モン=サン=ミシェルとその湾

Mont-Saint-Michel and its Bay

  • フランス
  • 登録年:1979年、2007年軽微な変更、2018年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(iii)(vi)
  • 資産面積:6,560ha
  • バッファー・ゾーン:191,858ha
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、海に浮かぶモン=サン=ミシェル。頂部は修道院教会、下部左端の建物はレ・ファニル。城壁の側防塔(半円形の出っ張り部分)は左から王の塔、ラルカード塔、リベルテ 塔、バス塔、ショレ塔、ブークレ塔
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、海に浮かぶモン=サン=ミシェル。頂部は修道院教会、下部左端の建物はレ・ファニル。城壁の側防塔(半円形の出っ張り部分)は左から王の塔、ラルカード塔、リベルテ 塔、バス塔、ショレ塔、ブークレ塔 (C) Amaustan
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、沖から眺めたモン=サン=ミシェル。頂部が修道院教会、その下がラ・メルヴェイユ、下部左端がブークレ塔、その右上がノール塔、下部右端にわずかに見えるのがサントベール礼拝堂
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、沖から眺めたモン=サン=ミシェル。頂部が修道院教会、その下がラ・メルヴェイユ、下部左端がブークレ塔、その右上がノール塔、下部右端にわずかに見えるのがサントベール礼拝堂
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、モン=サン=ミシェル山頂、修道院教会の西ファサードと西のテラス。中央上の尖塔がスパイア (C) Antoine Lamielle
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、モン=サン=ミシェル山頂、修道院教会の西ファサードと西のテラス。中央上の尖塔がスパイア (C) Antoine Lamielle
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、修道院教会のスパイアの頂部にたたずむ大天使ミカエル像。右手に剣、左手に魂の秤を持ち、ドラゴンを踏みつけている
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、修道院教会のスパイアの頂部にたたずむ大天使ミカエル像。右手に剣、左手に魂の秤を持ち、ドラゴンを踏みつけている (C) Ibex73
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、ラ・メルヴェイユのクロイスター(下)とレフェクトワール(左)、修道院教会の北ファサード(右)
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、ラ・メルヴェイユのクロイスター(下)とレフェクトワール(左)、修道院教会の北ファサード(右)
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、ラ・メルヴェイユのゴシック様式のクロイスター。天井は木造の筒型ヴォールト
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、ラ・メルヴェイユのゴシック様式のクロイスター。天井は木造の筒型ヴォールト
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、ゲストルームとして使用されていたラ・メルヴェイユの主人のサル。天井は山形が尖頭アーチで、「×」形が交差四分のリブ・ヴォールト
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、ゲストルームとして使用されていたラ・メルヴェイユの主人のサル。天井は山形が尖頭アーチで、「×」形が交差四分のリブ・ヴォールト (C) Jorge Láscar
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、モワドレの旧製粉所の風車と小麦畑
世界遺産「モン=サン=ミシェルとその湾」、モワドレの旧製粉所の風車と小麦畑

■世界遺産概要

フランス北西部、バス=ノルマンディー地域圏のマンシュ県に位置する世界遺産で、モン=サン=ミシェル(聖ミカエルの山)と呼ばれる小島と周辺の潟、およびモワドレの旧製粉所が登録されている。モン=サン=ミシェルは古代のケルト時代から伝わる聖域で、大天使ミカエルの降臨伝説からミカエルに捧げる礼拝堂や修道院が建設され、「西洋の驚異 "merveille de l'Occident"」と讃えられるキリスト教の有力な巡礼地となった。百年戦争ではフランス王国、宗教改革ではローマ・カトリックの拠点となり、岩山を利用した難攻不落の要塞都市として整備された。

本遺産はもともと1件の資産を有するのみだったが、2006年に資産の範囲を明確化した際に「モン=サン=ミシェルとその湾」と「モワドレの旧製粉所」というふたつの構成資産に分割された。また、2007年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定され、2018年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが57,510haから191,858haに拡大された。

なお、モン=サン=ミシェルはフランスの世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産のひとつとしても登録されている。

