ミディ運河

Canal du Midi

  • フランス
  • 登録年:1996年
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iv)(vi)
  • 資産面積:2,007ha
  • バッファー・ゾーン:195,836ha
世界遺産「ミディ運河」、カルカッソンヌ付近の景観
世界遺産「ミディ運河」、カルカッソンヌ付近の景観。人やウマが牽引するため側道は必須で、脇にはプラタナスやイトスギなどが植林された (C) M.Strīķis
世界遺産「ミディ運河」に架かるドゥイム橋の風光明媚な景観
世界遺産「ミディ運河」に架かるドゥイム橋の風光明媚な景観。トゥールーズ近郊の町ポンペルテュザとドゥイムに位置している (C) Selbymay
世界遺産「ミディ運河」、ベジエのオルブ運河橋、下はオルブ川
世界遺産「ミディ運河」、ベジエのオルブ運河橋、下はオルブ川。橋の上をミディ運河が流れている (C) Christian Ferrer
世界遺産「ミディ運河」、高低差21.5mをクリアするため8基の楕円型閘室・9基の閘門扉が連なるベジエのフォンセラン連続閘門
世界遺産「ミディ運河」、高低差21.5mをクリアするため8基の楕円型閘室・9基の閘門扉が連なるベジエのフォンセラン連続閘門 (C) Fagairolles 34
世界遺産「ミディ運河」の上流と下流、エロー川への運河という水位の異なる3つの運河を接続するため円形にデザインされたアグドのアグド円形閘門
世界遺産「ミディ運河」の上流と下流、エロー川への運河という水位の異なる3つの運河を接続するため円形にデザインされたアグドのアグド円形閘門 (C) jean-louis Zimmermann
世界遺産「ミディ運河」、ル・ソマイユのサン=マルセル橋
世界遺産「ミディ運河」、ル・ソマイユのサン=マルセル橋。橋の左半分にはソマイユ礼拝堂が隣接して立っている (C) Oyoyoy
世界遺産「ミディ運河」、モンターニュ・ノワールの山地で水を集めるモンターニュ・ノワール水路のアルゾー取水施設
世界遺産「ミディ運河」、モンターニュ・ノワールの山地で水を集めるモンターニュ・ノワール水路のアルゾー取水施設 (C) Jcb-caz-11
世界遺産「ミディ運河」に水を供給しつづけているサン=フェレオール貯水池
世界遺産「ミディ運河」に水を供給しつづけているサン=フェレオール貯水池。この貯水池の存在なくして運河プロジェクトは成立しなかった (C) Mich-nguyen
世界遺産「ミディ運河」、ポール=ラ=ヌーヴェル近郊、サント=リュシー地域自然保護区の湿地や潟湖を突き抜けるロビーヌ運河
世界遺産「ミディ運河」、ポール=ラ=ヌーヴェル近郊、サント=リュシー地域自然保護区の湿地や潟湖を突き抜けるロビーヌ運河 (C) Christian Ferrer

■世界遺産概要

世界遺産としての「ミディ運河」はピレネー山脈の北に広がるミディ・ピレネー地方のトゥールーズから地中海沿岸部のセートやポール=ラ=ヌーヴェルに至る全長約360kmの運河・水路網で、運河・水路・放水路・運河橋・水路橋・トンネル・貯水池・水門・閘門(こうもん。高さが異なる河川や運河を接続し、船を上下させる装置)など328の構造物を含んでいる。ローマ時代以来、ヨーロッパ最大といわれる土木工学プロジェクトで、地中海と大西洋をフランス国内で接続するためにフランス王ルイ14世が推進し、ピエール=ポール・リケが設計を行い、1667~94年に建設された。運河はトゥールーズでガロンヌ川と接続し、ガロンヌ川が大西洋に注いでいるため、ミディ運河の完成により船でフランス国内を横断することが可能となった。

なお、ミディ運河は世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」や世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産となっているトゥールーズのサン=セルナン・バシリカやオテル=デュー・サン=ジャック(サン=ジャック施療院)の近くを通過しているが、資産は重なっていない。

