ストラスブールのグランディルとノイシュタット

Strasbourg, Grande-Île and Neustadt

  • フランス
  • 登録年:1988年、2017年重大な変更
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:183ha
  • バッファー・ゾーン:708ha
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、グランディルのヴォーバン・ダムから眺めたクヴェール橋とイル川、左端はフォー・ロンパール運河。塔は右からフランス塔、ハンス・フォン・アルトハイム塔、ハインリヒ塔、木に隠れているのがブロー塔。右奥に見える尖塔はストラスブール大聖堂のスパイア
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、グランディルのヴォーバン・ダムから眺めたクヴェール橋とイル川、左端はフォー・ロンパール運河。塔は右からフランス塔、ハンス・フォン・アルトハイム塔、ハインリヒ塔、木に隠れているのがブロー塔。右奥に見える尖塔はストラスブール大聖堂のスパイア
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、ハーフティンバーの伝統建築が立ち並ぶグランディルのプティット・フランス地区
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、ハーフティンバーの伝統建築が立ち並ぶグランディルのプティット・フランス地区
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、グランディルのストラスブール大聖堂とメルシエール通り
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、グランディルのストラスブール大聖堂とメルシエール通り
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、グランディルのストラスブール大聖堂の身廊。奥は西ファサードのバラ窓とランセット窓、左右のアーチの下にはタペストリーが掲げられている
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、グランディルのストラスブール大聖堂の身廊。奥は西ファサードのバラ窓とランセット窓、左右のアーチの下にはタペストリーが掲げられている (C) Jorge Franganillo
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、グランディルの大聖堂広場。右端がストラスブール大聖堂の西ファサード、左のハーフティンバーの建物が旧セーフ薬局、中央やや右のオレンジ色のハーフティンバーの建物がメゾン・カメルツェル
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、グランディルの大聖堂広場。右端がストラスブール大聖堂の西ファサード、左のハーフティンバーの建物が旧セーフ薬局、中央やや右のオレンジ色のハーフティンバーの建物がメゾン・カメルツェル
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、ストラスブール大聖堂から見下ろしたシャトー広場。左がフュステル=ドゥ=クーランジュ高校、中央から上がロアン宮殿、右の階段破風の建物がルーヴル・ノートル=ダム美術館
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、ストラスブール大聖堂から見下ろしたシャトー広場。左がフュステル=ドゥ=クーランジュ高校、中央から上がロアン宮殿、右の階段破風の建物がルーヴル・ノートル=ダム美術館 (C) Christina from Victoria, Canada
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、ノイシュタットに位置するネオ・ルネサンス様式のライン宮殿。右の三角破風のペディメント下の柱廊がロッジア
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、ノイシュタットに位置するネオ・ルネサンス様式のライン宮殿。右の三角破風のペディメント下の柱廊がロッジア (C) Alexandre Prévot
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、ノイシュタットのスカイラインを彩るゴシック・リバイバル様式のサン=ポール改革派教会、手前はオーヴェルニュ橋
世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット」、ノイシュタットのスカイラインを彩るゴシック・リバイバル様式のサン=ポール改革派教会、手前はオーヴェルニュ橋

■世界遺産概要

ストラスブールはフランス東部グラン・テスト地域圏、いわゆるアルザス地方の中心都市。ゲルマン系の言葉で「街道の町」を意味するようにライン川を利用した河川舟運や、さまざまな街道を使った陸運で発達した。古くからフランス、ドイツ、ラテンの文化が交錯する場所で、ラテンの古典様式やルネサンス様式、フランスのゴシック様式や新古典主義様式、ドイツのロマネスク様式やネオ・ルネサンス様式、アルザスやラインラント(ライン川沿岸部)のハーフティンバー(半木骨造)、モダニズムのオスマニアン様式など、種々の芸術・建築スタイルが融合して美しい都市景観を奏でている。グランディルはローマ時代以来の歴史地区で、その北東に広がるノイシュタットは19世紀後半から20世紀はじめにかけて建設された近代都市エリアだ。

なお、本遺産はまず1988年に「ストラスブール-グランディル "Strasbourg - Grande Ile"」の名称で登録基準(i)(ii)(iv)を認められて世界遺産リストに登載された。2017年の重大な変更でノイシュタットまで資産が拡大され、現在の名称に変更された。この際、登録基準については(i)は承認されず、(ii)(iv)のみに縮小された。

○資産の歴史

ストラスブールの一帯には新石器時代から人間の居住の跡があり、紀元前3世紀頃にはアルゲントラーテと呼ばれるケルト人の集落が成立していた。紀元前58年頃に共和政ローマがアルザス地方に到達し、ライン川を国境に据えると支流のイル川沿いに数々の城砦を設置した。やがてこの地は上ゲルマニア(ゲルマニア・スペリオル)における水路・陸路の要衝となり、初代皇帝アウグストゥスの治世の紀元前12年にアルゲントラトゥムと呼ばれるカストルム(軍事拠点)が建設され、城郭都市アルゲンティナへ発達した。ローマの都市らしく東西を結ぶデクマヌス・マクシムスと南北を貫くカルド・マクシムスという2本の幹線道路とフォルム(公共広場)を中心にローマ式の都市計画が進められた。グランディルのストラスブール大聖堂(正式名称はストラスブールのノートル=ダム大聖堂)周辺がフォルムに当たり、一帯の方格設計(碁盤の目状の都市設計)のグリッド構造はローマ時代の都市プランに由来する。西暦20年頃、人口は1万人に達したという。