○資産の歴史

モン=サン=ミシェル湾はイギリス海峡のサン=マロ湾の最奥部に位置し、沿岸部には広大な干潟が広がっている。干満差(干潮時と満潮時の海面水位の差)は最大15mとヨーロッパ最大級で、海岸線は潮の満ち引きに合わせて最大18kmも前後する。あまりの流れの速さから修道士たちは遺言書を作成してから島に渡ったという。湾に注ぐ主な川はクエノン川、セリューヌ川、セ川の3本で、これらの川から流れ込む土砂が干潟や草地を形成しているが、この早い潮流が砂を沖へ流し出すことで湾の埋没を防いでいる。この見事な干潟は1994年にラムサール条約(特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)の登録湿地となっており、東大西洋フライウェイとアフリカ=ユーラシア・フライウェイと呼ばれる渡りルートの中継点として世界的に重要な鳥類の繁殖・中継・換羽・越冬地とされる。また、鳥類のみならず魚類や貝類、アザラシなどにとっても重要な生息地となっている。

最終氷期(約7万~1万年前)、一帯は氷で覆われていたが、8,000年ほど前に海となって湾が形成された。湾にはドル山、トンブ山、トンブレーヌ山という3つの山があり、いずれも5億2,500万年前の花崗岩で形成されている。ドル山ももともと島だったが現在は陸地に囲まれており、トンブ山とトンブレーヌ山はいわゆる「タイダル・アイランド」で、満潮時には島だが、干潮時には砂州によって大陸と結ばれて陸繋島(りくけいとう)となる。

モン=サン=ミシェルの修道院が立つ島が「墓の山」を意味するトンブ山で、周囲960mのほぼ円形で高さは79mとなっている。その神秘的な形状と立地からケルト人の時代から聖地であったとされ、光の神ベレヌスに捧げられた神殿が立っていたともいわれるが、遺構は発見されていない(同様の伝説はドル山やトンブレーヌ山にも伝わっている)。やがてローマ帝国領となり、4世紀にキリスト教が伝わると、6世紀に聖パテルヌと聖スキュビリオンが山の中腹に礼拝堂を建設したという。

ミカエルはフランス語でミシェル、イタリア語でミケーレ、スペイン語でミゲル、ドイツ語でミヒャエル、英語でマイケルと呼ばれる大天使で、悪に対する善の力の象徴であり、しばしば剣や槍・秤を持ち、ドラゴンとして表現された悪魔を打ち倒す姿で描かれている。また、最後の審判では人間の魂を天秤で量り、善者をパラダイス(天国。エデンの園)に導く役割を果たす。ミカエル信仰は5世紀にイタリアで広がり、西・南ヨーロッパに急速に広がったと見られている。

伝説によると、708年にアヴランシュの司教オベールは夢の中でミカエルにこう告げられたという。「この岩山に私を祀る聖堂を建てなさい」。オベールは信じようとしなかったが、ミカエルは三度も夢に現れ、三度目にはオベールの頭に指を突き入れて稲妻を走らせた。翌朝、オベールが頭を触ってみるとそこに穴が開いていたという。これを受けてオベールは天使の奇跡を確信して聖堂の建設を開始し、翌709年10月16日に奉献した。聖(サン)ミカエル(ミシェル)の山(モン)、モン=サン=ミシェルのはじまりだ。これ以外にも、モン=サン=ミシェルにはミカエルがドラゴンを退治していた等々、数々のミカエル降臨伝説が伝えられている。また、オベールはミカエル信仰の聖地であるイタリアのガルガーノ山地のモンテ・サンタンジェロ(世界遺産)に使者を送り、ミカエルの足跡が穿たれているという聖石とミカエルのベールの一部を持ち帰って聖遺物として収蔵した。この聖堂は現在、修道院教会の身廊の地下に位置するノートル=ダム=スー=テール礼拝堂となっている。なお、オベールの穴の開いた頭蓋骨はアヴランシュのサン=ジェルヴェ教会に収められており、放射性炭素年代測定によって7~8世紀のものであることが確認されている。

