セリミエ・モスクと複合施設群

Selimiye Mosque and its Social Complex

  • トルコ
  • 登録年:2011年
  • 登録基準:文化遺産(i)(iv)
  • 資産面積:2.5ha
  • バッファー・ゾーン:37.5ha
均整の取れた美しいフォルムを見せる世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」。中央下の黒い像はミマール・スィナン像
均整の取れた美しいフォルムを見せる世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」。中央下の黒い像はミマール・スィナン像。4基のミナレットと礼拝堂が生み出すシルエットが美しい
南西から見上げた世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」。扁平なドームの周囲に見える支えはバットレス。左は中庭の列柱廊
南西から見上げた世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」。扁平なドームの周囲に見える支えはバットレス。左は中庭の列柱廊
世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」、大理石で整地されたモスクの中庭、中央下は泉亭
世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」、大理石で整地されたモスクの中庭、中央下は泉亭。泉亭の機能は神社の手水舎と同じで、礼拝を行う前にウドゥと呼ばれる清めの儀式を行う
世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」、内部の様子。左側がメッカの方角を示すキブラで、ミフラーブとミンバルが設置されている
世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」、内部の様子。左側がメッカの方角を示すキブラで、ミフラーブとミンバルが設置されている。ドームを支える紅白ポリクロミアのアーチがペンデンティブ (C) Dosseman
世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」、アラベスクが美しい大ドーム内部。左右の端の紅白ストライプはアーチで、細い赤のラインに縁取られた鍾乳石のような装飾がムカルナス
世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」、アラベスクが美しい大ドーム内部。左右の端の紅白ストライプはアーチで、細い赤のラインに縁取られた鍾乳石のような装飾がムカルナス
世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」、大ドームを支えるハーフ・ドーム
世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」、大ドームを支えるハーフ・ドーム。多くは草花文様だが、オレンジ色の半円部分は文字装飾イスラミック・カリグラフィーで、『コーラン』の言葉が引用されている

■世界遺産概要

セリミエ・モスクはかつてトラキア(アナトリア半島と隣接するバルカン半島南東部)と呼ばれたヨーロッパ側のマルマラ地方・エディルネ県の県都エディルネの高台に築かれたモスクで、巨大なドームと4基のミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)の描き出すシルエットや、高く明るい空間とイズニック・タイルを多用した装飾などにより、イスラム建築の最高峰のひとつとされる。トルコでもっとも有名な建築家であるミマール・スィナンの最高傑作で、モスク以外にも各種学校や図書館、病院、救貧院、バザール(市場)などを備えたモスク・コンプレックス=キュリエの典型でもある。

○資産の歴史

エディルネは古代から中世にかけて、ローマ皇帝ハドリアヌスにちなんで「ハドリアノポリス」といわれた古都で、その後は「アドリアノープル」と呼ばれていた。1299年にテュルク系(トルコ系)のオスマン1世がオスマン侯国を建国し、息子のオルハンがブルサ(世界遺産)に首都を定めた。オルハンはダーダネルス海峡を渡ってヨーロッパに進出し、トラキア(アナトリア半島と隣接するバルカン半島南東部)を征服。その息子ムラト1世が1362年頃に同地のアドリアノープルを占領した。1365年には宮殿を建設して遷都し、トルコ風に「エディルネ」に改称した。1453年にオスマン皇帝(スルタン)・メフメト2世がコンスタンティノープルを落としてビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼすと、遷都してオスマン帝国の首都イスタンブール(世界遺産)として整備した。その後もエディルネには宮殿が残され、副都としてありつづけた。

もともとテュルク系の人々は東アジア北部や中央アジアにいた遊牧民族で、12世紀以降に西アジアを経てアナトリア半島に定着した。その過程で多くがムスリム(イスラム教徒)となったが、礼拝堂であるモスクはアラブ風あるいはペルシア風で、礼拝堂として天井の低くて薄暗い多柱室を持ち、パラダイスを模した水と緑豊かな中庭(サハン)と、礼拝を呼び掛けるために1基のミナレットを有していた。ブルサでは逆T字型の平面プランを持つモスクが建設され、ブルサ様式として花開いた。ブルサ様式は大きなドームを架けて柱を減らし、ドームの周囲に窓を設置することで、高く明るく広々とした空間を確保した。ミナレットについても左右対称に2基築かれることが増え、ミナレットの中ほどにバルコニー、その下にムカルナス(鍾乳石を模した天井飾り)といった装飾が施されるようになった。