その後、ローマ帝国は版図を東のドイツ方面に広げるが、民族大移動が激化した3世紀の260年に国境はふたたびライン川まで後退し、またも前線基地となった。この頃から情勢は急速に悪化し、352年にはゲルマン系アレマン人によって占領された。357年にローマ皇帝ユリアヌスがアルゲントラトゥムの戦いに勝利して奪還したものの、その後も戦いは続いて406年に再奪還を許し、451年には遊牧民族であるフン人(フン帝国)の君主であるアッティラに破壊された。476年に西ローマ帝国が滅亡し、ゲルマン系のフランク人がこの地を占領して5世紀後半にフランク王国が成立。町は再建され、6世紀頃にはストラスブール(ドイツ語ではシュトラスブルク)と呼ばれるようになったようだ。ただ、この頃にはすっかり衰退し、人口1,500人程度の地方都市にすぎなかった。

840年にフランク王ルートヴィヒ1世(ルイ1世/ルイ敬虔王)が没すると息子らによる後継者争いが起き、三男ルートヴィヒ(後のルートヴィヒ2世)と異母弟シャルル(後のシャルル2世)はストラスブールの誓いを交わして長男ロタール(後のロタール1世)に対抗した(次男ピピンは838年に死亡)。このストラスブールの誓いはフランスとドイツ誕生のきっかけと評価されている。協議の末、843年のヴェルダン条約でフランク王国は西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国に分割され、それぞれシャルル2世、ロタール1世、ルートヴィヒ2世が王位に就いた。さらに、ロタール1世が855年に死去すると、中部フランク王国はプリュム条約でロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに分割され、870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスは西フランク王国と東フランク王国に吸収された。これにより現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が形成された。ストラスブールはヴェルダン条約で中部フランク王国、プリュム条約でロタリンギアに組み込まれ、メルセン条約で東フランク王国の版図に入った。962年に東フランク王オットー1世が教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の帝冠を授かって神聖ローマ皇帝位に就くと(オットーの戴冠)、神聖ローマ帝国が誕生してその下に入った。

神聖ローマ帝国下で町は急速に拡大した。1015年には神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の支持を得て当時最大級の石造大聖堂の建設がはじまり、15世紀までロマネスク様式やゴシック様式への増改築を進めて現在見られるストラスブール大聖堂へと発展していく。この頃、人口は1万人を超え、1202~20年に市域を拡大して新しい市壁が建設され、1228~1344年には市壁に沿って四角形の城塔が築かれた。城塔はもともと80~90基ほどあったが、5基が現存している。そのうち4基はプティット・フランス地区のブロー塔、ハインリヒ塔、ハンス・フォン・アルトハイム塔、フランス塔で、1基はオピタル広場のストラスブール市民病院門塔だ。

13世紀に町の支配を強める司教と市民の対立が激化し、1262年に戦闘が勃発して市民が勝利した。これを受けてストラスブールは自由都市(大司教や司教の支配を受けず教会に対して義務を免除された都市)として認められた。以降、町は独立色を強め、既得権者である貴族と自由主義者の間で争いが頻発したほか、1349年にはストラスブールの虐殺と呼ばれるポグロム(反ユダヤの差別的・組織的な暴力・破壊行為)が起き、ユダヤ人の虐殺と追放が行われた。

1439年にはストラスブール大聖堂が完成を迎え、高さ142.15mのスパイア(ゴシック様式の尖塔)は当時世界でもっとも高い建造物となった。この頃には人口は25,000人を超え、市壁の外まで町が広がった。百年戦争(1337〜1453年)などの混乱もあってフランスで武器や防具・火薬・装飾品などの需要が増し、交易で大きな利益を上げた。

15世紀半ばにヨハネス・グーテンベルクが活版印刷を発明すると、グーテンベルクの故郷マインツに続いてストラスブールに印刷所が建設された。この後、町は印刷業で繁栄するが、これを記念して造られたのがグーテンベルク広場で、中央にグーテンベルク像がたたずんでいる。1517年にマルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会(世界遺産)のドアに「95か条の論題」を貼り付けたことをきっかけに宗教改革がはじまるが、この騒動が広がった背景には活版印刷によって論題のドイツ語版コピーが配布されるという事件があった。また、ルターが『新約聖書』のドイツ語版である『ルター聖書』を書き上げるとこれも印刷され、庶民が手軽に聖書を読むことができるようになった。こうしてストラスブールは印刷を通してプロテスタントの発展に大きく貢献し、1525年に市はプロテスタントへ改宗し、大聖堂もローマ・カトリックの手を離れた。1621年には神聖ローマ皇帝フェルディナント2世から大学の設立許可を得、1631年にストラスブール大学が創設された。

