オランダの水利防塞線群

Dutch Water Defence Lines

  • オランダ
  • 登録年:1996年、2021年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)(v)
  • 資産面積:54,779.02ha
  • バッファー・ゾーン:191,722.64ha
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、星形要塞都市ナールデン
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、星形要塞都市ナールデン。函館の五稜郭のモデルのひとつとされる
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、ルーヴェステイン城
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、ルーヴェステイン城 (C) Hans<AT>fotovlieger.nl
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、イスペル通り沿いの要塞
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、イスペル通り沿いの要塞。中央の土塁の裏側に鉄筋コンクリート製の建物が隠されている (C) Hanno Lans
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、スパイケルボール要塞の土塁の裏側の建物。この要塞は世界遺産「ドゥローフマーケライ・デ・ベームステル[ベームステル干拓地]」の資産内にある
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、スパイケルボール要塞の土塁の裏側の建物。この要塞は世界遺産「ドゥローフマーケライ・デ・ベームステル[ベームステル干拓地]」の資産内にある (C) Gerard Dukker, Rijksdienst voor het Cultureel Erfgoed
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、ムイデン城
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、ムイデン城
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、アイテルメール要塞
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、アイテルメール要塞
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、エイマイデン付近の沿岸要塞
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、エイマイデン付近の沿岸要塞 (C) Ad Meskens
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、パンパスの要塞
世界遺産「オランダの水利防塞線群」、パンパスの要塞 (C) Johan Bakker

■世界遺産概要

オランダの北海沿岸の主要都市を守るために1815~1940年に建設が進められた全長85kmに及ぶ新オランダ水利防塞線(ニウウェ・ホランセ・ワーターリーニー "Nieuwe Hollandse Waterlinie")と、1883~1920年にかけて首都アムステルダムを取り囲むように築かれた全長135kmのアムステルダム防塞線(ステリング・ファン・アムステルダム "Stelling van Amsterdam")を登録した世界遺産。山や谷が存在しないオランダでは海や河川・湖沼・湿地を利用し、堤防・水門・運河・干拓地と連携して機能する砦・城・砲台・堡塁・要塞・要塞都市を連ねて強力な水利防塞線(洪水線/ワーターリーニー/ウオーターライン)を敷いた。なお、本遺産は1996年にアムステルダム防塞線の城や要塞・砲台など45件を構成資産として「アムステルダムの防塞線」の名称で世界遺産リストに搭載され、2021年に新オランダ水利防塞線を加えたうえで構成資産を9件に再編し、バッファー・ゾーンを新たに設定して現在の名称に改称された。また、スパイケルボール付近の要塞、イスペル通り沿いの要塞、ミッデン通り沿いの要塞、ネッケル通り沿いの要塞、プルメレントの北要塞の5件は世界遺産「ドゥローフマーケライ・デ・ベームステル[ベームステル干拓地](オランダ)」の資産内に位置し、フェヒテン要塞などは「ローマ帝国の国境線-下ゲルマニア・リメス(オランダ/ドイツ共通)」と重複している。

○資産の歴史

海面下の土地が多いオランダでは治水と利水の観点から、そしてまた山や谷のような天然の要害が存在しないことから水の管理が何より大切で、古代から堤防や水門・水路・運河・水上要塞等が建設され、風車などの排水システムが発達した。国土の1/3を占める干拓地(海を堤防で囲み、排水して陸地化した土地)は有事の際、一帯を水で満たすことで防衛システムとしても機能した。こうした浸水システムが最初に使用されたのは16世紀のこととされる。1568~1648年のオランダ独立戦争(八十年戦争)の際にアムステルダムの東にあるムイデンやナールデンから南に延びる直線状のオランダ水利防塞線(ホランセ・ワーターリーニー)が建設され、一種の堀としてフランスに対する防衛線を形成した。1800年前後のナポレオン戦争を経て新たな防塞線の必要性が叫ばれるようになり、オランダの実質的君主であるオラニエ公ウィレム1世は1815年にプロジェクトを始動し、旧水利防塞線の東に新オランダ水利防塞線を建設した。

