古典主義の都ワイマール

Classical Weimar

  • ドイツ
  • 登録年:1998年
  • 登録基準:文化遺産(iii)(vi)
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、ゲーテの家
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、ゲーテの家
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、シュタットシュロスの中庭
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、シュタットシュロスの中庭
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、アンナ・アマーリア公妃図書館のロココ・ホール
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、アンナ・アマーリア公妃図書館のロココ・ホール
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、聖ペトロ=パウロ市教会
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、聖ペトロ=パウロ市教会
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、ベルヴェデーレ城。右の建物はリターハウス(騎士の家)
世界遺産「古典主義の都ワイマール」、ベルヴェデーレ城。右の建物はリターハウス(騎士の家)

■世界遺産概要

ワイマールはドイツ中部のテューリンゲン州に位置する都市で、18世紀後半から19世紀初頭のザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国の時代、ゲーテやシラー、ヘルダー、ヴィーラントといった作家や学者を魅了し、ドイツ古典主義=ワイマール・クラシックの開花を迎えた。

○資産の歴史

中世から近世にかけて、ワイマールの周辺はヴェッティン家を中心に数多くの領邦(諸侯や都市による領土・国家)が存在し、分裂・合併を繰り返していた。そんな中でワイマールは15世紀はじめに都市となり、1572年にザクセン=ワイマール公国の首都になった。この時代に宗教改革者マルティン・ルターや画家ルーカス・クラナッハらが訪ねており、すでに文化都市となりつつあった。また、18世紀には音楽家ヨハン・ゼバスティアン・バッハがこの地で9年を過ごしたことでも知られている。

1741年に同国の公爵エルンスト・アウグスト1世がザクセン=アイゼナハ公国の君主を兼ねると同君連合(同じ君主を掲げる連合国)となってザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国が成立し、1815年に大公国に昇格した。エルンスト・アウグスト1世の死後、息子エルンスト・アウグスト2世が継ぐがまもなく死去し、1758にその息子のカール・アウグストが跡を継いだ。しかしカールはこのとき1歳で、母アンナ・アマーリアが摂政となって垂簾聴政( すいれんちょうせい。幼君に対して王妃や王太后が行う摂政政治)を行った。ドイツ古典主義の繁栄はアンナ・アマーリアの時代に最高潮に達した。

公爵家に生まれたアンナ・アマーリアは教育熱心な両親によって幼い頃から神学や語学・歴史・政治などの教育を受け、楽器や舞踊をはじめとする芸術を身に付け、作曲家として活動するほどだったという。1756年にエルンスト・アウグスト2世と結婚して翌年長男カール・アウグストを出産するが、次男を妊娠中の1758年に夫は病死してしまう。1772年に詩人クリストフ・マルティン・ヴィーラントを呼び寄せて息子たちの家庭教師とし、後には顧問として仕えさせた。公爵家といってもザクセン=ワイマール=アイゼナハ公国は人口6,000人ほどの小国で、アンナ・アマーリアはドイツ中から優秀な芸術家や科学者を招集して富国に努めた。一例がワイマール宮廷劇場(現・ドイツ国民劇場)に招いた俳優や音楽家であり、画家アダム・フリードリヒ・エーザー、画家ゲオルク・メルヒオール・クラウス、考古学者カール・アウグスト・ベティガーといった人物だ。この頃、アンナ・アマーリアの居城はシュタットシュロス(市城)だったが、1774年に城が燃えるとヴィットゥムス宮殿(寡婦宮殿)に移り、夏の離宮としてエッタースブルク城やティーフルト城を使用した。1775年に垂簾聴政は終了し、実権はカール・アウグストに移行した。

