コルドゥアン灯台

Cordouan Lighthouse

  • フランス
  • 登録年:2021年
  • 登録基準:文化遺産(i)(iv)
  • 資産面積:23,582ha
  • バッファー・ゾーン:139,615ha
周辺の砂浜から見た世界遺産「コルドゥアン灯台」
周辺の砂浜から見た世界遺産「コルドゥアン灯台」。灯台の向こうがビスケー湾
世界遺産「コルドゥアン灯台」。最下段が基礎で、基礎から続く壁でほとんど隠れている部分が第1層、その上の第2層までが17世紀の灯台。3つ縦に並んだ窓の部分が第3層、頂部は第5層の灯室
世界遺産「コルドゥアン灯台」。最下段が基礎で、基礎から続く壁でほとんど隠れている部分が第1層、その上の第2層までが17世紀の灯台。3つ縦に並んだ窓の部分が第3層、頂部は第5層の灯室 (C) Dimimis
前庭から見上げた世界遺産「コルドゥアン灯台」。左下が灯台のポータル(玄関)で、その上の三角破風部分がペディメント
前庭から見上げた世界遺産「コルドゥアン灯台」。左下が灯台のポータル(玄関)で、その上の三角破風部分がペディメント
世界遺産「コルドゥアン灯台」、ノートル=ダム・ド・コルドゥアン礼拝堂のステンドグラス。左が聖アンナと聖母マリア、右が大天使ミカエル
世界遺産「コルドゥアン灯台」、ノートル=ダム・ド・コルドゥアン礼拝堂のステンドグラス。左が聖アンナと聖母マリア、右が大天使ミカエル (C) Le grand Cricri
世界遺産「コルドゥアン灯台」、第3層の螺旋階段。灯室まで301段のステップが続いている
世界遺産「コルドゥアン灯台」、第3層の螺旋階段。灯室まで301段のステップが続いている (C) Selvejp
世界遺産「コルドゥアン灯台」からの眺め。左下に見える小道がル・ペイラ
世界遺産「コルドゥアン灯台」からの眺め。左下に見える小道がル・ペイラ (C) AYE R

■世界遺産概要

コルドゥアン灯台はフランス西部ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏のジロンド県ル・ヴェルドン=シュル=メールに位置し、ジロンド川(70kmほど上流でガロンヌ川とドルドーニュ川に分岐)の河口のほぼ中央にある石灰岩の岩場にそびえている。16世紀にフランス王アンリ3世の要請でルイ・ド・フォワが設計し、18世紀にジョゼフ・トゥレールが増築して高さ67.5mを誇る現在の姿が完成した。古代からの航路標識の伝統を受け継ぎつつ、王室の権威を象徴して「王の灯台」「灯台の王」と呼ばれ、機能を維持するため近代化にも対応した歴史的・記念碑的な灯台で、創建から400年を経たいまでも灯台として機能しつづけている。

なお、ジロンド川の河口付近にはフランスの世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」のスラック=シュル=メールのノートル=ダム=ド=ラ=ファン=デ=テル教会がある。また、下流には「ヴォーバンの防衛施設群」のメドック城砦、パテ城砦、ブライの城塞があり、さらに下流に「ボルドー、月の港」や「サン=テミリオン地域」があり、「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産が点在している。

○資産の歴史

大西洋からジロンヌ川とガロンヌ川を100kmほどさかのぼった上流に位置するボルドー(世界遺産)は古代からの港湾都市で、ケルトやローマ帝国、フランク王国、アキテーヌ公国、イングランド王国、フランス王国といった国々の主要港として2,000年以上にわたって重要な役割を果たしてきた。

ジロンド川の河口には12kmほどにわたって砂州が広がっており、中央にコルドゥアンの岩が突き出している。ボルドーを目指す船はこの岩を避け、南か北の航路から川に入った。古くから岩の位置を知らせる小さな塔が設けられていたことは伝わっているが、詳細はわかっていない。

1154年にフランスのアンジュー伯アンリがヘンリー2世としてイングランド王に就き(プランタジネット朝)、現在のフランスの西半分ほどをイングランド領に組み込んだ(アンジュー帝国)。14世紀に航路標識としての役割に加え、イングランドの支配を象徴するためにプランタジネット家のエドワード黒太子が岩に灯台を建てたと伝わっており、黒太子塔あるいはイングランド塔と呼ばれていたという。一説によると灯台の高さは16mほどで、頂部で薪を燃やしつづけて灯としたとされる。この地は15世紀半ばにフランス領に戻ったが、灯台は16世紀末までに倒壊した。

