リヨン歴史地区

Historic Site of Lyon

  • フランス
  • 登録年:1998年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:427ha
  • バッファー・ゾーン:323ha
世界遺産「リヨン歴史地区」、右はノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカのアプス頂部に立つ大天使ミカエル像。手前の川がソーヌ川、奥がローヌ川。左のゴシック様式の建物はサン=ジャン=バティスト大聖堂
世界遺産「リヨン歴史地区」、右はノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカのアプス頂部に立つ大天使ミカエル像。手前の川がソーヌ川、奥がローヌ川。左のゴシック様式の建物はサン=ジャン=バティスト大聖堂
世界遺産「リヨン歴史地区」、ソーヌ川から見上げたノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカ(上奥)とサン=ジャン=バティスト大聖堂(右下)。赤い塔はフルヴィエール金属塔、左の橋はボナパルト橋
世界遺産「リヨン歴史地区」、ソーヌ川から見上げたノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカ(上奥)とサン=ジャン=バティスト大聖堂(右下)。アプスが双塔に挟まれたようなデザインは両者に共通している。赤い塔はフルヴィエール金属塔、左の橋はボナパルト橋 (C) Sergey Ashmarin
世界遺産「リヨン歴史地区」、ノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカの西ファサード。右の鐘楼はサン=トマス礼拝堂で、頂部の黄金像は聖母マリア像
世界遺産「リヨン歴史地区」、ノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカの西ファサード。右の鐘楼はサン=トマス礼拝堂で、頂部の黄金像は聖母マリア像
世界遺産「リヨン歴史地区」、リヨン市庁舎=オテル・ド・ヴィル・ド・リヨンの西ファサード。中央の鐘楼下に見られるレリーフはアンリ4世騎馬像
世界遺産「リヨン歴史地区」、リヨン市庁舎=オテル・ド・ヴィル・ド・リヨンの西ファサード。中央の鐘楼下に見られるレリーフはアンリ4世騎馬像
世界遺産「リヨン歴史地区」、彫刻家フレデリク・オーギュスト・バルトルディの傑作として名高いテロー広場のバルトルディの噴水
世界遺産「リヨン歴史地区」、彫刻家フレデリク・オーギュスト・バルトルディの傑作として名高いテロー広場のバルトルディの噴水。4頭のウマは世界の4大大河で世界を、それを操る女神はフランスを示している
世界遺産「リヨン歴史地区」、ゴシック様式の独特のたたずまいを見せるサン=ボナヴァンチュール・バシリカ
世界遺産「リヨン歴史地区」、ゴシック様式の独特のたたずまいを見せるサン=ボナヴァンチュール・バシリカ
世界遺産「リヨン歴史地区」、ギリシア神殿を彷彿させるパレ・ド・ジュスティス・イストリック(リヨン歴史司法宮)。上はノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカとフルヴィエール金属塔、下の橋はパレ・ド・ジュスティス歩道橋
世界遺産「リヨン歴史地区」、ギリシア神殿を彷彿させるパレ・ド・ジュスティス・イストリック(リヨン歴史司法宮)。上はノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカとフルヴィエール金属塔、下の橋はパレ・ド・ジュスティス歩道橋
世界遺産「リヨン歴史地区」、機織職人カニュのための集合住宅として19世紀はじめに建設されたブリュネ邸、別名・365窓のメゾン
世界遺産「リヨン歴史地区」、機織職人カニュのための集合住宅として19世紀はじめに建設されたブリュネ邸、別名・365窓のメゾン
世界遺産「リヨン歴史地区」、古代劇場あるいはローマ劇場とも呼ばれるリヨンのテアトルム
世界遺産「リヨン歴史地区」、古代劇場あるいはローマ劇場とも呼ばれるリヨンのテアトルム (C) Pymouss

■世界遺産概要

リヨンはフランス中東部オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏のメトロポール・ド・リヨンの都市で、ソーヌ川とローヌ川の合流地点に位置し、古代から河川舟運や陸運の要衝として発達した。ローマ時代にはローマ属州ガリア・ルグドゥネンシスの首都ルグドゥヌムとして繁栄し、中世以降は絹糸・絹織物の交易・生産で名を馳せ、近代には製糸・織布(製織)に関してヨーロッパ最大の工業都市となった。

資産はおおよそソーヌ川右岸(西岸)のヴュー・リヨン(オールド・リヨン)やフルヴィエールの丘と、ソーヌ川とローヌ川に挟まれた半島状のプレスキル地区からクロワ・ルースの丘の手前までのエリアで、古代以来の都市プランをベースに、ローマ遺跡からプレ・ロマネスク、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、新古典主義、歴史主義、モダニズムといった時代時代のスタイルの建造物がその長い歴史を物語っている。

○資産の歴史

リヨン周辺では紀元前4世紀にはケルト系のガリア人が一帯に定住をはじめていた。集落はソーヌ川、ローヌ川を使った交易で栄え、特にローヌ川下流のアレラテ(現・アルル。世界遺産)や地中海沿岸のマッサリア(現・マルセイユ)といった港湾都市と盛んに交易を行った。