しかし、アナトリアの数々のビザンツ建築、特に正教会の総本山であるコンスタンティノープル総主教座が置かれたイスタンブールのハギア・ソフィア大聖堂はあまりに壮大で、トルコ人を圧倒した。メフメト2世はこの大聖堂をアヤソフィア・モスクとして改修し、以後500年にわたってオスマン帝国の中心的なモスクとなった。

532~537年に建設されたアヤソフィアのドームは高さ55m・直径33mを誇り、ビザンツ帝国1,000年の歴史の中で最大を誇る。オスマン帝国の建築家たちはこの奇跡の建築を目指してドームを中心とした集中式(有心式。中心を持つ点対称かそれに近い平面プラン)で、ブルサ様式を超える高くて柱の少ない明るく壮麗なモスクの建設を開始する。

そんな建築家のひとりがミマール・スィナンだ(この名は通称で「建築家スィナン」を意味する)。スィナンはもともとギリシア系のキリスト教徒で、キリスト教徒を集めた皇帝直属の傭兵部隊イェニチェリの一員として各地で戦った歴戦の兵士だ。土木工学のエキスパートとして道路や水路・橋・砦といった構築物の建設・破壊を担当して実戦経験を積み、やがて建築家として名を馳せるほどまでに成長した。アヤソフィアを超えることを悲願としていたともいわれ、ビザンツ様式の影響を強く受けたモスクの設計を行った。

そもそも高くて大きなドーム建築が少ないのは石造ドームがあまりに重すぎて構造計算が難しいからだ。アヤソフィアはペンデンティブ(穹隅。4つのアーチでドームを支える構造)で重さを分散させ、さらにバットレス(壁を支えるための控え壁)やハーフ・ドームで支えてスラスト(広がって崩れようとする水平力)を解消するなど非常に複雑な構造を取っており、完成直後に一度崩壊しているほどだ。スィナンはこうした構造を徹底的に研究し、1548年に高さ37m・直径19mを誇るイスタンブールのシェフザーデ・モスクに結実させた。このモスクは以降のトルコ型・中央会堂式モスクの雛形となった。1557年にはスレイマン1世の名を冠したスレイマニエ・モスクを完成させ、平面59×58m・高さ53m・直径27.5mというアヤソフィア以来の大建築を仕上げて見せた。

スレイマン1世の息子セリム 2 世は自分が育ったエディルネに壮大なモスクを建設することを決め、最初に建設された宮殿であるイルディリム・バヤジットがあった丘を整地してスィナンに依頼した。セリム 2 世は使用する大理石やイズニク地方特産の伝統的陶器タイルであるイズニック・タイルなどを指定・調達し、聖典『コーラン』のある一説をイスラミック・カリグラフィー(文字装飾)として掲げることなど詳細な希望を伝え、一方80歳になったスィナンはそれまでに建設した400以上の建造物、100以上のモスクの集大成となるモスクを目指して1569~75年に建設を行った。

セリム2世は前年に亡くなって完成を見届けることはできなかったが、モスクはスレイマニエ・モスクをも超えるもので、スィナン自ら「最高傑作」と評し、「アヤソフィアを超えた」と自負したという。モスクだけでなく、周囲にマドラサ(モスク付属の高等教育機関)や宿舎、図書館、病院、救貧院、イマレット(給食所)、ハマム(浴場)、墓地などを備え、モスクを中心とした複合施設であるキュリエを構成した。スィナンが1588年に亡くなると、スルタンの座を継いだセリム2世の息子ムラト3世は名建築家ダヴット・アーガーを起用し、バザール(市場)や初等教育施設を整備し、キュリエは完成を迎えた。あまりに壮大なキュリエだが、貧民や孤児に対しては食事や治療・教育が無料で提供されていた。

アヤソフィアは1935年に無宗教化されて博物館となったが、セリミエ・モスクはいまなおモスクとして信仰の場でありつづけている。

○資産の内容

世界遺産の資産はセリミエ・モスクと周辺施設を含んだ160m四方ほどの一帯で、その周辺がバッファー・ゾーンとなっている。中央にセリミエ・モスクが位置し、東にダルル・ハディース・マドラサ、南にダルル・クッラ・マドラサの建物があり、西の一辺はアラスタ(屋根付きのバザール)となっている。

