ベルギーとフランスの鐘楼群

Belfries of Belgium and France

  • フランス/ベルギー
  • 登録年:1999年、2005年重大な変更
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:?
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、中央左の巨大な塔がベルギーのアントウェルペン、オンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ大聖堂のゴシック様式の鐘楼
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、中央左の巨大な塔がベルギーのアントウェルペン、オンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ大聖堂のゴシック様式の鐘楼、右下はシント=パウルス教会 (C) Ad Meskens
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ベルギーはイーペルのラーケンハル、左の塔がゴシック様式の鐘楼
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ベルギーはイーペルのラーケンハル、左の塔がゴシック様式の鐘楼 (C) Marc Ryckaert
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ベルギーのメヘレンの旧ホール。左から大評議会宮殿、鐘楼、ラーケンハルが連なっている
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ベルギーのメヘレンの旧ホール。左から大評議会宮殿、鐘楼、ラーケンハルが連なっている。ゴシック様式をベースにバロック様式や地元の様式も見られる (C) Ad Meskens
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、左がベルギーはシント=トロイデンのルネサンス様式のスタッドハウスとその鐘楼、右がオンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ教会
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、左がベルギーはシント=トロイデンのルネサンス様式のスタッドハウスとその鐘楼、右がオンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ教会 (C) Charles01
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ベルギーのシャルルロワのスタッドハウス、右が新古典主義様式とアール・デコ様式の鐘楼
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ベルギーのシャルルロワのスタッドハウス、右が新古典主義様式とアール・デコ様式の鐘楼 (C) Jmh2o
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、フランスのコミーヌのネオ・ルネサンス様式のオテル・ド・ヴィル、右がその鐘楼
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、フランスのコミーヌのネオ・ルネサンス様式のオテル・ド・ヴィル、右がその鐘楼 (C) Hotczar3
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ゴシック様式の尖頭群が美しいフランスのドゥエーのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ゴシック様式の尖頭群が美しいフランスのドゥエーのオテル・ド・ヴィルの鐘楼 (C) Remi Mathis
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、フランスのリールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、フランスのリールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼。アール・デコ様式で鉄筋コンクリートを使用して築かれている (C) Velvet
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、フランスはアラスのゴシック様式のオテル・ド・ヴィル、中央の塔がその鐘楼
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、フランスはアラスのゴシック様式のオテル・ド・ヴィル、中央の塔がその鐘楼 (C) PtrQs
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ネオ・ルネサンス様式で築かれたフランスはカレーのオテル・ド・ヴィルの鐘楼。建物の前の彫刻はオーギュスト・ロダン作『カレーの市民』
世界遺産「ベルギーとフランスの鐘楼群」、ネオ・ルネサンス様式で築かれたフランスはカレーのオテル・ド・ヴィルの鐘楼。建物の前の彫刻はオーギュスト・ロダン作『カレーの市民』 (C) Radler59

■世界遺産概要

ベルギー北部のフランドル(フランデレン)地方と南部のワロン地方の鐘楼33基、フランス北東部のノール=パ・ド・カレー地方とピカルディー地方の鐘楼23基、計56基をまとめた世界遺産。本遺産はまず1999年にベルギーの32基の鐘楼をまとめた「フランドルとワロンの鐘楼群 "The Belfries of Flanders and Wallonia"」として世界遺産リストに登録され、2005年にフランスの23基とベルギーのジャンブルーの鐘楼の計24基を加えて拡大され、現在の名称と構成になった。

「鐘塔 "bell tower"」は鐘を設置するための独立した塔状の施設で、もともとは都市のドンジョン(キープ。中世の城の主要部分となる主塔あるいは天守)や望楼として、あるいは都市を象徴する教会堂の塔として建設された。しかし、上記の地方では都市が封建領主から独立すると自治都市の権威と富の象徴となり、独立して建設されたり、市庁舎や市門・タウンホールといった都市の中心的な施設の頂部に塔状の「鐘室 "belfry"」が設置された。日本語の「鐘楼」、英語の "belfry"、フランス語の "beffroi" は現在、鐘塔と鐘室の両方の意味で使用されている。

構成資産の56基の鐘楼群には11~20世紀に築かれたあらゆるタイプの都市型の鐘楼が含まれており、ロマネスク様式からゴシック様式、ルネサンス様式、バロック様式、新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)、歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興したゴシック・リバイバル様式やネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式等)、モダニズムまで、あらゆる建築様式を見ることができる。

なお、ブルッヘ(ブルージュ)の鐘楼とホールについてはベルギーの世界遺産「ブルッヘ歴史地区」にも含まれている。

○資産の歴史

 西ヨーロッパにはエルベ川やライン川、セーヌ川、ローヌ川といった大河があって無数の支流や中小河川に恵まれており、古代からこれらを利用した河川舟運が盛んだった。西ヨーロッパ北部に塔が盛んに建てられるようになったのは、8~11世紀に北ヨーロッパを拠点とするゲルマン系ノルマン人、いわゆるヴァイキングがヨーロッパ各地に進出した時代といわれている。ロングシップと呼ばれる喫水の浅い(深く沈まない)船で北海から川をさかのぼって侵入するヴァイキングに対し、川沿いの町や村は木造の望楼を建てて監視した。