旧教と新教の争いやフランスと神聖ローマ帝国の対立から世界戦争に発展した三十年戦争(1618~48年)では中立を維持して戦火を免れ、1648年のウェストファリア条約でアルザス地方の一部がフランス領に移行したが、ストラスブールはこれも免れた。しかし、1681年にフランス王ルイ14世率いる3万の軍に包囲され、降伏・併合された。ただ、ストラスブールの特権や制度は維持され、プロテスタントの信仰も認められたが、大聖堂はローマ・カトリックに返還され、王立神学校(現・フュステル=ドゥ=クーランジュ高校)が建設された。このフランスによるストラスブール領有は1697年のレイスウェイク条約で確認された。ルイ14世は神聖ローマ帝国に対する重要拠点として整備し、1686~1700年にかけて軍事建築家セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンの設計でエンジニアのジャック・タラードが指揮を執り、稜堡(城壁や要塞から突き出した堡塁)を設置して星形要塞に改築した。同時に築かれたヴォーバン・ダムは水門橋で、水門を閉じることでイル川の南の土地を氾濫させ、堀とすることができた。この時代には数千人のフランス軍が常駐していたという。

女性であるマリア・テレジアがオーストリア大公位やハンガリー王位、ボヘミア王位に就き、ハプスブルク家の家督を継いだことから起こったオーストリア継承戦争(1740~48年)において、フランスもこれに反対して参戦した。ルイ15世はストラスブールを訪れて指揮を執ったが、このときロアン家の居城であるロアン宮殿に滞在した。ロアン宮殿はこの後もナポレオン1世やルイ・フィリップなどの皇帝や国王が滞在し、君主の離宮として使用された。1765年にはグランディルの景観を改善する都市計画が建築家ジャック=フランソワ・ブロンデルによって進められ、マルシェ・オー・シュヴォー広場(現・ブロイ広場)や軍事施設オーベットなどが整備された。また、この頃フランスの貴族がオテル・ド・アナウ(現・オテル・ド・ヴィル=市庁舎)やオテル・ガヨー(現・ストラスブール軍事総督宮殿)、オテル・デュ・グラン=ドワイエネ(現・エピスコパル宮殿)といった新古典主義様式の邸宅を建設し、街は華やかさを増した。

1789年にフランス革命がはじまるとストラスブールでも革命家による襲撃が起き、聖職者の資産は押収された。そして「理性の崇拝」という非キリスト教化運動が起こり、ストラスブール大聖堂は「理性の神殿」と呼ばれる無神論の神殿となって略奪を受けた。1792年にフランス革命政府がオーストリアとプロイセンに宣戦布告をすると、ストラスブール市長が主催した晩餐会で作曲家クロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールは駐屯軍のために『ライン軍のための戦争歌 "Chant de guerre pour l'Armée du Rhin"』を披露した。この曲が印刷されて全国に広まり、これをマルセイユ兵が歌っていたことから『ラ・マルセイエーズ』に改名された。現在のフランス国歌である。この戦争や以降の戦いでケラーマンやクレベールといったストラスブール出身の軍人が活躍し、各地に銅像が立てられた。一例がクレベール広場だ。ナポレオン1世が政権を取ると証券取引所や商工会議所といった施設が建設され、橋や道路・港といったインフラが整備されて近代化が進み、商業と工業が発達した。一方で町の特権は失われ、多くの教会堂や修道院が破壊された。

近代化に出遅れていたフランスでも1830年頃に産業革命がはじまった。これに伴って各地で産業革命を後押しする近代化政策が進められ、1830年代にローヌ川-ライン川、ライン川-マルヌ川を結ぶ運河が、1840年代にはストラスブール-バーゼルを結ぶ鉄道が開通した。インフラが整備されたことでストラスブールは商業と金融業で盛り上がった。

1870年にプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)が勃発し、同年にストラスブールはプロイセン軍に包囲された。市壁は近代的な大砲の前に無力で、降伏して入城を許した。戦争は翌年終結し、プロイセンを中心にドイツ帝国が成立。フランクフルト講和条約でストラスブールは帝国の版図に入り、直轄地エルザス=ロートリンゲン(フランス語のアルザス=ロレーヌ)の首都となった。ドイツ帝国は町の外にルーン要塞(現・ドゥセ要塞)やモルトケ要塞(現・ラップ要塞)、ポドビエルスキー要塞(現・デュクロ要塞)、ビスマルク要塞(現・クレベール要塞)、クロンプリンツ要塞(現・フォッシュ要塞)、クロンプリンツ・フォン・ザクセン要塞(現・ジョフル要塞)、グロースハーツォグ・フォン・バーデン要塞(現・フレール要塞)といった要塞を連ねて要塞線を敷いた。

