エフェソス

Ephesus

  • トルコ
  • 登録年:2015年
  • 登録基準:文化遺産(iii)(iv)(vi)
  • 資産面積:662.62ha
  • バッファー・ゾーン:1,246.3ha
世界遺産「エフェソス」、左がセルシウス図書館のファサード、右はマゼウスとミトリダテスの門
世界遺産「エフェソス」、左がセルシウス図書館のファサード、右はマゼウスとミトリダテスの門
世界遺産「エフェソス」、セルシウス図書館。1階はコンポジット式、2階はコリント式の大理石柱が立ち並んでいる
世界遺産「エフェソス」、セルシウス図書館。1階はコンポジット式、2階はコリント式の大理石柱が立ち並んでいる
世界遺産「エフェソス」、上空から見た大劇場。その前の通りはマーブル通り、左はアルカディアン通り
世界遺産「エフェソス」、上空から見た大劇場。その前の通りはマーブル通り、左はアルカディアン通り
世界遺産「エフェソス」、ハドリアヌス神殿。中央上のレリーフに描かれているのはメドゥーサ
世界遺産「エフェソス」、ハドリアヌス神殿。中央上のレリーフに描かれているのはメドゥーサ
世界遺産「エフェソス」、アルテミス神殿跡。奥の山上に見える建物はアヤスルク城塞、その下はイサ・ベイ・モスク
世界遺産「エフェソス」、アルテミス神殿跡。奥の山上に見える建物はアヤスルク城塞、その下はイサ・ベイ・モスク
世界遺産「エフェソス」、聖ヨハネ教会跡
世界遺産「エフェソス」、聖ヨハネ教会跡。手前の4本の柱に囲まれた基壇の下にヨハネの墓がある (C) Casalmaggiore Provincia
世界遺産「エフェソス」、聖母マリアの家
世界遺産「エフェソス」、聖母マリアの家 (C) Ray Swi-hymn

■世界遺産概要

トルコ西部エーゲ海地方イズミル県のセルチュク郊外に広がる世界遺産で、ヘレニズムからローマ時代に繁栄した港湾都市エフェソスの都市遺跡を中心としている。古代の世界七不思議に含まれるアルテミス神殿や古代3大図書館のひとつに数えられるセルシウス図書館(ケルスス図書館)の他に、聖母マリアが晩年を過ごした場所に築かれたという聖母マリアの家、使徒ヨハネの墓の上に立つ聖ヨハネ教会、ルーム・セルジューク朝やオスマン帝国期のイスラム都市アヤスルクの都市遺跡、紀元前7000年紀までさかのぼる古代遺跡チュクリチ・ホユクなど、さまざまな時代・文化の遺跡や建造物が含まれている。

○資産の歴史

アナトリア半島のエーゲ海地方では新石器時代以前から人類の居住の跡が発見されている。紀元前7000年紀までさかのぼる新石器時代~青銅器時代の遺跡がチュクリチ・ホユクだ。「ホユク」はマウンド状に積み重なったテル(遺丘。集落や都市の遺跡が積み重なった丘のような層状遺跡)を意味し、紀元前3000年紀まで約5,000年の都市遺跡が連なっている。

先住していたのはリディア人と見られ、紀元前3000年紀にアヤスルクの丘(アヤスルク・ホユク)の開発がはじまり、紀元前2000年紀には丘の麓の港にギリシア系の諸民族が入植を開始した。現在、海岸線は8kmほど西に後退しているが、当時はアヤスルクに港があり、港湾都市となっていた。近郊では他にもアルヴァリヤ・ホユクをはじめ、こうした入植地が発見されている。

紀元前2500~前1200年頃にはエーゲ海やアナトリアでトロイア文明・ミケーネ文明・クレタ文明といったエーゲ文明が繁栄した。伝説では、エフェソス周辺には女性が狩猟・戦闘を行うアマゾン(アマゾネス)と呼ばれる民族が暮らしていたという。母方の血筋を重視する母系制社会で、大地や狩猟の女神アルテミスを信仰していた。

この頃、アヤスルクの都市は「アパサ」と呼ばれ、エーゲ文明の影響を受けて発達し、紀元前15世紀頃にはアルザワ王国が成立してその首都となった。「エフェソス」はアパサの発音が変型したものといわれる。アルザワ王国は紀元前1300年頃にヒッタイト王国に敗れ、小国に分裂した。