11~13世紀頃、十字軍が中東のエルサレム(世界遺産)に遠征を行い、これをきっかけに東方貿易(レヴァント貿易)が発達した。同様に、北ヨーロッパや東ヨーロッパでも北方十字軍やヴァイキングの影響で交流が進み、北海・バルト海貿易が発展した。内陸部では地中海商業圏と北方商業圏を結ぶ交易が活発化し、金融業の参入もあって規模が拡大し、結果的にヨーロッパ全域で商業が飛躍した(商業ルネサンス)。

この時代に発達したのが都市だ。荘園で農奴を使って農業を続ける諸侯や騎士といった封建領主に対し、都市の市民は商業や手工業・金融業で交易の中心を担った。商業には貨幣が使用されて貨幣経済が浸透し、貨幣を蓄えることで一部の市民は封建領主よりも豊かになった。特に繁栄したのが毛織物業が盛んなフランドル地方で、ブルッヘ(世界遺産)、アントウェルペン(アントワープ)、ガン(ヘント)、リール、イーペル(イープル)といった都市が発展した。フランドル地方が栄えるとこれらと地方を結ぶ河川舟運や陸運も進化を遂げ、ベルギーやドイツ、北フランスの交易都市、ブリュッセル(世界遺産)やトゥルネー、パリ(世界遺産)、プロヴァン(世界遺産)、リヨン(世界遺産)、ケルン(世界遺産)、ニュルンベルク、アウクスブルク(世界遺産)などが栄えた。

都市が力を持ちはじめると自治や自由な貿易に対する要求が高まり、自治権を獲得して自治都市となった。フランドル地方の場合、西フランク王国、後にはフランス王国の下でフランドル伯が一帯を治めていたが、12世紀以降は有力都市に特権を与えて自治を認めた。こうした自治都市は市壁で街を囲んで城郭都市を形成し、軍を保持し、お互いを守るため都市同士で同盟を組んだ(都市同盟)。また、都市では商工業者が「ギルド」と呼ばれる同業者組合を組織して業界を守った。一例がハンザ同盟で、商人のギルド(商人ハンザ)として誕生し、都市同盟(都市ハンザ)に発展した。

都市を守るために、封建領主はカストラやカストルムと呼ばれる城塞や要塞・城砦を建設し、城郭都市では眺めのよい丘にドンジョンを建設して天守とした。こうした軍事施設は自治都市に有料で貸し出されたが、西ヨーロッパの政治状況が安定するとカストラやドンジョンの重要性は減少し、放棄されたり市民共同体であるコミューンが引き継いで整備した。

封建領主と並んで中世の人々を支配していたのが大司教や司教をはじめとする教会勢力だ。教会は教会堂の頂部や教会堂に隣接して塔を建設し、鐘を据えて人々にさまざまな連絡を行った。特に一帯を治める大司教や司教の座がある大聖堂は地域の教会勢力の象徴であり、それにふさわしい規模とスタイルで築かれた。

しかし、都市の権力者が封建領主や教会勢力からコミューンに移ると、中心となる建造物は城塞や教会堂から市民生活の場である市庁舎やタウンホール・市場などに移行した。市民は都市の象徴として立派な鐘楼を求め、市の施設の一部に組み込んだり、独立して建設した。こうした鐘楼には都市や宗主国の紋章や、都市を保護する守護天使や偉人・動物などのキャラクターや特産物の文様などが刻まれ、内部には市議会の議場やダンジョン(地下牢)などが設けられた。

13世紀以前の鐘楼は軍事施設としての望楼の色彩が強く、ぶ厚い壁とバットレス(控え壁)を持ち、窓や装飾がほとんどないズングリとした外観を持つが、時代を下るほどに細く高くなって装飾的な要素が増し、ゴシック・ルネサンス・バロックといったスタイルの影響を多分に受けて飾られた。こうした鐘楼は時代時代の改修・改装を経て、さまざまな様式が混在していることが多い。特にふたつの世界大戦で破壊された鐘楼の一部はモダニズムの要素も加えて修復された。

○資産の内容

56基の鐘楼を簡単に紹介する。なお、「スタッドハウス」はオランダ語で市庁舎や町役場・議場を示し、フランス語の「オテル・ド・ヴィル」もおおよそ同様の意味となる。「スタッツハル」はシティホールやタウンホールといった市民のための屋根付きの施設で、「ラーケンハル」はフランドル地方で毛織物の取引を行った織物市場や織物会館を示す。また、オランダ語の「シント」、フランス語の「サン」は「聖人」を意味し、「シント=○○」「サン=○○」は「聖○○」と訳されることもある。

<ベルギーの構成資産>

「アールストのシェーペンハウスの鐘楼」の「シェーペンハウス」は市議会のことで、鐘楼は「アールストの鐘楼」とも呼ばれる。13世紀に築かれた市庁舎に1460年に設置されたゴシック様式の鐘楼で、正面にフランドル伯とアールスト市長の彫像を掲げている。四角形の鐘塔の頂部に八角形の鐘室を掲げており、52の鐘を使用したカリヨン(鐘を組み合わせた楽器)を備えている。

「アントウェルペンのオンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ大聖堂」の「オンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ」はフランス語で「ノートル=ダム」、日本語で「我らの貴婦人」を意味し、聖母マリアを示す。1352~1521年に建設されたゴシック様式の教会堂で、平面119×67mはベルギーのゴシック建築として最大を誇る。西ファサード(ファサードは正面)のウェストワーク(教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)の双塔が鐘楼で、北塔は高さ123mでベネルクス地方(ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一帯)でもっとも高い鐘楼として知られるが、南塔は未完成で高さ65.3mに留まっている。16世紀はヨーロッパの中心となった国際金融都市アントウェルペンの黄金時代で、大聖堂と鐘楼はその象徴となった。

「アントウェルペンのスタッドハウス」はフランドルの建築家コルネリス・フロリス・デ・フリーントらの設計で1561~64年に建設されたルネサンス様式の市庁舎だ。南東のファサードの中央頂部に鐘楼が設けられており、頂部に黄金のワシ、上部に聖母マリア像を掲げ、アントウェルペン辺境伯の紋章やブラバント公の紋章、スペイン王フェリペ2世の紋章などを並べてその歴史を物語っている。

「ブルッヘの鐘楼とホール」が位置するマルクト広場は毛織物市場だった場所で、1240年頃に木造のスパイア(ゴシック様式の尖塔)を冠した四角形の石造の鐘楼が建設された。1483~87年に四角形の鐘楼の頂部に八角形の塔が増築され、1741年にスパイアが焼失すると、1822年に現在見られるゴシック・リバイバル様式の王冠状の頂部が設置され、高さは83mに達した。鐘楼は織物の売買を行った旧ラーケンハルに囲まれており、この市場の塔としても機能していた。鐘楼とその周辺はベルギーの世界遺産「ブルッヘ歴史地区」の資産内に位置している。

「鐘楼のあるデンデルモンデのスタッドハウス」は1337年に織物を取引するゴシック様式のラーケンハルとして建設され、1377年に鐘楼が増築され、15世紀に市庁舎となった。鐘楼の高さは40.3mで、四角形の鐘塔の頂部に八角形の鐘室を持ち、カリヨンを備えている。

「鐘楼のあるディクスムイデのスタッドハウス」は15世紀に建設されたゴシック様式の市庁舎で、16世紀に階段破風、18世紀にはバロック様式のファサードが設置された。19世紀にブルッヘの建築家ルイ・デラセンセリーがゴシック・リバイバル様式で改装している。鐘楼は四角形で頂部に八角形の鐘室を頂いており、カリヨンを内蔵している。

「鐘楼のあるエークロのスタッドハウス」は17世紀に建設されたルネサンス様式の市庁舎で、伝統的な階段破風を持ち、赤レンガと白い石灰岩が鮮やかなコントラストを描いている。高さ35mの鐘楼は都市の自由と民主主義を象徴して1932年に建てられた比較的新しいもので、第1次世界大戦の犠牲者に捧げられている。スタッドハウスと調和するようにネオ・ルネサンス様式で築かれており、四角形の頂部に八角形の塔が連なる2層構造となっている。

「ヘントの鐘楼、ラーケンハル、マメロッカー(旧牢獄)」の鐘楼は高さ91mを誇るヘントのランドマークで、1313年頃にゴシック様式で建設が開始され、14世紀中に頂部に木製のスパイアを設置してヘントのドラゴンが掲げられた。スパイアは1851年にゴシック・リバイバル様式の鋳鉄製に取り替えられている。ラーケンハルは1425~45年頃に建設されたゴシック様式の長方形の織物会館で、市場やギルドの事務所として使用された。マメロッカーは1741年に建設されたバロック様式の建物で、警備室や刑務所として機能した。頂部に掲げられたレリーフは「カリタス・ロマーナ(ロマーナの慈愛)」と呼ばれるローマ時代の物語を描いた作品で、餓死刑に処された父親にひそかに母乳を与えて救った娘の物語が刻まれている。

「ヘーレンタルスの旧スタッドハウス/ラーケンハル」はもともと市庁舎だった長方形の建物で、15世紀に織物会館としてゴシック様式で再建された。1512年に焼失して1534年に再建され、建物の北端に高さ35mの鐘楼が設置された。鐘楼は赤レンガ造で白い石灰岩のストライプが入っており、直下にあるラーケンハルの階段破風も同様にデザインされている。

「鐘楼のあるイーペルのラーケンハル」は1200~1304年頃に建てられたゴシック様式の織物会館で、南ウイング中央に鐘楼がそびえている。鐘塔は四角形で頂部の四角にタレット(壁から上に伸びる塔)、中央にスパイアを掲げており、高さは70mに達する。イーペルは有力な織物生産地であり、その取引所でもあるラーケンハルには都市の誇りが注ぎ込まれた。第1次世界大戦でひどく損傷し、1967年にようやく修復が終了した。

「コルトレイクのタワーホールの鐘楼」は1307年頃にマルクト広場に建設されたゴシック様式の鐘楼で、1411年に隣接してラーケンハルが建てられた。19世紀にラーケンハルをはじめとする周囲の建物は解体されたが、市民の強い要望と抗議を受けて鐘楼は残された。鐘楼は切石と赤レンガを組み合わせた重厚な造りで、頂部の四角に4基のタレット、中央にスパイアを掲げている。スパイアの頂部の黄金像はローマの商業の神メルクリウス、カリヨンの2体の黄金像は最初の市民と伝わるマンテンとカレだ。

