ドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州に位置するマウルブロン修道院は1147年創立のシトー会の修道院で、12~16世紀に築かれたロマネスク様式やゴシック様式、ハーフティンバーの特徴的な建物や、水路・貯水池といった水利施設がきわめてすぐれた状態で伝えられている。作家ヘルマン・ヘッセが通っていた神学校があり、『車輪の下』や『知と愛』に登場する修道院のモデルとしても知られる。なお、世界遺産登録時にはバッファー・ゾーンや水利施設の資産範囲が明確に定義されていなかったが、2019年の軽微な変更で明確化された。
中世、教皇と皇帝、司教と諸侯らは聖職者の任命権(聖職叙任権)や課税を巡って争っていた。こうした腐敗に反発し、イエスの生涯を範とし、地方で自給自足の生活を行って人生を祈りに捧げる修道士たちの活動が活発化した。6世紀にベネディクトゥスが創設したローマ・カトリック最古の修道会がベネディクト会で、「清貧・貞潔・服従」や「祈り、働け」といったモットーの下で共同生活を行った。シトー会は11世紀にベネディクト会から派生したクリュニー会からさらに派生した修道会で、領地や財産を持ち政治的・経済的権力を手にするようになったベネディクト会に対し、ベネディクトゥスの理念に戻ることを目標とした。シトー会は労働を重視することで知られ、拠点となったフランス・ブルゴーニュ地方を中心に森林を切り拓いて農地を開墾した。
12世紀はじめ、シトー会修道院はフランス・アルザス地方にヌーブール修道院を設立し、さらにドイツに修道院を建設するためにイエスと十二使徒になぞらえて修道院長ディーターと12人の修道士を送り出した。最初に定めた土地は水不足で断念し、1146年頃にシュパイアー大聖堂(世界遺産)の司教ギュンター・フォン・ヘンネベルクからザルツァハ渓谷の土地を与えられて翌年移転した。
1147年に現在の場所に修道院の建設がはじまり、同時に森を開拓して農地を開墾し、ザルツァハ川から水路を引いて水を確保した。1156年に修道院は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサによって帝国の管理下に置かれ、ホーエンシュタウフェン家の庇護を受けた。1178年に修道院教会が完成し、シュパイアー司教アーノルドによって奉献された。これ以降、診療所(12世紀後半)、食堂・講堂・地下室(1201年)、修道院教会ポーチ(1210年)、南クロイスター(1215年。クロイスターは中庭を取り囲む回廊)、ホール(1220~25年)、食堂(1225年)、城壁・鍛冶場・宿泊所・製粉所・倉庫・聖三位一体礼拝堂(13世紀)、西クロイスター(1300年)、北クロイスター・噴水(1350年)、東クロイスター(1350年)が整備され、修道院コンプレックスが形成された。1372年に神聖ローマ皇帝カール4世によってプファルツ選帝侯領に組み込まれ、権力抗争に巻き込まれたことから城壁を張り巡らせて要塞化が進められた。
マウルブロン修道院は15世紀に最盛期を迎え、その経済的繁栄によりシトー会の総本山であるサン=ニコラ=レ=シトーのシトー修道院(ノートル=ダム修道院)を支え、修道会の中心的な役割を担った。この時代、所属する修道士の数はつねに100人を超え、一時は135人に達したという。
16世紀に宗教改革がはじまって旧教=ローマ・カトリックと新教=プロテスタントの争いが激化すると、マウルブロン修道院は混乱の時代を迎えた。1504年にプロテスタントのヴュルテンベルク公ウルリッヒに侵略されるとヴュルテンベルク公国の支配を受け、1524~25年のドイツ農民戦争では農民の反乱軍によって略奪を受けた。ウルリッヒは1534年にすべての修道院の解散を命じたため、修道士たちはフランスのペイリス修道院に退避した。プロテスタント諸侯が同盟を組んだシュマルカルデン同盟とローマ・カトリックの神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)が争ったシュマルカルデン戦争(1546~47年)では、カール5世がスペイン軍を投入して同盟軍の鎮圧に成功した。カール5世は1547年に返還命令を出してマウルブロン修道院をシトー会に戻し、修道士たちは修道院に帰院することができたが、ほんの一時期にすぎなかった。
カール5世の弟である神聖ローマ皇帝フェルディナント1世は宗教対立の解消を図り、1555年のアウクスブルクの和議で領主に対してプロテスタントのルター派の信仰を認めた(ただし、領内では領主の決定した教派を奉じる義務が課せられた=一領邦一教派の原則/領邦教会制度)。ヴュルテンベルク公クリストフはルター派を選択し、1556年にマウルブロン修道院を含む公国内の修道院を解散させてプロテスタントの神学校に改装した。16・17世紀に皇帝の返還命令でシトー会に戻されることもあったが、基本的に以降はプロテスタントの施設となり、神学校が運営された。