9世紀にヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)が海岸線を荒らし回り、モン=サン=ミシェルも略奪を受けた。911年に西フランク王国はノルマン人の国としてノルマンディー公国を認め、その代償としてノルマンディー公となったロロはキリスト教に改宗し、他のノルマン人の侵入を防いだ。927年にはグレートブリテン島でイングランド王国が成立し、ノルマンディー地方は西フランク、イングランド、ノルマン人にとって要衝となり、またキリスト教宣教の点でも重要地となった。ノルマンディー公リシャール1世はキリスト教を保護し、それまでに奪った土地を教会や修道院に返還した。そしてベネディクト会に要請して966年にモン=サン=ミシェルに修道院を創設させ、巡礼地として整備した。11世紀後半に新しい修道院教会の建設がはじまり、イタリアの修道士で建築家でもあるグリエルモのヴォルピアノによってロマネスク様式の教会堂が建設された。また、修道院ではアリストテレスやプラトン、キケロやウェルギリウスといった古代のギリシアやローマの名著の翻訳と写本の製作が行われて「書の町」との異名を取った。

1066年にノルマンディー公ギヨーム2世はグレートブリテン島に進出してロンドンを落とし、ウェストミンスター寺院(世界遺産)で戴冠してイングランド王ウィリアム1世となってノルマン朝を打ち立てた(ノルマン人による征服=ノルマン・コンクェスト)。この過程でノルマン地方はイングランドの版図となった。ノルマン朝は4代で断絶し、1154年にフランス中西部のアンジュー地方を治めるアンジュー伯アンリがヘンリー2世としてイングランド王に即位した。フランスはイングランドに囲まれる危機に陥ったが、フランス王フィリップ2世はヘンリー2世の跡を継いだジョンからノルマンディー以外の領地を没収し、ブルターニュ公アーサーに譲渡。さらに、戦争でノルマンディー地方をも奪取し、最前線となったモン=サン=ミシェルは両軍の侵攻によって荒廃した。

これを受けてベネディクト会は島の要塞化を決め、13世紀はじめに島を取り囲むノルマン様式の城壁が築かれた。また、フィリップ2世は修道院をゴシック様式に改修するための資金を寄進し、1212~28年に工事が進められた結果、食堂や司祭館・ゲストルームなどを備えた「ラ・メルヴェイユ(驚嘆)」と讃えられた僧院が建設された。また、11世紀に北2.5kmほどに位置するトンブレーヌ島にモン=サン=ミシェルの修道士だったアナスタシウスとロベールが隠棲し、12世紀には小さな修道院が建設されてこちらも巡礼地となった。フィリップ2世はトンブレーヌ島に城砦を建設し、こちらも前線基地として整備した。

イギリス海峡を挟んだモン=サン=ミシェルはフランスの前線基地となり、1324年には島内に王軍の駐屯地が建設され、周辺の防衛をブルターニュ公が引き受けた。百年戦争(1337〜1453年)がはじまるとイングランドはトンブレーヌ島を落として拠点とし、モン=サン=ミシェルを包囲したが、占領には至らなかった。14世紀はじめに城壁は大幅に強化され、ノール塔(北塔)やペリーヌ塔、クローディーヌ塔、王の門、バービカン(楼門)、グラン・ドグレ(大階段)、シャトレ(小砦)などが整備された。しかし、ノルマンディー地方は次々とイングランドの手に落ち、最後に残ったモン=サン=ミシェルもしばしば包囲されて危機を迎えた。

百年戦争は中盤までフランスの圧倒的不利で進んだが、ジャンヌ・ダルクの登場で状況が一変する。「イングランドを倒し、フランスを助けよ」との神の声を聞き、大天使ミカエルを見たというジャンヌ・ダルクは1429年にロワール渓谷(世界遺産)のシノン城で王太子シャルルに謁見し、軍を授かると拠点都市オルレアンでイングランド軍を撃破。これを機にフランスは勢いを盛り返し、同年のパテーの戦いに勝利して勢力を回復した。シャルルはシャルル7世として王位に就き、1450年にノルマンディー地方を奪還。1453年にカスティヨンの戦いに勝利し、イングランド軍を大陸から駆逐して百年戦争に幕を下ろした。モン=サン=ミシェルは数十年の間、イングランド軍の攻撃を受けつづけたが落城することはなく、新たな伝説を刻んだ。そして15世紀末から16世紀はじめにかけて修道院教会がゴシック様式で建て替えられた。

