アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区

University and Historic Precinct of Alcalá de Henares

  • スペイン
  • 登録年:1998年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)(vi)
世界遺産「アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区」、アルカラ大学サン・イルデフォンソ校の北ファサード
世界遺産「アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区」、アルカラ大学サン・イルデフォンソ校の北ファサード
世界遺産「アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区」、アルカラ大学のサント・トマス・デ・ヴィリャヌエヴァのパティオ
世界遺産「アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区」、アルカラ大学のサント・トマス・デ・ヴィリャヌエヴァのパティオ (C) Universidad de Alcalá
世界遺産「アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区」、セルバンテス広場。右の時計塔は市庁舎、左奥の塔はマラガ大学
世界遺産「アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区」、セルバンテス広場。右の時計塔は市庁舎、左奥の塔はマラガ大学
世界遺産「アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区」、マヒストラル大聖堂
世界遺産「アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区」、マヒストラル大聖堂 (C) Raimundo Pastor

■世界遺産概要

アルカラ・デ・エナレスはスペイン中部マドリード州の都市で、マドリードの東30kmほどに位置する。「アルカラ」はアラビア語の "al-qal'a" で「城・要塞」を意味し、アルカラ・デ・エナレスで「エナレス川の要塞」を示す。15世紀末~16世紀初頭にフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿によって大学を中心とした理想都市「神の都 "Civitas Dei"」として設計され、スペインとその植民地の都市設計のひとつのモデルとなった。

○資産の歴史

エナレス川の渓谷地帯は先史時代から人の居住の跡があり、ローマ時代に植民都市コンプルトゥムが築かれた。西ゴート王国がイベリア半島を征服すると司教座が置かれて司教都市となり、8世紀以降はウマイヤ朝や後継の後ウマイヤ朝といったイスラム王朝の支配を受けた。キリスト教勢力による国土回復運動=レコンキスタが激化するとコンプルトゥムのやや上流に要塞(アル・カラ)が建設された。

1118年にトレド大司教がこの地を奪還すると要塞の城壁を強化して要塞都市を建設し、トレド、アビラ、クエンカ、セゴビア(すべて世界遺産)などとともに防衛ラインを形成した。町の中心には大聖堂とトレド大司教の住居として大司教宮殿(パラシオ・アルソビスパル)が築かれた。この時代、南にキリスト教地区があり、東にユダヤ人地区、北にムーア人(イベリア半島のイスラム教徒)地区が広がっていた。15世紀後半にスペイン王国が成立すると城壁が拡張され、ユダヤ人とムーア人が追放された。

大学都市の建設がはじまるのは15世紀末のことだ。1293年に神聖ローマ帝国と教皇庁が認める最高の教育機関ストゥディウム・ゲネラーレが設立されていたが、シスネロス枢機卿は教皇アレクサンデル6世から1499年に教皇勅書を得て総合大学・コンプルテンセ大学として再編した。大学(ウニヴァーシダド "Universidad")を中心とした都市造りを推進し、城壁を取り壊して現在のセルバンテス広場の東に広がっていた中世の町の再開発を行い、サン・ディエゴ広場を中心にキャンパスを建て、道路や水道といったインフラを整備し、周辺に教授や学生のための住居や寮・礼拝堂・病院・印刷所等を建設した。こうして誕生したサン・イルデフォンソのコレヒオ・マヨール(大学本部)には芸術・哲学、神学、教育法、文学、医学の5学部が設置された。この時代の大学出身者には、イエズス会創設者イグナチオ・デ・ロヨラ、言語学者ベニート・アリアス・モンターノ、作家ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ、作家フランシスコ デ・ケベード、哲学者フランシスコ・スアレス、医師フランシスコ・ヴァリェス、十字架の聖ヨハネなどがいる。枢機卿はこれ以外に13の学校を設立したが、15~16世紀にかけてアルカラ・デ・エナレスには約50ものコレヒオ・メノール(専門大学)や修道院大学・専門学校が設立された。一例が1528年に設立された言語研究を専門とするサン・ヘロニモ大学(コレヒオ・デ・サン・ヘロニモ)だ。こうして大学の周囲にコレヒオ・メノールが林立する大学都市モデルが構築され、16世紀には年12,000人もの学生を集めた。