また、町を拡張してグランディルの北東でドイツ語で「新しい町」を意味するノイシュタットを開発。オーストリアの建築家カミロ・ジッテが指揮を執り、ナポレオン3世とセーヌ県知事ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンが実施したパリ改造をモデルに都市の合理性・効率性に加えて文化・芸術性を重視し、景観にも注意を払って都市改造を進めた。整然とした方格設計の都市グリッド、高さのそろった建造物群、華やかな装飾、緑豊かな公園、広い道路や運河などが特徴で、こうしたスタイルは「オスマニアン様式」と呼ばれた。新市街の中心となったのがカイザープラッツ(皇帝広場。現・レピュブリック広場)で、周辺には皇宮であるカイザーパラスト(現・ライン宮殿)やエルザス=ロートリンゲン議事堂(現・国立劇場)、国立大学図書館、ストラスブール大学の新キャンパスであるパレ・ユニヴェルシテール、サン=ピエール=ル=ジューヌ・カトリック教会、サン=ポール改革派教会、サン=モーリス教会をはじめ、多数の施設や公園が建設された。この際、中世や近世のドイツ建築を復興しようという「エルザス・ルネサンス」の運動が活発化し、多くの建物がネオ・ルネサンス様式やゴシック・リバイバル様式をはじめとする歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興した様式)を採用した。こうした動きはリセ高等学校(現・リセ国際高等学校)やストラスブール市営浴場の例に見られるように戦争で被害を受けたグランディルでも進められた。グランディルではさらに北を囲む市壁が撤去され、フォー・ロンパール運河が拡張されて広々とした航路が確保された。グランディルの西端に位置するプティット・フランス地区は皮なめし工場が連なる貧困層の住宅地で、治安も衛生状態もよくなかった。しかし、この頃に周辺が工場地区として整備され、住宅地も改善された。一方で16~17世紀に建てられたハーフティンバーの家並みは一帯の象徴として重要視され、保護された。

第1次世界大戦(1914~18年)では直接戦場になることはなく、1919年のヴェルサイユ条約でアルザス=ロレーヌ地方はフランスに返還された。ドイツ人は町から追放され、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世像などの記念碑が倒された。戦後、人口は増加し、数多くの公営住宅が建設された。ドイツで反ユダヤ思想が高まって数多くのユダヤ人が駆け込んだことも拍車をかけた。

第2次世界大戦(1939~45年)がはじまると早々にフランス政府は人々に避難を呼び掛けた。フランスは対ドイツ要塞線であるマジノ線を構築し、ストラスブールの要塞線もここに組み込んだが、1940年にアルザス=ロレーヌ地方はナチス=ドイツに占領された。このときユダヤ人は排斥され、ケ・クレベール・シナゴーグなどが破壊された。また、人々はドイツ軍に徴兵され、東部戦線に送られた。1943年になると今度は連合軍による空爆を受け、大きな被害を受けた。ただ、その成果もあって1944年11月に解放された。

戦後、ストラスブールはフランスとドイツを行き来した経験からヨーロッパの歴史を象徴する都市とされ、1949年に欧州評議会、1959年に欧州人権裁判所が設立されるとその本部が設置された。また、1952年以降、欧州議会の本会議が開催されている(本会議以外はブリュッセル)。これ以外にも国際人権研究所や欧州石炭鉄鋼共同体など数多くの国際機関の本部が置かれ、ヨーロッパ屈指の国際都市に飛躍した。

○資産の内容

世界遺産の資産としては1件の地域として登録されており、グランディルとノイシュタットが含まれている。グランディルは南のイル川と北のフォー・ロンパール運河に挟まれた中州状の土地で、20の橋で周囲の土地と結ばれている。ノイシュタットはグランディルの北から東に伸びる一帯で、ヴォージュ通りやアルザス通り、フォレ=ノワール通りの南側とその周辺なっており、北のプラス・ダグノー公園の手前からストラスブール大学植物園やストラスブール天文台、サン=モーリス教会辺りまでとなっている。グランディルには129棟、ノイシュタットには41棟、バッファー・ゾーンには48棟の歴史的建造物があり、いずれも保護対象となっている。

グランディルのスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)を支配しているのは教会堂だ。ランドマークであるストラスブール大聖堂は正式名称をストラスブールのノートル=ダム大聖堂といい、高さ142.15mを誇る西ファサードのスパイアは当時世界最高を誇る建物だった。大聖堂の創建は不明ながら、ストラスブール司教区が4世紀に成立していたことからその頃と考えられている。6世紀に現在の場所に移転し、新しい木造大聖堂が建設された。石造の大聖堂はハプスブルク家の司教ヴェルナー1世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の支援で1015年に建設がはじまり、11世紀半ばまでにロマネスク様式の帝国最大の教会堂が完成した。1180年からの改築でパリ(世界遺産)周辺のイル=ド=フランスで開発されたゴシック様式がトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)など一部に採用された。1235~75年の工事では身廊もゴシック様式に置き換えられ、ステンドグラスやゴシック彫刻で装飾された。1275年からはウェストワーク(教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)となるナルテックス(拝廊)の建設がはじまり、直径13.6mの巨大なバラ窓やゴシック彫刻で覆われた3基のポータル(玄関)が設置された。14世紀には鐘楼の双塔が完成し、1439年に北塔の頂部にスパイアが取り付けられて高さは142.15mに達した。これを見た人々は世界七不思議に加えて「世界八番目の不思議(驚異)」と讃えたという。南塔を同じ高さにする計画は何度も立ち上がったが、結局非対称のまま建設は終了した。1527~50年、1561~1681年にかけて大聖堂はプロテスタントの教会堂となった。ルイ14世による征服後にローマ・カトリックに復帰して修復され、18世紀にはファサードなどにゴシック・リバイバル様式の装飾が取り付けられた。大聖堂は「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で全長112mを誇り、西ファサードにスパイア、十字のクロス部分に高さ58mのクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)を有している。外装・内装は芸術作品の宝庫で、西・南・北ファサードのポータルの彫刻群、各ファサードのバラ窓やランセット窓(細長い連続窓)、身廊上部のクリアストーリー(高窓)や下部の礼拝堂のステンドグラス群、南ファサードの天文時計、身廊の説教壇、アプスのネオ・ビザンツ様式の黄金のモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)、聖母マリアの生涯を描いた14枚のタペストリー、数多くの礼拝堂や主祭壇の装飾群と見所は数多い。

