マダラの騎士像

Madara Rider

  • ブルガリア
  • 登録年:1979年
  • 登録基準:文化遺産(i)(iii)
  • 資産面積:1.2ha
  • バッファー・ゾーン:501.7ha
高さ約100mに及ぶマダラ高原の断崖
高さ約100mに及ぶマダラ高原の断崖 (C) Annboeva
中央下に小さく見えるレリーフが世界遺産「マダラの騎士像」
中央下に小さく見えるレリーフが世界遺産「マダラの騎士像」(C) Octopus / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
世界遺産「マダラの騎士像」。中央に騎士とウマ、ウマの足元にライオン、ウマの後ろにイヌが見える
世界遺産「マダラの騎士像」。中央に騎士とウマ、ウマの足元にライオン、ウマの後ろにイヌが見える

■世界遺産概要

ブルガリア北西部シュメン州のマダラ高原に広がるマダラ国立歴史=考古学保護区に位置する世界遺産で、高さ約100mの切り立った断崖に、8~9世紀に制作された縦2.6m・横3.1mの騎士像のレリーフや碑文が刻まれている。美しい自然が広がる一帯は古くからの聖地で、ブルガリアがキリスト教化する以前の国家形成期の貴重な文化を伝えている。

○資産の歴史

深い森が広がるマダラ高原の特徴は高さ100mに達する断崖で、各所に洞窟が口を開けている。新石器時代から人類の居住の跡があり、トラキア人やギリシア人、ローマ人、ブルガール人、スラヴ人などさまざまな民族がここで生活を行った。古代のトラキア人が聖域ニンフェウムとして神聖視するなど、一部は聖地として祀られていたようだ。ローマ時代にはヴィッラ(別荘・別邸)や要塞が建設され、それらの遺構も残されている。

4世紀にイエスの使徒であるパウロやアンデレらがブルガリアで宣教を行うと、キリスト教は正教会、ローマ・カトリックとも有力な宗教のひとつとなった。中世に入るとマダラ高原で隠遁生活を行う修道士が現れ、やがて修道院コンプレックスを形成した。一帯には初期キリスト教の教会堂や修道院施設・石窟・埋葬地などが点在している。

現在のブルガリア人の祖先とされるブルガール人はもともと中央アジアから東ヨーロッパを拠点とするテュルク系(トルコ系)遊牧民と考えられている。ブルガール人の首長は他のテュルク系やモンゴル系と同様に首長として「ハン(ハーン/カン/汗)」を掲げていた。

7世紀前半にハンであるクプラトがブルガール人部族を統一し、大ブルガリア(オノグリア)を建国した。クブラト没後、連合国家は分裂し、同じテュルク系のハザールの圧力を受けると、一部は新天地を求めて旅立ち、一部はハザールと同化した。

クブラトの三男アスパルフに率いられた一団はドナウ川下流に移動し(ドナウ・ブルガール)、680年には遠征に駆けつけたビザンツ皇帝(東ローマ皇帝)コンスタンティノス4世を打ち破った。翌年、コンスタンティノス4世はドナウ川下流での建国を認め、第1次ブルガリア帝国(681~1018年)が成立した。「帝国」といってもアスパルフが名乗ったのはハンであり、9世紀のボリス1世の時代に国王(クニャス)、10世紀のシメオン1世の時代に皇帝(バシレウスあるいはツァール)となった。

アスパルフの息子テルヴェルの時代、ヨーロッパはイスラム教を奉じる超大国ウマイヤ朝の圧力にさらされていた。このためビザンツ帝国は第1次ブルガリア帝国に接近し、ユスティニアノス2世はテルヴェルに「シーザー」の称号を贈り、同盟を結んだ。テルヴェルは717~718年のコンスタンティノープル包囲戦などで活躍し、ウマイヤ朝撃退に大いに貢献した。

この後、ブルガール人は南下したスラヴ人と同化してブルガリア人を形成しつつ、ビザンツ帝国からビザンツ文化を吸収し、東ヨーロッパでその地位を高めていった。9世紀、ボリス1世はキリスト教の正教会に改宗し、これを国教化して国民にも改宗を迫った。この後、ブルガリア正教会が独立正教会として勢力を伸ばし、東ヨーロッパにおいて中心的な地位を確立していく。