紀元前43年にローマ属州ガリア・ナルボネンシスの総督ルキウス・ムナティウス・プランクスがソーヌ川右岸にたたずむフルヴィエールの丘に植民都市ルグドゥヌムを建設。アウグストゥスが初代ローマ皇帝位に即位した紀元前27年にガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)の再編が行われ、ローマ属州ガリア・ルグドゥネンシスが編成されてその首都となった。一帯を見下ろす丘の上に中心となるフォルム(公共広場)が建設され、その南や西に町が展開し、付近にバシリカ(集会所)、クリア(議場)、テアトルム(ローマ劇場)、オデオン(屋内音楽堂)、テルマエ(公衆浴場)、キルクス(多目的競技場)、カピトリウム神殿、ネクロポリス(死者の町)などが整備された。ソーヌ川の対岸にはカナバエと呼ばれる城外居住地が広がり、クロワ・ルースの丘の手前にはアンフィテアトルム(円形闘技場)が建てられた。

また、アウグストゥスの腹心であるアグリッパはルグドゥヌムを中心にガリア全域に広がる「アグリッパ街道」と呼ばれるローマ街道を整備し、毎年ガリア3州(ガリア・ルグドゥネンシス、ガリア・アクィタニア、ガリア・ベルギカ)の代表が集まるガリア人評議会を開催するなど、ガリアの政治的・軍事的・経済的な中心地に発展した。第4代皇帝クラウディウスが生まれた町としても知られている。

2世紀にキリスト教が伝わり、最初の司教として聖ポティヌスが派遣されたが、弾圧にあって177年に他の47人の殉教者とともに死去したことが記録されている。聖ポティヌスの後継者である聖エイレナイオス(リヨンのエイレナイオス)は最初期のキリスト教神学者として名高く、その後も5世紀に数多くの書を残した聖シドニウス・アポリナリスを輩出するなど、ルグドゥヌムは神学の地として名を馳せた。このため中世にはリル・バルベ修道院(資産外)をはじめ数多くの修道院が築かれた。この頃に創設されたリヨン最古級の教会堂として、4世紀以前の創建で1792年に破壊されたサンテティエンヌ教会や、後に移転してルネサンス様式で建て替えられたサン=ジュスト教会、177人の殉教者を祀るために建てられたサン=ニジエ教会などが挙げられる。

3世紀末にガリアの中心地としての地位はアウグスタ・トレウェロルム(現・トリーア。世界遺産)に移行。476年に西ローマ帝国が滅亡すると、ゲルマン系ブルグント人が建てたブルグント王国に組み込まれ、6世紀にはブルグント王国がフランク王国メロヴィング朝の版図に入った。フランク王国はカロリング朝期、特に8世紀末から9世紀はじめにかけてのカール大帝の時代に最盛期を迎え、古典復興に基づくキリスト教文化の興隆、いわゆるカロリング・ルネサンスが起こった。司教アゴバルトらの活躍もあってこの時代に都市の開発が進められ、リヨンはカロリング・ルネサンスの中心地のひとつとなった。都市の名称は次第にルグドゥヌムからルグドゥン、ルオンなどを経てリヨンへ変化していったようだ。メロヴィング朝期の建設で、カロリング朝期に再建され、現在遺構が残る教会堂がサント=クロワ教会だ。また、9世紀にはサンテティエンヌ教会とサント=クロワ教会に隣接してサン=ジャン=バティスト大聖堂(洗礼者聖ヨハネ大聖堂/リヨン大聖堂)が築かれ、フルヴィエールの丘からソーヌ川にかけて「大聖堂グループ」と呼ばれる教会地区が整備された。一方、対岸であるソーヌ川左岸(東岸)のプレスキル地区にはサン=ニジエ教会や、859年に設立されたベネディクト会修道院の修道院教会(現・サン=マルタン・デネー・バシリカ)が建設・再建された。

フランク王国は843年のヴェルダン条約で西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国に分割され、中部フランク王国は855年のプリュム条約でロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに再分割され、さらに870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスが西フランク王国と東フランク王国に吸収された。これによりリヨンは中部フランク、プロヴァンス、西フランクと推移し、その後、ブルゴーニュ公国に組み込まれた。ブルゴーニュ公爵邸として建てられ、後に大司教宮殿として改築された建物がピエール・シーズ城(現存せず)だ。

1078年に教皇グレゴリウス7世によってリヨン大司教はガリアの首座大司教の称号を獲得し、1157年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサによって領地が与えられて独立した地位を得た。この時代に多くの修道院や教会堂が建設された。一例が、聖母マリアとイングランドのカンタベリー大司教トマス・ベケットに捧げられた礼拝堂(現・ノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカ)で、大聖堂グループの既存の教会堂群もロマネスク様式やゴシック様式で改修・再建された。リヨン大司教領は小さいながらも商業・政治・宗教・軍事の要衝だったことから大きな影響力を持ち、特にローマ・カトリックの重要拠点となって教皇の戴冠式や公会議などが開催された。1183年にはリヨン最古の木造橋であるローヌ橋(現・ギヨティエール橋)が完成している。

13世紀に入ると、異端を言い渡されたキリスト教のカタリ派(アルビジョワ派)討伐のためにアルビジョワ十字軍が結成され、これへの参加を機にフランス王国が南フランスを征服して地中海まで勢力を広げた。13世紀後半からフランスと教皇庁の対立が激化し、1303年にフランス王フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世を捕らえ(アナーニ事件)、1309年には教皇聖座をフランス・アヴィニョンの教皇庁宮殿(世界遺産)へ遷してしまった(アヴィニョン捕囚/教皇のバビロン捕囚)。リヨンでも市民と教会勢力の対立が深刻化し、商人や職人たちの反発が強まった。こうした状況を利用し、フィリップ4世は1311年にリヨンに入城し、翌1312年にこれを併合した。これにより教会勢力の影響力は減退し、商工業は活性化してさらなる繁栄を遂げた。

