シェーンブルン宮殿と庭園群

Palace and Gardens of Schönbrunn

  • オーストリア
  • 登録年:1996年
  • 登録基準:文化遺産(i)(iv)
  • 資産面積:186.28ha
  • バッファー・ゾーン:260.64ha
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、宮殿のメイン・エントランスとなる北ファサード
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、宮殿のメイン・エントランスとなる北ファサード (C) Simon Matzinger
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、ネプチューン噴水から見た宮殿の南ファサードとグローセス・パルテール
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、ネプチューン噴水から見た宮殿の南ファサードとグローセス・パルテール
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、宮殿の東ファサードとクローンプリンツェン庭園
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、宮殿の東ファサードとクローンプリンツェン庭園
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、宮殿メイン・ホールのグローセ・ギャラリー
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、宮殿メイン・ホールのグローセ・ギャラリー (C) Simon Matzinger
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、グロリエッテ(上)とネプチューン噴水(下)
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、グロリエッテ(上)とネプチューン噴水(下)(C) Simon Matzinger
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、大温室パルメンハウス
世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」、大温室パルメンハウス

■世界遺産概要

オーストリア・ハプスブルク家が粋を集めて帝都ウィーン郊外に築いた夏の離宮で、建築・装飾・庭園が一体化したバロック&ロココ様式の比類ない傑作であり、総合芸術 "Gesamtkunstwerk"(ゲサムトクンストヴェルク)の表出である。

○資産の歴史

シェーンブルン宮殿のある地はもともと「カッターブルク」と呼ばれ、修道院が立っていた。16世紀半ばに神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が購入してハプスブルク家の所領となり、狩猟小屋を建設した。1605年にウィーンがハンガリー人の侵入で荒廃した後、皇帝フェルディナント2世が再建し、彼の死後、未亡人となったエレオノーラ・ゴンザーガが新しい宮殿を建てて「美しい春」を意味するシェーンブルンに改称した(マクシミリアン2世の四男マティアスが泉を見つけて「美しい泉」と叫んだことに由来するという異説もある)。

1683年、オスマン帝国がウィーン(世界遺産)を取り囲む第2次ウィーン包囲が起こる。最終的にオスマン軍を退けるものの、シェーンブルン宮殿は破壊されてしまった。皇帝レオポルト1世は息子でありローマ王・ハンガリー王でもあるヨーゼフ(後の皇帝ヨーゼフ1世)のために夏の離宮の建設を決め、設計をオーストリア随一のバロック建築家ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハに依頼する。当初エルラッハはヴェルサイユ宮殿(世界遺産)を超える巨大で豪奢な宮殿コンプレックスを提案して絶賛されたが、資金難で規模は縮小された。1696年に建設が開始されたが、1701年にはじまるスペイン継承戦争のごたごたで中断され、レオボルド1世、ヨーゼフ1世が亡くなったことで建設は中断された。

1740年、皇帝カール6世はシェーンブルンを皇妃マリア・テレジアに贈る。マリア・テレジアはこの地を夏の離宮に定めて建築家ニコラウス・フォン・パカッシに改修を依頼し、ロココ様式に改められた。改修は1743~49年、53~63年、64~80年の3段階で進められ、最終段階で庭園が整備された。1752年には現存する世界最古の動物園が開園し、1754年頃には全長189mを誇る世界最長のオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための温室)が開館した。1762年には宮殿で6歳のモーツァルトが御前演奏を行ったが、演奏の場で転んでしまい、手を取ったマリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットに「大きくなったらお嫁さんにしてあげる」と話しかけた逸話は有名だ。

この時代、オーストリアは危機を迎えていた。カール6世に息子が生まれなかったため長女マリア・テレジアがオーストリア・ハンガリー・ボヘミアの大公位や王位を継承。ハプスブルク家は女性の家督継承を認めてこなかったことからプロイセン、バイエルン、ザクセン、フランス、スペインなどが反対してオーストリア継承戦争(1740~48年)が勃発し、プロイセンにシュレージエン(シレジア。ポーランド・チェコ国境周辺)を奪われた。マリア・テレジアはルイ16世に娘のマリー・アントワネットを嫁がせて宿敵だったフランス・ブルボン家と和解し(外交革命)、満を持してプロイセンに七年戦争(1756~63年)を挑んだ。結局シュレージエンは戻らず、敗北に近い屈辱を味わったものの、自らの王位や夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝位は認められて体面を守った。1775年に完成したヨハン・フェルディナント・ヘッツェンドルフ・フォン・ホーエンベルク設計の凱旋門グロリエッテはオーストリア継承戦争と七年戦争およびその後の平和に捧げられたものだ。フランツ1世はマリア・テレジアの初恋の人で、ふたりは20年間で16人の子女をもうけたが、1765年に亡くなった。マリア・テレジアは夫の死の日から生涯を喪服で過ごしたという。

