シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群

ShUM Sites of Speyer, Worms and Mainz

  • ドイツ
  • 登録年:2021年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)(vi)
  • 資産面積:5.56ha
  • バッファー・ゾーン:16.43ha
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、シュパイアーのユダヤ人地区
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、シュパイアーのユダヤ人地区、手前がシナゴーグ、奥が女子学校 (C) Manuae
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、ヴォルムスのシナゴーグの複合体、ヴォルムス・シナゴーグ
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、ヴォルムスのシナゴーグの複合体、ヴォルムス・シナゴーグ (C) HOWI
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、ヴォルムスのシナゴーグの複合体、ラシ・ハウス
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、ヴォルムスのシナゴーグの複合体、ラシ・ハウス (C) Buercky
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、ヴォルムスの旧ユダヤ人墓地、ハイリガーザンド。奥はヴォルムス大聖堂(聖ペトロ大聖堂)
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、ヴォルムスの旧ユダヤ人墓地、ハイリガーザンド。奥はヴォルムス大聖堂(聖ペトロ大聖堂。世界遺産外)(C) Jörg Bürgis
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、マインツの旧ユダヤ人墓地、ユーデンザンド
世界遺産「シュパイアー、ヴォルムス、マインツのシュム遺産群」、マインツの旧ユダヤ人墓地、ユーデンザンド (C) Thomas Pusch

■世界遺産概要

シュパイアー、ヴォルムス、マインツというラインラント=プファルツ州の3都市はライン川の上ライン渓谷に位置する司教都市(大司教座や司教座が置かれた都市)で、上流からシュパイアー、北約40kmにヴォルムス、さらに北約40kmにマインツが位置している。「シュム "ShUM"」はヘブライ語の "שו״מ" で、3都市のヘブライ語名の頭文字を取ったアクロニム(頭字語)をアルファベットに変換したものとなっている(当時の3都市はアルファベットでShpira、Warmaisa、Magenza)。4件の構成資産は3都市に残るアシュケナジム(ヨーロッパ中部や東部に定住したのユダヤ人)の最初期のコミュニティの遺構と墓地で、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)やシュル(イディッシュ語でいうシナゴーグ。ここでは女性用礼拝堂)、イェシーバー(タルムードを学ぶ宗教学校)、ミクワー(沐浴場)、墓などの跡が含まれている。これらは11~14世紀を中心に、10~20世紀に及ぶ非ユダヤ人地域におけるディアスポラ(故郷たるパレスチナの地を去って離散したこと、あるいは離散の民)の生活を雄弁に物語っている。

○資産の歴史

ローマ時代、ユダヤ人は聖地エルサレム(世界遺産)を中心にパレスチナの地を治め、ローマ帝国ユダヤ属州として自治を行った。しかし、帝国の宗教弾圧に対して反乱を起こしたユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争。66~70年)や、独立を求めて戦ったバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争。132~135年)でエルサレムは徹底的に破壊され、ユダヤ人は追放された。ユダヤ人にとってパレスチナは神との約束の地=カナンであり、エルサレムはユダヤ教唯一の神殿であるエルサレム神殿のあるべき最高聖地。ふたつのユダヤ戦争の前後でも種々の弾圧を受けたユダヤ人はこの地を追われて離散し(ディアスポラ)、ユダヤ文化の再興とパレスチナにおける祖国再建を目指しつつ(シオニズム)、西アジアや北アフリカ、ヨーロッパへの移住を進めた。彼らのうち、ドイツを中心にヨーロッパ中部や東部に移住したユダヤ人をアシュケナジムと呼ぶ。

