サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設

From the Great Saltworks of Salins-les-Bains to the Royal Saltworks of Arc-et-Senans, the Production of Open-pan Salt

  • フランス
  • 登録年:1982年、2009年重大な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iv)
  • 資産面積:10.48ha
  • バッファー・ゾーン:797.18ha
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、アル=ケ=スナン王立製塩所
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、アル=ケ=スナン王立製塩所。庭園が拡張されて半円形の敷地が円形に改装されている (C) JGS25
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、アル=ケ=スナン王立製塩所。左から西製塩所、所長邸、東製塩所、中央右が東労働者棟、製鉄所
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、アル=ケ=スナン王立製塩所。左から西製塩所、所長邸、東製塩所、中央右が東労働者棟、製鉄所 (C) GO69
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、アル=ケ=スナン王立製塩所。中央右がネオ・パッラーディオ様式の所長邸、左が西製塩所
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、アル=ケ=スナン王立製塩所。中央右がネオ・パッラーディオ様式の所長邸、左が西製塩所
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、フュリーズ川沿いに立つサラン=レ=バン大製塩所
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、フュリーズ川沿いに立つサラン=レ=バン大製塩所 (C) Arnaud 25
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、サラン=レ=バン大製塩所の水車を利用した鹹水の汲み上げ装置
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、サラン=レ=バン大製塩所の水車を利用した鹹水の汲み上げ装置 (C) Arnaud 25
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、サラン=レ=バン大製塩所を利用した博物館
世界遺産「サラン=レ=バン大製塩所からアル=ケ=スナン王立製塩所までのオープン・パン製塩施設」、サラン=レ=バン大製塩所を利用した博物館。展示されている木の幹は中がくり抜かれた送水パイプ (C) Arnaud 25

■世界遺産概要

いずれもフランス中東部ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏の世界遺産で、サラン=レ=バン大製塩所はジュラ県サラン=レ=バン、アル=ケ=スナン王立製塩所はドゥー県アル=ケ=スナンに位置している。サラン=レ=バンでは古代から塩の採掘が行われており、大製塩所は少なくとも12世紀には一帯で最大の製塩所となった。一方、アル=ケ=スナン王立製塩所はクロード=ニコラ・ルドゥーが啓蒙主義的な理想を追い求めて1775年に建設を開始した製塩所を中心とする産業集落だ。両者は21.25kmのパイプラインで接続されており、「白い黄金」と呼ばれる塩を生産してフランス王国の財政を支えた。

なお、本遺産は1982年に「アル=ケ=スナン王立製塩所 "The Royal Saltworks of Arc et Senans"」の名称で世界遺産リストに登載され、2009年の重大な変更でサラン=レ=バン大製塩所を拡大登録したうえで現在の名称に変更された。

○資産の歴史

サラン=レ=バンの周辺はフランシュ=コンテ塩盆地と呼ばれる盆地に位置している。はるか昔、この辺りは超大陸パンゲアを取り囲んでいたパンサラッサ海の海底で、中生代三畳紀(約2億5,000万~2億年前)に海が後退する過程で積もった岩塩層や石灰岩層・泥灰岩層が隆起した。地下250mに眠るこうした地層のため地下水は塩を含む天然鹹水(かんすい。塩分を含む天然水)で、その濃度は1Lあたり約330gと、海水(同約35g)どころか身体が浮くことで知られる死海(同250g前後)よりも濃くなっている。古代から人々は井戸を掘り、この地下水を汲み上げては塩を抽出していた。

天然塩の製塩法には主に天日法と煎熬(せんごう)法という2種類がある。天日法は海水や鹹水を塩田にまいて太陽熱や風を利用して蒸発させて塩の結晶を析出させる方法で、こうしてできた塩を天日塩という。一方、煎熬法は上部が開いた平釜(オープン・パン)で海水や鹹水を煮詰めて塩を抽出する方法で、こうして採れた塩を煎熬塩という。ローマ時代にはすでに塩釜を使った煎熬法が知られていたが、この地域で塩釜が使われたのは中世からと考えられている。

塩は人体に必須の成分であり、味付けはもちろん塩漬けなどの食料保存やチーズなどの加工、毛皮のなめしなどに不可欠であり、きわめて重要な製品だった。このため塩は多くの国で君主の独占事業となり、塩税が課され、製塩所は要塞化して保護された。

中世、サラン=レ=バンはサランと呼ばれており、ブルゴーニュ公国の中心的な都市として知られていた。1115年にはムイレとアモントという井戸の周囲に大小ふたつの製塩所があったことが記録されている。後者が後のサラン=レ=バン大製塩所に当たるが、この大製塩所の建設年代は不明で、10世紀のマコン伯オーブリー1世の時代、あるいはそれ以前の8世紀などといわれている。