1803年にはじまるナポレオン戦争ではフランスのナポレオン1世がオーストリアを侵略し、1805年と1809年に滞在している。ナポレオン1世が好んだ部屋はもともとマリア・テレジアと夫フランツ1世の寝室で、ナポレオンの間として残されている。ナポレオン後のヨーロッパの方向性を決める1814~15年のウィーン会議もシェーンブルン宮殿で開催されたが、各国の利害が一致せず、舞踏会ばかり行われていたことから「会議は踊る、されど進まず」と揶揄された。このとき舞踏会場となったのがメイン・ホールのグローセ・ギャラリーだ。

最後にシェーンブルン宮殿を愛した皇帝(オーストリア皇帝)がフランツ・ヨーゼフ1世だ。フランツ・ヨーゼフ1世はこの宮殿で生まれ亡くなっており、パルメンハウスや砂漠館といった鉄とガラスの大温室を建設した。

○資産の内容

世界遺産の資産にはシェーンブルン宮殿のほぼ全域が登録されている。その全体構造についてはエルラッハのプランを採用し、1,441室を有する宮殿の主要部分はパカッシによる設計となっている。ヴェルサイユ宮殿の豪壮に対しシェーンブルン宮殿は優美だが、ロココの軽快なデザインやマリア・テレジアの女性らしさの表れともいわれる。バロック様式は楕円やねじれといった曲線・曲面と、建物の構造と一体化した装飾が特徴で、ロココ様式ではそれをさらに発達させている。室内は壁や天井・柱と一体化したスタッコ(化粧漆喰)細工や彫刻・フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)・絵画で装飾され、花や葉・蔓・貝殻といった自然の造形を取り入れて白や金、パステル・カラーの軽やかな色彩で仕上げられた。マリア・テレジア・イエローで知られる宮殿外装や最大のホールであるグローセ・ギャラリーなどによく表れている。

宮殿の主な部屋として、まずグローセ・ギャラリーが挙げられる。全長40m超・幅10mほどのギャラリーで、白と金を基調としたロココの空間に赤い絨毯と画家グレゴリオ・グリエルミの天井フレスコ画がよく映えている。1814~15年のウィーン会議の舞踏場であり、1961年のアメリカ大統領ケネディとソ連首相フルシチョフの対談が行われたウィーン会談の会場でもある。マリア・テレジア時代のロココ様式を伝えているのが鏡の間で、白い壁・金のスタッコ細工に赤いカーテンやソファが調和しており、見事なシャンデリアや大理石製の暖炉も見られる。6歳のモーツァルトがここでピアノを演奏し、マリア・テレジアの膝に飛び乗ってキスをしたという逸話は有名だ。儀式の間は皇族のお祝いや集まりに使用された部屋で、宮廷画家マルティン・ファン・マイテンスによるマリア・テレジアの肖像画や皇帝ヨーゼフ2世とフランス・ブルボン家のマリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマの結婚式の絵をはじめとする大きな絵画が飾られている。磁器の間はマリア・テレジアのプライベートの部屋で、磁器を模した木製のフレーム内に青インクでフランツ1世や子供たちの姿が描かれている。ベーグルの間は18世紀に作られた部屋で、熱帯地方を思わせるカラフルな動物や鳥・森のフレスコ画で壁と天井を覆ったエキゾチックな部屋となっている。

シェーンブルン庭園は宮殿が示すハプスブルク家の栄光に対し、自然に対するオマージュとなった。ヴェルサイユ庭園が自然を征服するように荒野をならして幾何学式庭園を築いているのに対し、シェーンブルン庭園では丘や周囲の森を利用して設計されている。