16~17世紀にボルドーはマルセイユ、ナント、ル・アーヴル(世界遺産)と並ぶフランス4大交易港に成長し、航行する船の数も急増した。新しい灯台が待望されると、フランス王アンリ3世は灯台の建設を決定。1580年代に王室プロジェクトとして始動し、機械や水力学・土木工学に長けたエンジニアであるルイ・ド・フォワに設計を依頼した。しかし、宗教改革の混乱や予算の不足もあって建設は遅れ、1589年にアンリ3世が崩御した。

続くアンリ4世は新たに予算を充てて建設を支援したが、王が滞在するための居住スペースである王のアパルトマン(居住区画)と、礼拝を行うための王室礼拝堂の建設を要求した。ルイ・ド・フォワは王にふさわしい灯台を目指してローマ(世界遺産)の皇帝廟や大聖堂などを参考にマニエリスム様式(後期ルネサンス様式)の装飾を施した。伝説によると、彼は灯台を完成させるために私財を投げ打ち、1604年頃に亡くなると、ひそかに灯台の下に埋葬されたという。

その後、王室建築家フランソワ・ブッシャーが引き継ぎ、灯台は1611年に完成した。当時の灯台は高さ37m・3層構造で城塔のようなデザインを有し、頂部は円錐形で、鐘楼のような小塔と灯室を備えていた。当初は薪を使って火を灯したが、17世紀後半に鯨油に置き換えられた。

完成直後から嵐などを受けて損傷が相次ぎ、上層は幾度か破壊された。また、光源が低く光も弱いということで、より高く強い光を放つ灯台が必要とされた。そして設計コンペが開催され、1787年に土木建築家ジョゼフ・トゥレールによる野心的なプロジェクトが採用された。翌年から建設が開始され、ルイ・ド・フォワによる灯台の第1~2層を維持する一方で、最上層である第3層を撤去し、新たに30mを超える灯塔が増築された。この新しい灯塔は新古典主義様式に近いシンプルなルイ16世様式(バロック様式と新古典主義様式の移行期に当たる様式)で、第1~2層のような装飾は見られない。

1790年に灯塔が完成すると、頂部に金属製の格子で覆われた灯室が設置され、内部に回転灯が備えられた。回転灯では光を鏡で集め、凸レンズを通して直線的な光を放つことで遠くまで届かせ、これを回転させることで同時に広い範囲を確保した。1823年にはフランス人物理学者で土木エンジニアでもあるオーギュスタン・ジャン・フレネルによって発明されたフレネル・レンズを採用した新しい照明システムが導入された。フレネル・レンズは表面が凸凹したレンズで、厚くて重い凸レンズと比較してきわめて薄く軽くすることができた。この事実がコルドゥアン灯台で実証されると、ほとんどの灯台レンズがフレネル・レンズに置き換えられた。

19世紀半ばに灯室の状態が悪化したため、1850年に取り壊されて再建された。1854年に最新式のフレネル・レンズ・システムが導入され、現在もこのレンズが使用されている。

1862年には歴史的建造物として指定され、1904年まで唯一の灯台として登録されていた。1907年にガス灯となり、1949年には電化されて電気ランプが採用され、その後キセノンランプを経てハロゲンランプに移行した。1926年には基礎部分の西側に鉄筋コンクリート製の防壁が増築されている。

○資産の内容

資産はジロンド川の河口一帯で、さらにその周囲にバッファー・ゾーンが設定されている。コルドゥアンの岩、コルドゥアン台地と呼ばれる岩は河口のほぼ中央に位置し、灯台は岩の東側にたたずんでいる。灯台から北東に「ル・ペイラ」と呼ばれる全長270mほどの石造の道が伸びており、ここから船で上陸する。

灯台の基礎部分について、海面下の岩盤から直径41mの円形に7.5mほど石灰岩が積み上げられており、モルタルで固着され、さらに鉄と鉛で接合されている。基礎の上部に当たるプラットフォームの外側はさらにリング状に石壁が積み上げられている。外洋に面する基礎の西側は鉄筋コンクリート製の防壁で守られており、東側にはエントランスがあってオーク製のぶ厚いドアが設けられている。

プラットフォーム上、外周は石壁で囲われており、その内側に石とレンガ造でオーク材パネルで内装されたエンジニアのアパルトマンと呼ばれる技術者の部屋が並んでいる。さらに前庭を経て灯台となる。