15世紀後半に大聖堂は神学の教授陣で構成された大学の教導教会となり、教導のマスターを示す "Magistral" の名を冠してマヒストラル大聖堂(アルカラ大聖堂/マヒストラル・デ・ロス・サントス・フスト・イ・パストル大聖堂)と呼ばれた。また、シスネロス枢機卿は1514~17年に『コンプルテンセ・ポリーグロット・ビブレ(コンプルテンセ多言語聖書)』と呼ばれる『新約聖書』の多言語翻訳・注釈書を発行した。この本は植民地である南北アメリカ大陸で宣教や言語教育の基礎となった。このように大学は単に教育機関であるだけでなく、ローマ・カトリックを基礎とした政治・経済・社会の確立を目指した。アルカラ・デ・エナレスは世界初の計画された大学都市であり、理想的な「神の都」とされ、スペイン海洋帝国の都市のモデルとなり、やがてその影響はローマ・カトリック圏全域に及んだ。

スペイン王国の首都がマドリードに遷され、1584年に近郊に王宮・修道院・教会を兼ねたエル・エスコリアル(世界遺産)が完成すると急速に発展し、神の都のモデルを流用して数々の大学が建設された。17世紀後半にはじまるスペインの衰退とともにアルカラ・デ・エナレスも衰退し、マドリードに追い越された。1777年にコンプルテンセ大学はアルカラ王立大学となったが、1836年にはマドリードに移転してマドリード中央大学に改名した。大学都市アルカラ・デ・エナレスは崩壊の危機に直面したが、市民は共同所有者組合を設立して大学の建造物の多くを購入して保存した。その後もスペインの開発の中心から外れ、また町の中でも歴史地区は開発の影響をほとんど受けなかったこともあり、歴史的な街並みが保存された。1970年にマドリード中央大学はマドリード・コンプルテンセ大学に改名し、1974年には経済学部など一部の学部をアルカラ・デ・エナレスに移転。1977年にアルカラ・デ・エナレス大学として独立し、大学都市が復活した。大学名は1996年にアルカラ大学に改称されている。1293年以来の歴史は両大学が共有している。

○資産の内容

世界遺産の資産としては歴史地区が地域で登録されており、国指定の20の文化財をはじめ465の建造物が法的保護下にある。20の国指定文化財は、アルカラ大学、マヒストラル大聖堂、大司教宮殿、サン・ベルナルド修道院、エルミタ・デ・ロス・ドクトリノス(ドクトリノス庵)、城壁、ブルゴス門、サン・ベルナルド門、マドリード門、エルミタ・デ・サンタ・ルシア(サンタ・ルシア庵)、大学講堂(パラニンフォ)、トリリングのパティオ(中庭)、サン・ヘロニモ大学、サン・イルデフォンソ礼拝堂、イエズス会教会、マラガ大学(コレヒオ・デ・マラガ)、アグスティナス修道院、カルメル会修道院、アンテサナ病院、テアトル・セルバンテス-野天劇場。

アルカラ大学サン・イルデフォンソ校はプラテレスコ様式(スペイン特有の細かな装飾を特徴とするルネサンス様式)の巨匠ロドリゴ・ヒル・デ・オンタニョンの傑作で、1537〜53年に建設された。特徴的な北ファサード(正面)や3層構造の見事なクロイスター(中庭を取り囲む回廊)を持つサント・トマス・デ・ヴィリャヌエヴァのパティオなど多くの見所を持つ。大学の礼拝堂であるサン・イルデフォンソ礼拝堂はムデハル様式(キリスト教美術にイスラム美術を取り入れた折衷様式)の豪壮な木造格天井を持ち、シスネロス枢機卿の棺を収めている。南にはサン・ヘロニモ大学があり、トリリングのパティオや講堂の格天井などが特徴的だ。マラガ大学は1611年創立のコレヒオ・メノールで、バロック建築の壮大な2基の塔で知られる。