フランスはリヨンをイタリアに対する拠点とし、政治や軍事の関係者が駐在して監視を強めた。この頃、イタリアではベネツィア(世界遺産)やジェノヴァ(世界遺産)といった海洋都市国家が地中海貿易を独占していたが、これらの都市から香辛料や絹がガリアや北ヨーロッパに持ち込まれ、リヨンが両者を結ぶ交易拠点となった。また、フィレンツェ(世界遺産)などの金融都市の銀行や保険会社が支店を出し、リヨンを金融センターとして整備した。1472年には最初の印刷会社が建設され、ヨーロッパでもっとも重要な印刷・出版の中心地のひとつに成長した。この頃、リヨンの商工業の中心となっていたのがプレスキル地区で、市民の教会堂として14~15世紀にかけてサン=ニジエ教会がゴシック様式で再建された。

15世紀末からフランスはイタリアに進出して神聖ローマ帝国とイタリア戦争(1494~1559年)を戦った。戦争には敗北したが、直接イタリア文化に触れた国王フランソワ1世は絹産業やルネサンス文化をフランスに持ち帰った。絹織物について、それまでヨーロッパで絹糸から絹織物を織っていたのはジェノヴァなど一部に限られており、リヨンは完成品を取引していた。しかし、フランソワ1世は織布(製織)産業を持ち込み、リヨンにその特権を与えた。当初は低品質のものに限られていたが、17世紀に入るとヨーロッパにその名を轟かせるほどに発展した。

ルネサンスについて、ゴシック様式の人気もあってフランスではメインストリームにはならなかったが、フランソワ1世が滞在したロワール渓谷(世界遺産)やリヨンなどではルネサンス建築が導入された。町では商業や絹産業・金融業・出版業・印刷業などで潤った富裕層がルネサンス様式やゴシック様式との折衷的な邸宅を建てたため、ルネサンスの街並みが広がった。その典型的な邸宅がクロード・ド・ブール邸だ。また、フランスではルネサンス様式の教会堂は多くないが、1565~1663年に再建されたサン=ジュスト教会は典型的なルネサンス建築となっている。この頃、リヨンは文化都市としても名を馳せ、作家フランソワ・ラブレーが文学サロンを開き、出版活動に勤しむなど、多くの文化人を集めた。ラブレーやモーリス・セーヴといったリヨン派の文学者グループは「フルヴィエール・アカデミー」と呼ばれ、ルネサンスのヒューマニズム(人文主義。人間性や人間の尊厳を重視する思想)を標榜した。こうした文化性から国王にも愛され、1600年にはアンリ4世とマリー・ド・メディシスの結婚式がサン=ジャン=バティスト大聖堂で行われた。

しかし、15世紀にはじまった大航海時代が本格化すると地中海貿易は衰退し、フランスの目は地中海やイタリアから大西洋やアメリカに向かった。また、カルヴァン派プロテスタントである新教派=ユグノーと旧教派=ローマ・カトリックとの争いが激化したユグノー戦争(1562~98年)では、1562年にユグノー軍に一時的に占領された。政府が締め付けを強めて自治が失われていく中で、ユグノーの富裕層は一部、スイスやネーデルラントに脱出したが、それでも商業や絹産業は衰えることがなかった。特に発明家ジャック・ド・ヴォーカンソンによるオートマタ(自動人形/自動機械)や、それを発展させた発明家ジョゼフ・マリー・ジャカールによるジャカード織機の発明・導入が貢献し、17~18世紀にかけてリヨンは絹産業においてさらに飛躍した。

フランス革命後、リヨンも一時的に衰退したが、1804年に皇帝位に就いて第1帝政を開始したナポレオン1世がリヨンの絹を皇室御用達としてすべての宮殿に採用したことでリヨンの絹産業は頂点を迎えた。1800~48年の間に織機は6,000台から60,000台へ急増し、90,000人以上の労働者を抱えていたという。この頃、蒸気機関による交通革命がリヨンに及び、1830年代にフランス初の商業鉄道がリヨン-サンテティエンヌ間に開業し、リヨン-アルル間には蒸気船が導入された。この時代に発達したのがクロワ・ルースの丘の周辺で、多くの工場と「カニュ」と呼ばれる機織職人の住宅が建設され、住宅街は中世の城壁外にまで及んだ。1810年頃にカニュのために築かれたタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)がブリュネ邸(365窓のメゾン)だ。また、多くの建物がバロック様式や新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)で建設・再建された。一例がバロック様式のオテル・ド・ヴィル・ド・リヨン(リヨン市庁舎)や、新古典主義様式の施療院であるオテル=デュー・ド・リヨン、銀行・両替所として建設され1803年にプロテスタント改革派の教会堂となったタンプル・デュ・シャンジュ(シャンジュ寺院)だ。

1852年にナポレオン3世による第2帝政がはじまると、ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンによるパリ改造を参考に、建築家トニー・デジャルダンやギュスターヴ・ボネらによってプレスキル地区やクロワ・ルース地区の都市改造が進められた。また、第2帝政の前後に周囲に要塞群が建設され、町は二重の要塞線で取り囲まれた。資産に含まれている要塞や稜堡にはロワイヤス要塞、サン=ジャン要塞、サン=ローラン稜堡がある。また、19世紀には歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興したゴシック・リバイバル様式やネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式等)の建物が盛んに築かれた。