灯台はプラットフォームから63mの高さで、岩盤からは約67.5mとなる。5層7階構造で、第1~2層がルイ・ド・フォワが設計した17世紀の灯台部分となる。

最下層の第1層(1階)は王のアパルトマンで、大理石製でマニエリスムの装飾が多用された華麗な空間となっている。ルイ14世と王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュのモノグラム(文字や記号を重ねて作った記号や文様)やナポレオン3世の碑文などが飾られており、国王や皇帝の関与が示されているが、実際に宿泊した記録はない。

第2層(2階)はノートル=ダム・ド・コルドゥアン礼拝堂で、やはり大理石製でマニエリスムの装飾が見られ、19世紀に追加されたステンドグラスからの光が室内を照らしている。頂部には見事なドームが架かっており、中央にオクルス(採光穴)が口を開けている。第3層が吹き抜けであるため、礼拝堂からオクルスを経て第4層まで空間がつながっている。また、礼拝堂にはルイ・ド・フォワの鏡像が収められている。

第3層(3~5階)は3階建てで3室が縦に並んでいるが、中央が大きく空いた吹き抜けで、周囲に螺旋階段が伸びている。3階のサル・デ・ジロンダン(ジロンド派の部屋)はジロンド派を保護した部屋で、4階のサル・デュ・コントルポア(カウンターウェイトの部屋)はかつて回転灯を回転させるための機械が設置されていた部屋で、5階のサル・デ・ランプ(ランプの部屋)は照明器具や鯨油やガスなどの燃料を保管していた。

第4層(6階)はシャンブル・ト・ヴェイユ(灯台守の部屋/監視室)で、灯台守が機器を操作したり、記録を付けたり、仮眠を取ったりしていた。

第5層(7階)が灯室で、ランプやフレネル・レンズ・システムが収められている。回転灯は12秒間隔で回っており、灯光は40km先から確認することができる。周囲には展望用のバルコニーが設けられており、訪問者はその絶景を楽しむことができる。

■構成資産

○コルドゥアン灯台

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

コルドゥアン灯台は17世紀から今日まで使用されつづけている海上信号の傑作である。建設当初、この灯台は当時のフランス王室の栄光を象徴する王からの寄贈品だった。18世紀にジョゼフ・トゥレールが灯台の高さを上げると同時に強化した。熟練の体積測定術と規矩術(コンパスや定規を用いた作図術)を応用することで、既存の構造と新たな増築部分の見事な融合が実現し、その象徴的な機能が確認された。この建造物が立つ場所の厳しい自然環境は、人類の芸術的・技能的および科学技術的な発明の才を示す卓越した例として、この建物の地位を確固たるものにしている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

コルドゥアン灯台は灯台史における重大な段階を際立った方法で体現している。古代のよく知られた航路標識の伝統を受け継ぐという使命の下で建設され、16~17世紀にかけて航海術が一新された時代の灯台建設の技術が示されている。この時代、航路標識は安全を確保するための器具としてのみならず、領土を示す目印として重要な役割を担っていた。最終的に18世紀後半に高さを増し、灯室を改良したことで当時の科学技術の進歩が証明されている。その名声のおかげでコルドゥアン灯台では航海を支援する機能を向上させるための実験が何度も行われ、その発展に寄与した。

■完全性

コルドゥアン灯台の完全性の状態は優良である。その記念碑的な外観はルイ・ド・フォワの構想に基づいており、そのうえで海上信号機能に必要な建築や技術をつねに導入してきた。18世紀にエンジニアのジョゼフ・トゥレールによって行われた円錐台状の塔の嵩上げは元々の外観を変えたものの、最初の灯台のコンセプトを尊重し、礼拝堂と王のアパルトマンを伴うという基本理念の象徴的な意味を維持した。その独立した記念碑性はコルドゥアン灯台の完全性を示す重要な要素である。

■真正性

コルドゥアン灯台は構造的に本物であり、その本来の機能を発揮しつづけている。海の中にあり気象も厳しく過酷な環境にあるため絶えず修復が不可欠で、また活動中の海上信号装置であるため定期的な技術的対応を必要としている。真正性はこうした地理的条件や機能的条件を考慮して理解・評価されるべきである。そうした点を考慮して、19・20世紀に行われた改修は環状建造物の追加と内部空間の修復であり、灯台の真正性にほとんど影響を与えなかったといえる。このようにこの記念碑はその活動を継続するために技術的に近代化を進めつつ、強力な視覚的・象徴的プレゼンスを保持している。

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