ヴュルテンベルク公国はナポレオン戦争(1803~15年)でナポレオン率いるフランス帝国側に立ち、1806年に王国に昇格した。ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世によって修道院は世俗化され、王国の施設となった。王国の保護を受けて神学校は継続され、ほとんど損傷なく伝えられた。
世界遺産の構成資産は20件あるが、中心はマウルブロン修道院で、他は水路や貯水池といった水利施設となっている。
マウルブロン修道院は3基の塔を持つ全長850mの石垣によって仕切られた要塞修道院で、12~16世紀に築かれたさまざまな施設を内包している。おおよそ長方形で東に修道院教会や洗礼堂・神学校・修道院事務棟といった宗教施設が集中しており、西半分に僧院をはじめ世俗的な施設が集められている。
これらの施設はもともと多くがロマネスク様式で、シンプルで装飾の少ないシトー会らしいデザインで建設された。13~14世紀にフランス北部のゴシック様式がもたらされ、クロイスターや僧院・食堂などがゴシック様式で改装された。修道院教会はロマネスク様式のラテン十字形で天井は木造だったが、1424年にゴシック様式の石造天井に改築された。以降、フライング・バットレス(身廊の壁を支えるための飛び梁)やランセット窓(細長い連続窓)、尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)、フレッシュ(屋根に設置されたゴシック様式の大尖塔。スパイアの一種)といったゴシック様式の意匠が加えられた。これ以外にも事務棟や洗礼堂・クロイスターをはじめ随所にゴシック様式の意匠が見られるが、特に初期ゴシック様式はドイツの教会建築に多大な影響を与えた。
かつての狩猟小屋や公爵厩舎はルネサンス様式、薬局や宿泊所はバロック様式で、ヴュルテンベルク公国時代の建物だ。壁に木材を埋め込んだようなデザインの建物はドイツ語でファッハヴェルクハウス、英語でハーフティンバー、日本語で半木骨造と呼ばれる構造で、柱や梁を組み合わせてフレームを作る木造の柱梁構造でありながら、石材を組み上げて壁を築く壁構造を併用しており、木造・石造、柱梁構造・壁構造の折衷となっている。こうしたハーフティンバーの建物の多くは16〜18世紀に築かれている。
マウルブロン修道院の大きな特徴のひとつは水利施設にある。ザルツァハ川から水路を張り巡らせて生活用水や農業用水を確保するだけでなく、支流を修道院の地下に通して下水道とした。また、川や水路に堰を設けて貯水池を造り、渇水対策とするだけでなく養魚場として使用した。シトー会では四つ足の動物を食べることが禁じられていたため養殖されたウナギやコイ、パイク(カワカマス)が主なおかずとなり、輸出品として重要な収入源にもなった。世界遺産の構成資産20件のうち17件が貯水池で、2件が水路網となっている。ただ、池の多くは18~19世紀に排水されて干上がっており、現在も水をたたえているのはアルキシュテン池、ティーファー池、ホーエナカー池、ロスヴァイアー池、小ロイト池となっている。修道院の北東に隣接したティーファー池は12世紀に建設された一帯最古級の貯水池で、かつては修道院の周囲の堀と結ばれていた。アルキシュテン池は「ウナギの罠」を意味する貯水池で、ウナギとコイの養殖を行っていた。ここで育てられた魚はシュパイアーなどで人気の食材になっていた。
マウルブロン修道院におけるロマネスクからゴシックに移行する時代の教会堂の建設は北ヨーロッパと中央ヨーロッパにおけるゴシック建築の普及に大きな役割を果たした。
マウルブロンの修道院コンプレックスでは水路と貯水池を中心に広範な水管理システムが残されており、シトー会の中でもっとも完全な形で伝えられている修道院施設である。
構成資産には顕著な普遍的価値を示すすべての重要な要素が含まれており、修道院のみならず水利施設についても法的な保護を受けている。マウルブロンの修道院としての価値はフランスやイギリスのシトー会の中心的な修道院に及ばない部分もあるが、施設全体の完全性という意味では群を抜いており、非常に高いレベルで維持されている。
修道院の外観はその長く複雑な歴史を反映してさまざまな時代のスタイルが融合されており、その変遷を確認することができる。プロテスタントの神学校への改装と19世紀の世俗化は特定の建物に根本的な変化をもたらしたが、一部に留まっている。19~20世紀の修復作業は申し分のないものであり、その結果、コンプレックス全体の真正性がより高められた。