ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市

Le Havre, the City Rebuilt by Auguste Perret

  • フランス
  • 登録年:2005年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:133ha
  • バッファー・ゾーン:114ha
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」の整然とした街並み。中央の塔はサン=ジョゼフ教会、手前の緑の連なりがフォシュ通り
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」の整然とした街並み。中央の塔はサン=ジョゼフ教会、手前の緑の連なりがフォシュ通り (C) Erik Levilly
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」の夜景。手前の橋はバッサン・デュ・コメルス橋、その後ろの台形の建物がル・ヴォルカンのグラン・ヴォルカン、塔はサン=ジョゼフ教会
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」の夜景。手前の橋はバッサン・デュ・コメルス橋、その後ろの台形の建物がル・ヴォルカンのグラン・ヴォルカン、塔はサン=ジョゼフ教会 (C) Marc Ryckaert
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、海洋門=ポルト・オセアン。左右の建物が海と街を分けるゲートの役割を果たしている
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、海洋門=ポルト・オセアン。左右の建物が海と街を分けるゲートの役割を果たしている
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、直線で構成されたオテル・ド・ヴィル・デュ・アーヴルとその庭園
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、直線で構成されたオテル・ド・ヴィル・デュ・アーヴルとその庭園 (C) Alexandre Prevot
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、サン=ジョゼフ教会。中央上が塔の頂部で、その下が塔身
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、サン=ジョゼフ教会。中央上が塔の頂部で、その下が塔身。ステンドグラスはマルグリット・ユレの作品
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、モダニズム建築に改築されず残されたバロック様式のル・アーヴルのノートル=ダム大聖堂、通称ル・アーヴル大聖堂
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、モダニズム建築に改築されず残されたバロック様式のル・アーヴルのノートル=ダム大聖堂、通称ル・アーヴル大聖堂 (C) Alexandre Prevot
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、独特の曲線を描くオスカー・ニーマイヤーによるル・ヴォルカンのグラン・ヴォルカン
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」、独特の曲線を描くオスカー・ニーマイヤーによるル・ヴォルカンのグラン・ヴォルカン
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」で例外的に戦前の街並みが残るサン=フランソワ地区
世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」で例外的に戦前の街並みが残るサン=フランソワ地区。赤レンガと青いスレートの寄棟屋根、立ち並ぶ煙突が特徴的 (C) Philippe Alès

■世界遺産概要

ル・アーヴルはフランス北部ノルマンディー地域圏セーヌ=マリティーム県に位置する都市。第2次世界大戦ではナチス=ドイツに占領されてその拠点となり、連合軍による徹底的な艦砲射撃と空爆を受けて廃墟となった。1945~64年にかけて「コンクリート建築の父」「コンクリートの詩人」と謳われる建築家オーギュスト・ペレによってモジュール構造やプレハブ工法、鉄筋コンクリート、ポト・ダル・システムといった都市設計・建築技術・建築素材を導入してモダニズムの革新的な計画都市と建造物群を完成させた。

○資産の歴史

ル・アーヴルはセーヌ川の河口に位置する港湾都市で、フランス王フランソワ1世の承認を得た後、1517年に湿地を開拓して港の建設が開始された。1524年に開港すると、1541年には町の拡張がイタリア・ルネサンスの建築家ジローラモ・ベッラルマートに依頼され、ルネサンス様式の方格設計(碁盤の目状の都市設計)のグリッド構造を持つ都市が築かれた。この辺りは当時、恵みを意味する「グラース」と呼ばれていたが、新しい港湾都市は国王にちなんで「フランシスコポリス」と命名された。その後、「恵みの港」を示す「ル・アーヴル=ド=グラース "Le Havre-de-Grâce"」と呼ばれるようになり、やがて港を意味する「ル・アーヴル」となったようだ。

ル・アーヴルは大航海時代の発展とともに成長を遂げ、フランス東インド会社の主要港となり、アメリカ大陸やアフリカ大陸を結ぶ交易拠点となった。このため香辛料や砂糖・タバコ・綿・コーヒーといった交易品が輸入され、奴隷貿易にも携わった。18世紀にはマルセイユ、ボルドー(世界遺産)、ナントと並ぶフランス4大交易港のひとつとなった。また、ル・アーヴルはフランス海軍の重要拠点でもあり、アメリカ独立戦争(1775~83年)に参戦するラファイエットがここからアメリカに旅立ったことはよく知られている。