宮殿正面に広がるグローセス・パルテールは庭園と宮殿を接続する空間で、ヴェルサイユ庭園をデザインしたアンドレ・ル・ノートルの弟子ジーン・トレエの設計で、彫刻家ヨハン・ウィルヘルム・バイエルによる32点の彫像が配されている。周辺は広大な平面幾何学式庭園で、左右は非対称ながらシェーナー噴水やエストリッヒャー・ナヤー噴水、オベリスク噴水、エンゲルス噴水といった噴水や、迷路になっているイルル迷園、バラ園、日本庭園、ローマ遺跡といったさまざまな見所がある。中央のネプチューン噴水はおおよそ平面100×50mという巨大な噴水で、神々の像の頂点に戦車に乗った海神ネプチューン像がたたずんでいる。ネプチューン噴水から丘を登った先にあるのがグロリエッテで、マリア・テレジアはプロイセンにはじめて勝利した1757年の七年戦争・コリンの戦いでの戦勝を記念して建設を決めたといわれる。完成後、オーストリア継承戦争と七年戦争というハプスブルク家が直面したふたつの正義の戦争とその後の平和に捧げられた。1775年にヨハン・フェルディナント・ヘッツェンドルフ・フォン・ホーエンベルクの設計で築かれた全長84.3m×幅14.6mのバロック建築で、頂部のワシは神聖ローマ皇帝を示している。ウィーンを一望する展望台があり、フランツ・ヨーゼフ1世の食堂や宴会場として使用された。

これ以外の主要施設として、大温室パルメンハウスが挙げられる。1882年にオープンした温室で、全長111m・幅29mを誇り、約720tもの鉄と45,000枚ものガラス・パネルが使われている。ガラスと鉄を多用した最初期の建造物で、宮廷建築家で鉄橋の専門家であるフランツ=クサヴァー・フォン・ジーゲンシュミットと鉄骨の専門家であるイグナツ・グリドルが手を組んで建設した。パルメン(ヤシ)の名の通りヤシの木や生きている化石といわれるウォレミマツ、スイレン、オリーブなどが名高い。1904年に建てられた温室の砂漠館はサボテンなどより熱帯地方の植物に対応している。オレンジなどの果樹のための温室であるオランジェリーは1754年頃の完成で、全長189mはオランジェリーとして世界最長といわれる。地下のボイラーから鉄の通風口を通して温風を送風し、床のレンガで熱を蓄えるシステムで、冬でも10~15度に保たれた。果樹や野菜畑として使用されたが、その広大な敷地を活かして宴会や演奏会・学界なども開催された。1752年にオープンしたシェーンブルン動物園は現存最古の動物園で、八角形のカイザーパビリオンは1759年に完成した。

こうしたさまざまな施設を誇るシェーンブルン宮殿はハプスブルク家がその栄光の最終段階で築き上げた、建築・装飾・庭園が一体化した総合芸術=ゲサムトクンストヴェルクなのである。

■構成資産

○シェーンブルン宮殿と庭園群

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

シェーンブルン宮殿と庭園群は多くの芸術様式の見事な融合が見られ、ゲサムトクンストヴェルクの傑出した作品である。また、バロック様式の宮殿コンプレックスとしては保存状態が秀でている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

シェーンブルン宮殿と庭園群にはハプスブルク家の歴代当主の趣味・関心・願望が鮮明に表れており、数世紀にわたる進化の歴史を伝える稀有な建造物・景観である。

■完全性

19世紀に行われたわずかな変更点を除き、資産には顕著な普遍的価値を構成する宮殿と庭園のすべての要素が含まれている。宮殿と庭園の所有権が1918年に国に移行してから資産は法的保護下にあり、適切に管理されている。資産の状態はよいが、景観についてウィーンの都市開発に伴う高層建築に対して脆弱である。

■真正性

シェーンブルン宮殿のもともとの建物はその後の帝国の支配者の好みや目的に合わせて大幅に拡張・改修されてきた。しかし19世紀はじめにフランツ1世がファサード(正面)を改修して以降、構造に大きな変更は加えられておらず、皇帝の居室・劇場・礼拝堂およびその他の重要な部屋の家具や装飾は完全に本物である。バロック庭園のレイアウトの構造もほとんど手付かずで、木や茂みのトリミングには伝統的な18世紀の技術が現在も引き継がれている。

シェーンブルン宮殿は1918年にオーストリア共和国によって国有化されてからその時点での状態に凍結されており、戦時中の損傷の修復においても1918年当時の構造や装飾に忠実に復元された。宮殿と庭園のコンプレックスは宮殿の建築・デザイン・家具の独創性や、庭園に対する空間的・視覚的関係を無傷のまま維持しており、ゲサムトクンストヴェルクの卓越した姿をいまに伝えている。

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