新オランダ水利防塞線はムイデン城やナールデンからロッテルダムの南東に広がるビースボスの湿地帯まで全長85kmに及ぶもので、旧オランダ水利防塞線には含まれていなかったユトレヒトを内側に収めるものとなった。もともとオランダでは星形要塞を応用した要塞都市が数多く築かれていたが、この水利防塞線はムイデン、ナールデン、ウエースプ、ホルクム、ワウトリヘムといった要塞都市を拠点として取り込み、最終的に46の砦や要塞を備えるものとなった。幅は3~5kmほどで、有事の際には堤防や水門を破壊し、徒歩で渡るには深すぎ、船で渡るには浅すぎる水深30〜50cm程度まで浸水させるシステムが構築された。

19世紀には隣国プロイセンの台頭から新たな防塞線の必要性が叫ばれるようになった。プロイセンは1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)、1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に大勝して大国化し、1871年にはパリ(世界遺産)のヴェルサイユ宮殿(世界遺産)でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行ってドイツ帝国を誕生させた。オランダはすでに9つの防衛システムを設けていたが、特にプロイセンに対する最後の砦として1874年にアムステルダムを取り囲む環状防塞線の建設を策定した要塞法が可決された。新たな防塞線はこれまで築き上げてきた水利防塞線や干拓地の経験が集大成された。

アムステルダム防塞線の建設は1883年に開始され、まずは土とレンガでアップカウデの要塞の建設がはじまった。しかし、新オランダ水利防塞線にあるようなレンガ造の要塞が新型の砲弾で容易に破壊されることが判明すると、コンクリート造の要塞の必要性が確認された。オランダにはコンクリートの十分な経験と技術がなかったため、建設や破壊のノウハウを手に入れるために大規模な実験が繰り返された。また、ベイルマー要塞の建設において、砂地では土地が沈み込むため数年間の期間をおいて地盤を固める必要が生じ、こうした経験も他の要塞に活かされた。試行錯誤する中で要塞の標準形が定まり、建物はおおよそ高さ4.5mで、前面1.5m・側面1.0m・屋根2.0mのコンクリートで固められ、2.0mの塁壁と堀で囲われた。また、監視塔や宿泊施設を充実させ、長期戦に対応できるよう考慮された。東部については新オランダ水利防塞線の北端の施設が転用・改築された。中にはムイデン城のように中世の城が転用される例もあった。アムステルダム港については出入口を守るためにふたつの砲台とパンパス要塞が建設された。

1920年に完成した防塞線はアムステルダム中心部から半径15kmほどに全長135kmの円を描いた。中心となるのは水路と干拓地で、有事の際にはふたつの水門のひとつを開いて干拓地を水で満たすものとされた。ただ、これをすると海水の塩で農地が損傷してしまうため、回復用の淡水を供給するための運河と水路が整備され、深すぎる干拓地には水が入らないように新たな堤防が設置された。そして要塞や砲台は、浸水を避けるために高い土地に築かれている道路や線路・堤防が交差する要衝に建設された。要塞間の距離は砲兵が持つ大砲の射程を参考に3.5km以内に定められた。

こうして20世紀はじめに新オランダ水利防塞線とアムステルダム防塞線を合わせて200km以上の長大な防塞線が完成した。オランダにとって防塞線は国を守る長城や堀として機能し、干拓地や風車・ポンプ場・堤防・水門・運河などとともに国を象徴する建造物となった。こうした防塞線は兵器が急速に進化した第1次世界大戦(1914~18年)や第2次世界大戦(1939~45年)には対応できず、ドイツ軍の侵入を防ぐこともできなかったが、対ドイツ防塞線であるマジノ線や塹壕戦に応用され、また鉄とコンクリートの建築技術の獲得に貢献した。また、海や河川・湖沼・湿地と調和した防塞線と関係の水利施設はオランダならではの美しい文化的景観として高く評価されている。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は9件で、この中に96の砦・城・砲台・堡塁・要塞・要塞都市・運河などが含まれている。

代表的な構成資産として、まず星形要塞都市ナールデンが挙げられる。ナールデンは17世紀に数学者であり土木技師でもあったアドレアン・アンソニスによって設計された星形要塞で、アムステルダムの東を守る防衛拠点として整備された。二重の運河・二重の城壁・6基の要塞を持つ難攻不落の要塞で、内部は直線の道路で整然と区画されており、中央に16世紀に築かれたゴシック様式の聖ヴィート教会がそびえている。