サン=トマ教会は6~7世紀創建と伝わるストラスブールでもっとも歴史ある教会のひとつで、神学校や司教の墓所として重要な役割を果たした。現在見られる城砦のような堅牢な建物は1196年に建設がはじまったもので、1521年にようやく完成を迎えた。宗教改革を経てプロテスタントのルター派(ルーテル教会)の教会堂となり、アルザス地方で宣教を進めたマルティン・ブツァーの拠点のひとつであったことなどから「アルザス・プロテスタントの大聖堂」と呼ばれて中心的な役割を果たした。ロマネスク建築のような重厚な造りのゴシック様式で、西ファサードの中央に四角形の鐘楼、トランセプトに六角形のクロッシング塔を有している。五廊式だが身廊と側廊の高さが変わらず、外見からは十字形には見えないが、中はラテン十字形に区画されている。13世紀までさかのぼるフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)やステンドグラスが伝えられている。

プロテスタント・サン=ピエール=ル=ジュヌ教会も6世紀創建と伝わる伝統ある教会で、ロマネスク様式の教会堂が1031年に起工され、教皇レオ9世によって1053年に奉献された。13~14世紀にはゴシック様式に改装されている。1681年にクワイヤ・スクリーン(内陣と外陣を分ける聖障。ルード・スクリーン/チャンセル・スクリーン)で身廊とクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)が分割され、身廊をプロテスタント、クワイヤや至聖所をローマ・カトリックが使用した。19世紀末にノイシュタットにサン=ピエール=ル=ジュヌ・カトリック教会が建設されると共有は解消され、こちらはルター派の教会堂となった。芸術的・建築的に非常に価値ある教会堂で、7世紀の礼拝堂の跡が残るクリプト(地下聖堂)や、11世紀のロマネスク様式の柱が残るクロイスター(中庭を取り囲む回廊)、14世紀までさかのぼるフレスコ画、ゴシック様式のクワイヤ・スクリーンなどは非常に名高い。

ブークリエ改革派教会はドイツのルターと並ぶ宗教改革の中心人物であるフランスのジャン・カルヴァンが1538年に設立した改革派の教会堂で、カルヴァンはこの地で宣教や執筆に励んだ。まもなく改革派の教区は閉鎖され、プロテスタントはルター派が主流を占めたが、1787年のルイ16世による宗教寛容令を経て改革派がストラスブールに戻りはじめ、1790年に現在のゴシック・リバイバル様式でハーフティンバーの教会堂が建設された。

これら以外の教会堂としては、8世紀創建と伝わるサンテティエンヌ修道院の教会堂で1220年に重厚なゴシック様式で再建され当時のトランセプトやアプスが残るサンテティエンヌ教会、13世紀創設のドミニコ会修道院の教会堂で1874~77年にロマネスク・リバイバル様式で再建されたタンプル=ヌフ教会、12世紀以前からの歴史を持ち14世紀にゴシック様式で再建されたサン=ピエール=ル=ヴュー教会、プティット・フランスの主要教会堂で1882年にロマネスク・リバイバル様式で建設されたメソジスト・ドゥ・シオン教会などがある。

グランディルの主な居住施設として、まずロアン宮殿が挙げられる。ロアン家のストラスブール司教アルマン・ガストン・マクシミリエンのためにフランスの王室建築家ロベール・ド・コットが1732~41年に建設したコートハウス(中庭を持つ建物)で、新古典主義様式の傑作として知られる。ルイ15世やナポレオン1世、ルイ・フィリップといった国王や皇帝が滞在した宮殿として知られ、王宮に匹敵するほどの華麗な装飾が施されている。現在は宮殿として公開されていることに加え、ストラスブール美術館や装飾美術館・考古学博物館が入っている。

ストラスブール軍事総督宮殿は1754~55年に建設されたガヨー家の宮殿で当時はオテル・ガヨーと呼ばれていたが、1770年にフランソワ=マリー・ガヨーが総督に任命されたことからこの名が付いた。ストラスブールで多くの建物を手掛けた建築家ジョセフ・マッソルが設計を担当し、新古典主義様式の重厚なデザインで仕上げられた。その後、ドイツ人貴族に売却されてからはオテル・デ・ドゥー=ポンと呼ばれた。町がフランスとドイツを行き来する中で国有資産として接収され、フランス軍やドイツ軍の官邸となり、現在も軍事省に所属している。アルザスの画家ジョセフ・メリングによるフレスコ画が名高い。なお、ジョセフ・マッソルが手掛けた新古典主義様式の建物には他にオテル・ド・ヴィルやオテル・ドゥ・クリングリン、サント=マリー=マジョール神学校、メゾン・ブルジョワーズなどがある。