○資産の歴史

フランス王国は大西洋と地中海に面しているが、大西洋沿岸から地中海沿岸へ、あるいは逆に地中海沿岸から大西洋沿岸に出るためには約3,000kmの行程をたどる必要があるばかりか、ジブラルタル海峡を管理するスペインに莫大な通行税を支払う必要があり、海賊や私掠船(自国の許可を得て他国の船を襲う権利を与えられた武装船)が出没する危険な海域も少なくなかった。これを回避するためにフランスに大西洋と地中海を結ぶ運河を建設する計画はローマ帝国の時代から存在し、フランク王国のカール大帝やフランス王国のフランソワ1世、シャルル9世、アンリ4世をはじめ多くの国王が検討を行った。特にフランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチを招いて調査を依頼している。しかし、大西洋と地中海の間にはもっとも狭い場所でも400km弱の距離があり、その間に標高は190mまで上がっているため、実現は困難だった。

16世紀に入ると建築家やエンジニアから具体的なプランが寄せられるようになったが、もっとも有力だったのは大西洋に注ぐガロンヌ川と地中海に注ぐオード川の間を運河で結ぶものだった。ただ、最大の問題として立ちふさがったのが分水界(降った雨が集まる水系間の境界線)での水不足だ。カルパチア山脈の北に位置するノールーズ(コル・ド・ノールーズ/スイユ・ド・ノールーズ)で標高は約200mに達するが、これより北東で降った雨水は大西洋に注ぎ、南東で降った雨は地中海に注ぐ。運河はつねに水で満たされていなければならないが、高所に位置する分水界で十分な水を確保することは困難だった。

1654年にこの難問に取り組みはじめたのが塩の徴税人で建築家・エンジニアでもあったピエール=ポール・リケだ。その前に、1605~42年にロワール川とセーヌ川を結ぶ全長54kmのブリアール運河が開通し、フランス初のサミット・レベル運河(山越え運河。山頂を挟んで反対側に位置するふたつの水系を接続する運河)となった。ブリアール運河では分水界での水不足の問題をより高い場所に築いた貯水池と38基の水門でクリアした。ピエール=ポール・リケはこれを応用し、ノールーズの東にそびえる中央高地 (マッシフ・サントラル)のモンターニュ・ノワールと呼ばれる標高500~600mほどの山地に貯水池群を作ってノールーズに水を送る計画を立案した。そしてルートは再三見直しが図られた結果、ガロンヌ川と接続するトゥールーズからトレブを経てトー湖に出て地中海沿岸のセートに至るルートが採用され、オード川やその支流を利用するものとなった。このアイデアは財務総監ジャン=バティスト・コルベールの支持を得て、王の調査委員会もその価値を認めた。こうして1665年から土地の買収が開始され、1666年にルイ14世によって建設の勅令が発布され、翌1667年に起工された。

ピエール=ポール・リケは水力学や土木工学の専門家ではなく、軍人として運河建設に貢献したルイ・ニコラ・ド・クレルヴィルを筆頭に、多くの政治家や建築家・エンジニア・学者の協力を得て実験を行い、工事を実行した。そして質のよい労働者をよい給与で雇い、雨の日を休みにしたり休日や有給休暇を設けるなど労働者に配慮して作業を進めた。ピーク時には12,000人が働いていたが、こうした労働体制は近代の資本主義社会の先駆けとなるものだった。

ピエール=ポール・リケは1680年に死去し、完成を見ることはできなかったが、これまでに重要な工事はほとんど終了していた。工事は王室エンジニアであるポンセ・アレクシス・ド・ラ・フィーユ・ド・メルヴィルに引き継がれ、ピエール=ポール・リケのふたりの息子や親族も参加した。1681年には試験航海が行われ、沿岸に近いベジエからトゥールーズへ上り、トゥールーズからセートまで下ってふたたびベジエに戻るルートを走破した。ただ、洪水などの被害が増えたこともあり、1686年に軍事建築家セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンが調査に入った。ヴォーバンは土木エンジニアのアントワーヌ・ニケらとともに水路の拡張や深化、放水路の建設、堤防の増設などを進めた。特にサン=フェレオール貯水池周辺は大規模に開発され、カマーズ・トンネルを建設してソル渓谷の水を引き入れるなど、その機能を大幅に向上させた。こうした作業は1694年まで続けられ、同年に竣工を迎えた。