アヤスルクにはその後、ギリシア系のイオニア人が入植し、信仰の中心としてアルテミス神殿を建設した。最初の神殿の建設年代は定かではないが、紀元前7世紀の洪水によって破壊されたと見られ、紀元前6世紀に第2神殿、紀元前3世紀に第3神殿の建設がはじまった。第3神殿はアテナのパルテノン神殿(世界遺産)をも超える規模で、紀元前2世紀頃に古代ギリシアの旅人フィロンが記した世界七不思議のひとつに数えられている。ギリシア神話の月の女神アルテミスは最高神ゼウスがレトに生ませた娘で、太陽神アポロンと双子の兄妹であることで知られる。アナトリアでは大地の女神キュベレをはじめ女神信仰が盛んだったが、土着の女神が次第にアルテミスをはじめとするギリシア・ローマ神話の女神と習合(複数の宗教を融合・折衷させること)していった。このためエフェソスのアルテミスは土着の女神の影響を残しており、大地・豊穣・多産を司る地母神的な女神として描かれている。

アナトリアは紀元前6世紀半ばからアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれたが、マケドニア王アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)がアナトリアの都市を開放し、アケメネス朝を滅ぼしてインドの手前まで広がる大帝国(アレクサンドロス帝国)を築いた。しかし、紀元前323年に後継者(ディアドコイ)を決めずに急死したためディアドコイ戦争が勃発し、アナトリアについてはリュシマコス朝トラキアやアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリアなどが領有権を争った。この中で、アレクサンドロス3世の12将のひとりであるリュシマコスがリュシマコス朝を開き、エフェソスに新しい都市を建設した。この頃、アヤスルクの港は川から運ばれる土砂で埋め立てられて港としての機能を半ば失っており、沼地が広がって蚊が大量に発生し、しばしばマラリアが大流行したという。これに対してリュシマコスはアヤスルクの南西2kmほどに港を整備し、全長9km超の市壁を巡らせて城郭都市エフェソスを建設した。

リュシマコス朝が滅んでアッタロス朝ペルガモンに代わると紀元前188年にエフェソスもその版図に入り、紀元前133年には共和政ローマの支配を受けた。紀元前27年にオクタウィアヌスが初代皇帝アウグストゥスとなってローマ帝国がはじまるとエフェソスはアシア属州の首都ととなり、アナトリアにおける帝国の主要港湾都市として急速に発展し、人口は20万を超えたという。

『新約聖書』によると、イエスは30年頃にエルサレム(世界遺産)で磔刑に処され、母であるマリアはイエスの亡骸を磔台から下ろしたと伝わっている。この後、イエスは復活して自力で天に昇ったが、マリアの足取りは記されていない。一説によると、イエスの十二使徒のひとりである使徒ヨハネ(神学者聖ヨハネ/ゼベダイの子ヨハネ/福音記者ヨハネ)はマリアを連れてエフェソスに移り住んだという。マリアが住んでいたと伝わる場所に立つ家が聖母マリアの家で、使徒ヨハネの墓の上に築かれた教会堂が聖ヨハネ教会だ。ただ、これらの伝説に確証はなく、聖母マリアや使徒ヨハネの最期の地についても異説がある。また、1世紀に使徒パウロがエフェソスを3度訪れて宣教を行っており、アナトリア西部にはじめて築かれた教会堂群であるアジアの7教会(黙示録の7教会)のひとつが建設された。その弟子テモテが初のエフェソス司教となり、96年に殉教したと伝わっている。

3世紀、ローマ帝国は皇帝が乱立した軍人皇帝時代やゲルマン系諸民族の圧力を受けて「3世紀の危機」に陥り、エフェソスも地震や疫病、ゲルマン系ゴート人の侵略などを受けて衰退した。4世紀に皇帝コンスタンティヌス1世が町を再興。313年のミラノ勅令でキリスト教を公認すると、エフェソスでもキリスト教が急速に普及した。さらに、テオドシウス1世が380年に国教化し、392年にキリスト教以外の宗教を禁止すると、まもなくアルテミス神殿は閉鎖された。431年と449年に開催されたエフェソス公会議で聖母マリアが神の母であることが確認され、マリア崇拝が認められた。それまでの女神信仰・アルテミス信仰は聖母マリア信仰に置き換わり、エフェソスは聖母マリア信仰の中心地となった。その中心が5世紀に築かれた聖母マリア教会で、500年頃に拡張され、司教座が置かれて聖母マリア大聖堂となった。