18世紀にイギリスで産業革命が起こり、フランスでも第2帝政期に本格化した。リヨンでも工業化が進行し、産業の機械化や化学染料・化学繊維の導入が促された。ローヌ川の左岸では整然と整備された新市街が発展し、フランス随一の工業都市に成長した。1855年頃、ヨーロッパでカイコが伝染病で大量死し、養蚕業が大打撃を受けた。フランスは産業革命を推進する日本に目を付け、技術移転を行って絹糸の生産体制を整備させた。これに貢献したのがリヨンの絹商人ポール・ブリュナで、日本政府に雇われて富岡製糸場(世界遺産)の建設を主導した。

1870~1940年の第3共和政の時代、20世紀はじめに市長エドゥアール・エリオと都市設計家・建築家のトニー・ガルニエの指揮の下でローヌ川両岸の再開発が進められ、橋の建設や建て替えが行われた。主だった建物は多くが資産外となるローヌ川左岸に築かれて、現代都市としてのリヨンは左岸を中心に発展した。一方、ローヌ川から西の資産内は古代から近代の遺構や建造物が調和した歴史都市として保全されることとなった。

○資産の内容

世界遺産の資産はおおよそ東はローヌ川、西はフルヴィエールの丘、南はプレスキル地区のフランクラン通り、北はマレシャル・コニッグ橋やクロワ・ルース通り周辺で囲まれた内側となっている。

ローマ遺跡の多くはフルヴィエールの丘に残されている。古代劇場あるいはローマ劇場と呼ばれるテアトルムはアウグストゥスの治世中の紀元前1世紀の建設と見られており、直径約109mの半円形で約1万人を収容した。中世に入ると建材として多くの石が持ち去られて土中に没したが、19世紀に発見されて遺構が発掘された。テアトルムに隣接するオデオンは1~2世紀に築かれた屋内音楽堂で、直径73mの半円形で約3,000席を有していた。こちらは中世以降も埋もれることなくありつづけ、テアトルムとともに20世紀に復元された。テルマエは1世紀の建設と見られる古代の公衆浴場で、75×50mほどの建物の遺構が残されている。周辺には他に61×37mほどの長方形の集会所であるバシリカや、トゥルピオの墓やサトリウスの墓といった墓廟が立ち並ぶ死者の町=ネクロポリスなどの遺構がある。また、クロワ・ルースの丘の手前には円形闘技場=アンフィテアトルムの遺構が残されている。ローマ市民権を得たガリアの貴族らの寄付によって19年に築かれたもので、特に3民族の名が刻まれていることから「3ガリアのアンフィテアトルム」と呼ばれている。もともと長径81m・短径60m、アリーナは長径68m・短径42mほどの楕円形だったが、2世紀はじめに拡張されて143×117mという巨大なものとなり、約2万人を収容した。現在は土台の一部が残されている。

代表的な宗教建築として、まずリヨンのランドマークであるノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカが挙げられる。フルヴィエール大聖堂とも呼ばれる教会堂で、12世紀に建てられた聖母マリアとカンタベリー大司教トマス・ベケットに捧げられた小さな礼拝堂を前身としている。聖母信仰の中心的な教会堂として名を馳せ、17世紀のペスト、19世紀のコレラやプロイセン=フランス戦争(普仏戦争。1870~71年)をはじめ、聖母の加護でリヨンは幾度もの危機を救われたと伝えられている。プロイセン=フランス戦争での勝利に感謝して、1849~52年に建築家アルフォンス=コンスタンス・デュボワによって鐘楼が建て替えられ、ドームを冠した四角形の塔の頂部に彫刻家ジョセフ・ユーグ・ファビッシュによる聖母マリア像が掲げられた。リヨンの町を抱きしめるように両手を広げた黄金像で、手が異様に長くデザインされているが、丘の下から見上げたときにもっとも神々しく見えるよう計算されている。後にトマス・ベケットに捧げる礼拝堂となり、現在はサン=トマス礼拝堂と呼ばれている。この鐘楼に隣接して築かれた聖母マリアに捧げる新しい教会堂がノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカで、フランスの建築家ピエール・ボッサンの設計で1872~96年に建設された。ロマネスク・リバイバル様式とビザンツ・リバイバル様式の折衷となっており、バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式(廊下を持たない様式)で、86×35nの教会堂の四方に尖頭を掲げた高さ48mの八角形の塔を有し、東に円柱形のアプス(後陣)が張り出している。アプスの頂部から見下ろしているのは彫刻家ポール=エミール・ミルフォーによる大天使ミカエル像だ。西ファサード(ファサードは正面)も洗練されており、聖母子や聖霊・天使・十二使徒などの彫像で飾られたペディメント(頂部の三角破風部分)や、天使のカリアティード(女性像柱)を柱としたロッジア(柱廊装飾)、青大理石によるコリント式の柱を並べたポルティコ(列柱廊玄関)、イエスやマリアの物語を描いたレリーフなど、見事な装飾で飾られている。内部はさらに華やかで、壁面を飾るステンドグラスやモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、16本の装飾された青大理石柱、金を基調としたアプスの豪華なモザイク装飾、各所に散りばめられた彫刻やレリーフ、フレスコ画などがきらびやかな空間を演出している。