フランス革命前後に近代化を推進し、1831年に蒸気船が導入され、1847年にはパリやルーアンを結ぶ鉄道が開通した。市街地は9倍まで拡張され、人口は6万人に到達。第1次世界大戦(1914~18年)時には19万人まで増加した。

1939年に第2次世界大戦がはじまったとき、ル・アーヴルにはイギリス軍が常駐していた。しかし、ナチス=ドイツが1940年5月に占領し、海軍基地を建設してイギリス侵攻の拠点として整備した。このためル・アーヴルはつねにイギリス軍の攻撃目標となり、たびたび砲撃や空爆を受けた。

「史上最大の作戦」と呼ばれる1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦で連合軍が上陸に成功し、8月下旬にパリを解放した。続いてフランスの主要港の解放が計画され、ル・アーヴルもその主要目標となった。ル・アーヴルは海と川・湿地といった自然と、要塞や砲台・塹壕・運河で守られた難攻不落の要塞都市だったため、9月上旬に徹底した空爆が実施された。そして9月10~12日にアストニア作戦が遂行され、戦艦からの砲撃と爆撃機による空爆に続いて連合軍が町に侵攻し、これを解放した。9月の攻撃でル・アーヴルの75%が廃墟となり、12,500棟もの建造物が破壊されたという。10月にル・アーヴルを訪れたシャルル・ド・ゴールは市にフランスの最高勲章レジオン・ドヌールを贈り、その健闘を讃えた。

ル・アーヴルはフランス北部の最重要港であったため、すばやい再建が求められた。1945年に都市再建省が設置されると再建チームが結成され、オーギュスト・ペレのスタジオが主導した。この際、戦前の姿を復元するのではなく、解放された新生フランスの象徴となるまったく新しい都市の建設がコンセプトとして掲げられた。

1874年に建築家で石工でもある父親の元に生まれたペレは父から建築や素材の知識を得るとともに、パリの芸術学校エコール・デ・ボザールで建築の専門知識を学んだ(数々の賞を受賞したが、独立を認められなかったため中退)。ペレが特に注目したのが19世紀後半に庭師ジョゼフ・モニエによって発明された鉄筋コンクリートだ。引っ張りに強い鉄で鉄筋を組み、圧縮に強いコンクリートで覆った建材で、石材に変わる新素材としてその研究に励んだ。1903年には弟のギュスターヴとともにパリでフランクリン街のアパートメントを設計・建設し、鉄筋コンクリートを専門とするそのキャリアをスタートさせた。この後も、パリのシャンゼリゼ劇場、ル・ランシーのノートル=ダム・デュ・ランシー教会など、数多くの作品を手掛けてコンクリート建築の第一人者となった。

ペレは先端的な素材を専門とし、直線で構成された合理主義的なデザインを特徴としたが、伝統を軽んじていたわけではなかった。アール・ヌーヴォーのように構造に影響のない表面的な装飾性は否定されたが、ギリシア・ローマといった古典建築のオーダー(基壇や柱・梁の構成様式)のように素材と構造・装飾が一体化したシンプルな機能美を模索し、直線で構成された方格設計やシンメトリーを重視する古典的なアプローチを重視した(構造古典主義)。そのためオテル・ド・ヴィル・デュ・アーヴル(ル・アーヴル市庁舎)がギリシア神殿を思わせたり、サン=ジョゼフ教会がゴシック様式の教会堂を彷彿させるように、ギリシア、ローマ、ゴシック、ルネサンス、バロックといったスタイルの美を抽出してデフォルメしたようなデザインとなっている。そしてこれらは大理石のような石材に替わって剥き出しのコンクリート、いわゆる「打ち放し」によって表現された。

これらを建設・設計する手法も合理化が図られた。一例がモジュール構造で、全体を部分(モジュール)に分割し、部分の種類や並びを替えることで全体の機能やデザインの調整を図った。プレハブ工法はそれぞれのパーツを工場で製作し、現場で組み立てを行う工法で、短期間での設計・生産を容易にした。「ポト・ダル "poteau dalle"(柱スラブ)」あるいは「ポト・ポウト・ダル "poteau poutre dalle"(柱梁スラブ)」は鉄筋コンクリートの柱・梁・スラブ(板構造)というパーツのことで、柱を立て、その上に梁を寝かせ、床や屋根としてスラブを載せた構造を連ねることで、何階建てのどのような建物にも対応するシステムを完成させた。