「ルーヴェンのシント=ピーテルス教会の鐘楼」のシント=ピーテルス教会はイエスの十二使徒のひとりであるペトロに捧げられた教会堂で、15世紀にスルピキウス・ファン・フォルストをはじめブラバントの名建築家が集ってゴシック様式で建設した。高さ150mの中央塔を中心に3基の塔が並び立つウェストワークの建設が予定されていたが、地盤の脆弱性などから半分も完成に至らず、未完成のまま建設は中止された。鐘楼は教会堂の施設だが、都市を象徴する巨大な石造塔の建設は市の要請でもあった。

「リールのスタッドハウスと鐘楼」は1367年頃にラーケンハルとして建設された建物で、1418年にラーケンハルが移転して市庁舎となった。ゴシック様式で建設されたが、18世紀に大規模な修復を受けた際にロココ様式で改装された。市庁舎の頂部のペディメント(頂部の三角破風部分)には市の紋章が掲げられている。隣に立つ鐘楼はゴシック様式で、高さ42.5mを誇る。

「鐘楼のあるロー=レニンゲの旧スタッドハウス」は1565~66年に築かれたルネサンス様式の市庁舎で、フランドル特有のレンガ造と階段破風が中世の街並みによく調和している。北西端にそびえる四角形の鐘楼は6層で、頂部の四方にやはり階段破風を備えている。現在はホテルやレストランとして営業を行っている。

「鐘楼のあるメヘレンの旧ホール(現・スタッドハウス)」はマルクト広場の東に立つ大評議会宮殿、鐘楼、ラーケンハルの3棟が連なる建物だ。大評議会宮殿は最高裁判所の機能を果たした大評議会が入っていた建物で、1526年にゴシック様式で建設された。長らく未完成のまま使用されていたが、1900~11年にゴシック・リバイバル様式で完成された。鐘楼は14世紀のゴシック様式だが、ペディメントなどにバロック様式の要素が見られる。当時はもっと大きかったが、北側が大評議会宮殿のために取り壊された。ラーケンハルは1311~26年に築かれた織物会館で、フランドル特有のユニークな破風が見られる。

「メヘレンのシント=ロンバウツ大聖堂の鐘楼」の大聖堂はメヘレンで殉教した聖ランボルド(メヘレンのランボルド)に捧げられた教会堂で、1200年頃に建設が開始され、1312年に奉献された。118×42.2mというゴシック様式の巨大な教会堂で、彫刻やステンドグラスなど数多くの芸術作品で装飾されている。1452~1520年に建設された鐘楼は167mという桁外れの規模で計画されたが、宗教改革の影響や地盤が脆弱であったことなどから97.3mに留められた。それでもフランドル地方では有数の高さを誇る。

「メーネンのスタッドハウスと鐘楼」のスタッドハウスは16世紀後半に建設された石造の市庁舎で、宗教改革による中断を経て17世紀に完成した。同世紀中にその北東端の上部に5層の四角形・レンガ造の鐘楼が増築され、18世紀にさらにその上に3層の八角形・レンガ造の塔が増設された。

「鐘楼のあるニーウポールトのスタッツハル」は14世紀に穀物市場に隣接して建設されたゴシック様式のタウンホールで、長方形のホールの東ファサードに鐘楼を掲げた鐘楼ポーチが設けられた。鐘楼は四角形・5層のレンガ造で、高さ35mとなっている。第1次世界大戦で爆破されて大きな被害を受けたが、1921~23年に同様の形で再建された。

「鐘楼のあるアウデナールデのスタッドハウス」は1526~36年に建設されたゴシック様式の市庁舎で、南ファサード中央の4層のテラスの上に八角形の鐘楼がそびえている。鐘楼の頂部に立つ黄金像は都市の英雄・戦士ハンスで、神聖ローマ帝国の双頭のワシなどの紋章を掲げている。

「ルーセラーレのスタッドハウス、スタッツハル、鐘楼」は1769~71年に建てられた「L」形の市庁舎で、バロック様式(ルイ15世様式)でデザインされた。歴代の市長の肖像画を飾る議場などはロココ様式で華やかに装飾されている。中央にルーセラーレのランドマークである四角形の鐘楼がそびえており、頂部に円錐形の尖塔を掲げている。

「塔のあるシント=トロイデンのスタッドハウス」の鐘楼は17世紀初頭に建設された初期バロック様式の要素を備えたルネサンス様式の建物で、高さ約40mの四角形の鐘塔の頂部に八角形の鐘室を備えている。1754~55年に建築家エティエンヌ・ファイエンによってバロック様式の市庁舎が建設され、その内部に組み込まれた。東にオンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ教会の鐘楼がそびえており、ふたつの塔がシント=トロイデンのスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)を彩っている。