サン=ジュスト教会はソーヌ川右岸のローマ時代のネクロポリスに4世紀に築かれたと伝わるリヨン最古級の歴史を持つ教会堂で、その名の通りリヨン司教・聖ジュストに捧げられている。12世紀に200mほど移転し、ロマネスク様式の巨大な教会堂が築かれてサン=ジュスト・バシリカとなったが、ユグノー戦争で1562年に破壊された。1565~1663年にネクロポリス付近に戻り、フランスではあまり見られないルネサンス様式の教会堂として再建された。バシリカ式・単廊式で、内部はシンプルながら洗練されており、画家ジャン=ユーグ・タラヴァルやボン・ブーローニュをはじめ主に18世紀の画家や彫刻家の作品で飾られている。

サン=ジャン=バティスト大聖堂は日本語で洗礼者聖ヨハネ大聖堂を意味し、リヨンの大司教座が置かれていることからリヨン大聖堂とも呼ばれている。7世紀に建てられたサンテティエンヌ教会の洗礼堂が前身で、9世紀に教会堂となり、現在の建物は1160~1481年に3世紀以上にわたって建設が進められた。当初はロマネスク様式で建設が開始されたが、後にゴシック様式に改められたため、アプスとクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)は前者、身廊と西ファサードは後者でデザインされている。80×20mほどのバシリカ式・三廊式の教会堂で、2基の塔を身廊の両脇に配すことで「†」のラテン十字形に見せている。この2基に加えて西ファサードに2基、計4基の塔が周囲に立っており、東には円柱形のアプスがそびえている。これは後年築かれたノートル=ダム・ド・フルヴィエール・バシリカによく似た形で、大きな影響を与えたことが理解できる。ゴシック様式としては装飾が控え目だが、四方のバラ窓や身廊・アプスを彩る多彩なステンドグラス、歴史的な絵画やタペストリー、豪華なパイプオルガンといったすぐれた芸術作品に満ちている。

サン=ジョルジュ教会はヴュー・リヨンのソーヌ河畔に立つ教会堂で、6世紀創建と伝わっており、現在見られるゴシック・リバイバル様式の建物はピエール・ボッサンの設計で19世紀後半に建設された。ラテン十字式・三廊式で、中央には高さ67mを誇る巨大なスパイア(ゴシック様式の尖塔)を冠したクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)がそびえており、ソーヌ川から眺めたリヨンのスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)を彩っている。双塔や多数のピナクル(ゴシック様式の小尖塔)を掲げた西ファサードはバラ窓や彫刻・レリーフで飾られており、特にティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)には彫刻家シャルル・デュフレーヌによるドラゴンを倒す聖ゲオルギオスの騎馬像が刻まれている。

サン=ポール教会はヴュー・リヨンの北に位置する教会堂で、こちらも6世紀創建と伝わっている。現在見られる教会堂は12~13世紀に建設されたロマネスク様式の建物をベースとし、15~16世紀にゴシック様式で増改築されたものだ。ラテン十字式・三廊式で、ゴシック様式の西ファサードには中央に鐘楼が立っており、鐘楼ポーチとなっている。また、十字の交差部に立つクロッシング塔はロマネスク様式で、鐘楼と独特の対比を形成している。

タンプル・デュ・シャンジュはヴュー・リヨンに位置する新古典主義様式の建物で、シモン・グルデの設計で1631~53年に建設され、1748~80年にジャック=ジェルマン・スフロによって改装された。もともと銀行・両替所として建設されてロージュ・デュ・シャンジュ(両替のロッジ)と呼ばれたが、1803年にプロテスタント改革派の教会堂となり、「変化の寺院」を意味するタンプル・デュ・シャンジュと呼ばれるようになった。

サン=マルタン・デネー・バシリカはプレスキル地区に位置する教会堂で、859年創設のベネディクト会修道院の修道院教会として建設された。11世紀後半から建て替えが進められ、12世紀はじめに現在見られるロマネスク様式の教会堂が完成した。当時は周囲に僧院やクロイスター(中庭を取り囲む回廊)、修道院長邸といった多くの施設が存在したが、17世紀に廃院となってほとんどが撤去された。教会堂はその後、教区教会となり、フランス革命後にロマネスク・リバイバル様式で改装され、1905年に教皇ピウス10世からバシリカの称号を与えられた。37×17mのバシリカ式・三廊式の教会堂で、西ファサードに鐘楼ポーチ、クワイヤにランタン塔(採光用の塔)というふたつの塔がそびえている。リヨンを代表するロマネスク建築だが、内部はゴシック様式のサン=ミシェル礼拝堂や、19世紀のガラス作家ルシアン・ベグルのステンドグラスなど、時代時代のスタイルが散りばめられている。