ライン川は長らくローマ帝国が国境としていた要所で、各地にリメス(ローマ帝国の国境防塞システム。ライン川沿いのリメスはライン・リメスと呼ばれた。世界遺産)を築き、要塞都市や交易都市が発達した。西ローマ帝国滅亡後もライン川はヨーロッパ最重要の交通・交易ルートでありつづけ、商業や金融業を営むユダヤ人もライン川の経済活動に貢献した。上ラインの主要都市がシュパイアー、ヴォルムス、マインツで、いずれも大聖堂が築かれて司教都市となった。特にマインツは8世紀に大司教区となり、マインツ大司教はドイツ王(ドイツ王は教皇の承認を得て神聖ローマ皇帝となった)の選出権を持つ選帝侯のひとりとなった。こうしてマインツとその影響下にあるヴォルムス、シュパイアーは経済的・宗教的・政治的にドイツおよび神聖ローマ帝国の最重要地域となった。それを証明する一例がシュパイアーのシュパイアー大聖堂(世界遺産)で、創設された11世紀当時ヨーロッパ最大を誇る教会堂で、約300年にわたって神聖ローマ皇帝の埋葬地としてありつづけ、「皇帝の大聖堂」の異名を取った。3都市ではいずれも11~12世紀にロマネスク様式の大聖堂が建設されており、いまでもその威容を伝えている(いずれも本遺産には含まれていない)。

ユダヤ人センターの存在は4世紀にケルンやトリーアで確認されており、9~10世紀にはユダヤ人コミュニティが築かれるようになった。マインツでは10世紀半ばに創設されたと見られ、これをベースに1000年前後にヴォルムス、11世紀後半にシュパイアーに設置された。一般的にユダヤ人コミュニティは司教の許可を得て町の中心部に配置され、礼拝堂であるシナゴーグを中心に住宅を建設し、城外に墓地を建設した。コミュニティ外に居住するユダヤ人もしばしばこれらのコミュニティを訪ねては協力を仰ぎ、重要な宗教行事の日にはコミュニティのシナゴーグで礼拝し、死後はコミュニティの墓地に埋葬された。

こうした初期の文化的発展は11~12世紀の十字軍を発端とする反ユダヤ主義の高まりによるポグロム(反ユダヤの差別的・組織的な暴力・破壊行為)で中断された。第1回十字軍が派遣された1096年をはじめ、この時代に3つのコミュニティは焼き討ちにあい、住民はキリスト教への改宗を迫られた。

その後、落ち着きを取り戻し、1220年頃に3都市のコミュニティは "Taqqanot Qehillot ShUM" と呼ばれるシュムのコミュニティ法令を共同で制定した。法令には儀式や結婚など宗教的・慣習的な問題に対する取り決めのみならず、キリスト教の支配層に対する対応などが記されており、アシュケナジムの文化を確立し、地位を向上させるものとなった。

14世紀にはユダヤ人も市民と認められるようになっていたが、ハンセン病やペストといったトラブルを切っ掛けにポグロムが起こった。たとえばペストが流行していた1349年にはユダヤ人が病気を広めているという噂が広がり、3都市のコミュニティはペストと虐殺によって多くの住民を失った。いずれも数年でユダヤ人の帰還が認められ、破壊された建物は修復され、ヴォルムスのシナゴーグのように一部はゴシック様式で建て替えられた。

1390年頃から神聖ローマ帝国内の都市において、ユダヤ人の追放が目立ちはじめた。追放は自治体とコミュニティとの関係や、君主や市の方針、コミュニティの政治力や外交力に大きく左右された。マインツでは1438年に評議会がユダヤ人の追放を決定したが、マインツ大司教の力で決定が覆って帰還が許された。しかし、ユダヤ人墓地の墓石は要塞を造るために持ち去られ、多くが失われた。1470年にはマインツ大司教であるナッサウのアドルフ2世によってユダヤ人の大司教区全域からの追放が決定し、コミュニティは消滅した。シナゴーグがキリスト教の教会堂に改築されるなど、コミュニティの跡地は町に取り込まれた。1583年に新しいコミュニティが建設されたが、17世紀のユダヤ人条例によってゲットー(ユダヤ人を隔離・収容した居住区)に追いやられた。

シュパイアーでは1405年頃から追放と帰還が繰り返され、15世紀後半にすべてのユダヤ人が町を去った。シナゴーグは兵器庫に改造され、プファルツ戦争(1688~97年、大同盟戦争)中の1689年にフランス王ルイ14世の侵攻を受けて焼失した。墓地についても多くの墓石が建材として持ち去られ、中世の墓地は失われた。その後、ユダヤ人は町に戻ったが、旧コミュニティが再興されることはなかった。