大聖堂の西に立つメゾン・カメルツェルは商人の家で、「ストラスブールでもっとも美しい邸宅」として知られる。1427年に1階の石造部分がゴシック様式で建設され、1467年・1589年にルネサンス様式の影響を受けつつハーフティンバーの2~4階が増築された。外壁は木製のレリーフや彫刻で装飾されており、カエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)やカール大帝といった過去の偉人やキリスト教の物語、信条などが刻まれている。内装も豪華で、窓にはステンドグラスがはめ込まれ、アルザスの画家レオ・シュヌグのフレスコ画や螺旋階段など多くの見所がある。ルネサンス様式・ハーフティンバーの名建築には他に旧セーフ薬局(鹿薬局)がある。メゾン・カメルツェルの南、メルシエール通りの入口にたたずむ建物で、13世紀にフランス最古級の薬局としてオープンした。現在は薬局としては営業しておらず、テナントが入っている。また、1580年建設のオテル・クール・デュ・コルボーも同様のスタイルで、中庭の美しさはストラスブール随一と讃えられる。こちらはホテルとして営業しており、宿泊することができる。

グランディルの西に位置するプティット・フランスはもともと皮なめし場や製粉工場・漁港などからなる労働者のエリアで、所得水準から石造住宅は築けず、ハーフティンバーの住宅が立ち並んでいた。ハーフティンバーとは木の柱と梁でフレームを作りつつ、柱と柱の間に石やレンガを積み上げて壁を築く柱梁構造・壁構造の中間的な構造で、日本語では「半木骨造」、フランス語では「コロンバージュ」、ドイツ語では「ファッハヴェルクハウス」といわれる。アルザスやラインラントの伝統様式で、プティット・フランスには16~17世紀に建てられた住宅が数多く残されており、壁に浮かぶ柱や梁の縦横のラインや筋交いの「×」形のラインが特徴的な景観を生み出している。

グランディルの主な公共施設としては、まず市庁舎であるオテル・ド・ヴィルが挙げられる。もともとはアナウ家の邸宅でオテル・ド・アナウと呼ばれており、ジョセフ・マッソルの設計で1731~36年に建設された。フランス革命が勃発した1789年に接収され、まもなく市庁舎となった。アンピール様式(帝政様式。古代ローマやエジプトを模したナポレオン時代の新古典主義様式)のコートハウスで、内装等が当時のまま残されている。

アンシェンヌ・ドゥアンヌは旧税関という意味だが、1358年に製塩所の倉庫として建設され、1389年に拡張された。肉屋やホテルを経て交易品を扱う市場となり、輸出入のために税関が併設された。ワインやタバコ・魚などさまざまな市場として使用され、1803年に税関が移転して現在の名称となった。第2次世界大戦中、1944年8月11日の連合軍の爆撃で大きな被害を受け、1962~65年に再建された。ユニークな階段破風を持つゴシック様式の建物で、イル川とともに風情ある景観を演出している。こうした階段破風の石造建築もアルザスやラインラントの伝統建築で、シャトー広場のルーヴル・ノートル=ダム美術館では1347年までさかのぼる同スタイルの建物を見ることができる。

クレベール広場の北を占めるオーベットは建築家ジャック=フランソワ・ブロンデルの設計で1764~78年に建設された軍事施設だ。軍事施設ではあったが、グランディルの都市景観を改善するためにデザインされたものでもあり、大きなペディメント(頂部の三角破風部分)が特徴的な新古典主義様式の荘厳な建物となった。プロイセン=フランス戦争中の1870年に爆撃されてファサードを残して破壊されたが、ファサードを再利用する形で1873~77年に再建され、スレート(粘板岩あるいは建材としての石質の薄板)の屋根や音楽家のメダリオン(メダル状の装飾)などが取り付けられた。1920年代に3人の現代芸術家、オランダのテオ・ファン・ドゥースブルフ、スイスのゾフィー・トイバー=アルプ、地元出身のジャン・アルプによって内部が改装され、前衛的なスタイルが採り入れられた。現在は博物館や店舗が入っている。

フュステル=ドゥ=クーランジュ高校はもともとルイ14世がストラスブール征服後の1685年にイエズス会の王立神学校として創設した学校で、新古典主義様式の建物は1730~60年に建設された。1804年にナポレオン1世によって皇立高校となり、王立高校などを経て1919年に現在の名称の公立高校となった。西に広がるシャトー広場は新古典主義様式のこの高校とロアン宮殿、版画素描キャビネット、ゴシック様式の大聖堂、伝統建築のルーヴル・ノートル=ダム美術館に囲まれており、隣の大聖堂広場とともに印象的な空間となっている。

グーテンベルク広場にたたずむノイエ・バウはドイツ語で「新しい家」を意味し、広場を挟んで正面に立っていた市庁舎=プファルツが手狭になったことから建設されてこの名が付いた。プファルツは1781年に破壊されたが、16~18世紀にはプファルツとともに町の中心を形成していた。ストラスブールで活躍していたドイツ人建築家ハンス・ショッホが市内初のルネサンス建築として設計し、1583~85年頃に建てられた。フランス革命後はストラスブール商工会議所に買収された。