サン=ニジエ教会は177年に殉教した聖ポティヌスをはじめ48人の殉教者を祀るために5世紀に築かれたと伝わるプレスキル地区の教会堂だ。貴族や高位聖職者の支持を集めたソーヌ川右岸の大聖堂グループに対し、サン=ニジエ教会は商工業者や金融業者といった市民の支持を集めた。そうした市民からの寄付もあって14~15世紀にゴシック様式で建て替えられたが、16世紀にユグノーによって一部が破壊され、リヨン出身のフランス・ルネサンスの巨匠フィリベール・ドロルムによってルネサンス様式を加えて改修された。フランス革命後の19世紀にゴシック・リバイバル様式で改装され、現在見られる教会堂が完成した。ラテン十字式・三廊式で、西ファサードに2基の鐘楼を掲げている。西ファサードは基本的にゴシック様式で、バラ窓やランセット窓、ピナクル、ガーゴイル(悪魔や怪物を象った雨樋)などが見られるが、中央ポータル(玄関)はルネサンス様式で、北塔のスパイア(ゴシック様式の尖塔)は15世紀のゴシック様式、南塔のスパイアは19世紀のゴシック・リバイバル様式となっている。内部は交差四分ヴォールト、尖頭アーチ、ステンドグラスなどで飾られた見事なゴシック空間が広がっている。

サン=ボナヴァンチュール・バシリカはプレスキル地区に立っていたフランシスコ会のコドルリエ修道院の修道院教会が手狭になったことから1325~27年にゴシック様式で建てられた教会堂だ。もともとアッシジの聖フランチェスコに捧げられていたが、その後、私設のコンフレリー(同胞団/兄弟団)の教会堂となり、15世紀に身廊の両脇に数々の礼拝堂が建設された中で聖ボナヴェントゥラ礼拝堂が支持されてサン=ボナヴァンチュール教会と呼ばれるようになった。バシリカ式・三廊式の教会堂で、ゴシック様式ながら高さにこだわりは見られず横に広がった形状で、通常は東を向くアプスがほとんど南を向く特殊な造りとなっている。主祭壇の精密な彫刻やレリーフ群、身廊やアプスのバラ窓やランセット窓のステンドグラス、ノートル=ダム礼拝堂や聖ボナヴェントゥラ礼拝堂、聖ヨセフ礼拝堂、聖ニコラオス礼拝堂といった礼拝堂群の装飾は非常に名高い。2019年に教皇フランシスコからバシリカの称号を得ている。

トリニテ礼拝堂はイエズス会の大学の一部として1617~22年に築かれたバシリカ式の礼拝堂で、宗教改革後にローマ・カトリックの信仰を再興するための対抗宗教改革(反宗教改革)の拠点となった。リヨンでは最初期のバロック建築で、18世紀には建築家ジャン=アントワーヌ・モランの設計でカッラーラ大理石による白亜の天井やトロンプ・ルイユ(だまし絵)の装飾などで改装された。ナポレオン1世がここでリヨン会議と呼ばれる臨時会議を開催したことでも知られる。

サン=ブルーノ・デ・シャルトリュー教会はクロワ・ルースの丘の麓にたたずむ教会堂で、プレスキル地区でユグノーが増えていくのに対し、ローマ・カトリックの支持を回復するために1590~1690年に建設され、18~19世紀に改装された。バロック様式のラテン十字式・単廊式教会堂で、クロッシング塔に長球(楕円を回転させた形)ドームを冠し、ドームの下にはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂(世界遺産)を彷彿させるフランス系イタリア人画家・建築家ジョヴァンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニによる天蓋がそびえている。主祭壇はアプスではなく天蓋の下に置かれており、主祭壇の左右となるトランセプトの両端には画家ピエール・シャルル・トレモリエールによるイエスの昇天と聖母マリアの被昇天の絵が掲げられている。内部は白と金を基調とした壮麗な空間で、身廊の両脇に並ぶ8堂の礼拝堂はそれぞれ豪壮なバロック装飾で彩られている。

代表的な公共建築として、まずリヨン市庁舎=オテル・ド・ヴィル・ド・リヨンが挙げられる。近世・近代におけるプレスキル地区の中心的な建物で、フランスの建築家シモン・モーパンの設計で1646~72年に建設された。1701~03年にはルイ14世の王室建築家であるジュール・アルドゥアン=マンサールとその弟子ロベール・ド・コットによる改修を受けている。バロック様式の2階建てのコートハウス(中庭を持つ建物)で、西ファサードに四方に時計を備えた鐘楼を備えている。西ファサードの鐘楼下にはもともとルイ14世のレリーフが飾られていたが、フランス革命中の1793年に破壊され、後に彫刻家ジャン=フランソワ・ルジャンドル=エラルによるアンリ4世の騎馬レリーフが掲げられた。それ以外にもバロックらしくジョセフ・ユーグ・ファビッシュらによる数多くの彫刻やレリーフが飾られている。内部には高等裁判所や評議場のほか、市長室や公文書館、商取引に使用された保全のサロン、宴会場である祝賀のグラン・サル(サルは部屋・広間)あるいはジュスタン・ゴダールのサロン、絹のメダリオンが並ぶサロン・ルージュといった華やかな部屋が立ち並んでいる。

オテル・ド・ヴィル・ド・リヨンの西に隣接するのはテロー広場で、中央北にはバルトルディの噴水が設置されている。噴水の彫刻は彫刻家フレデリク・オーギュスト・バルトルディによる4頭立ての馬車に乗る女神像で、フランスを女神、世界の4大大河を4頭のウマに見立てている。

テロー広場の南にはリヨン美術館がたたずんでいる。17世紀に建てられたバロック様式の建物はもともとサン=ピエール=レ=ノナン修道院だったもので、1792年に廃院となり、1803年に美術館としての公開がはじまった。19世紀リヨン派の絵画を中心に、古代から19世紀まで数多くの絵画や彫刻などの芸術作品が展示されている。