「ティールトのタワーホールあるいは鐘楼、ホール、シュケーペンカマー」のタワーホールは1558~60年に築かれたルネサンス様式の建物で、上部に階段破風、下部にアーケード(屋根付きの柱廊)を備え、赤レンガに白い石灰岩のラインがよく映えている。高さ36mの鐘楼は1620年に増築されたもので、フランドルの著名な鐘職人ヨリス・デュメリーのカリヨンを備えている。

「市塔のあるティーネンのシント=ゲルマヌス教会」は12世紀に建設されたロマネスク様式の教会堂をベースとし、16~17世紀にゴシック様式で改築された。このため重厚な壁やバットレスといったロマネスクの要素と、大きな窓や尖頭アーチなどのゴシックの要素が混在している。西ファサードは鐘楼ポーチで中央に鐘楼がそびえており、頂部に八角形の鐘室を備えている。

「市塔のあるトンゲレンのオンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ・バシリカ」は4世紀創建との伝説が伝わる歴史ある教会堂で、現在見られるゴシック様式の建物は1240~1536年にかけて建設され、1677年の大火を受けて改修された。ラテン十字形の教会堂の西にウェストワークのように密着して鐘楼が立っている。こちらもゴシック様式で、高さ55.55mで、1階はアーケードとなっている。

「鐘楼のあるフールネのランドハウス」の「ランドハウス」は英語のカントリーハウスのことで、貴族や富農が地方に築いた豪邸を示す。フールネの中心であるグラン=プラス(大広場)に築かれたルネサンス様式のランドハウスで、16世紀後半に築かれ、都市の象徴となっていた。やはりルネサンス様式の鐘楼はランドマークとして1617~28年に増築されたもので、四角形の鐘塔の頂部に八角形の塔がそびえており、上層にはバロック様式の影響も見られる。

「ザウトレーウのシント=レオナルドゥス教会」は1125年に築かれたベネディクト会の礼拝堂を前身としており、現在見られる建物は1231年にロマネスク様式で建設が開始され、後にゴシック様式に変更されて16世紀まで作業が続いた。西ファサードに見られる重厚な壁やバットレスはロマネスク様式だが、大きな窓や尖頭アーチなどはゴシック様式で、両様式が混在している様子が見て取れる。2基の四角形の鐘楼がそびえているが、未完成で左右非対称となっている。また、教会堂の十字形の交差部にフレッシュ(屋根に設置されたゴシック様式の尖塔。スパイアの一種)がそびえている。

「バンシュのスタッドハウスの鐘楼」のスタッドハウスは14世紀頃の建設と見られるゴシック様式の市庁舎だ。タウンホールや市場・裁判所などさまざまな用途に使用され、町の中心を担った。鐘楼は高さ約35mで、四角形の鐘塔の頂部に八角形の鐘室を備えている。16世紀にフランス軍の攻撃で破壊され、18世紀に新古典主義様式で改装されたが、19世紀に元の姿に近い形で修復された。

「シャルルロワのスタッドハウスの鐘楼」付近はもともと要塞があった場所で、18世紀に市庁舎が建てられた。現在の建物は1936年に新古典主義様式とアール・デコ様式の折衷で建設されたもので、鐘楼はシンプルな直線を主体としたアール・デコ様式となっている。鐘楼の高さは70mに達し、四角形の鐘塔の上部に八角形のモダンな頂部を備えており、中層はレンガ、上層と下層は切石で築かれている。

「モンスの鐘楼」はベルギーでは珍しいバロック様式の鐘楼で、オランダの建築家ルイ・ルドゥの設計で1662~69年に建設された。高さ87mを誇るモンスのランドマークで、頂部からはモンスの街並みを見下ろすことができる。

「ナミュールの鐘楼」はもともとナミュールの市壁に1388年に築かれたサン=ジャックの塔と呼ばれた側防塔(城壁塔。壁と一体化した防衛塔)で、市壁は18世紀はじめに撤去されたが、1746年に市の鐘楼として改築された。切石を円形に積み重ねた堅牢な造りで、頂部に八角形の鐘室が備えられている。都市の鐘楼としては珍しくきわめて地味な造りだが、隣にはバロック様式の華やかな旧マーケットホールが立っており、鐘楼とユニークなコントラストを描いている。

「チュワンの鐘楼」はもともと聖堂参事会教会の鐘楼だったもので、1153~64年にロマネスク様式で建設された。当時、この地はリエージュ公国の版図だったが、同国唯一の鐘楼だったという。17世紀にバロック様式の屋根や塔が設置されて高さ60mに達し、現在の姿となった。

「トゥルネーの鐘楼」は12世紀末にフランス王フィリップ2世が建設の許可を与えたベルギー最古級の鐘楼で、このとき高さ30mの四角形の塔が建設されたという。1294年にゴシック様式で大幅に増築されて高さは70mに達し、頂部にスパイアを頂いた。当初は望楼だったが、やがて都市と自治の象徴となり、時計塔やタウンホール・刑務所として使用されるようになった。19世紀に改修されてゴシック・リバイバル様式の装飾が施されている。

「ジャンブルーの鐘楼」の創建は10世紀にさかのぼり、ジャンブルー修道院の修道院教会の鐘楼として建設された。これをベースに12世紀にロマネスク様式で建て替えられ、15世紀には時計を設置して時計塔となった。この頃には都市の象徴となり、市の施設としても使用された。1796年に修道院が廃院となったが鐘楼は保存され、市の鐘楼として修復された。現在見られる頂部の八角形の鐘室や球根のような塔は1907年に設置されたもので、これで高さ35mとなった。