グランディルの主な軍事・インフラ施設としては、まず13~14世紀に建設された5基の塔が挙げられる。もともと市壁に隣接して80~90基ほどの塔が築かれたが、市壁は19世紀に撤去され、塔も5基を除いて取り壊された。オピタル広場のストラスブール市民病院門塔を除いて4基はプティット・フランス地区にあり、北からブロー塔、ハインリヒ塔、ハンス・フォン・アルトハイム塔、フランス塔がイル川やクヴェール橋(ポン・クヴェール)とともに風情ある景観を奏でている。これらの塔は橋を守るための防衛施設として、あるいは刑務所として使用されていたため破壊を免れた。

クヴェール橋はフランス語で「ポン・クヴェール "Ponts Couverts"」で「屋根付きの橋々」を意味し、1230~50年に中州で4つに分割されたイル川の上に4基の木橋が架けられ、いずれも屋根付きだったことからこの名が付いた。1784年に屋根が撤去され、1863~65年にかけて現在見られる3基の石橋に建て替えられた。

クヴェール橋の西に架かるヴォーバン・ダムはヴォーバン様式あるいは星形として知られる要塞システムを考案したセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンの設計でエンジニアのジャック・タラードが1686~1700年に建設した水門橋だ。グランディルの西端に位置し、ここの水門を閉じることでイル川の南の土地を水没させることができ、実際にプロイセン=フランス戦争で使用された。全長120mで13のアーチが連なる石造アーチ橋で、2階建ての建物を登載しており、3基の跳ね橋を内蔵している。

ノイシュタットの中心は「共和国広場」を意味するレピュブリック広場で、ドイツ帝国時代は「皇帝の広場」を示すカイザープラッツと呼ばれていた。円形の広場で、現在はレピュブリック広場庭園が広がっている。広場の周囲にはプロイセン=フランス戦争後にドイツ帝国が築いた国家レベルの重要な建物が立ち並んでいる。

レピュブリック広場の西に立つライン宮殿はもともとカイザーパラストと呼ばれたホーエンツォレルン家の皇宮で、建築家ヘルマン・エッガートの設計で1883~88年に建設された。イタリア・フィレンツェのピッティ宮殿(世界遺産)を模しており、「日」形のネオ・ルネサンス様式のコートハウスで、東ファサードには特徴的なドームと大きなペディメント、荘厳なロッジア(柱廊装飾)を掲げる堂々たるポルティコ(列柱廊玄関)を持ち、数々のレリーフや彫刻で装飾されている。第1次世界大戦後にフランス領になるとライン川の航行を管理する中央委員会が置かれたことからライン宮殿と命名された。

レピュブリック広場の南東に立つ国立劇場はエルザス=ロートリンゲン議事堂だった建物で、建築家アウグスト・ハーテルとスキョル・ネッケルマンの設計で1888~92年にネオ・ルネサンス様式で建設された。1919年まで地方立法議会が置かれており、フランス返還後は音楽院などを経て、1950年代に改装されて国立劇場となった。このふたりは国立劇場の北に対をなすように立っている国立大学図書館の設計者でもあり、やはりネオ・ルネサンス様式で1889~94年に建設された。周辺にはこれ以外にもパレ・ド・ジュスティス(司法宮/裁判所)やパレ・デ・フェッツ(音楽堂)をはじめ庁舎となっていた歴史主義様式の建物が散在している。

パレ・ユニヴェルシテールは「大学宮殿」を意味するストラスブール大学のキャンパスで、建築家オットー・ヴァーツの設計で1879~84年に建設された。ルネサンスの巨匠ミケーレ・サンミケーリが設計したヴェローナのポンペイ宮殿(世界遺産)を参考にしたネオ・ルネサンス様式で、建物の頂部にはルネサンス以降の36人の学者の彫像が掲げられている。特徴的なのが「アウラ」と呼ばれるアトリウム(前庭)で、ガラス屋根に覆われた中庭の周囲をロッジアが取り囲んでいる。建物の東にはパレ・ユニヴェルシテール庭園や大学植物園が広がっており、動物学博物館や各学部棟が立ち並んでいる。東端近くに立っているのは1881年に建設されたストラスブール天文台だ。中央に巨大なドームを掲げたギリシア十字形の建物で、こちらもネオ・ルネサンス様式で設計されている。なお、資産に含まれているのはヴィクトワール通りの北で、通りの南の大学関連施設は含まれていない。

サン=ピエール=ル=ジュヌ・カトリック教会も建築家アウグスト・ハーテルとスキョル・ネッケルマンによる作品で1889~93年に建設された。もともとローマ・カトリックとプロテスタントの信者はグランディルにあるサン=ピエール=ル=ジュヌ教会を共有していたが、ドイツ帝国時代にローマ・カトリックのこの教会堂が建設された。ベースはロマネスク・リバイバル様式ながら、巨大な中央ドームの周囲に半円ドームを多用したビザンツ様式や、バラ窓やランセット窓にはゴシック様式、ロッジアやロンバルディア帯(軒下等に見られる鋸歯状のアーチ装飾)といったイタリア北部の装飾など、さまざまなスタイルの折衷様式となっている。ドームは高さ50m・内径18.5mでアルザス最大とされ、銅板葺きの屋根が赤砂岩の壁面とよく調和している。