ヴォルムスでもユダヤ人の追放はたびたび起こったが、コミュニティは例外的に20世紀まで継続した。ヴォルムスのコミュニティはキリスト教誕生以前から存在するという伝説があり、ローマ時代のゲルマン民族に対する防衛戦での活躍も伝えられていた。そのためヴォルムスのシナゴーグには神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の王妃ビアンカ・マリアをはじめ多くの貴人が訪れた。1615年に反ユダヤ主義運動が活発化してシナゴーグやシュルが被害を受けたが、翌年には皇帝やプファルツ選帝侯の仲介で帰還が認められた。このときの再建でコミュニティにルネサンス様式が導入された。プファルツ戦争ではシュパイアーと同様、1689年に侵略され、多くの建物が焼失した。ユダヤ人は一時メスなどに退避していたが、1699年に戻ってシナゴーグなどを修復した。戦後、ヴォルムスの城壁は撤去され、ユダヤ人墓地が城壁跡に拡大された。こうした困難の中でもヴォルムスのコミュニティは一帯で指導的な立場を維持し、ユダヤ文化とユダヤ教神学の中心地として多くのユダヤ人を集めた。

ナチス=ドイツが政権を担った1933~45年、ヘブライ語で「滅亡・消滅」を意味する「ショア "Shoah"」と呼ばれる大弾圧が行われた。ドイツのコミュニティの多くが破壊され、ユダヤ人はゲットーに連れ去られた。900年の歴史を誇るヴォルムスのコミュニティも1938年に破壊された。この年に破壊されたシナゴーグは1,400を超えるといわれる。さらに、第2次世界大戦(1939~45年)中の1944~45年の空襲で大きな被害を受けた。ただ、墓地についてはこの災厄を免れることができた。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は4件で、シュパイアーのコミュニティ跡である「シュパイアーのユダヤ人地区」、ヴォルムスのコミュニティ跡である「ヴォルムスのシナゴーグの複合体」、ヴォルムス・コミュニティの墓地である「ヴォルムスの旧ユダヤ人墓地」、マインツ・コミュニティの墓地である「マインツの旧ユダヤ人墓地」となっている。

「シュパイアーのユダヤ人地区」はドイツ語で「ユーデンホフ "Judenhof"」と呼ばれる場所で、城郭都市の中心部に築かれたユダヤ人コミュニティの跡が残されている。主な建物は、1104年創建のシナゴーグと中庭・女子学校、1128年に造られた沐浴場ミクワー、13世紀に建設された女性用礼拝堂のシュル、14世紀に築かれたユダヤ教の宗教学校イェシーバーで、これらの建物の修復跡には1096年や1348年のポクロムの爪跡が残されている。女性用の礼拝堂を特別に用意するのが中世のアシュケナジムのコミュニティのひとつの特徴で、アシュケナジムによる最初期のシナゴーグとロマネスク様式のミクワーとともに、本遺産が高く評価される特徴となっている。

「ヴォルムスのシナゴーグの複合体」はヴォルムス・コミュニティのシナゴーグを中心とした一帯で、12世紀建設のシナゴーグと庭園・ミクワー、13世紀のシュル、17世紀のイェシーバーの跡が残されている。これら以外の建物は第2次世界大戦後の再建だ。シナゴーグの創建は1034年で、1096年のポグロムで損傷して1174~75年に現在の場所に建て替えられた。現在の建物の基礎はこの時代のもので、上部構造は1961年に再建された。シュルは13世紀の創建で、17世紀と19世紀に増築されている。コミュニティ・ホールとして使用されていたラシ・ハウス(ラシはユダヤ教神学者)は11世紀以来の歴史を持つが、中世の様子を伝える地下構造以外は1982年に再建されている。現在は博物館として公開されている。

「ヴォルムスの旧ユダヤ人墓地」は中世の城壁のすぐ外側に築かれたヴォルムス・コミュニティの墓地で、歴史的な墓石の並ぶハイリガーザンドや、タハラ・ハウスとバロック様式の中庭、新墓地などからなる。ハイリガーザンドには約2,500の墓石があり、836は中世のもので、アシュケナジムの埋葬文化の歴史を記録している。タハラ・ハウスは遺体を浄化するための施設で、1615年のポグロムで破壊されてすぐに再建された。現在の建物はナチス=ドイツに破壊された後、1950年代に再建されたものだ。新墓地も含めると一帯は11~20世紀にかけて墓地としてありつづけた。