13世紀にこの地を治めたシャロン伯ジャン1世は製塩所をほぼ独占し、14世紀にブルゴーニュ公国に組み入れられると公国の重要な収入源となった。1409年の大火を受け、ブルゴーニュ公ジャン1世は製塩所の石造化を推進した。また、サランの町を守るために西の山上にベラン城砦、東の山上にサンタンドレ城砦が整備された。

ブルゴーニュ公国は14世紀に毛織物産業で栄えるフランドル地方を取り込んでおり、ヨーロッパでもっとも豊かな国のひとつとなった。フランスと神聖ローマ帝国はこの土地を狙ったが、1477年にハプスブルク家のマクシミリアンがブルゴーニュ公であるマリー・ド・ブルゴーニュと結婚し、1493年にマクシミリアン1世として神聖ローマ皇帝位に就いたことでブルゴーニュ公国はその下に入った。その後もフランスの侵攻はたびたび繰り返され、ルイ14世が指揮を執ったオランダ侵略戦争(1672~78年。ネーデルラント戦争)の講和条約であるナイメーヘンの和約でフランシュ=コンテ地方はフランスの版図に入った。

相次ぐ戦争で町は衰退したが、フランスはサランの大製塩所を中心とした製塩施設を王立化して整備した。17世紀、大製塩所は年間14,000tの塩を生産し、フランシュ=コンテ地方の歳入の半分を占め、サランの人口も8,000人を数えたという。ただ、煎熬には燃料となる薪や木炭が不可欠だったため森林伐採が進み、次第に木材の不足に悩まされるようになった。

1771年にルイ15世からロレーヌ地方とフランシュ=コンテ地方の製塩所の監督を任されたのが建築家クロード=ニコラ・ルドゥーだ。1773年にはルイ15世の公妾であるデュ・バリー夫人の推薦を受けて王立建築アカデミーの会員となり、王室建築家となった。同年に新しい製塩所の建設が決定し、アルク村とスナン村の間の土地が選出された。理由として、両村の間にショーの森と呼ばれる森林があって木材に不自由しないことや、ドール運河やライン川を使った河川舟運が利用できる点などが挙げられた。ただ、この場所には天然鹹水の出る塩類泉が存在しないため、パイプラインを構築してサランから引き入れることとなった。このためモミの幹をくり抜いて作った約15,000本のパイプで21.25kmの二重のパイプラインが建設された。なお、両村は1790年に合併してアル=ケ=スナンとなっている。

以前から啓蒙主義(理性による合理的な知によって蒙(もう)を啓(ひら)こうという思想)に影響され、ユートピア的な理想主義者でもあったルドゥーは科学的・合理的で人権主義的な産業都市の構想を抱いていた。1774年に新たな王立製塩所の都市プランをルイ15世に提出したが、正方形を組み合わせた幾何学的構造を持つ都市はあまりに大規模で、144本のドーリア式円柱を用いるなど工場としては過去に例がないほど豪奢なものだった。ルイ15世は宮殿や教会堂ではないとしてこれを拒否。ルドゥーは規模を縮小し、所長邸とふたつの製塩所を中心として円形に施設が並ぶ修正プランを立案したが、最終的にはこれをさらに修正して直径370mの半円形のプランが提出され、承認を受けた。建設は1775年にはじまり、1778年に試運転をクリアすると、翌1779年にジャン=ルー・モンクラールが率いる運営会社の下で操業が開始された。木製のパイプラインについては18世紀末から19世紀はじめにかけて徐々に金属製のものに置き換えられた。

アル=ケ=スナン王立製塩所が開所したことでサランの大製塩所の生産量は大幅に減少し、1825年には大火で一部が焼失した。1840年に塩が自由化されると、両製塩所に民間資本が導入されて近代化が進められた。19世紀半ば以降、交通革命に伴う旅行ブームを受けてサランは温泉街として再開発された。1854年には塩類泉を利用したスパ(鉱泉をベースとした総合療養施設)が建設され、1857年には鉄道が開通した。しかし、19世紀後半になると海水を加工した海塩の生産量が急増し、鉄道網が整備されたことからヨーロッパ内陸部にまで海塩が行き渡った。加えて設備の老朽化に伴う汚染などにより両製塩所の煎熬塩は競争力を失った。この結果、アル=ケ=スナン王立製塩所は1895年に操業を停止した。1920年代に保護活動が進められ、1927年に県が買い上げて修復作業に着手した。