新しいル・アーヴルのメインストリートはオテル・ド・ヴィル広場を挟んで東西に伸びるフォシュ通りとストラスブール通りと、その西端から南東に斜め45度に走るフランソワ1世通りだ。これを2辺とする三角形がル・アーヴルの新市街となった。当初はここに鉄筋コンクリート製のプラットフォームを敷き、その上に都市を建設することを計画したが、鉄とセメントの使用量があまりに膨大で実現には至らなかった。ペレは6.24m四方をモジュールとして分割し、モジュールをさまざまに組み合わせて街並みや建造物をデザインした。単調に同じサイズに区切るのではなく、人口や公共空間・生活空間の違いなどを考慮してメリハリを利かせ、リズムを奏でるような音楽的な調和と統一性を目標とした。

こうした計画都市には例外もあった。ノートル=ダム大聖堂や自然史博物館は戦前の姿を復元し、それぞれバロック様式と新古典主義様式で再建された。南東のサン=フランソワ地区では地区全域で歴史的街並みの保存が進められた。ここはル・アーヴルでもっとも古い街並みで、フランソワ1世の時代の方格設計のグリッド構造や、1542~1687年に築かれたルネサンス様式のサン=フランソワ教会などが残されている。このため再建は伝統建築に精通した地元の建築家や職人に委ねられ、当時の建物が残されていれば忠実に、新たに再建する際は5階建て以内でレンガの壁とスレート(粘板岩あるいは建材としての石質の薄板)の屋根を用いるなどの条件で復興された。結果として、ペレが設計した鉄筋コンクリートの街並みとはまったく異なる趣を見せる地区となった。

ペレは1954年に亡くなるが、スタジオのメンバーが中心となって都市の再建を続行し、サン=ジョゼフ教会が奉献された1964年に竣工を迎えた。ル・アーヴルは都市と建築の両面でモダニズムの革新性を体現し、建築史と都市史にその名を刻んだ。

○資産の内容

世界遺産の資産はおおよそル・アーヴル南西部のサントル=ヴィル地区で、サン=フランソワ地区も含めてその多くが範囲となっている。個々の建物だけでなく、道路や区画・広場・運河・海岸などが資産を構成している。

ポルト・オセアン(海洋門)は鉄筋コンクリート造の高層建築でフォシュ通りを挟んでゲートとしたもので、海と街を分ける境界で、新市街へのエントランスとなっている。設計はペレのスタジオのふたりの建築家で、北側がジャック・ポワリエ、南側がアンドレ・エルマンだ。南北それぞれに13階建てのメインタワーと6階建てのL字形の建物があり、完全な対称ではないもののそれに近い造りとなっている。これらの建物は住居・オフィス・ガレージ等として現在も使用されている。

フォシュ通りは全長700m・幅80mを誇るフランス最大級の通りのひとつで、道路・歩道・芝生・街路樹が整然と並んでおり、両脇にはほぼ同じ高さの鉄筋コンクリート建築が連なっている。その中ほどにあるスクエア・サン=ロックはペレが設計した四角形の庭園で、モダニズムではなく、自然を模したランダムな造形を特徴とするイギリス式庭園となっている。

フォシュ通りの東端にたたずんでいるのがオテル・ド・ヴィル広場のオテル・ド・ヴィル・デュ・アーヴルだ。ペレの設計で1953~58年に建設されたル・アーヴルの市庁舎で、ペレの死後は助手のジャック・トゥルナンが引き継いで完成させた。直線と四角形で構成された全長143m・幅92mのモダニズム建築だが、コンクリート柱が建物を取り囲むように並ぶ姿はギリシアの周柱式神殿を思わせ、西端に立つ高さ70m・18階建ての建物は鐘楼を彷彿させる。南には280×250mほどのオテル・ド・ヴィル庭園が広がっている。現在見られる庭園はペレのデザインを改装したもので、直線で構成されたミニマルな幾何学式庭園となっており、噴水の周りには芝生や花壇・林などが配されている。

オテル・ド・ヴィル広場から南にパリ通りが走っており、格子状のミニマルな公園が特徴的なオーギュスト・ペレ広場の先に、曲線的な建物が並ぶエスパス・オスカー・ニーマイヤー(オスカー・ニーマイヤー広場)が広がっている。

エスパス・オスカー・ニーマイヤーのふたつの山のような建物はル・ヴォルカン(火山)と呼ばれる総合施設で、ブラジルの首都ブラジリア(世界遺産)の設計で知られるブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤーが1978~82年に建設したものだ。直線で構成された街並みと異なり、双曲面を利用した曲線的なデザインで、建設当時は非難も巻き起こった。一帯は3.7mの深さまで掘り下げられ、その上に高さ22mのグラン・ヴォルカン(大火山)と、高さ10mのプティ・ヴォルカン(小火山)、周囲を取り囲む回廊が設けられた。グラン・ヴォルカンは主として劇場、プティ・ヴォルカンはオスカー・ニーマイヤー図書館として営業している。