セリミエ・モスクは100×65mほどのトルコ型・中央会堂式モスクで、北西に大理石造の泉亭のあるシンプルな中庭が配され、南東が礼拝堂となっている。礼拝堂は約45×36mで、中央に高さ42.3m・直径31.5mの大ドームを掲げ、四方に4基のミナレットを有している。大ドームの周囲に見えるバットレスや、アーチの中に収められた多数の窓が男性的な印象を与えるが、高さ85.67mでそれぞれに3つのバルコニーを持つミナレットは優美で、周囲の小ドームやハーフ・ドームとともに全体として均整の取れた洗練された外観を生み出している。

ドームの重さは8つのアーチからなるペンデンティブで分割され、8本の柱で支えられており、ドーム周りのバットレスや四方のハーフ・ドームで支えられている。アーチは紅白のポリクロミア(縞模様)で、アーチとアーチの間の逆三角形部分はムカルナスで飾られている。アーチを多用することで壁の重さを柱に逃し、荷重が掛からなくなった壁面に多数の窓を配置し、高く明るい空間を確保している。ドームの草花・幾何学文様のアラベスク(イスラム文様)やイスラミック・カリグラフィーはイズニック・タイルによる装飾で、周りにグルリと取り付けられた窓からの光によって輝いている。聖地メッカの方向を示す聖龕=ミフラーブは礼拝室のどこからでも見えるように設計されており、大理石製でムカルナスで装飾されている。脇に置かれたミンバル(階段状の説教壇)も大理石製で、やはりムカルナスや透かし彫りが見られる。

礼拝堂には礼拝室の他に図書館やハマム、病院、食堂といった施設が内蔵されている。図書館はセリム2世が著書を寄贈したことからはじまり、大部屋と小部屋に貴重な写本を含む8,117冊を所蔵している。

ふたつのマドラサは南東を軸にほぼ左右対称で、尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)の列柱廊が中庭をグルリと取り囲むコートハウス(中庭を持つ建物)となっている。各辺に部屋が並んでおり、それぞれの部屋が掲げる小ドームが連なっている。現在、ダルル・クッラ・マドラサは財団博物館、ダルル・ハディース・マドラサはトルコ・イスラム美術館として公開されている。

西の辺全体に伸びる細長い建物がアラスタで、総延長225mの通り沿いに124の店舗が連なっている。中央付近には祈りのドームと呼ばれる礼拝堂があり、店主たちは毎朝ここで商売繁盛を祈っていたという。アラスタの南にはダルル・クッラ・アルコヴと呼ばれる初等教育施設があり、北東にはムワッキターネと呼ばれる時間や天文学・占星術を司る機関が入っていた。

■構成資産

○セリミエ・モスクと複合施設群

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」、(iii)「文化・文明の稀有な証拠」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(ii)について価値の交流というよりイスラム教ドーム建築の集大成であり、(iii)についてオスマン帝国のモスクの進化の証拠である以上にモスク・コンプレックスとしてイスラム教全体あるいは文明としてオスマン帝国を代表するという意味で、(i)あるいは(iv)こそふさわしく、(ii)と(iii)については証明されていないとした。

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

エディルネのセリミエ・モスクは16世紀のオスマン帝国でもっともよく知られた建築家であるスィナンの創造的な才能を示す傑作である。8本の柱に支えられた直径31.5mの巨大なドームは45×36mもの祈りの空間を確保し、高くそびえた4本のミナレットとともに町のスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)を支配している。また、その革新的な構造設計により多数の窓が設置されており、非常に明るい空間を実現している。こうしたモスクと複合施設群はスィナン自ら自身のもっとも重要な建築作品と自負していた。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

セリミエ・モスクはドーム、空間コンセプト、建築的・技術的調和、そして町の頂きに立ち景観を支配するという点で、人類史の重要な段階であるオスマン帝国の文化の頂点を示している。最盛期のイズニック・タイルを駆使した室内装飾は唯一無二であり、モスクの偉大な芸術性を証明している。また、モスクと付随する慈善施設群はオスマン帝国特有の複合施設であるキュリエの中でもっとも調和の取れた例である。

■完全性

資産は顕著な普遍的価値を有するすべての要素を含んでおり、保存状態はよく、開発の悪影響を受けていない。資産の位置とランドマークとしての重要性を考慮すると、すべてのビュー・コリドー(眺めの回廊。建物などに区切られた眺望のライン)が引き続き保護されることが非常に重要である。

■真正性

モスクと複合施設群は形状・デザイン・素材・原料といった点で本物でありつづけている。モスクとアラスタは用途や機能・精神・印象といった面でも真正性を保持している。マドラサについては博物館という新たな用途に対応して少々改修されている。

■関連サイト

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