一方、サランの町は1926年に名称をサラン=レ=バンに変更。大製塩所は第2次世界大戦(1939~45年)で被害を受け、一部が再建されたが、1962年に操業を停止した。サラン=レ=バンはワイン生産でも栄えていたが、19世紀末のフィロキセラ(ブドウネアブラムシ)の大流行で産業が失われたこともあり、操業停止時に人口は4,000人まで減っていた。大製塩所は1966年に市が買い上げ、1970年代に保全と修復が進められた。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は2件で、1982年に登録されたアル=ケ=スナン王立製塩所と、2009年に拡大登録されたサラン=レ=バン大製塩所となっている。基本的に製塩所と周辺の施設が資産の対象で、その外に位置する城砦やパイプラインなどはバッファー・ゾーンに含まれている。

アル=ケ=スナン王立製塩所は直径370mの半円形の平面プランを持ち、直線の中心(円の中心)に全体を見回すように所長邸が立っている。ローマ建築のようなオーダー(基壇や柱・梁の構成様式)やポルティコ(列柱廊玄関)を持ち、中央に正方形の塔がそびえるネオ・パッラーディオ様式の建物で、所長の住居であると同時に中心の広間は住人の礼拝堂でもあった。所長邸の背後にある小さな建物は厩舎だ。所長邸の左右に並ぶポルティコを備えた約80×28mの建物が製塩所だ。それぞれ4基のストーブがあり、ここで塩釜を熱して鹹水を煮詰めた。さらに外側にあるふたつの建物が事務棟で、半円の直線上にこれら5棟の建物が並んでいる。一方、円周上にもほぼ同形の5棟の建物が連なっている。半円の頂部に位置する建物が守衛所や受付等を兼ねたエントランス棟で、その東に釜や竈(かまど)などを製造・修理した製鉄所、西に樽工場と倉庫を兼ねた協同組合棟が立ち、直線近くの東西に労働者と家族が暮らす2棟の労働者棟がたたずんでいる。かつては全長496mの鹹水濃縮所があったが、こちらは1920年に撤去された。半円の外は庭園となっており、労働者とその家族のために小麦などの穀物や野菜・果物・ハーブ・薬草などが栽培されていた。現在はさまざまなテーマで造園されており、種々の花壇や迷園(立体迷路)・噴水庭園・枯山水などが見られる。また、21世紀に入って庭園が拡張され、敷地は円形を描くように改装された。

サラン=レ=バン大製塩所はサラン=レ=バン中心部に築かれた製塩所と関連施設が登録されている。主な施設として、製塩所や汲み上げ施設・塩倉庫・所長邸などがあり、設備としては塩釜跡や水車・大井戸・輸送パイプや水路などが残されている。現在も一部のポンプ・システムは稼働しており、温泉や融雪剤あるいは凍結防止剤として道路にまくために使用されている。

■構成資産

○アル=ケ=スナン王立製塩所

○サラン=レ=バン大製塩所

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

アル=ケ=スナン王立製塩所は産業の場として設計された規模と水準を満たす最初の建造物群である。建築において宮殿や重要な宗教施設に匹敵するクオリティを確保するために同レベルの関心と注意をもって建設された最初の産業遺産の例であり、きわめて先見性の高い数少ない建築の一例である。製塩所はクロード=ニコラ・ルドゥーが思い描き設計した、工場を取り囲むように展開する理想都市の中心であった。未完成に終わった製塩所のユートピア建築はその未来的なメッセージの衝撃の全体像をいまだ伝えつづけている。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

アル=ケ=スナン王立製塩所は18世紀末のヨーロッパにおける根本的な文化的変革、すなわち産業社会の誕生を証言するものである。この王立製塩所はまた啓蒙時代のヨーロッパを席巻した哲学的潮流の全体を完璧に示していると同時に、半世紀後に発達する産業建築を予見するものでもあった。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

サラン=レ=バンとアル=ケ=スナンの製塩所は少なくとも中世から20世紀までの、地下の鹹水を汲み上げ、火を使用して結晶化させて塩を析出・生産するという際立って技術的な建造物群を有している。

■完全性、真正性

サラン=レ=バンの歴史的な敷地はその産業的・技術的完全性に関して特別な土地領域として保護されており、塩水処理施設(ストーブ)の一部とポンプ施設についても完全性が保持されている。残りの地上の建造物群は修復されたものであるが、その大きさについては変更されていない。

時代の変遷により中世の建造物群は断片的にしか残されていないが、生産施設・町・周辺地域の関係性を成立させるシステムはその完全性を十分に保っているように思われる。しかしながら周壁がほとんど撤去され、かつてのエントランスの門だけが独立して立つようになったことで、分離されていた製塩所と都市構造との関係性が変わってしまった。これと同様に、新しいカジノもその建築と資産の中心という位置によって大製塩所の完全性を毀損している。

サラン=レ=バンの大製塩所は特に当時のポンプや塩水処理施設に関する遺構を中心としているが、ヨーロッパできわめて貴重な例であり、真正性が保たれている。博物館とカジノのために建設されたモダニズム建築も考古学的遺構と残された古い建造物群の真正性を尊重して建てられている。

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