マダラの騎士像が彫られた年代はハッキリしていないが、8~9世紀はじめと見られている。いずれにせよキリスト教化する前のブルガール人の文化を伝えるきわめて貴重な史料といえる。騎士像の周辺に彫られた碑文には在位700~721年のテルヴェル、753~756年のコルミソシュ、814~831年のオムルタグといったハンに関する記述があり、705~801年の出来事が記録されている。このため制作年代はこの間か後と見られている。

○資産の内容

世界遺産の資産はレリーフの周囲わずか1.2haで、その周辺に501.7haものバッファー・ゾーンが設定されている。マダラ国立歴史=考古学保護区の断崖や森、古代・中世の遺跡の多くはバッファー・ゾーンに含まれている。

マダラの騎士像は高さ約100mのほとんど垂直な断崖の23mほどの位置に刻まれており、縦2.6m・横3.1mの巨大なレリーフとなっている。ウマに乗った騎士が描かれており、騎士は左手に手綱、右手に槍を持ち、背中には弓入れを背負っている。騎士の槍はウマの足元に横たわるライオンを突き刺しており、ウマの後ろを猟犬が追い掛け、ウマの頭の上ではワシが翼を広げている。ただ、人物の上半身やワシといったレリーフの上層部は風化が進んでおり、読み取るのが難しくなっている。

制作年代とモデルについて、一時はテルヴェルの時代の7世紀後半~8世紀初頭の制作で、騎士をテルヴェルとする説が有力視されていた。しかし、碑文がその後の時代のことに触れていることや、近郊で9世紀はじめのオムルタグの時代のものと見られる宗教施設跡が発見されたことでさまざまな説が提唱されるようになった。一例がタングラ説で、その宗教施設の碑文がブルガール人の土着信仰の最高神であるタングラ(テングリ)に触れていることから、このレリーフの騎士もタングラで、聖地として祀られていたとしている。他にも、ハンであるアスパルフ説やクルム説のほか、トラキア神説、テュルク神説、ペルシア神説、キリスト教の聖人である聖ゲオルギオス説など多岐にわたる。

碑文は騎士像の周囲の岩にギリシア語で刻まれているが、やはり損傷が激しく、断片的にしか読み取ることができていない。テルヴェル、コルミソシュ、オムルタグ、ビザンツ皇帝ユスティニアノス2世といった人物に言及しており、たとえばユスティニアノス2世がテルヴェルの助けを得て戦に勝利したことが記されている。

■構成資産

○マダラの騎士像

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

マダラの騎士像は8世紀初頭に制作された卓越した芸術作品である。ヨーロッパにおいて類似の作品は見当たらず、無二のレリーフといえる。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

マダラの騎士像はブルガリアの写実主義の彫刻作品としてのみならず、レリーフ周りに刻まれた著名なハーンの治世における出来事を記した年代記的な碑文はブルガリアの国家形成の初期段階の歴史史料として際立っている。

■完全性

マダラの騎士を描いた岩面彫刻は資産の範囲内にその価値を示すに十分な要素を含んでいる。一帯は2,000年前までさかのぼる他の考古遺跡を含む考古学保護区内に位置しており、明確化された資産の境界線と保護区域は資産周囲の保護を保証している。

岩盤の安定性が不明確であるため、レリーフは保存に関して深刻かつ恒久的な問題を抱えているが、資産の完全性には大きな影響を及ぼしていない。風化や大雨・雪解けによる水の表面流、さらには生物による影響などが重なって岩盤が侵食されており、資産はこれまでに考古学・測地学・地質学・水文学・静力学・地震学・物理化学、そして最近では微生物学など、数多くの調査研究の対象となった。これらの著しい研究成果はデータベース化され、その結果は速やかな保全措置に反映させるためにパラメータ化されている。2007年にはレリーフの保全に関する解決策を模索する国際プロジェクトが終了し、提案された措置の評価が行われている。

■真正性

マダラの騎士のレリーフはその形状・デザイン・場所・配置・素材・原料、そして精神と印象に関してその真正性を維持している。

■関連サイト

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