<フランスの構成資産>

「アルマンティエールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」の創建は13世紀と伝わるが、15世紀にフランス王ルイ11世によって破壊された。鐘楼は1510年頃にルネサンス様式で再建され、オテル・ド・ヴィルが建設されて17世紀に一体化された。第1次世界大戦中の1918年に大きな被害を受けたが、戦後、建築家ルイ・マリー・コルドニエが中心となって忠実に復元された。高さ67mを誇るレンガ造の鐘楼で、頂部からは雄大な景色を眺めることができる。

「バイユールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」の場所には古くから木造の望楼が立っており、13世紀に石造に建て替えられた。その後、幾度もの破壊と再建を繰り返した後、1932年に建築家ルイ・マリー・コルドニエによってネオ・ルネサンス様式で再建された。高さ62mのレンガ造で、13世紀に築かれたゴシック様式のホールがいまなお伝えられている。

「ベルグの鐘楼」の創建は1112年とされ、現在の鐘楼のベースは14世紀にゴシック様式で築かれた。その後も16世紀に再建され、第2次世界大戦中の1944年にはナチス=ドイツによって爆破された。900年以上の歴史を持つ都市の象徴であることから1958~61年にゴシック・リバイバル様式で再建され、おおよそゴシック様式の外観を取り戻した。ただ、54mあった高さが47mに縮小されたり、ステンドグラスがないなど、一部のデザインが変更されている。

「カンブレのサン=マルタン教会の鐘楼」の創建は11世紀と伝わっており、幾度もの破壊と再建の後、1447~74年にゴシック様式で再建された。1732~36年に現在見られる最上層部とドームが冠され、高さは62mに達した。頂部に掲げられた4体の彫像は1923年に設置された彫刻家マルセル・ゴーモンの作品で、カンブレを代表する偉人を象っている。

「コミーヌのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」は13世紀の創建で、17世紀に市庁舎が建設されてその鐘楼となった。度重なる再建が行われており、現在見られる建物は第1次世界大戦を経て破壊された鐘楼を、ルイ・マリー・コルドニエが17世紀の鐘楼を模して1922~32年に再建したものだ。ネオ・ルネサンス様式で、高さ22mの四角形のレンガと石灰岩造の鐘塔の四角にタレットを有し、頂部には鐘室を含む長球や釣鐘状の構造物が連なるユニークな外観を呈している。これらを総合した全高は58mとなっている。

「ドゥエーのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」は中世に建設された木造の望楼がはじまりとされ、1380年に市庁舎とともに石造の鐘楼の建設が開始され、1475年に完成した。高さ54mのゴシック様式で、頂部に美しい尖頭を冠しており、その優美な姿から作家ヴィクトル・ユゴーが「私が見たもっとも美しい鐘楼」と絶賛したことで知られる。

「ダンケルクのサンテロワ教会の鐘楼」は12~13世紀に建設された望楼が前身で、1450年頃にサンテロワ教会が建設されるとその鐘楼としてゴシック様式で改修され、高さ58mまで拡張された。教会堂は1558年に破壊されて1591年に再建されたが、鐘楼はありつづけ、市の鐘楼として機能した。19世紀に修復された際にゴシック・リバイバル様式の装飾が加えられている。

「ダンケルクのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」の市庁舎は13世紀の創設と伝わっており、破壊と再建が繰り返されてきた。現在のネオ・ルネサンス様式の建物は、17世紀のルネサンス様式の市庁舎を模してルイ・マリー・コルドニエが1897~1901年に復元したもので、赤いレンガと白い石灰岩が美しいコントラストを描いている。フランスのガラス職人フェリックス・ゴーダンが1898年に制作した壮大なステンドグラスはよく知られている。鐘楼は高さ75mで、四角形の鐘塔の頂部に八角形の尖頭を持ち、4基のタレットが四角に設けられている。東ファサード中央に掲げられたレリーフは彫刻家ルネ・ブトリーによるルイ14世騎馬像で、ダンケルクがフランスに属していることをアピールしていた。

「グラヴリーヌの鐘楼」は1608年に創設された鐘楼で、状態が悪化したため1821年に撤去された後、1822~27年に再建された。17世紀の姿を模しているが、厳密に再現されたわけではない。高さ27mで、四角形の鐘塔の頂部に八角形の鐘室を備えている。

「リールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」のオテル・ド・ヴィルは1847~59年に建設された市庁舎だが、第1次世界大戦中に破壊されたため、1924~32年にネオ・ルネサンス様式で再建された。再建の最中に鐘楼の追加が決定され、フランス初の鉄筋コンクリート造の鐘楼で、フランスでもっとも高い都市型の鐘楼として建設された。鐘楼は高さ104mを誇り、鉄筋コンクリート造ながら赤レンガを組み合わせるなど、アール・デコ様式をベースにフランドル地方特有の意匠が組み合わされている。

「ロスのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」はルイ・マリー・コルドニエの設計で1883~84年に建設されたネオ・ルネサンス様式の鐘楼だ。高さ38mの鐘楼は市庁舎とマッチした赤レンガと石灰岩のコントラストが美しく、頂部の4基のタレットと中央の鐘室・尖塔がユニークな外観を生み出している。

「エール=シュル=ラ=リのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」が立つ場所には12世紀以前から市庁舎と鐘楼が立っていた。現在見られる鐘楼は1716~24年にレンガや石灰岩を使って再建されたものだが、上層は1914年の火災で焼失し、1924~28年にコンクリートを使用して修復されている。鐘楼は高さ58.5mで、バロック様式とネオ・バロック様式を主体としており、頂部に八角形でドームを冠した鐘室を備えている。

「アラスのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」は都市の象徴とするために繊維会館に隣接して1463~1554年にゴシック様式で建設された。1914年にドイツ軍の砲撃を受けて破壊されたが、建築家ピエール・パケによって1927~31年に復元された。構造には鉄筋コンクリートも使用されているが、外観は以前のものとほとんど変わらない姿が再現されている。鐘楼は高さ75mで、四角形の鐘塔の頂部に八角形の鐘室を冠しており、ピナクル(ゴシック様式の小尖塔)をはじめ多数の装飾が見られる。

「ベテューヌの鐘楼」の創建は1346年と伝わっており、当初は木造の望楼だった。百年戦争の最中に火事で焼失し、1388年により堅牢な塔の必要性から砂岩で再建され、1437年に増築された。高さ33mの四角形の鐘楼で、頂部にユニークな尖塔を冠している。この尖塔は第1次世界大戦で破壊されたが、戦後に修復された。

「ブーローニュ=シュル=メールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」は12世紀に建設されたロマネスク様式のドンジョンが前身で、砂岩や石灰岩の切石を積み重ねて堅固に構築された。13世紀はじめに新しいドンジョンが建設されたことから鐘楼として改装された。1268年にフランス王ルイ9世の命令で上部が解体されたが、かえって鐘楼は都市の自治の象徴となり、翌年にはすみやかに再建された。もともと頂部には尖塔が立っていたが、18世紀に八角形の頂部が設置され、高さは35mとなった。

「カレーのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」のオテル・ド・ヴィルはカレーとサン=ピエールが合併したことを記念して建築家ルイ・デブルワーの設計で1912~25年に建設された市庁舎だ。ゴシック様式やルネサンス様式、地元の伝統的な様式を折衷させたネオ・ルネサンス様式の建物だが、構造には鉄筋コンクリートも使用されている。鐘楼は高さ75mで、四方に時計と黄金の騎士像を掲げている。市庁舎の西に設けられた彫刻はオーギュスト・ロダンの『カレーの市民』。

「エダンのオテル・ド・ヴィルの鐘楼」の創建は16世紀で、市庁舎の鐘楼として建設された。倒壊の危険から18世紀に撤去されたが、19世紀後半にクローヴィス・ノルマンの設計で再建され、1878年に完成した。16世紀のスタイルを踏襲しており、四角形の2層の塔の頂部に八角形の塔を登載した3層構造となっている。

「アブヴィルの鐘楼」は1209年に建設されたロマネスク様式の望楼をベースとしており、砂岩の切石を2m超の厚さで積み上げた堅牢な造りとなっている。15世紀まで望楼として使用された後、頂部に鐘室が設置されて鐘楼となった。四角形の鐘塔は高さ27mで、頂部のピラミッド形の鐘室を含めて高さ33mとなっており、議場や刑務所として使用されていた内部の部屋も残されている。

「アミアンの鐘楼」が最初に築かれたのはコミューンが成立した1117年頃で、フランスに対する堅牢な望楼として建設され、四角形の塔の上にコミューンの象徴である鐘楼が据えられた。鐘楼は1406~10年に再建されたが、上部構造が木造だったためたびたび焼失した。18世紀半ばに建築家ルイ・ベファラの設計で円筒形の石造塔とバロック様式のドームが載せられて高さ52mとなり、おおよそ現在の外観を獲得した。内部には議場や刑務所として使用されていた部屋が残されている。

「デュランのメゾン・コミュナールの鐘楼」はもともとドンジョンとして建設されたもので、「ボーヴァルの塔」と呼ばれていた。14世紀に拡張され、頂部に鐘室が据えられて鐘楼となった。高さ28mの赤レンガと石灰岩の下層はこの時代のもので、頂部の八角形の鐘室は1613年に設置された。

「リュシューの市門の鐘楼」は13世紀に建設された城門が前身で、14世紀に鐘室を備えて鐘楼を兼ねるようになった。城門と鐘楼を兼ねる鐘楼ポーチは珍しく、フランス北部では唯一の例となっている。1430年にジャンヌ・ダルクがルーアンに連行される際にここを通ったと思われるが、一説では一部が刑務所として使用されていたこの鐘楼に拘留されていたという。

「リューの鐘楼」はコミューンが成立してまもなくの1214年に築かれたゴシック様式の鐘楼で、当初からコミューンの象徴となっていた。百年戦争では望楼としても活躍したが、一部が破壊されて再建された。鐘楼は高さ29mでほぼ正方形、頂部の四角にタレットを有し、頂部にピラミッド形の鐘室と八角形の尖塔を掲げている。内部は議場や刑務所としても使用され、その跡が残されている。左右の建物は1860年に築かれたゴシック・リバイバル様式のホールだ。