「マインツの旧ユダヤ人墓地」はドイツ語で「ユーデンザンド "Judensand"」と呼ばれるヨーロッパ最古のユダヤ人墓地で、中世の城壁のミュンスター門の西に位置していた。墓地の歴史は1012年頃までさかのぼると見られるが、ユダヤ人コミュニティは15世紀に消滅し、墓石の多くは建材として持ち去られた。それでも中世の約180の墓石が残されており、記念墓地には一度は失われた墓石が戻され収集されている。また、新墓地は1,500以上の墓石を有し、18~19世紀のユダヤ人の墓が並んでいる。新旧の墓地を合わせると11~19世紀の間、墓地として使用されつづけており、墓地と墓の変遷が刻まれている。

■構成資産

○シュパイアーのユダヤ人地区

○ヴォルムスのシナゴーグの複合体

○ヴォルムスの旧ユダヤ人墓地

○マインツの旧ユダヤ人墓地

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

本遺産は中世盛期のユダヤ人のディアスポラにおける先駆的なコミュニティ・センターと墓地である。その形状とデザインはアルプス山脈以北の中央ヨーロッパやフランス北部、イングランドのユダヤ建築や宗教建築・埋葬文化に多大な影響を与えた。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

本遺産はヨーロッパ・ユダヤ文化の伝統とアイデンティティの形成に独創的で卓越した証拠を提示するものである。また、アシュケナジムの継続的な文化的伝統の形成段階における深遠な発展を目撃することのできる類のない遺産である。構成資産のコミュニティ・センターと墓地群はアシュケナジムの初期の宗教遺跡として際立った建造物群を構成しており、特有の文化的アイデンティティの創造に大きく寄与した。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

本遺産はアシュケナジムと呼ばれるユダヤ人の生活文化の発祥地であり、ディアスポラによって中世ヨーロッパに定住したユダヤ人の主要グループと直接かつ明白に関係している。アシュケナジムの文化的成果を証明する遺産は稀有であり、これに匹敵するユダヤ人コミュニティ・センターと墓地は他に存在しない。また、シュムの遺産群はユダヤ人のアイデンティティと、ユダヤ人とキリスト教徒の関係を反映する重要な場所でもある。1220年前後に制定されたシュムのコミュニティ法令は中世のアシュケナジムにおけるユダヤ人コミュニティの法令を集大成したものとなっている。10~13世紀にかけて、シュムの学者や詩人・コミュニティ指導者たちが記した著作物はアシュケナジムのユダヤ教における文化的発展の岐路を示す重要な証拠であり、その後の文化に大きな影響を与えた。そうした著作物は今日に至るまでユダヤ教の伝統の一部として伝えられている。

■完全性

本遺産は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでいる。シュパイアー、ヴォルムス、マインツの各都市におけるシュムの法令に密接に結び付いた文化的伝統を示しており、それぞれの構成資産が本遺産の完全性に大きく貢献している。いずれの構成資産も開発や放棄といった脅威に直面しておらず、ラインラント=プファルツ州の記念物保護条例に基づいたもっとも強力な法的保護を受けており、現状の保護の継続に十分な資金と地元住民の協力が得られている。

■真正性

本遺産の形状とデザイン、基礎的なレイアウト、空間構成、構成資産の各要素間の相互関係や視覚的関係は、明確で曖昧さのない形で中世盛期の重要で影響力のある発展を証明している。11~14世紀の歴史的発展を反映する諸要素は適切に保存され、17世紀や20世紀の改修も丁寧に行われており、重要性を保持している。18世紀半ばからそれぞれの構成資産で各要素の科学的な調査が行われ、その重要性が次第に認識されるようになった。19世紀後半には早くも物理的な保護に向けた措置が導入されている。既存の資料は豊富であり、研究も継続的に行われているため、この遺産に関する知見は時を経るごとに増加している。

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