しかし、ローマ・カトリックと修道院に対する信頼は徐々に失われ、16世紀の宗教改革でユグノー(フランスのカルヴァン派プロテスタント)が勢力を広げると巡礼地としての権威も喪失した。そんな中で修道院の地下はユグノーや政治犯の拘置所となり、1731年にはルイ15世によって修道院の一部が刑務所に改築された。18世紀前半に作家のヴィクトル・デュブールやデスフォージュが投獄されると、政治犯を多く収容したパリのバスティーユ牢獄になぞらえて「海のバスティーユ」の異名を取った。18世紀後半には修道院は荒廃し、わずか数人~十数人の修道士が暮らすのみとなり、1789年にはじまったフランス革命を経て1791年に廃院となり、国家に接収された。

作家ヴィクトル・ユゴーをはじめ多くの文化人がフランスが誇るモン=サン=ミシェルを刑務所として使用していることを非難すると、ナポレオン3世は1863年に刑務所を閉鎖してクタンスの司教に貸し出した。1874年には国の歴史的建造物に分類され、建築家ポール・ゴウトとエドゥアール・コロワイエによって修復が進められた。1890年代に鐘楼とスパイア(ゴシック様式の尖塔)が再建され、現在見られるロマネスク・リバイバル様式の鐘楼とゴシック・リバイバル様式のスパイアが完成。1897年にはスパイアの頂部に彫刻家エマニュエル・フレミエによる黄金のミカエル像が取り付けられた。また、1878年には島と大陸を結ぶ全長1.93kmの堤防道路が建設され、モン=サン=ミシェルは大陸と陸続きとなった。さらに路面電車などの整備が進み、ノルマンディー地方へのアクセスも改善したことから訪問者が急増した。1860年代に1万人ほどだった年間訪問者は20世紀はじめには10万人を突破した。

堤防道路が建設されて島の周りの潮流が阻害された結果、川から流れ込む土砂が沖へ排出されず、2m以上も堆積した。モン=サン=ミシェルは満潮時を除いて海に取り囲まれることはなくなり、ほとんどの時間、干潟の上に立つこととなった。2040年頃には完全に陸地になると予想されたことから改善策が検討され、2005~15年にかけてサン・ミシェル・プロジェクトが実施された。これにより堤防道路を取り壊して潮の流れを妨げることのない全長760mの歩道橋が架けられ、2014年7月22日に開通した。さらに、クエノン川に河口堰を築き、満潮時に川をさかのぼった海水を貯めて干潮時に排水するシステムが構築された。こうしてモン=サン=ミシェルはふたたび島化され、堆積した土砂は少しずつ排出されている。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は2件で、モン=サン=ミシェルやトンブレーヌ島を含むモン=サン=ミシェル湾沿岸部の干潟地帯およびクエノン川河口付近と、モワドレの旧製粉所が登録されている。

モン=サン=ミシェルは周囲960m・高さ79mの円錐形の山で、上部に修道院、下部の南から東にかけて町が配されており、それぞれの周囲に城壁が張り巡らされている。西や北は断崖で、その上に修道院がそびえており、修道院の建物は断崖と一体化してこちらも城壁の役割を果たしている。