「サン=リキエの鐘楼」のサン=リキエでは1126年にコミューンが成立し、自治の象徴として1283年に鐘楼が築かれた。15世紀にフランス王ルイ11世の侵略を受けて荒廃したが、16世紀前半に修復された。正方形の平面を持つ高さ18mの石造塔で、四方にバットレス、頂部の四角にタレットを持ち、頂部中央に鐘室を冠している。この鐘楼も内部にホールや刑務所があり、市によって使用されていた。

■構成資産

<ベルギーの構成資産>

  • アールストのシェーペンハウスの鐘楼
  • アントウェルペンのオンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ大聖堂
  • アントウェルペンのスタッドハウス
  • ブルージュの鐘楼とホール
  • 鐘楼のあるデンデルモンデのスタッドハウス
  • 鐘楼のあるディクスムイデのスタッドハウス
  • 鐘楼のあるエークロのスタッドハウス
  • ヘントの鐘楼、ラーケンハル、マメロッカー(旧牢獄)
  • ヘーレンタルスの旧スタッドハウス/ラーケンハル
  • 鐘楼のあるイーペルのラーケンハル(織物博物館)
  • コルトレイクのタワーホールの鐘楼
  • ルーヴェンのシント=ピーテルス教会の鐘楼
  • リールのスタッドハウスと鐘楼
  • 鐘楼のあるロー=レニンゲの旧スタッドハウス
  • 鐘楼のあるメヘレンの旧ホール(現スタッドハウス)
  • メヘレンのシント=ロンバウツ大聖堂の鐘楼
  • メーネンのスタッドハウスと鐘楼
  • 鐘楼のあるニーウポールトのスタッツハル
  • 鐘楼のあるアウデナールデのスタッドハウス
  • ルーセラーレのスタッドハウス、スタッツハル、鐘楼
  • 塔のあるシント=トロイデンのスタッドハウス
  • ティールトのタワーホールあるいは鐘楼、ホール、シュケーペンカマー
  • 市塔のあるティーネンのシント=ゲルマヌス教会
  • 市塔のあるトンゲレンのオンゼ=リーヴェ=ヴロウウェ・バシリカ
  • 鐘楼のあるフールネのランドハウス
  • ザウトレーウのシント=レオナルドゥス教会
  • バンシュのスタッドハウスの鐘楼
  • シャルルロワのスタッドハウスの鐘楼
  • モンスの鐘楼
  • ナミュールの鐘楼
  • チュワンの鐘楼
  • トゥルネーの鐘楼
  • ジャンブルーの鐘楼

<フランスの構成資産>

  • アルマンティエールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • バイユールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • ベルグの鐘楼
  • カンブレのサン=マルタン教会の鐘楼
  • コミーヌのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • ドゥエーのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • ダンケルクのサン=エロワ教会の鐘楼
  • ダンケルクのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • グラヴリーヌの鐘楼
  • リールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • ロスのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • エール=シュル=ラ=リのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • アラスのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • ベテューヌの鐘楼
  • ブーローニュ=シュル=メールのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • カレーのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • エダンのオテル・ド・ヴィルの鐘楼
  • アブヴィルの鐘楼
  • アミアンの鐘楼
  • デュランのメゾン・コミュナールの鐘楼
  • リュシューの市門の鐘楼
  • リューの鐘楼
  • サン=リキエの鐘楼

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ベルギーとフランスの鐘楼群は時代の政治的・精神的要求に応えて建設された都市建築の卓越した例である。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

中世、封建制度から独立した都市群が出現したが、ベルギーとフランスの鐘楼群はこの新たな独立の象徴であり、またその内部における世俗的・宗教的権力との関係を象徴している。

■完全性

鐘楼のアンサンブルはヨーロッパの一地方に特異な歴史的現象であり、フランドル地方・ワロン地方・北フランスにおいて幅広い例を見ることができる。鐘楼の種類・位置・建設時期・建築様式・素材はきわめて多様であるが、一連の構成資産はそのすべてを網羅している。

■真正性

資産はそれぞれの共同体の独立運動を示し、さまざまな相違点や変種を含む56基の鐘楼群からなっている。各鐘楼の資産範囲は関連する建造物群を完全に包み込むように定義されており、ベルやチャイム、ダンジョン、胸壁(凹部と凸部が並ぶ防御用の壁)、石落としといった鐘楼や共同体の機能を示す関連要素もここに含まれている。中世の都市の主要かつ中心的な要素として鐘楼群はその重要性を保持し、現在に至るまで都市構造の発展において重要な役割を果たしてきた。

そしてまた都市の主要素である鐘楼はその象徴であり時に望楼であるという点から要所・弱点と見られており、武力衝突の際にしばしば破壊された。そのため56基の鐘楼に関して素材の点で建設当初と同一であるという真正性を求めることはできないが、代わりに存在の永続性と象徴的価値について真正性を認めることができる。20世紀の世界大戦後の再建も模範的であり、一連の構成資産の真正性を構成する要素となっている。

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