大聖堂とも呼ばれる。18世紀半ばに築かれたギリシア十字形の教会堂で、ファサードはバロック様式らしく曲面をや曲線を多用し、コリント式の四角柱ピラスター(付柱。壁と一体化した柱)が貫くジャイアント・オーダー(1~2階を貫く柱を持つファサードの展開様式)で、頂部にたたずむ馬上で槍を構える聖ゲオルギオス像をはじめドラマティックな彫像の数々を掲げている。内部も同様にバロック様式やロココ様式の装飾であふれた華やかな空間となっている。メトロポリタン宮殿や鐘楼は1760年代に建設されたロココ様式の建造物で、バロック様式から新古典主義様式への過渡期の作品となっている。宮殿は大司教の在所でもあったことから大司教宮殿とも呼ばれる。庭園は当初、幾何学的なバロック庭園だったが、19世紀にイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)に改装された。

■構成資産

○ウィソキー・ザモックとピザムチェ、セレミスティア

○聖ユーラ大聖堂/聖ゲオルギオス大聖堂の建造物群

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、認められなかった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

都市レイアウトと建築・芸術において、リヴィウは東ヨーロッパの伝統とイタリアおよびドイツの伝統の融合を示す顕著な例である。ウクライナ人だけでなくアルメニア人、ドイツ人、ユダヤ人、ポーランド人、イタリア人、オーストリア人の民族遺産が見られ、建築様式では伝統的ロシア建築(ハリチナ様式)、ビザンツ、ロマネスク、ルネサンス、バロック、ロココ、アール・ヌーヴォー、セセッション、現代ウクライナなど多方面の影響が見られる。

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

リヴィウの地理的・地形的な特徴を活かした政治的・商業的な役割は、さまざまな文化的・宗教的伝統を持つ多くの民族グループを魅了し、文化や宗教・民族の多様性と相互に依存しあう特有のコミュニティを確立した。

■完全性

リヴィウ歴史地区のふたつの構成資産には顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれている。現代に引き継がれる建造物群と古い街路のレイアウトは多様な民族的・宗教的影響を受けて発展したリヴィウの歴史を反映している。

資産に対する脅威としては、過度の交通量や郊外への住民流出、不適切な開発などが挙げられる。開発については不十分な資金、モニュメントのオーナーと利用者に対する教育の欠如、既存の規制の不徹底といった多くの要因によって引き起こされている。

■真正性

資産の真正性は高いレベルで維持されており、丘・高原・河谷といった地理的な特徴を伝えている。丘の上に建設された城塞と麓に広がる城下町という伝統的な関係はそのままで、歴史地区を襲った1527年・1571年をはじめとする多数の火災にもかかわらず区画は維持され、中世の街路パターンや広場・主要教会堂・民族コミュニティといった都市構造が引き継がれている。

多くの初期住居もよく保存されており、インテリアのレイアウト、独特の素材を用いたインテリア装飾、壁画、ステンドグラス、エクステリア装飾などにおいて真正性が確認でき、また基礎の切石やエクステリアのレンガなどについても真正性は保たれている。

長い歴史の中で、特に第2次世界大戦中に都市構造のいくらかが破損した。しかし、ウクライナ・セセッション様式やモダニズム様式など後の時代に加えられた改修も既存のデザインによく溶け込んでいる。

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