カール・アウグストも同様に優秀な人材の招集に尽力し、1775年に作家ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを招待した。ゲーテはカール・アウグストに兄のように慕われ、またヴィーラントととも親交を深めた結果、ワイマールに留まることを決め、官僚として勤務することになった。このときゲーテはイルム河畔の土地を買ってガーデン・ハウスと庭園を自分好みに改修した。1776年にはヨハン・ゴットフリート・ヘルダーを呼び寄せ、共に哲学の研究などを行った。1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世から貴族に列せられ、公国の宰相に任命された。この時期の作品は少ないが、1786~88年に念願のイタリア旅行に出掛け、『タッソー』や『タウリス島のイフィゲーニエ 』『ファウスト断片』を執筆している。1791年には宮廷劇場の監督となり、ワイマールの文化振興に尽力した。翌年にはフラウエンプラン家の所有するワイマール中心部の大きなタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)の西半分を借りて拠点とした(現・ゲーテの家)。

1794年、イェーナの学界でゲーテはフリードリヒ・フォン・シラーと出会い、すっかり意気投合した。その後、千通以上の手紙をやり取りし、シラーはゲーテに自らが主催する雑誌『ホーレン』への寄稿を依頼したり、共に詩集『クセーニエン』を編集した。シラーに触発されて書いた作品が『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』や『ヘルマンとドロテーア』で、以後何かとゲーテを励まして執筆を促した。シラーは1798年に『ヴァレンシュタイン』の三部作を完成させ、ワイマールの宮廷劇場で初演を行った。1799年にはワイマールへ移住し、1802年に一軒家を購入した(現・シラーの家)。シラーは1805年に病死するが、それまでに『オルレアンの乙女』『メッシーナの花嫁』『ヴィルヘルム・テル』などの戯曲を次々に書き上げた。遺骨は当初アンナ・アマーリア公妃図書館に葬られたが、後に大公クリプト(地下聖堂)に移された。ゲーテが遺骨を眺めながら書いた作品が『シラーの骸骨に寄す』だ。

この後、ゲーテは執筆のペースを加速させ、1808年に『ファウスト 第1部』、1817年に『イタリア紀行』、1821年に『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』などを発表した。最晩年は代表作『ファウスト 第2部』の執筆に没頭し、1832年の死の直前に執筆開始から60年を経て完成させた。ゲーテの遺骨はシラーと隣り合うように大公クリプトに葬られた。ゲーテとシラーがいた時代がドイツ古典主義の最盛期で、感情を前面に出すそれまでのシュトゥルム・ウント・ドラング(嵐と衝動)から移行し、ギリシア・ローマの古典を範とし、調和と理性的な高貴さを重視したスタイルが確立され、ドイツ文学の黄金時代を形成した。

カール・アウグストの長男カール・フリードリヒは1804年にロシア皇帝パーヴェル1世の娘マリア・パヴロヴナ と結婚した。マリアは芸術と科学に通じ、特にイタリアの作曲家ジュゼッペ・サルティを師とするピアノの名手で、ロシアの進んだ文化を持ち込んでワイマールに銀時代をもたらした。1832年にはフランツ・リストを宮廷に招き、後に宮廷楽長に任命した。1850年にはリヒャルト・ワーグナーを招待し、『ローエングリン』の初公演が行われた。

息子の大公カール・アレクサンダーとその妻ソフィーも芸術と科学を愛し、振興を図った。一例が1860年のザクセン大公国美術学校の設立で、画家アルノルト・ベックリンやフランツ・フォン・レンバッハ、彫刻家ラインホルト・ベガスらを講師に招いてワイマール絵画のブームを起こした。また、カール・アレクサンダーはゲーテやシラー、ヘルダーらのモニュメントを保存し、数多くの立像を打ち立てた。ふたりの孫である大公ヴィルヘルム・エルンストはベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデを招き、1902年に工芸ゼミナールを設立し、美術学校と応用美術学校に発展した。これを1919年に統合して生まれたのが国立美術工芸学校バウハウス(世界遺産)だ。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は11件となっている。推薦時はオスマンシュテットのヴィーラント・マナー・ハウスも含まれていたが、その後省かれた。

