僧院の島ライヒェナウ

Monastic Island of Reichenau

  • ドイツ
  • 登録年:2000年
  • 登録基準:文化遺産(iii)(iv)(vi)
世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」、島の北端。中央の双塔は聖ペトロ=パウロ教会
世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」、島の北端。中央の双塔は聖ペトロ=パウロ教会
世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」、聖マリア・マルクス教会。左がゴシック様式の東アプス、右の高い建物がザクセン・ヴェストリーゲル
世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」、聖マリア・マルクス教会。左がゴシック様式の東アプス、右の高い建物がザクセン・ヴェストリーゲル
世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」、聖ゲオルク教会
世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」、聖ゲオルク教会
世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」、聖ゲオルク教会身廊のフレスコ画
世界遺産「僧院の島ライヒェナウ」、聖ゲオルク教会身廊のフレスコ画

■世界遺産概要

ライヒェナウ島はドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州のボーデン湖(下部ボーデン湖のウンター湖)に浮かぶ島で、8世紀にベネディクト会の修道士によって開拓された。聖マリア・マルクス教会、聖ペトロ=パウロ教会、聖ゲオルク教会という3教会があり、カロリング朝(8~9世紀。カロリング・ルネサンス)、ザクセン朝(10~11世紀。オットー・ルネサンス)、ザーリアー朝(11~12世紀)といった中世ドイツ黄金期の文化を伝えている。

○資産の歴史

ライヒェナウ島にはローマ時代から定住跡が発見されている。文書に表れるのはベネディクト会の修道院の設立証書で、724年に創設されたことが記されている。伝説によると、最初の修道院長であるベネディクト会のピルミニウスはフランク王国の宮宰カール・マルテルの庇護を受けており、ライン川上流域に暮らすゲルマン系アレマン人の貴族から寄進を受け、礼拝堂の建設を依頼されたという。そして40人の修道士とともにライヒェナウ島を開拓し、北部のミッテルツェルに聖母マリア、十二使徒のひとりであるペトロ(ペテロ。シモン・ペトロ)、『新約聖書』の著者のひとりであるパウロらに捧げる木造の修道院(ライヒェナウ修道院/ミッテルツェル修道院)と付属教会堂(聖マリア・マルクス教会)を建設した。ピルミニウスはまもなくアレマン人の貴族と対立して追放されたが、周辺民族への宣教の中心地となった。施設は746年までに徐々に石造で建て替えられ、教会堂はノルマン様式の影響を受けたバシリカ式教会堂(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)となった。

フランク王であるカール大帝が800年にローマ教皇レオ3世からローマ帝国の帝冠を授かってローマ皇帝となった(カールの戴冠)。この頃、南東40km弱に位置するザンクト・ガレン修道院(世界遺産)の長だったヴァルドが修道院長に就いて図書館と神学校を設立し、次の修道院長ハイトの時代に写本の製作が活発化した。ふたりはカール大帝やその息子ルートヴィヒ1世(ルイ1世/ルイ敬虔王)の信頼が厚く、カロリング朝期の宗教的・芸術的興隆であるカロリング・ルネサンスの発展に貢献した。一例が聖書や古典文学の写本やコデックス(冊子写本)、カロリング期の教会建築や壁画のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)であり、ライヒェナウの修道士であり詩人でもあったワラフリッド・シュトラボの作品群だ。

イタリアは6世紀後半からゲルマン系ランゴバルド人が建てたランゴバルド王国が押さえていたが、774年にカール大帝がこれを滅ぼして教皇庁やイタリアの領邦(諸侯や都市による領土・国家)と関係を深めた。799年に北イタリアの主要都市であるヴェローナ(世界遺産)の司教エジーノによって島北部のニーダーツェルに聖ペトロ=パウロ教会が建設された。エジーノが802年に亡くなると同教会のクリプト(地下聖堂)に埋葬された。

聖マリア・マルクス教会は816年に「†」形のラテン十字形の教会堂に改築され、830年にはヴェローナの司教ラトルフから『新約聖書』の「マルコによる福音書」の著者である福音記者マルコ(マルクス)の聖遺物が贈られた。これを受けて修道院長エルレバルトは教会堂の西側を拡張し、ウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)や翼廊・アプス(後陣)を加えて二重のトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)とアプス、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)を持つ「‡」形に増築して西の祭壇を聖マルコに捧げた。

9世紀末には修道院長ハトゥ3世がイタリアから竜退治で知られる聖ゲオルギオス(ゲオルク)の頭蓋骨の一部を持ち帰り、896年に島の南東のオーバーツェルにこの聖遺物を収めるために聖ゲオルク教会を建設した。9~10世紀に描かれた見事な壁画はザクセン朝期の芸術的興隆を示すオットー・ルネサンスの傑作とされる。