18世紀後半にはムッサンやナルボンヌを経てポール=ラ=ヌーヴェルへ抜けるラ=ヌーヴェル支流と呼ばれる全長36.6kmの新運河の開発が進められた。1768~87年にオード川とポール=ラ=ヌーヴェルを結ぶ全長31.6kmのロビーヌ運河が、1775~80年にはサレル=ドードのミディ運河とオード川を結ぶ全長5.1kmのジョンクシオン運河が建設された。これによりミディ運河は地中海の2か所に出入口を持つこととなった。また、1765~76年にはミディ運河の北西端付近に全長1.6kmのブリエンヌ運河(サン=ピエール運河)が建設され、トゥールーズの浅瀬を避けつつ町の中心部へのアクセスが可能となった。ミディ運河には含まれないが、この後もトー湖とローヌ川、ミディ運河とカルカッソンヌ(世界遺産)、トゥールーズとカステ・エ・カスティヨン等を結ぶ運河が開発され、運河網は拡大を続けた。

開通時、全長20mほどの輸送船が導入され、当初は側道から人やウマ、ラバが船を牽引した。そして側道脇には数万本のプラタナスやイトスギが植林され、遊歩道として活用された。トゥールーズからセートまでおよそ4日間の行程だったが、19世紀半ばには32時間まで短縮された。運河によって大西洋岸と地中海岸の交易が大いに活発化した。特に恩恵を受けたのがボルドー(世界遺産)やサン=テミリオン(世界遺産)のワインとラングドックの小麦で、これらの産品はボルドーやベジエの港から各地に輸出された。

運河を利用した交易は19世紀半ばにピークを迎えたが、鉄道網が整備されると徐々に衰退し、特に1850年代のボルドー=セート鉄道の開通は大きな痛手となった。1898年にラングドック州が運河を購入し、1991年にVNF(フランス水運公社)の管理となった。

現在、運河は商業インフラとしての役割をほぼ終了し、観光船や個人所有の小さなボートが行き来するのみとなっている。ただ、農業の灌漑施設として重要な機能を果たしつづけており、特に乾季には運河や水路を通じて水不足の地域に優先して農業用水を送っている。

○資産の内容

世界遺産の資産として、トゥールーズからセートとポール=ラ=ヌーヴェルに至る全長約360kmの運河・水路網が地域で登録されており、328の構造物を含んでいる。運河・水路網は以下の5セクションから成立している。

  • ミディ運河本流:約240km(トゥールーズ~セート)
  • ミディ運河水路:82km(ミディ運河水路、プレンヌ水路、モンターニュ・ノワール水路等)
  • ラ=ヌーヴェル支流:36.6km(ロビーヌ運河、ジョンクシオン運河)
  • ブリエンヌ運河(サン=ピエール運河):1.6km
  • エロー川とアグド円形閘門間の運河:0.5km

ミディ運河の本流はトゥールーズからセートまでの約240kmの区間だ。標高についてはトゥールーズが約130mで、コル・ド・ノールーズ(スイユ・ド・ノールーズ)で190mまで上がり、セートで海に注いでいる。この間に63基の閘門(こうもん)があり、1区間の高さをそろえることで緩やかな流れになるよう調節している。閘門は上流と下流にふたつの閘門扉(閘室に備えられた水門)を持ち、その間に閘室と呼ばれる水と船を入れるためのスペースを有している。閘門で下流の運河から上流の運河に船を移動させる場合、まず上流の閘門扉を閉じ、下流の閘門扉を開けて船を入れる。続いて下流の閘門扉を閉じ、上流の閘門扉を開けることで水を引き入れて、閘室の水位を上げて船を上流に送り出す。逆の場合は、まず下流の閘門扉を閉じて上流の閘門扉を開けることで閘室の水位を上流と一致させて船を引き入れる。そして上流の閘門扉を閉め、下流の閘門扉を開けることで閘室の水を排出し、水位を下流まで下げて船を出す。