宗教建築の筆頭はマヒストラル大聖堂だ。304年頃、ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教弾圧で改宗を拒否して殉教したふたりの少年・聖フストと聖パストルに捧げられた礼拝堂を起源とし、クリプト(地下聖堂)にふたりの遺骨を収めている。イスラム教時代に破壊されたが1122年に再建され、15~16世紀にゴシック様式で改修・増築された。高さ62mを誇る鐘楼やクロイスターはルネサンス様式だ。大司教宮殿はトレド大司教のために1209年に建設が開始されたムデハル様式の宮殿で、14世紀に要塞化して再建され、21の塔を持つ堅牢な石垣で囲まれた。ルネサンス様式のファサードなど時代時代に改修を受けているが、アロンソ・デ・フォンセカが建設を命じた西棟のパティオと階段が名高い。その北に位置するサン・ベルナルド修道院はシトー会の修道院として1613年に設立された。建物はバロック様式で、現在は宗教美術館として画家アンジェロ・ナルディをはじめ数多くの宗教画を収蔵している。また、この辺りには中世の城壁やサン・ベルナルド門、ブルゴス門、マドリード門といった城門が残されている。イエズス会教会は1602~20年に建設された教会堂で、王室建築家フアン・デ・エレラのシンプルで厳格なファサードがバロック様式で改修されている。1483年設立のアンテサナ病院はスペイン最古級の病院のひとつで、ムデハル様式の美しいパティオを持つ。

■構成資産

○アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

アルカラ・デ・エナレスは大学を中心に設計・建設された世界初の大学都市であり、教育を目標に掲げるヨーロッパやアメリカ大陸の都市のモデルとなった。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

「理想都市」「神の都」といった概念はアルカラ・デ・エナレスではじめて物理的に表現され、世界に広まった。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

人類の知性の発展に対するアルカラ・デ・エナレスの貢献は、神の都の具体化、そこで行われた言語学の進歩、特にスペイン語の確立、そしてその偉大な成果である同地出身の作家ミゲル・デ・セルバンテスと著書『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』を通して表現されている。

■完全性

アルカラ・デ・エナレスの大学と歴史地区は何世紀にもわたって大学・教育都市のモデルとしてありつづけた。整然としたグリッド構造を持つ大学のレイアウト、マヨール通りをメインストリートとして広がる中世の交通ネットワーク、バロック様式のアーチ道など、歴史的な街並みの多くが理想的な状態で保存されている。特に大学設立時に建設された学術的・宗教的・公共的な建造物や住宅・寮といった建物のほとんどが用途を問わず維持されている点は特筆に値する。この遺産は史上初の大学都市であるという重要性と、バロック時代の神の都の在り方を、いまなお見事に表現している。

歴史地区には785棟もの建物があり、そのうち465棟が都市計画で保護されている。1836~1976年の間、大学がマドリードに移転して大学都市の名を失い、1936~39年のスペイン内戦では被害を受けた。しかし、1968年に国によって歴史的価値が認められ、1977年に大学が戻るまで、市民の手によってアルカラ・デ・エナレスの完全性は守られた。

■真正性

過去160年の間、多くの変化を経験したにもかかわらず、都市構造や歴史的建造物の多くは本物であり、素材や形状・デザイン等を引き継いでおり、真正性は高いレベルで維持されている。1836年に大学が閉鎖された後、多くの建物が兵舎や刑務所・事務所といった別の用途に転用されたが、長期にわたって継続して使用され、改変されることなく伝えられた。その後、法的保護下に入り、大学が再開されると集中的な修復が行われ、機能の面でも真正性を回復した。いまでは歴史的に重要な建造物のほとんどが本来の目的通り学術的に使用されている。市の修道院については宗教的な目的のほか、一部は福祉施設としても使用されている。

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