パリ通りの南端付近にはノートル=ダム大聖堂がたたずんでいる。一説では16世紀の都市建設以前からあったとされるノートル=ダム・ド・グラース礼拝堂を前身とする教会堂で、ル・アーヴルの建設後に教区教会となり、16世紀後半~17世紀半ばにかけてバロック様式をベースにゴシック様式やルネサンス様式の影響を受けた教会堂が建設された。第2次世界大戦で大きな被害を受けたものの倒壊しておらず、ペレは建て替えずに修復する道を選んだ。1974年に司教座が置かれて大聖堂に昇格したため、ル・アーヴル大聖堂とも呼ばれるようになった。ラテン十字式・五廊式(身廊と4つの側廊を持つ様式)で、彫刻やレリーフ、ステンドグラスなどで装飾されたバロック様式の西ファサードを持ち、中央ポータル(玄関)のティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)にはイエスを抱く聖母マリアの彫像が掲げられている。内部は尖頭アーチや交差リブ・ヴォールトなどゴシック様式の影響が色濃く、見事なステンドグラスが大聖堂を彩っている。ただ、19世紀以前のステンドグラスは大戦で失われたため、戦後に制作されたものとなっている。教会堂の南西にはゴシック様式の鐘楼が立っている。

ノートル=ダム大聖堂の北東に立つ自然史博物館も戦前の姿を残す数少ない建物のひとつだ。1760年に新古典主義様式で建設された建物で、大戦で南ウイングが完全に爆破されたため撤去も検討されたが、元の姿で復元された。

パリ通りの中央付近と垂直に交わる通りが西のルイ・ブランドー通りと東のジョルジュ・サンク通りで、両者の交わる場所にエスパス・オスカー・ニーマイヤーが位置している。

ルイ・ブランドー通りの西端に位置しているのがサン=ジョゼフ教会だ。ル・アーヴルのランドマークで、19世紀に築かれた教会堂がペレによる設計で1951~57年に再建され、1964年に奉献された。ペレの鉄筋コンクリート建築の集大成とされ、死後はペレのスタジオのジョルジュ・ブロシャールとレイモン・オードジェーが中心となって完成させた。中央に立つ高さ107mのランタン塔(採光用の塔)は沖合60kmから見ることができ、灯台としての役割を果たすだけでなく、大戦で荒廃したフランスとル・アーヴルの市民の精神的灯台となるべくデザインされた。教会堂は正方形の平面の内部にギリシア十字を埋め込んだ内接十字式(クロス・イン・スクエア式)のクロス・ドーム・バシリカに近い形で、中央にランタン塔がそびえている。教会堂につきものの彫刻や絵画といった装飾要素は極力廃されており、打ち放しの鉄筋コンクリートによる直線・四角形・十字形の造形とステンドグラスのみで神々しい空間を生み出している。ステンドグラスは抽象芸術のガラス職人であるマルグリット・ユレの作品で、直線と四角形・十字形と7つの色で構成されている。ランタン塔は八角形で、頂部は神を示す強く白い光で満たされており、塔の真下に天蓋と主祭壇が設置されている。主祭壇は彫刻家マルセル・アダムとギ・ヴェルドイアの作品だが、こちらも非常にシンプルなものとなっている。

サン=ジョゼフ教会の東に立つのがラウル=デュフィ中学校で、ペレの弟子のひとりであるピエール=エドゥアール・ランベールが再設計して1950~56年に再建された。四角形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、大きな窓を水平に並べたモダニズムらしい造りながら、古典を感じさせるペレのスタジオらしいデザインとなっている。

さらに東に進むと、エスパス・オスカー・ニーマイヤーを越えてパリ通りに出たところでルイ・ブランドー通りが終わり、ジョルジュ・サンク通りとなる。その南に位置するのがジェネラル・ド・ゴール広場で、彫刻家ピエール=マリー・ポワソンによる高さ約4mの戦没者記念碑が立っている。1924年に設置されたもので、もともと第1次世界大戦の戦没者名を刻んでいたが、第2次世界大戦後に同大戦とフランス植民地戦争の戦没者名が追記された。

その東には570×100mほどの四角形の運河であるバッサン・デュ・コメルス(交易水盆)が広がっており、中央には1969年に架けられた純白のバッサン・デュ・コメルス橋が空に柔らかい弧を描いている。