島への入口は1箇所で、ラヴァンセ門、ブールバール門、王の門という3重の城門が連なっている。ここから東に城壁が伸びており、城壁には王の塔、ラルカード塔、リベルテ 塔、バス塔、ショレ塔、ブークレ塔、ノール塔という7基の側防塔が備えられている。また、門の西には断崖を経てレ・ファニルと呼ばれる堅牢な兵舎(現・フランス文化財センター)があり、その先には円錐形の屋根を持つ円筒形のガブリエル塔がそびえている。さらに先、島の北西の岩場にポツリとたたずむのがオベール司教に捧げられたノルマン様式(ノルマン文化のロマネスク様式)のサントベール礼拝堂(聖オベール礼拝堂)で、12世紀の建設と見られている。

町の大通りが王の門から東に続くグランド・リュで、通りの左右に商店やホテルが連なっている。町には歴史的な建造物が立ち並んでおり、市庁舎や歴史博物館、海洋生態博物館、ティフェンヌ邸、エルサレム十字庭園など公共施設や博物館として使用されているものも少なくない。サン=ピエール教会はオベール司教が関係者の埋葬地として8世紀に創建したと伝わる教会堂で、共同墓地が隣接している。洞窟を利用したノルマン様式の重厚な教会堂で、14~17世紀にたびたび改修された。主祭壇には右手に剣、左手に盾を持ち、ドラゴンを踏みつけるミカエル像が収められている。ラ・メール・プラールは1888年にヴィクトールとアネットのプラール夫妻によってオープンしたレストラン兼ホテルで、プレ・サレと呼ばれる干潟の牧草地で放し飼いされたニワトリが生んだ鶏卵を使用したオムレツはモン=サン=ミシェルの名物となっている。

衛兵のサル(部屋・広間)を通り、グラン・ドグレ(大階段)を登ると、頂部にそびえる修道院教会と西のテラスに到達する。修道院教会は全長約70mの「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、1080年頃にロマネスク様式で建設され、15世紀末から16世紀はじめにゴシック様式で再建された。ファサード(正面)については1776年の大火で被害を受け、1780年にギリシア建築を思わせる新古典主義様式で改築された。身廊はロマネスク様式の構造を残しており、天井は板張りの筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)となっている。一方、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)やアプス(後陣)はゴシック様式で、尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)や交差四分のリブ・ヴォールト(枠=リブが付いた×形のヴォールト)がゴシックらしい上昇感を与えており、ステンドグラスが明るい空間を作り出している。アプスの周歩廊に並ぶ放射状祭室には礼拝堂が並んでおり、アプスやトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)の地下にもサン=マルタン礼拝堂やサン=マドレーヌ礼拝堂、オシュエル(納骨堂)をはじめ数々のクリプト(地下聖堂)を備えている。ゴシック様式の尖塔であるスパイアは1897年に増築されたもので、頂部に彫刻家エマニュエル・フレミエが制作した剣と秤を手に持つミカエル像を掲げている。

身廊の地下に位置するノートル=ダム=スー=テール礼拝堂はオベール司教が創設した最初の礼拝堂の跡地で、900年頃に修道院教会として再建された。その後、11世紀にロマネスク様式の修道院教会がこの礼拝堂と岩山の上に建設された。礼拝堂は14×12mほどの空間で、フランク王国カロリング朝時代のカロリング・ルネサンス(カール大帝が主導した古典復興に基づくキリスト教文化の興隆)の影響を受けたレンガ造となっている。礼拝堂の一部にはオベール司教の時代のものと思われる石積みが残されている。

修道院教会の北に隣接するラ・メルヴェイユは1212~28年に建設されたゴシック様式の僧院で、1階がオーマネリー(司祭館)、2階が騎士団のサルや主人のサル(ゲストルーム)、最上階が回廊であるクロイスターやレフェクトワール(食堂)となっている。レフェクトワールが木造の筒型ヴォールトとコンポジット式(イオニア式とコリント式の特徴を備えた様式)の柱を使った古典的な空間であるのに対し、騎士団のサルや主人のサルは尖頭アーチやリブ・ヴォールトを駆使したゴシックの空間となっている。特筆すべきはクロイスターで、バラや各種ハーブが植えられた中庭の周囲に137本の大理石柱が二重に取り囲んでおり、二重の列がわずかにズレることで特別な視覚的効果を与えている。クロイスターの天井は木造の筒型ヴォールトで、天井に木材を使用することで重量を軽減している。ラ・メルヴェイユの外壁はバットレス(控え壁)で支えられており、重厚な見た目と城壁のような堅牢性を実現している。