星形要塞都市ホルクムは13世紀頃から城郭都市として発展し、16世紀後半に11の要塞を有する星形要塞として再建された。1813~14年のホルクム包囲戦でフランス軍を相手に3か月間の籠城を行い、最終的に降伏したものの攻撃には耐え抜いた。その後、新オランダ水利防塞線の南の要衝として再整備された。

ホルクムに近い星形要塞都市ワウトリヘムは14世紀に城郭都市となり、16世紀にナールデンを築いたアドレアン・アンソニスによって再設計された。星形の堀に守られているが、北と東は自然の川が天然の堀となっている。すぐ東に立つルーヴェステイン城は14世紀半ばに築かれた城で、城塞を取り囲む二重の運河と5基の要塞は16世紀に拡張されたものだ。いずれも19世紀はじめに新オランダ水利防塞線の拠点としてその一部に組み込まれた。

ティール浸水運河は19世紀に新オランダ水利防塞線の南東約20kmほどに築かれた運河で、ワール川とリンゲ川を約3kmの運河で結んでいる。有事の際、防塞線の南東において十分な水が確保できないとの調査結果に対し、浸水を十分なものにするために建設された。このさらに40kmほど東、ドイツ国境近くに建設されたパンネルデン運河とパンネルデン要塞も同様の目的で築かれている。

ムイデン城は13世紀後半の創建と伝わるウェイデン川河口の城塞で、当初は税関を兼ねていた。現在の建物は14世紀に再建されたもので、堀に囲まれた方形の城塞の四隅に城壁塔を持ち、ファサードに巨大な城門を掲げ、堀に跳ね橋を架ける形となっている。周囲の川と運河も堀の役割を果たしており、アムステルダムを望むアイ湾に睨みを利かせている。ナポレオン戦争(1803~15年)の前後にはフランス軍の兵舎として使用され、防塞線計画ではアムステルダムの東を守る要塞として再整備された。ムイデン城の北西320mほどに位置するムイデン西砲台は15世紀の創設と見られ、1852年に現在のような塔状の砲台となった。

アイテルメール要塞はアムステルダムの南東を守る要塞で、もともとこの場所には星形要塞が存在していた。1845年にこの星形要塞の一部に現在見られるドーナツ状の塔形要塞が築かれた。直径約30mのレンガ造の2階建てで、1階は12部屋を有する兵舎で、弾薬庫なども備えていた。かつては屋根に石造の欄干があったが、砲撃に備えて取り去られ、厚い土の層が盛られた。1861年に建設されたオセンマルクト要塞も同様の形状で、こちらは直径34mを誇る。ただ、19世紀後半になると大砲の火力が上がったことでこうした高さのある建物や構造物は容易に破壊されるようになり、ムイデン城やムイデン西砲台、アイテルメール要塞のような建造物は避けられ、素材的にも鉄筋コンクリートが多用されるようになった。

新しい世代の防塞線の要塞の典型的な形が1899年に完成したシント・アーフテンデイク通り沿いの要塞や、1885~1914年に築かれたイスペル通り沿いの要塞、1889~1911年建設のスパイケルボール付近の要塞のようなタイプの要塞だ。堀に囲まれた稜堡のような形状で、中央を低くて厚い土塁で覆い、その後方の内部に鉄筋コンクリート製の建物を内蔵して敵の砲撃に備えた。外から見えないこの建物が司令室や兵舎・倉庫・キッチンなどを兼ね、籠城さえも可能にした。また、砲台も土塁の前部に隠され、砲身のみが突き出す形状となった。

エイマイデン付近の沿岸要塞は、1876年に開通したアムステルダムと北海を結ぶノールデルバイテン運河の河口付近の中州に位置する要塞で、1881~88年に建設された。周辺を堀で囲い、中央をレンガや土塁で覆った丘のような形状で、海側に5門の砲台を並べ、反対側に土塁で隠れる形でレンガ造の2階建ての建物を構え、兵舎や事務棟・倉庫とした。要衝にあるため第1次・第2次世界大戦でも大砲が設置され、ナチス=ドイツによる占領後は弾薬の保管庫として使用された。