395年に東西ローマ帝国が分裂するとエフェソスはビザンツ帝国(東ローマ帝国)の版図に入った。ユスティニアヌス1世は4世紀に建設された聖ヨハネ教会を大幅に拡張し、巨大なバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の教会堂)を建設した。ビザンツ帝国でも主要交易都市として繁栄したが、2世紀頃から川の土砂によって埋まりはじめた港は7世紀に深刻化し、8世紀には多くが湿地となった。原因は森林伐採で、森を開拓して牧草地や小麦畑・ブドウ畑・オリーブ畑に変えた結果、山から保水力が奪われて土砂が海に流れ込んだ。港としての機能を失うと急速に人口は減り、マラリアの流行を受けて町の中心もアヤスルクの丘をはじめ、周囲へ移動した。7~8世紀にイスラム王朝であるウマイヤ朝(アラブ帝国)やアッバース朝(イスラム帝国)の攻撃を受けると古代都市は放棄され、廃墟となって打ち捨てられた。

11世紀にセルジューク朝が侵入した際には小さな農村にすぎなかったという。14世紀までふたたびビザンツ帝国が領有し、城壁を建設し、港を再建した。

14世紀、ルーム・セルジューク朝がこの地を占領するとアイドゥン侯国と呼ばれるベイリク(君侯国。地方政権)を置き、アヤスルクが首都となった。イスラム都市として整備され、アヤスルク城塞やイサ・ベイ・モスクをはじめ、キャラバンサライ(隊商宿)やハマム(浴場)などが建設された。その後、オスマン帝国が勢力を強め、1425年にその支配下に入った。その後、町は放棄され、廃墟あるいは小さな農村となった。アヤスルクは1914年にセルジューク朝にちなんで「セルチュク」に改名し、現在に至っている。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は4件で、「チュクリチ・ホユク」「古代都市エフェソス」「アヤスルクの丘、アルテミス神殿および中世の集落」「聖母マリアの家」となっている。

「チュクリチ・ホユク」はエフェソスの南東数百mに位置する遺丘=テルで、新石器時代・銅器時代(金石併用時代)・青銅器時代にまたがる紀元前7000年紀~前3000年紀の集落跡が5層をなして堆積している。新石器時代の層からは石と土壁・木の支柱からなる住居跡が出土しており、石斧をはじめ数多くの石器が発見されている。黒曜石は数百km離れたエーゲ海の島々から持ち込まれたもので、船を使っての交易を示唆している。ブタ、ウシ、ヒツジ、ヤギといった家畜やマグロや貝などの魚介類、ウサギやキツネなどの野生動物まで多彩な骨が出土しており、当時の生活の様子がうかがえる。銅器時代は堀に囲まれた環濠集落で、農業の跡や銅器・織物が発掘されている。青銅器時代には大きな都市だったようで多くの炉が出土しており、金・銀・銅・青銅といった金属生産で栄えていた。農業・牧畜・漁業の規模も増し、織物や皮革など多彩な産業が成立していた。

「アヤスルクの丘、アルテミス神殿および中世の居住地」はアヤスルク周辺のヘレニズム・ローマ時代の遺跡と中世の都市遺跡や建造物からなる。古代、この地はアルテミス信仰以前からの女神信仰の聖地で、紀元前10世紀頃にイオニア人が入植してアルテミス神殿を建設した(それ以前にさかのぼるとする異説あり)。この神殿は紀元前7世紀に洪水で破壊され、紀元前6世紀に再建された第2神殿も紀元前356年頃に放火で焼失した。『博物誌』の著書で知られる古代ギリシアの歴史家・大プリニウスによると、第3神殿は115×55mを誇るイオニア式の二重周柱式神殿で、高さ17.5mの大理石柱が127本も立ち並んでおり、至聖所には宝石で飾られた高さ15mのアルテミス像が据えられていた。しかし、3世紀に地震やゴート人の襲来で損傷し、4世紀後半にキリスト教以外の宗教が禁じられると衰退し、4世紀後半から5世紀はじめに閉鎖された。神殿の石材は建材として持ち去られ、現在は土台と復元された柱が1本立っているのみとなっている。

アルテミス神殿の北東に位置するのが聖ヨハネ教会だ。4世紀後半に使徒ヨハネの墓の上に小さな礼拝堂が建設され、6世紀にユスティニアヌス1世が大幅に拡張した。ユスティニアヌス時代の教会堂は付属施設も含めて約130×65mを誇る壮大な建物で、「†」形のラテン十字形で6つのドームを冠していた。十字が交差する交差廊の中央に大理石で造られた基壇を設け、その直下がヨハネの墓となっていた。コンスタンティヌス1世の時代に墓が開かれたが、何も入っていなかったと伝わっている。14世紀にイスラム教勢力の支配下に入るとモスクとなり、同世紀の地震で倒壊して放棄された。