特徴的な閘門として、フォンセラン連続閘門が挙げられる。全長312mに8基の楕円型閘室・9基の閘門扉が連なる連続閘門で、全体で21.5mの高低差を接続している。脇には放水路があり、余分な水をここから排出している。ミディ運河最大の見所のひとつで多くの観光客を集めている。アグド円形閘門はミディ運河の上流・下流・エロー川への運河と、水位が異なる3つの運河を接続するため円形の閘室に3基の閘門扉を有している。もともと直径29.2mの円形だったが、1978年に新たな規格に合わせるために拡張され、ふたつの半円が重なるような形になった。

運河を通すに当たり、川や谷を越えるために数多くの水路橋(水路を通す橋)や運河橋(運河を通す橋)が築かれた。特徴的な橋として、まずオルブ運河橋が挙げられる。1858年にミディ運河とオルブ川の交差部に架けられたフランス最大級の運河橋で、全長240m・幅28m・高さ12mの石造アーチ橋となっている。土木エンジニアのユルバン・マゲスの傑作で、歴史都市ベジエの景観と調和した美しい姿で知られる。セス運河橋はセス川を越えるために築かれた全長64m・高さ14mの石造アーチ橋で、ヴォーバンの設計で1690年に架けられた。ピエール=ポール・リケの時代はセス川にダムを築いて水位を等しくすることで接続していたが、洪水が相次いだため運河橋に置き換えられた。運河橋はほとんどがヴォーバン以降の時代に築かれたが、そんな中でレピュドル運河橋はピエール=ポール・リケによって1676年に架けられた現存最古の運河橋で、全長90m・幅8mの石造アーチ橋となっている。

運河や水路を通すために築かれたトンネルも存在する。マルパ・トンネルはアンセリューヌの丘に穿たれた全長173m・幅6m・高さ8.5mの運河トンネルで、1679~80年に建設された。ミディ運河の建設がこの地に到達した当時、丘が崩れやすい砂岩層であることが明らかになり、運河のルート変更が検討された。ピエール=ポール・リケはコルベールらの反対にもかかわらず秘密裏に試掘し、セメントで固めてトンネルが可能であることを訴えた。

特殊な構造を持つのがウヴラージュ・デュ・リブロン(リブロン構造体)だ。リブロン川はミディ運河建設の難所のひとつで、平常時はミディ運河より少し低いものの、増水時にはミディ運河より高くなるため運河橋でも運河トンネルでも解決することができなかった。その結果、この構築物が建設されるまで、一定以上の増水時は通行止めを余儀なくされた。これに対し、エンジニアのユルバン・マゲスは川をふたつに分けつつ、平常時はふたつの流れが運河の下を通るように調整し、増水時は運河と合流して流れる仕組みを組み込んだ。そして増水時に船が通過する際は水門や重りを用いて川の流れの一部を止め、船の通過後に元に戻すことで解決した。

ミディ運河水路はミディ運河の最高到達点である標高190mのコル・ド・ノールーズに水を供給しつづけるための水路で、水源のモンターニュ・ノワールから82kmにわたって伸びている。水源の中心となっているのは数々の貯水池や湖で、中でもピエール=ポール・リケによって1667~72年に建設されたサン=フェレオール貯水池はミディ運河プロジェクトの中でも最大規模の事業となった。ロド川の流れを全長780m・最大高32mのダムでせき止めてできた貯水池は最大で67haの大きさと630万立方mの容積を持ち、重力式のロックフィル・ダム(岩石を積み上げてその重みで水の圧力を支える形式のタム)としては当時フランス最大を誇った。底部には泥土を排出するための排出口があり、貯水池が埋め立てられるのを防いでいる。その後、この貯水池の水量では不十分であることが判明し、ピエール=ポール・リケはソル川の流れを引き込んでコル・ド・ノールーズに送り込んだ。これがプレンヌ水路だ。1686~88年にはヴォーバンが全長122mのカマーズ・トンネルを建設し、ソル渓谷の水を引き入れてサン=フェレオール貯水池の水源を増やした。後年にはさらにサン=フェレオール貯水池の上流にモンターニュ・ノワール水路(モンターニュ水路)を建設し、ランピ川、ヴェルナッソンヌ川、リュトール川といった川から水を引き入れた。