パンパスの要塞はアイ湾に浮かぶパンパス島に築かれた要塞で、1887~95年に建設された。パンパス島は玄武岩ブロックなどを海中に投入して建設した人工島で、高さ11mの丘が築かれた。この丘を削って深さ8mの堀を築き、その内部にコンクリートとレンガを組み合わせた楕円形の要塞本棟が建設された。かつて頂部には手動で回転可能な砲台が2基備えられ、射程距離約7kmの大砲を発射した。

■構成資産

  1. オランダの水利防塞線群(アムステルダム防塞線と新オランダ水利防塞線)
  2. エイマイデン付近の沿岸要塞
  3. ヘムステーデ付近の要塞
  4. パンパス沿いの要塞
  5. ダルゲルダム前、アイ湾沿いの施設群(フールトーレンアイラント)
  6. ヴェルク4要塞
  7. ティール浸水運河
  8. ディエデルダム前、アイ湾沿いの施設群
  9. パンネルデン要塞

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

オランダの水利防塞線群は19世紀後半以降に構築された近代的なヨーロッパの防衛システムの中で手付かずで保存されている例外的な建造物群である。伝統的なシステムから進化し、第2次世界大戦に影響を与え先取りした防衛システムの連続的な変化の重要な一翼を担っている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

オランダの水利防塞線群は国土の景観的特質や物理的要素を利用したシステムであり、浸水を利用した大規模な軍事防衛システムのすぐれた例である。周囲の景観と調和した保存状態のよい防塞線群はヨーロッパの建築史、特に軍事建築の歴史の中で際立って独創的なものだ。こうした要塞群は1815~1940年にかけての軍事建築の発展を物語っており、特にアムステルダム防塞線ではレンガ造から鉄筋コンクリート造への移行が見られる。この移行はコンクリートの使用に関する実験や非鉄筋コンクリートの試用などの末に実現したものであり、ヨーロッパ建築史の中でもほとんど物理的な証拠が残されていない移行期を体現するものである。

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

オランダの水利防塞線群は景観設計と水工学におけるオランダの専門知識を示す卓越した作品群である。首都を含む行政と経済の中心地を守る防衛システムに水工学を組み込んだ稀有なシステムであり、注目に値する。

■完全性

オランダの水利防塞線群と個々の要素は完全に統合された防衛システムといえる。このシステムは第2次世界大戦以降、軍事目的では使用されておらず、1963年以降は公式には運用されていない。しかし、主要な防塞線と浸水域の要素の多くは市民的な機能を有しており、景観の中でハッキリと認識することができる。浸水域の特徴的な空間的開放感はオランダの水利防塞線群の中で軍事利用が終了した後で開発圧力が低かった地域で一体的に保持されている。都市化された地域では浸水域と主要な防塞線の視覚的一体性を保護するための政策が策定されており、そうした一体性を失った浸水域は資産に含まれていない。

浸水システムを支えていた水利施設と軍事要塞は相互に関係しており、景観的にも完全に手付かずで伝えられている。一連の砦・砲台・要塞は相互に連結された建造物群を構成しており、軍事建築の発展史の各段階を確認することができる。各要塞の周辺は何十年ものあいだ軍事的な制限区域であり、開発は管理され環境が維持されてきたが、将来的には開発圧力にさらされる可能性がある。

■真正性

オランダの水利防塞線群はいまなお一貫性のある人工的な景観であり、水や土壌といった自然の要素が人間の土木工学によって防衛システムに組み込まれ、明確に定義された軍事的景観を作り出している。軍事利用は終了したが、景観と建造物の要素はいまに引き継がれており、要塞の大部分は当初の設計・仕様の通りに保存されている。顕著な普遍的価値は設計の真正性(要塞・水門・砲台・線状の城壁の類型)、特定の建築素材(レンガ・非鉄筋コンクリート・鉄筋コンクリート)、職人の技術(細心で完璧な建築状態)、およびその環境における構造(干拓地と都市化された人工的な景観の中で相互に接続された軍事的機能的システムとして)に表現されている。

90年代以降、防塞線と個々の要素は保全・修復され、アクセスや使用が可能となり、持続可能な方法で利用されている。大規模な復元は行われていないが、教育的な目的でいくつかの要素が変更されており、変更箇所は視認できるように区別されている。多くの要塞は現在、教育的・経済的あるいは娯楽的な機能を備えている。オランダの水利防塞線群の物語は地域でさまざまなメディアを通じて伝えられつづけており、その軍事的な歴史は目に見える形で引き継がれている。

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