5~6世紀、ビザンツ帝国はアヤスルクの丘に要塞を建設し、エフェソスの防衛拠点とした。14世紀にアイドゥン侯国が首都アヤスルクを置くと、堅牢な城壁を持つアヤスルク城塞として整備した。15の城塔とふたつの城門を持つ城塞で、城壁やモスク跡・住居跡・貯水池などの遺構が残されている。城壁の外にもアイドゥン侯国・オスマン帝国時代の住居や病院・ハマム・墓地などの跡が残されているが、いまでもその姿を留めているのがイサ・ベイ・モスクだ。シリア・ダマスカスのウマイヤド・モスク(世界遺産)にならって1374~75年に建設されたモスクで、アラブ型のモスクをベースとしながらセルジューク朝期のレリーフが刻まれた扉や、オスマン様式のドームなど、複数のスタイルを融合させている。

「古代都市エフェソス」はヘレニズム・ローマ時代の都市遺跡で、当時は北から西にかけて海岸線が走っており、港湾都市として繁栄した。南のクレテス通り、セルシウス図書館から大劇場(エフェソス劇場)に至るマーブル通り、大劇場から西に延びるアルカディアン通り(港通り)、大劇場から北に延びるスタジアム通りの4本の通りを中心とし、アルカディアン通りの先に港があった。

主な遺構として、まずセルシウス図書館が挙げられる。ケルスス図書館とも呼ばれる図書館で、117年頃の建設で12,000冊もの史資料を収蔵し、エジプトのアレクサンドリア図書館、ペルガモンのペルガモン図書館(世界遺産)と並んで古代世界の3大図書館に数えられた。中央にホールを持つ大理石造の建物で、ファサードは2階建てで1階はイオニア式とコリント式を融合させたコンポジット式の柱、2階はコリント式の柱で支えられ、壁龕(へきがん。装飾用の壁の窪み)にはソフィア(知恵)、エピステメー(認識)、エンノイア(観念)、アレテ(美徳)を擬人化した女性像が収められている(オリジナルはエフェソス博物館)。柱は2階よりも1階、中央よりも隅の方が小さく、目の錯覚を利用してより大きく見せる工夫が施されている。3世紀の地震やゴート人の侵略で破壊され、10世紀までに完全に倒壊したが、ファサードについては1970~78年に復元された。

大劇場はアナトリア最大のテアトロン(ギリシア劇場)で、3層66列に約25,000人を収容する。創建はリュシマコス治世の紀元前3世紀で、ローマ時代に大幅に拡張された。演奏や演劇だけでなく、政治や哲学の討論や、時には剣闘士の戦いが繰り広げられた。

ハドリアヌス神殿は128年頃の建設で、エフェソスでもっとも保存状態がよく美しい神殿として知られる。幸運の女神ニケや蛇髪の怪物メドゥーサ、女神アルテミス、アマゾンなどの姿が描かれた繊細なレリーフで飾られている。

聖母マリア教会はアルテミス信仰に代わって広がった聖母マリア信仰の中心地だ。もともとムーサ(ミューズ)と呼ばれる女神の神殿があった聖域で、5世紀に教会堂が建設され、500年頃に拡張され、司教座が置かれて聖母マリア大聖堂となった。また、エフェソスの郊外には眠れる七聖人の洞窟があり、こちらも聖母マリア信仰と並ぶ眠れる七聖人伝説の聖地として巡礼者を集めた。伝説によると250年頃、ローマ帝国のキリスト教弾圧を受けた7人が山中の洞窟に逃げ込み、そのまま眠ってしまったという。起きると200年ほど時が経過しており、弾圧は終了していた。ヨーロッパのみならずイスラム教圏でも愛されている物語で、洞窟の近くに教会堂が建設され、両教の巡礼地となっていた。

これら以外に、エフェソス最大の神殿だったドミティアヌス神殿、古代エジプトの神に捧げられたセラピス神殿やイシス神殿、町に飲料水を供給したトラヤヌス噴水やポリオ噴水、1,500人を収容したオデオン(屋内音楽堂)、スポーツ大会を開催したスタディオン(屋外競技場)やギムナシオン(屋内競技場・体育館)、庁舎であるブーレウテリオン(議場・庁舎)やプリタニオン(評議会事務所)、160×73mの国営アゴラや商人のための商業アゴラ、マグネシアン門・コレッソス門・ヘラクレス門といった城門、ヴァリウス浴場やスコラスティカ浴場・港の浴場といった浴場、古代の住居跡や公衆トイレ・娼館・バシリカなど、多彩な遺構が残されている。