ロベール・ド・トリニーの建物は修道院長ロベール・ド・トリニーによって12世紀はじめに築かれた建物で、僧院やサンテティエンヌ礼拝堂・診療所・宿泊施設などを備えている。巨大なウインチが残されており、かつてはこのウインチを使って荷物を引き上げていた。

モン=サン=ミシェルの北2.5kmほどに位置するトンブレーヌ島はその昔、ホエル王の娘エレーヌが巨人にさらわれて埋葬されたという伝説が伝わる島で、「エレーヌの墓(トンボー)」から「トンブレーヌ」と命名された。また、古代にはケルト神話における光の神ベレヌスの聖域として祀られており、キリスト教の時代には大天使ミカエルの聖域に置き換えられた。11世紀にモン=サン=ミシェルの修道士アナスタシウスとロベールがここに隠居し、12世紀には小さな修道院が建設され、またフィリップ2世によって城砦が築かれた。百年戦争ではイングランド軍、宗教改革ではユグノー軍に落とされてそれぞれの拠点となった。現在、建物はほとんど残っていないが、その遺構を見ることができる。

モワドレの旧製粉所はモン=サン=ミシェルの南5.5kmほどに位置しており、畑に囲まれた標高約44mの丘に1基の風車がたたずんでいる。1886年に建設された風車で、風力を利用して小麦やライ麦・オーツ麦などを挽いて小麦粉にしていた。第2次世界大戦で放棄されたが、2003年に復元され、毎年13tの穀物を挽いて8tの小麦粉を生産している。修道士たちはこうしてプレ・サレの農場で小麦やリンゴを生産し、牧草地でヒツジやニワトリを飼って生活を営んでいた。

■構成資産

○モン=サン=ミシェルとその湾

○モワドレの旧製粉所

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

自然環境と建築の独創的な組み合わせにより、モン=サン=ミシェルは唯一無二の美的成果を収めている。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

モン=サン=ミシェルは小さな島の限られた範囲に修道院と要塞化された集落が共存していることに加え、その忘れがたいシルエットを形成する建造物群の配置の独創性から、比類のない建造物群である。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

モン=サン=ミシェルは中世キリスト教文化のもっとも重要な場所のひとつである。

■完全性

モン=サン=ミシェルの激動の歴史と教会堂の初期の部分の破損にもかかわらず、資産と修道院の建造物群の完全性は保たれている。19世紀の修復工事、特に1897年のスパイアの建設によって建物の威厳と象徴的な外観が蘇った。集落については歴史的な建造物群が保持されている。

自然現象による土砂の堆積や、特に1879年の堤防道路の建設によって大陸と陸続きとなって島の孤立性が失われたにもかかわらず、この場所の価値は維持されている。加えてフランス政府によって行われたサン・ミシェル・プロジェクトの大規模な工事が2015年に完了し、モン=サン=ミシェルの海洋的な特徴がふたたび確立された。

■真正性

モン=サン=ミシェルと周囲の湾の広大な景観との関係は何世紀にもわたって手付かずで維持されている。修道院とそれを囲む集落の建造物群は17世紀以降、19世紀・20世紀と適切に維持・修復・改修されており、その素材・造成・配置について際立った真正性を有している。

1789年に廃止され、1863年まで牢獄として使われていたこの修道院は今日、小さなコミュニティによって修道院の存在が保証され、キリスト教の歴史を証言する記念碑となっている。その歴史は毎年300万人の訪問者が訪れる修道院が果たした卓越した役割を想起させる。

地形に関連したモン=サン=ミシェルの視覚的特徴や、大いに目立つランドマークとしての地位は非常に脆弱であり、資産から見た、あるいは資産を含むパノラマは異物によって容易に変貌しうる。さらに、非常に多くの訪問者が頻繁に訪れるためこの場所の精神性が損なわれる危険性がある。

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