ラ=ヌーヴェル支流はサレル=ドードからムッサンやナルボンヌを経て港湾都市ポール=ラ=ヌーヴェルへ抜ける全長36.6kmの支流で、ジョンクシオン運河とロビーヌ運河からなる。ジョンクシオン運河はサレル=ドードのミディ運河とオード川を結ぶ全長5.1kmの運河で、7基の閘門で23mの高低差を接続している。一方、ロビーヌ運河はオード川とポール=ラ=ヌーヴェルを結ぶ全長31.6kmの運河で、6基の閘門で8.3mの高さをカバーしている。もともとロビーヌ運河はヴォーバンによって17世紀末に建設されたが、ジョンクシオン運河が建設されるのは約1世紀後で、1780年頃にようやくミディ運河とロビーヌ運河が結ばれた。

ブリエンヌ運河(サン=ピエール運河)はミディ運河とガロンヌ川の合流地点付近に1765~76年に築かれた全長1.6kmの運河で、浅瀬を避け、トゥールーズ中心部へのアクセスを確保するために建設された。ブリエンヌ運河とミディ運河の合流地点は19世紀半ばに建設された全長193kmのガロンヌ側運河の始点でもあり、ブリエンヌ運河はガロンヌ川とガロンヌ側運河を結び付ける役割も果たしている。運河にはガロンヌ川と結ぶサン=ピエール閘門と、ミディ運河やガロンヌ側運河と接続するポン=ジュモー閘門の2基の閘門がある。

■構成資産

○ミディ運河

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

ミディ運河は近代におけるもっとも驚異的な土木工学の成果のひとつである。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ミディ運河は産業革命と現代的技術へ道を開いた技術的ブレイクスルーを代表するものである。加えて建築や人工的な景観に関して技術的イノベーションと美的関心を大いに結び付けているが、このようなアプローチは他ではほとんど見られない。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ミディ運河は戦略的領土開発の目標を達成するために建設された最初の主要サミット・レベル運河として名高い。ヨーロッパの歴史の中でも水力土木工学を駆使した河川輸送が花開いた抜きんでて重要な時代を象徴している。

○登録基準(v)=伝統集落や環境利用の顕著な例

ミディ運河は建設されるとすぐに流域のもっとも印象的な特徴となり、景観を緩やかに変化させて環境に溶け込んだ。

■完全性

ミディ運河は基本的に創設以来、変わらぬ特徴を引き継いでおり、現在も運用されている。数世紀にわたる数々の改修(フレシネ規格への初期対応・修理・オートメーション化・横断工作物設置・近代化など)は土木工作物に影響を与えているが、その独自性や資産の価値を脅かしてはいない。

しかし、整地した植林地の老朽化と立ち枯れ、特にプラタナスの疫病の拡大により、今後数年でミディ運河の景観が大きく変わることは避けられない。

■真正性

運河の設計者で建設者でもあるピエール=ポール・リケの土木建築はそのレイアウト・給水システム・多数の構造物に手付かずで残されている。18世紀初頭に特にヴォーバンによる改修と最適化が行われ、続いて構造の再建と近代化が施されて、運河は効率性を高めて進化を遂げた。

それでもピエール=ポール・リケの仕事はその意義や歴史的重要性を変えることなく現在に伝えられている。変化は工学技術・応用技術・運河管理方式の進化を反映しており、それ自体が真正性と価値を有している。

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