エフェソスの南3kmほどに位置する「聖母マリアの家」は1世紀に使徒ヨハネがマリアのために住居を建設し、4世紀に住居兼礼拝堂に増築されたというその場所にたたずんでいる。19世紀、ドイツの聖アウグスチノ修道会の修道女アンナ・カタリナ・エンメリックは寝たきりだったが、イエスやマリアの生涯のイメージが頭の中に現れるという幻視で知られていた。あるときエンメリックはエフェソスで暮らすマリアの姿を幻視し、サモス島を見下ろす丘に立つことや家の形などを鮮明に伝えた。この記録に基づいて調査が行われ、1881年にフランスの司祭らが適合する丘を探し当て、1891年に1世紀のものと見られる遺跡を発見した。使徒ヨハネや聖母マリアに関する証拠が発見されたわけではないが、1896年に教皇(法王)レオ13世が訪問し、1950年にはピウス12世が聖地として公認し、1951年に聖母マリアの家が再建された。典型的な石造のローマ建築で、礼拝室を備えているほか、泉から湧き出し幸福や癒やしをもたらす「マリアの水」や、望みを託した紙や布を貼り付けると願いが叶うという「願いの壁」などが人気を博している。

■構成資産

○チュクリチ・ホユク

○古代都市エフェソス

○アヤスルクの丘、アルテミス神殿および中世の集落

○聖母マリアの家

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(ii)「重要な文化交流の跡」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(i)についてアルテミス神殿が世界的な傑作として名高くても建物の跡はほとんど残っておらず傑作であることが証明されていないとし、(ii)についてイタリアやビザンツ、アナトリアの影響は認められるがアナトリアでは一般的で特別な価値の交流は証明されていないとして、それらの価値を認めなかった。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

古代都市エフェソスの中心部とアヤスルクのモニュメントに示されているように、ヘレニズム・ローマ・初期キリスト教の各時代の文化的伝統を示す際立った証拠である。特にローマ帝国の文化的伝統はセルシウス図書館やハドリアヌス神殿、セラピス神殿、テラスハウス(境界壁を共有する長屋のような連続住宅)といった中心部の代表的ですぐれた建築に反映されており、その壁画やモザイク、大理石パネルは当時の上層社会の生活スタイルを物語っている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

 エフェソスは全体として、環境に対応し変遷した都市景観のすぐれた例である。この古代都市はカイストロス川沿いの河口や港湾に展開しており、ローマの港湾都市として際立った存在である。また、初期のアヤスルクの港とその後に築かれたエフェソスの港は共に埋め立てられたが、古代ギリシアの時代から中世にかけて移り変わった河川の景観の変遷を示している。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

キュベレ/メテル信仰にはじまり近代におけるキリスト教の再興に至るアナトリアの重要な歴史的・宗教的文化を示す歴史的史料と考古遺跡が可視化されており、こうした時代をさかのぼることができる。また、ローマ帝国がキリスト教の普及に決定的な役割を果たした証が示されており、アヤスルクの丘の聖ヨハネ教会やエフェソスの聖母マリア教会の広大な遺跡はキリスト教世界においてこの都市の重要性を物語っている。431年と449年に初期キリスト教におけるふたつの重要な会議がエフェソスで開催され、聖母マリアが神の母であることが確認された。これにより聖母マリア信仰が活性化したが、これはギリシアのアルテミス信仰やアナトリアのキュベレ信仰の影響を受けたものとも考えられる。また、エフェソスはエーゲ海第2の哲学学派であるイオニア学派が活動していた政治・文化・知の中心地であり、哲学や医学の発展に多大な影響を与えた。

■完全性

構成資産には人類の長い定住の歴史を示す遺跡群が含まれており、それぞれが全体の顕著な普遍的価値に大きく貢献している。これらは顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでおり、資産の重要性を伝えその過程を示すために十分な大きさを持ち、法的に保護されている。

■真正性

構成資産は位置や環境、形状やデザインについて真正性を保持している。チュクリチ・ホユクの遺構は素材と原料の点で真正性を保っている。他のふたつの構成資産はいずれも過去に石材が持ち去られており、その後、現代の素材を使用してアナスティローズ工法(できるかぎり元の建築要素を利用して再建する工法)を駆使して修復や安定化が行われた。近年は初期の不適切な素材によって生じた損傷を可能な限り再修復しており、可逆的な技術が用いられている。

■関連サイト

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