オテル・ド・ヴィル・ド・リヨンの東にはリヨン・オペラ座が立っている。18世紀半ばに建てられたグラン・テアトルを前身とした劇場で、現在の新古典主義様式の建物は1831年頃に建設され、1989~93年に半筒状のガラス屋根が増設された。

セレスタン劇場はもともとケレスティヌス(フランス語でセレスタン)修道会の修道院だった場所に立つ劇場で、修道院がフランス革命後に廃院になった後、1792年にオープンした。1871年に火事で焼失すると、建築家ガスパール・アンドレの設計でイタリア風・折衷主義様式(特定の様式にこだわらず複数の歴史的様式を混在させた19~20世紀の様式)の華麗な劇場が再建された。この建物も1880年に焼失したが、ガスパール・アンドレによってほぼ同様に復元された。

オテル=デュー・ド・リヨンの「オテル=デュー」は「神の家」を意味し、中世初期に教会や修道院が建設した病院や療養所・救貧院・各種保護施設を兼ねた複合施設を示す。オテル=デュー・ド・リヨンは11~12世紀に創設されたコンフレリーの慈善施設を母体とし、15世紀半ばに医師が常駐する施療院となった。1532年にはルネサンスを代表するヒューマニスト(人間性や人間の尊厳を重視する人文主義者)であるフランソワ・ラブレーが医師として勤務しており、ラブレーはランス滞在中に巨人族の物語を描いた『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を上梓している。現在見られる新古典主義様式の建物は17世紀に建築家ギヨーム・デュスレが建設し、18世紀にジャック=ジェルマン・スフロによって拡張されたもので、バロック様式のオテル=デュー礼拝堂や病棟など多くの施設を含んだものとなっている。付属施設の拡張は19世紀まで続けられ、リヨン最大の広場であるベルクール広場を越えて広がる大規模な病院コンプレックスを形成した。20世紀に入って病院機能は各地に分散されて縮小し、2010年に病院としての歴史に終止符を打った。現在は博物館やホテルなどとして使用されている。

マネカンテリーは聖職者に歌唱を教える学校施設で、クワイヤ学校、聖歌隊学校、スコラ・カントルムなどとも呼ばれている。リヨンのマネカンテリーはローマ時代の遺跡を除いてリヨン最古級と見られる建物で、2世紀の遺構や8世紀のカロリング朝期の建物をベースに、11世紀後半にロマネスク様式で建設され、16世紀にゴシック様式の窓などが増設された。窓が少なく重厚な建物を利用してサン=ジャン=バティスト大聖堂のマネカンテリーとして使用され、18世紀には新たな建物に建て替える計画が進んでいたが、フランス革命で建物が維持されることとなった。

エコール・ド・ティサージュはサン=ピエール宮殿(サン=ピエール=レ=ノナン修道院)で開催されていた織物学校を引き継ぐために市長アントワーヌ・ガイルトンが1883年に設立した織物学校だ。クロワ・ルースの丘の斜面にたたずむ建物は都市設計家・建築家トニー・ガルニエの設計で1927~33年に建設されたもので、コンクリートとガラスを駆使したモダニズム建築となっている。現在は博物館や高校などの施設として使用されており、博物館では歴代の織機などが展示されている。

ブルス宮殿(パレ・ド・ラ・ブルス)はパレ・デュ・コマース(商業宮殿)とも呼ばれる建物で、リヨン経済のさらなる発展を目指して第2帝政期に商業施設として建設され、商工会議所や商事裁判所・証券取引所・銀行などが入っていた。64.5×56.6mほどのネオ・バロック様式のコートハウスで、建築家ルネ・ダルデルによって1856~60年に建設された。ファサードをはじめ各所に見られる彫像は彫刻家ジャン=マリー・ボナシューやフランソワ・フェリックス・ルボー、アンドレ・ヴェルマール、装飾画は画家アントワーヌ・クロード・ポンテュス=シニエやジャン=バティスト・ブショーらによるもので、主にリヨンの芸術家の作品で彩られている。

パレ・ド・ジュスティス・イストリックは歴史司法宮あるいは歴史裁判所と訳されることが多い施設で、ソーヌ川に面した東ファサードに24本の列柱を備えていることから24柱宮殿とも呼ばれる。ギリシア神殿を彷彿させるグリーク・リバイバル様式の建物で、建築家ルイ=ピエール・バルタールの設計で1835~47年に建設された。現在も控訴裁判所をはじめ各種裁判所や司法施設が入っている。

代表的な軍事施設として、まずサン=ジャン要塞が挙げられる。クロワ・ルースの丘の西のソーヌ川河畔に立つ要塞で、16世紀初頭にクロワ・ルースの丘を取り囲む城壁の一部として建設された。17世紀にここに築かれたダランクール門がリヨンの北の正門となった。その後も増改築が続けられ、フランス革命後の19世紀半ばに現在の形となり、リヨンを取り囲む要塞線に組み込まれた。

サン=ローラン稜堡はクロワ・ルースの丘の東に立つ稜堡で、こちらも16世紀初頭に城壁の一部として築かれた。その後、コリネット修道院の土地となったが、フランス革命後に接収され、要塞を復活させて兵舎付きの軍事施設となった。19世紀半ばにナポレオン3世がクロワ・ルース通りを建設するために通り沿いの要塞の撤去を行い、この要塞の一部も破壊された。クロワ・ルース通りには現在も三角形の区画が鋸歯(きょし。ノコギリの歯)状に残されているが、これらは稜堡の名残だ。

