バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群

Historic Town of Banská Štiavnica and the Technical Monuments in its Vicinity

  • スロバキア
  • 登録年:1993年、2006年名称変更
  • 登録基準:文化遺産(iv)(v)
  • 資産面積:20,632ha
  • バッファー・ゾーン:62,128ha
世界遺産「バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群」、三位一体広場のペスト記念柱=モロヴィー・スロルプ。左奥は新城、右は聖カタリナ教会
世界遺産「バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群」、三位一体広場のペスト記念柱=モロヴィー・スロルプ。左奥は新城、右は聖カタリナ教会
世界遺産「バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群」、黄色い建物の上に見えるネオ・ルネサンス様式の建造物群が旧鉱業アカデミー
世界遺産「バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群」、黄色い建物の上に見えるネオ・ルネサンス様式の建造物群が旧鉱業アカデミー (C) DASonnenfeld
世界遺産「バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群」、カルヴァリア礼拝堂
世界遺産「バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群」、カルヴァリア礼拝堂
世界遺産「バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群」、野外鉱山博物館の鉱山施設
世界遺産「バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群」、野外鉱山博物館の鉱山施設

■世界遺産概要

バンスカー・シュティアヴニツァはスロバキア中西部シュティアヴニツァ山地に位置する町で、古代から鉱山で金や銀の採掘が行われてきた。中世~近代にかけて豊富な銀の生産でハプスブルク帝国やハンガリー王国の財政を支え、ゴシックやルネサンス、バロック、新古典主義といった多彩な様式の建物が連なる美しい街並みが築かれた。なお、本遺産は1993年に「バンスカー・シュティアヴニツァ "Banská Stiavnica"」の名称で世界遺産リストに登録されたが、2006年に現在の名称に変更された。

○資産の歴史

バンスカー・シュティアヴニツァはシュティアヴニツァ山地のグランツェンベルク山やパラダイス山の麓の斜面に位置している。こうした山々の鉱床では紀元前10〜前8世紀の後期青銅器時代にはすでに採掘が行われていたと見られ、紀元前3~前2世紀の鉄器時代にはケルト人の村があって主に金や銀を採掘していた。民族大移動の時代にスロバキア周辺でスラヴ人が定住をはじめ、9~10世紀にモラヴィア王国が繁栄し、10世紀にボヘミア王国が成立した。その後、ハンガリー王国の版図となったが、これらの時代にも採掘は継続され、鉱山労働者の町(テッラ・バネシウム)が栄えていたことが記録されており、13世紀前半には自由都市(大司教や司教の支配を受けず教会に対して義務を免除された都市)の権利と鉱業の特権が与えられた。

15世紀には大いに繁栄した一方で、1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼしたオスマン帝国のヨーロッパ侵出の脅威のために15~16世紀にかけて市壁が築かれ、聖母マリア教区教会が旧城に建て替えられ、監視塔を兼ねた新城が建設されるなど町の要塞化が進んだ。町の中心の三位一体広場などもこの時代に築かれたものだ。ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲し、オーストリア大公国のみならずハンガリー王国やボヘミア王国の君主を兼ねてハプスブルク帝国を成立させた16世紀、バンスカー・シュティアヴニツァは帝国の財政を支え、周辺の鉱山群の防衛拠点となった。

バンスカー・シュティアヴニツァはまた、鉱業における技術改革の中心でもあった。この地は川や湖に恵まれず十分な水が確保できないことが欠点となっていたが、17~18世紀にタイヒ "Tajch" と呼ばれる貯水システムが導入され、雨水や雪融け水を貯水池に導き、水路や地下水路で鉱山に送水した。造られた貯水池は60前後、水路は全長100km以上に達し、こうして送られた水は水車によってエネルギーに変換され、排水ポンプなどを動かした。これ以外にも1627年に火薬がはじめて使用され、1720年代にはニューコメンの蒸気機関が導入されている。