843年のヴェルダン条約でフランク王国は東・中部・西フランク王国の3か国に分裂し、855年のプリュム条約で中部フランク王国はロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに分割され、さらに870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスは東西フランク王国に吸収された。ライヒェナウ修道院はハインリヒ1世やオットー1世といった東フランク王国や神聖ローマ帝国の王位・皇位を継いだザクセン朝の庇護を受けて聖職者や芸術家・建築家・科学者が集い、カロリング・ルネサンスに次ぐ文化的繁栄を迎えた。特筆すべきが写本やコデックスで、10~11世紀、ヴィティゴヴォ、インモ、ベルノといった修道院長の時代に最盛期を迎え、それぞれの教会堂がさまざまに改修され、新しい礼拝堂が建設された。特にベルノは自ら文学者・科学者であるだけでなく、ライヒェナウで生涯を過ごした作曲家・歴史家ヘルマン・フォン・ライヒェナウ(ヘルマヌス・コントラクトゥス)らと交流を持ち、文化の振興に貢献した。ヘルマンの作品のひとつがイエス以降の歴史をまとめた『世界記』で、弟子のベルトルト・フォン・ライヒェナウらに引き継がれて中世史の貴重な資料となった。また、この頃にライヒェナウ絵画学校が最盛期を迎え、有名なハインリヒ2世写本をはじめ色や絵できらびやかに装飾された装飾写本が制作された。

しかし、ライヒェナウ修道院は13世紀以降衰退し、修道院としても神学校・図書館・写本といった機能においてもザンクト・ガレン修道院に取って代わられた。1367年に修道院長エバハルト・フォン・ブランディスが修道院のすべての権利と財産を売却し、15世紀はじめには数人の修道が活動する程度にまで縮小した。16世紀には修道院の管理は放棄され、近郊の都市コンスタンツ司教区に組み込まれた。その後も修道院の活動は細々と続けられたが、1757年に解散し、ナポレオン率いるフランス軍の侵攻を受けて1803年に廃院となって世俗化された。

○資産の内容

世界遺産の資産はライヒェナウ島全域と、人工的に造られた島と本土を結ぶ砂州状の道が対象となっている。修道士たちは農業を中心とする自給自足の生活を行っていたが、現在も伝統を引き継いでおり、野菜や果樹・花の栽培や修道院ワインの生産で知られている。こうした地方開拓・産業育成も修道院の大きな役割だった。主な建物は聖マリア・マルクス教会、聖ペトロ=パウロ教会、聖ゲオルク教会の3堂で、他には要人をもてなすためのショプフェルン、ビュルゲルン、ケーニヒセックの3棟のマナー・ハウスが挙げられる。また、本土に立つキンドルビルド礼拝堂は洗礼を受ける前に亡くなった子供を祀る場所で、ここまでが資産となっている。

聖マリア・マルクス教会は724年に創設されたライヒェナウ修道院の付属教会堂で、816年にラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)に改築された。東のトランセプトやアプスにこうしたカロリング・ルネサンス期の構造が残されている。その後、福音記者マルコの聖遺物を収めるために西にもトランセプト、アプス、クワイヤが築かれて「‡」形に増築された。11世紀に大規模な改修を受け、特に西ファサード(正面)に塔状の巨大な建造物が取り付けられた。ザクセン地方で「ザクセン・ヴェストリーゲル」と呼ばれるウェストワークの構造で、オットー・ルネサンス建築のひとつの特徴となっている。13世紀には聖具室や東アプスがゴシック様式で改築された。周囲には市の施設として使用されている僧院や石垣の跡、ワイン生産者や漁師の住居、農場跡などが残されている。

聖ペトロ=パウロ教会は799年の創建で、11世紀の大火によって焼失し、11世紀後半から12世紀初頭にかけてロマネスク様式で再建された。三廊式のバシリカ式教会堂で、東の双塔は15世紀に増築された。アプスには1104~1134年に描かれたオットー・ルネサンス期のフレスコ画が掲げられており、中央にはゴシック様式のステンドグラスがはめ込まれている。身廊の天井は18世紀半ばにロココ様式で改修されており、独特の雰囲気を醸し出している。周辺からは創建当時のさまざまな施設の遺跡が出土している。

聖ゲオルク教会は896年創建のシンプルな三廊式・バシリカ式教会堂で、東西にアプスがあり、東に鐘楼を有している。この教会堂を特徴付けているのは身廊壁面を埋め尽くす9~10世紀のオットー・ルネサンス期のフレスコ画で、嵐を鎮めたりラザロを生き返らせたりといったイエスが起こした奇跡の数々が描かれている。また、聖ミカエル礼拝堂や地下のクリプトなどにも見事な壁画が見られる。 

■構成資産

○僧院の島ライヒェナウ

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

ライヒェナウ修道院遺跡は中世初期に大きな勢力を誇ったベネディクト会修道院の宗教的・文化的な役割の傑出した証となっている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ライヒェナウ島の教会群はいくつかの段階で築かれているが、それぞれの段階の際立った要素を保持しており、9~11世紀の中央ヨーロッパ修道院建築のすぐれた例を示している。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

ライヒェナウ修道院はその比類ない壁画と彩飾によって見事に示されているように、10~11世紀のヨーロッパの美術史にとってきわめて重要な芸術の中心地だった。

■完全性

資産は島全体に及んでおり、各地に分散している建築物や構築物が含まれている。顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素が含まれており、法的に保護されている。

■真正性

島内には19世紀に世俗化された建造物や第2次世界大戦後に建設された建造物が多いが、改修・改築に関しては調査・研究を受けて箇所がほぼ特定されており、オリジナルの構造が明らかにされているか解明が可能である。19世紀に加えられた中世のスタイルの復興様式(歴史主義様式)は大部分が撤去されている。島内の教会建築について、従来の中世の教会建築のイメージに合わせて全面的に改装され簡略化されているが、教会の壁画の真正性は維持されており、肯定的な要素となっている。周囲に設定されている自然保護区は農場から近年の建造物を分離するために機能しており、景観の維持に貢献している。

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