フルヴィエールの丘のロワイヤス要塞は1836~40年に建設された近代の要塞で、リヨン要塞線の一部を成していた。ただ、大砲の飛距離や破壊力が増す中で次第にこのような要塞は時代遅れとなり、第1次・第2次世界大戦では捕虜収容所として使用された。

代表的な邸宅として、まずヴュー・リヨンのオテル・ド・ビュイユ が挙げられる。ビュイユ家のふたつの邸宅を結ぶギャラリー(回廊)が名高いが、建築家フィリベール・ドロルムがイタリア修業から帰国した1536年に建設したもので、フランス最初期のルネサンス建築とされる。ドロルムはイタリアの古代建築にも大きな影響を受けており、イオニア式の柱やペディメントなど、ギリシア・ローマ建築の要素も散見される。

トマッサン邸はヴュー・リヨンのシャンジュ広場に面したリヨン最古級の邸宅のひとつで、13世紀後半にフュエル家によって建設された。14世紀末にトマッサン家が継承すると拡張され、ゴシック様式で改装された。ファサードにはフランス王シャルル8世やブルターニュ公爵夫人アンヌ・ド・ブルターニュらの紋章が見られる。

クロード・ド・ブール邸もヴュー・リヨンに位置するが、このように中世・近世の古い邸宅はヴュー・リヨンに集中している。リヨンの領事だったクロード・ド・ブールが1516年に建設した5階建ての建物で、ゴシック様式とルネサンス様式の折衷で築かれている。ファサードはゴシック様式で、同家の先祖が十字軍に参加していることからその紋章が掲げられている。

オテル・ド・ガダーニュはガダーニュ博物館とも呼ばれるヴュー・リヨンの施設で、ピエールヴィヴ家によって16世紀に建設され、ガダーニュ家に貸し出された。現在はリヨン歴史博物館とマリオネット博物館が入っており、16~17世紀のルネサンス・バロック様式の建物や装飾とともに見学することができる。

シャマリエ邸はもともと13世紀に築かれたサン=ジャン=バティスト大聖堂の施設を司教フランソワ・デスタンが1495~1516年に改築した建物で、司教の財務官であるシャマリエ氏が居住した。全体はゴシック様式だが随所にルネサンス様式の影響が見られ、中世後期にさかのぼる螺旋階段やイタリア風のロッジアなどさまざまな時代・文化・スタイルの影響が見て取れる。

プレスキル地区のオテル・ドゥルロープはリヨン出身の数学者で建築家でもあるジラール・デザルグによって17世紀に築かれたルネサンス様式の邸宅で、18世紀はじめに画家ダニエル・サラバットによるローマ神話を題材とした一連の作品で装飾された。フランス革命後、20世紀初頭まで高級ホテルとして営業していた。

ブリュネ邸はクロワ・ルースの丘にたたずむタウンハウスで、1810年頃に機織職人カニュのための集合住宅として建てられた。7階建てで52室の部屋があり、1年の日数ほどの窓があることから「365窓のメゾン」とも呼ばれている。カニュたちは1830~40年代にカニュ暴動と呼ばれる機械化に反対する暴動を起こしているが、1831~34年の暴動ではブリュネ邸がカニュの拠点となり、「人民の要塞」と呼ばれた。

■構成資産

○リヨン歴史地区

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

リヨンは商業的にも戦略的にも重要な場所に2,000年以上にわたって都市が存続し、ヨーロッパ各地の文化的伝統が融合して一貫した活力あるコミュニティを形成していたことを明確に証明している。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

リヨンは空間的に発達した特有の形で幾世紀にもわたる建築デザインと都市プランの進歩と進化を卓越した方法で示している。

■完全性

保全されている建造物の大半は19世紀まで存続した中世の街並みに刻まれた卓越した都市構造との関係でその長い発展期を表現している。リヨンの建築遺産はガロ・ローマ(共和政・帝政ローマ時代に征服されたガリアの地、あるいはその文化)の重要な要素も含め、中世から今日に至るすべての時代を代表するものである。完全性に対する脅威として、19世紀以降の開拓と再開発、加えてきわめて重要なこの都市中心部における占有者のための継続的かつダイナミックな建造物の改変(主に増築)が挙げられる。

■真正性

リヨンの遺産は独創的な発展を遂げたその都市プランを特徴付ける3つの主要な特性、すなわち合流点であるという地理的特性、都市モデルとしての一貫性、都市的洗練性の永続性によって高い真正性を示している。

2つの川と3つの丘の合流点に位置するという非常に特殊な地理的・地形的特徴を持つこの都市は、北ヨーロッパと南ヨーロッパの影響を受ける交易路の交差点に成立し、2,000年以上にわたる都市建設によって独自の都市プランを発展させてきた。それも都市を再建するのではなく、東に向かって徐々に拡張することで、異なる時代のあらゆる都市プランの形態を並存させた。さらに、都市プランのモデルや建築様式は何世紀にもわたって発展・改良され、絶え間なく進化を続けてきた。

この都市はその特異な都市プランにより重要な居住地としてつねに特徴付けられており、それは今日でも明らかである。そしてまた商業・工業・工芸・教育・宗教などの用途と、市民・宗教・ホスピタリティ・商人・資本家・カニュ ・工業といった権力表現によって類型的にも建築的にも満たされている。

■関連サイト

■関連記事