こうした鉱業技術の教育のため1735年に鉱業学校が設立された。オーストリア大公・ハンガリー女王・ボヘミア女王を兼ねるハプスブルク家のマリア・テレジアはより実用的な教育・研究・開発を行うため、1762~64年に鉱業アカデミーに発展させた。これに対しマリア・テレジアの夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世は1807年に林業アカデミーを設立し、1846年に合併して鉱業林業アカデミーとなり、1904年に鉱業林業大学に再編された(第1次世界大戦後にハンガリーのショプロン、ミシュコルツに移転)。

18世紀後半に町の人口は20,000人を超え、一帯の山地では最大、ハンガリー王国でも3番目に大きな都市となった。しかし、鉱床の枯渇により19世紀以降は徐々に衰退し、やがて採掘は停止された。

○資産の内容

世界遺産の資産はバンスカー・シュティアヴニツァのみならず鉱山・採掘施設、タイヒの貯水池や水路システム、グランツェンベルクやシュティアヴニツケー・バネといった周辺の集落などが含まれており、範囲はおおよそ東西20km×南北10kmに及び、スティアニーツァ・ヴルヒー景観保護区の一部を構成している。

バンスカー・シュティアヴニツァの主な建物には、13世紀創建の聖母マリア教区教会を1495~1515年にルネサンス様式の要塞に建て替えた旧城、1564~71年に監視塔を兼ねて築かれたルネサンス様式の新城、13世紀創建で19世紀に新古典主義様式で再建された聖母マリア被昇天教会、三位一体広場の一角に位置し1491年にゴシック様式で完成した聖カタリナ教会、1554年に建てられたバロック様式のピアルグ門、18世紀にペストの沈静化を感謝して三位一体広場に建設されたバロック様式のモロヴィー・スロルプ(ペスト記念柱)、18世紀にネオ・ルネサンス様式で建てられた3棟の旧鉱業アカデミーの建造物群(現・植物園)、1893年に新古典主義様式で建てられたユダヤ教の礼拝堂シナゴーグなどがある。

周辺の主要施設には、北の丘の山頂にたたずみ1751年に奉献されたバロック様式のカルヴァリア礼拝堂、一帯を見下ろすシトノ山頂に位置し13世紀から砦や要塞が建設されていたシトノ城、坑道や巻上機など各種施設・設備が残る野外鉱山博物館、16世紀に建設された最古の貯水池であるヴェルカ・ヴォダレンスカ、全長1.65kmに及ぶヴォズニツカ排水路などがある。

■構成資産

○バンスカー・シュティアヴニツァの歴史都市と近隣の工業建築物群

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

本遺産は中世の鉱業地帯の卓越した例であり、近代まで継続して鉱業が発展し、経済的にきわめて重要な役割を演じたその独創的な特質をいまに伝えている。

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

バンスカー・シュティアヴニツァとその周辺地域は採掘の停止と鉱業アカデミーの移転に伴い、都市の構造と特徴を変質させつつある旧鉱業地域の際立った例である。

■完全性

資産はバンスカー・シュティアヴニツァの都市中心部と、町の発展と中世以来の産業の歴史を示す周辺景観を網羅しており、特に採鉱と冶金に関する重要な遺物を含んでいる。資産の範囲とサイズは適切であり、顕著な普遍的価値を伝えるために必要なすべての重要な要素が含まれている。ただ、生活の変化や観光客の増加から生じる開発圧力が懸念される。

■真正性

金と銀の採掘を中心とした鉱業による繁栄の結果、バンスカー・シュティアヴニツァと周辺地域は大いに発展し、都市構造や景観にその歴史が反映されている。個々の建物についてもデザインや素材といった点で真正性を維持している。1970年以降に実施された体系的な修復と再建は芸術的・歴史的・建築的・考古学的な研究と記録に基づいており、すでに知られている外部の既存の文書によって裏付けられている。採掘の停止を受けていくつかの産業遺産は用途の転換を求められているが、その真正性については議論の余地がない。

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