「ゲーテの家」は1707~09年に建てられたバロック様式のタウンハウスで、ゲーテは1792年から死の瞬間までこの家を拠点とした。イタリア旅行の影響を受けて一部の部屋や階段をローマ風にアレンジし、ローマの彫刻などを置いて楽しんだ。

「シラーの家」は1777年に建てられたバロック様式のタウンハウスで、中央は3階建て、両側は2階建てとなっている。1802年からシラーの家となり、多くの作品を生み出した仕事場が屋根裏に設置された。

「市教会、ヘルダーの家、旧高校」の市教会は正式には聖ペトロ=パウロ市教会という13世紀の創建の教会堂で、1498~1500年にゴシック様式で建て替えられ、1735~45年にバロック様式の改修を受けた。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、五角形のアプス(後陣)と八角形の尖塔を持つ鐘楼がある。ルーカス・クラナッハの祭壇画は名高く、アンナ・アマーリアをはじめ数多くの貴族の墓がある。ヘルダーの家は哲学者ヘルダーが暮らしたルネサンス様式の3階建ての邸宅で、1776年から1803年に亡くなるまでここで暮らしていた。旧高校はヴィルヘルム・エルンストが設立した高校で、1715~16年にバロック様式で建設された校舎は市内最古を誇る。

イルム川の畔に立つ「シュタットシュロス(市城)」の場所には10世紀頃から宮殿があり、ゴシック・ルネサンス・バロックと時代時代に改修・再建されてきた。1618年の火事で損傷してバロック様式で建て替えられたが、1774年の大火で塔や門を除いてほぼ焼失した。ゲーテはカール・アウグストの再建計画に積極的に参加し、建築家の選定や設計に関与した。1803年に新古典主義様式の東ウイングが完成してカール・アウグストが移り住んだ。その後、北・西・南ウイングが建設されると「□」形のコートハウス(中庭を持つ建物)となった。ドーリア式やイオニア式の柱をはじめ、外観やインテリア・装飾・調度品は新古典主義様式で統一され、ギリシア・ローマ風の荘厳な雰囲気を醸し出している。

「ヴィットゥムス宮殿(寡婦宮殿)」は1767~69年に大臣ヤコブ・フリードリヒ・フォン・フリッチの邸宅として建設されたバロック様式の建物で、1774年にシュタットシュロスが焼失すると翌年アンナ・アマーリアが購入して1807年に亡くなるまでここで暮らした。2階建てと3階建てのブロックからなり、画家アダム・フリードリヒ・エーザーの見事な天井が見られる。

「アンナ・アマーリア公妃図書館」は1562~69年に建設されたルネサンス様式の建物で、当初は小フランス城と呼ばれていた。1761年にアンナ・アマーリアが図書館にすることを決め、バロック・ロココ様式で改修された。白と金のロココ様式で彩られた3階建てのロココ・ホールがよく知られている。19世紀の増築で塔などいくつかの付属施設が追加された。ゲーテは1797年から亡くなる1832年まで館長を務め、ドイツ古典主義を資料の面から支えた。現在も図書館として営業しており、9~21世紀の史資料を収蔵しつつ、特に1750~1850年の資料を専門に収集している。

「大公クリプトと歴史的墓地」の大公クリプトはカール・アウグストが1823年に建設を依頼した地下聖堂で、1824年に完成するとシュタットシュロスから一族27人分の棺を移送した。シラーとゲーテの棺が並んで安置されていることでも知られる。歴史的墓地は大公クリプトの周囲に展開する墓地で、1814~18年に造営され、19世紀後半に拡張されると370×130mを誇るワイマールの主要墓地となった。1878~79年に建設されたロマネスク・リバイバル様式の記念ホールや、1859~62年に大公妃マリア・パヴロヴナのために築かれたロシア正教会の礼拝堂などがある。