サン=ポール改革派教会はプロテスタントの改革派の教会堂としてルイ・ミュラーの設計で1892~97年に建設された。ドイツの伝統的なゴシック様式を復興したゴシック・リバイバル様式で、高さ76mに及ぶ西ファサードの双塔のスパイア、巨大なバラ窓、美しいステンドグラスと華やかなゴシックの空間が広がっている。この高さはノイシュタットのスカイラインを演出するためのもので、資産の東端に位置するサン=モーリス教会も同様のコンセプトで設計されており、やはりゴシック・リバイバル様式の高さ65mのスパイアがそびえている。こちらの設計者はルートヴィヒ・ベッカーで、1895~99年に建設された。ただ、西ファサードは双塔ではなく、大聖堂とは逆に南塔のみのデザインとなっている。

■構成資産

○ストラスブールのグランディルとノイシュタット

■顕著な普遍的価値

1988年にグランディルのみが登載された際には登録基準(i)(ii)(iv)が認められていた。しかし、2017年の重大な変更でノイシュタットまで資産が拡大された際、登録基準については(i)が認められず(ii)(iv)のみの承認となった。ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はこの件について、登録基準(i)の「人類の創造的傑作」といえるのはストラスブール大聖堂のみであり、グランディルとノイシュタットの全域に適用可能な証明はなされていないとした。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

フランスとドイツの影響がグランディルとノイシュタットを形作ってきた。その結果としてふたつの文化から独創的な表現が誕生し、特に建築と都市の分野で発揮されている。大聖堂は東方のロマネスク芸術とフランス王国のゴシック芸術の影響を受け、特にスパイアの建設についてはプラハにもインスパイアされており、東方におけるゴシック芸術の方向性を決める規範となった。また、ノイシュタットはオスマニアン様式の影響を受けて形成された近代都市で、都市化のモデルとなり、カミロ・ジッテの理論を具現化したものでもある。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ストラスブールのグランディルとノイシュタットはヨーロッパ・ラインラント都市の特徴的な例である。15世紀から17世紀後半にかけて築かれたルネサンス様式の私邸群は古くからの都市構造を尊重しつつ中世の街並みに導入され、ゴシック様式の卓越した大聖堂に代表されるラインラント土着の建築に特徴的な効果を与えた。18世紀には王室建築家ロベール・ド・コットによって建設されたロアン宮殿に代表されるようにフランスでは新古典主義様式が主流となった。1871年以降、野心的な都市計画が実施された結果、町は大きく様変わりし、19世紀から20世紀にかけての技術的進歩と衛生的政策を象徴するような近代的で機能的な都市が出現した。都市の私的および公的な建築物は政治的・社会的・文化的な変化を示しており、それはまたこの都市が地域の主要都市となる前に、神聖ローマ帝国の自由都市からフランス王国の自由都市へ変容した様子を刻んでいる。

■完全性

ストラスブール大聖堂のシルエットが支配的なストラスブールの特色ある景観は現在まで維持されている。大聖堂は手付かずの中世の小区画と一体化してよく保存されており、建設当時と同様に都市景観の中心でありつづけている。幾世紀にもわたってグランディルの建築構造は初期の土地区画を尊重しながらフランスとドイツの影響を統合した公共および民間の建築物を導入し、15世紀から今日に至る建築の進化の証となっている。

1870年の包囲戦と1944年の爆撃により一時的な再建が行われたが、都市の構造と既存の範囲を尊重しながら実施された。ただ、20世紀前半に整備された新駅とオステルリッツ港を結ぶグラン・ペルセだけは都市構造の意図的な再構成を伴うものであった。歴史地区の近代化と衛生管理は遺産の都市的特質を尊重し、継続性の精神で実施された。ノイシュタットは歴史地区との機能的な相補性と景観の連続性を重視して設計された。資産は全体として顕著な普遍的価値に貢献する種々の時代的段階のすべての特徴を維持している。

■真正性

グランディルとノイシュタットの都市アンサンブルはオリジナルに近い状態で物理的によく保存されており、都市景観はその特徴の大部分を保っている。シャトー広場のファサードは本来の外観を保持しており、レピュブリック広場と帝国時代の軸線はその記念碑的特徴を引き継いでいる。ノイシュタットの主要公共建築はもともとの規模や物理的な品質・素材を維持している。

現代建築の大部分は古くからの都市構造を尊重しながら導入されている。ヴォーバン・ダムの近くでは県議会ビルや近現代美術館といった20世紀の建築物が見られるが、都市景観にはほとんど影響を与えていない。資産内における近年の都市開発プロジェクトによりむしろ保存状態と価値は向上しており、新たな利用価値への対応が図られている。特に施設や店舗・住宅に関しては資産内の建物の用途についてもよく保持されている。ノイシュタットでは主要施設(国立大学図書館、パレ・ド・ジュスティス、パレ・デ・フェッツ)の再建・修復工事が建物の遺産価値を尊重しつつ現在の建築基準に適合するよう実施された。19世紀以来の驚くべき継続性をもって確立された都市計画書が資産内の建物の保全を促し、都市景観の卓越した継続性を可能にしている。

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