橋の北に立つパジノ・デュ・アーヴルは1957年に建築家オテロ・ザヴァロニによって建てられた建物で、もともと証券取引所や商工会議所が入っていたが、2006年にカジノとなった。ペレの建築に多大な影響を受けており、ギリシアの周柱式神殿を思わせる古典建築のイメージでデザインされている。

ル・アーヴルの南端近くに立つ建物がアンドレ・マルロー近代美術館だ。ペレのスタジオのギー・ラニョー、レイモン・オードジェー、ミシェル・ヴェイユ、ジャン・ディミトリイェヴィチといった建築家が1958~61年に建設した美術館で、フォーヴィスム(野獣派)や印象派の絵画を中心に展示しており、当時の文化大臣で作家のアンドレ・マルローにちなんで命名された。直線と四角形で構成されている点はペレの他の建築と同様だが、自然光の下で作品を鑑賞するために側面と屋根の多くがガラスで覆われている。それも無秩序に採光するのではなく、ブラインド構造や反射光を利用するなどさまざまな工夫によって光の種類と量を調整し、美術館にふさわしい環境を提供している。

アルマン・サラクロウ市立図書館も同様で、側面のほとんどをガラスで覆われたモダニズムらしいデザインとなっている。やはりペレのスタジオのジャック・トゥルナンとジャック・ラミの設計で1963年に建てられた図書館で、縦にラインの入った屋根は開いた本をイメージしている。

資産の南東に位置するサン=フランソワ地区は、赤いレンガの壁と青いスレート葺きの寄棟屋根を持つタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)が立ち並ぶ情緒ある街並みとなっている。サン=フランソワ教会は同地区最古の建物で、フランソワ1世が船乗りや海軍の守護聖人であるパオラの聖フランチェスコに捧げるために築いたが、後にアッシジの聖フランチェスコに置き換えられたという。1542年に起工したものの宗教改革による混乱で1687年にようやく竣工し、19世紀に西ファサードに四角形の鐘楼を掲げた鐘楼ポーチが取り付けられた。第2次世界大戦で西ファサードが倒壊し、身廊やクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)の一部が爆破されるなど深刻な被害を受けたが、おおよそ元の姿に復元された。ラテン十字式・三廊式の教会堂で、ルネサンス様式をメインにゴシック様式や新古典主義様式の影響も見られる。

■構成資産

○ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、ル・アーヴルのオーギュスト・ペレとその弟子たちによる作品群が鉄筋コンクリート建築における最重要の成果であるとの主張に対し、美的成果である以上に、鉄筋コンクリートとモジュラー・グリッドの体系的使用によってデザインされた革新的な建築技術とその大規模な展開によって特徴付けられており、登録基準(ii)および(iv)によってより適切に説明されるとしてその価値を認めなかった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ル・アーヴルの戦後復興計画は都市計画の伝統の統合と、建築・テクノロジー・都市設計における現代的発展の先駆的遂行の卓越した例であり、ランドマークである。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ル・アーヴルはプレハブ工法における方法論とシステムの統合、モジュラー・グリッドの体系的使用およびコンクリートの可能性を追求した革新的活用法に基づく戦後の都市計画と建築の際立った例である。

■完全性

ペレのプロジェクトの真髄は「ポト・ダル」と呼ばれる鉄筋コンクリートを使用した前衛的な構造設計にある。彼のアイデアは完全に透明なモジュール構造を作り、どの構造要素も隠さないことで、都市のすべての建築に権威的な特徴とある種の画一性を与えることである。そしてそれぞれの要素は単調さからの倦怠感を避けるために巧妙に使用されている。建造物群やオープンスペースのデザインは生産の効率化を図って6.24m四方の正方形のモジュールを基本としているが、これは都市に「音楽的調和」を導入するためのものでもあった。戦前の人口密度と比較すると、1ha当たりの人口は平均2,000人から800人まで減少した。新しい都市を貫く精神的テーマは「新古典 "neoclassical"」と呼ばれるもので、閉鎖性を持つ建築ブロックに分割することで街路が機能的に保たれる点を特徴としている。都市の伝統の統合と、建築・テクノロジー・都市設計における現代的発展の先駆的遂行というこれらの原則は十分に尊重されており、今日でも目に見える形で完全に維持されている。

■真正性

本遺産は歴史的重要性を有する近年の作品である。建造物群の計画と配置は建設当時から維持されており、変化していない。現代化と先端的なメンテナンスにより多くの部品が交換されているが、建造物群の真正性はそのまま保たれている。

■関連サイト

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