「ローマの家のあるイルム公園、ゲーテの庭園とガーデン・ハウス」はイルム河畔に広がる物件で、14世紀以降、城の公園として整備され、17世紀にはバロック様式の平面幾何学式庭園が造園された。ゲーテは1776年に公園の脇にある2階建てのこぢんまりとしたガーデン・ハウスを買い、1782年まで住居とした。また、周囲に庭園を造営し、熱心にブドウやバラといった植物を植えて整備した。また、ゲーテは1786~98年に公園をイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)に改造し、その一環としてカール・アウグストの夏の別荘としてドーリア式のポルティコ(列柱廊玄関)を持つローマの家を建設した。

「ベルヴェデーレ城、オランジェリーと公園 」のベルヴェデーレ城は1724~26年にエルンスト・アウグスト1世が離宮・狩猟館あるいはプレジャー・パレス(娯楽用の宮殿)として建設したバロック様式の宮殿で、その名の通りウィーンのベルヴェデーレ宮殿(世界遺産)をモデルとしている。その後もさまざまなパビリオンやコートハウスが追加されて一大宮殿コンプレックスとなった。1739~55年には庭師長の家を中心に「U」字形のオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための温室)が建設された。この頃、フランス式の平面幾何学式庭園が完成したが、イルル庭園やロシア庭園といった一部を除いて19世紀はじめにイギリス式庭園に改造された。アンナ・アマーリアやカール・アウグスト、カール・フリードリヒ、マリア・パヴロヴナらが夏の離宮として使用した。

「ティーフルト城と公園」は1765年に農場主のために建てられたバロック様式のシンプルな邸宅で、1776年以降、カール・アウグストの兄弟であるコンスタンティンの住居となった。アンナ・アマーリアは1781~85年まで夏の離宮として使用し、建物や庭園の改修を行った。庭園はイギリス式で、ギリシア神殿であるミューズ神殿やウェルギリウスのグロッタ(洞窟)、モーツァルトの記念碑など数々の見所が散在している。

「エッタースブルク城と公園」はもともと聖アウグスチノ修道会が所有していたが、宗教改革を経て1525年に公爵家の所領となった。1706~12年にバロック様式の狩猟館が建設され、1722~40年に拡張されて「コ」形の宮殿が建設された。アンナ・アマーリアはティーフルト城以前はこちらを夏の離宮として使用し、小さなイギリス式庭園を造園した。また、カール・アレクサンダーが城と公園を大幅に増改築し、4階建ての新棟やゴシック・リバイバル様式の教会堂を建設した。

■構成資産

○ゲーテの家

○シラーの家

○市教会、ヘルダーの家、旧高校

○シュタットシュロス(市城)

○ヴィットゥムス宮殿(寡婦宮殿)

○アンナ・アマーリア公妃図書館

○大公クリプトと歴史的墓地

○ローマの家のあるイルム公園、ゲーテの庭園とガーデン・ハウス

○ベルヴェデーレ城、オランジェリーと公園

○ティーフルト城と公園

○エッタースブルク城と公園

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(ii)「重要な文化交流の跡」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

ワイマールの町とその周辺に散在する公共および民間の建築物や公園の芸術性の高さはワイマール・クラシックの文化的開花が際立っていることを物語っている。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、啓蒙的な公爵家の庇護によりゲーテやシラー、ヘルダーといったドイツを代表する多くの作家や思想家がワイマールに集まり、当時のヨーロッパの文化的中心地となった。

■完全性

古典主義の都ワイマールはヨーロッパでもっとも影響力のある文化的中心地のひとつであり、資産は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでいる。資産のサイズは資産の重要性を伝える特徴とプロセスを保護するために適切であり、法的保護を受けている。

■真正性

大戦中の損傷のためかなりの修復と復元が必要であるにもかかわらず、構成資産の真正性は高いレベルで維持されている。復元作業の正確性を担保するために可能な限り多くの記録を調査・研究しており、オリジナルの素材を使用するために細心の注意が払われている。

■関連サイト

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