マティルデの丘(マティルデンヘーエ/マチルダの丘)はドイツ中西部ヘッセン州の都市ダルムシュタットの歴史地区の東、オーデンヴァルト山地に位置する標高約180mの丘で、ダルムシュタットでは最高所となっている。19世紀に一帯を治めるヘッセン=ダルムシュタット方伯やヘッセン大公が切り拓いて宮殿や庭園を建設し、1900年前後にヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒが数多くの芸術家や建築家を召集して芸術・建築・工芸の改革運動の中心となる芸術家村(クンストラーコロニー "Künstlerkolonie")を構築した。1901年、1904年、1908年、1914年に国際的な展示会を開催し、初期モダニズムの建築や彫刻、都市設計、ランドスケープ・アート(造園芸術/景観芸術)の先駆的な作品群が誕生した。
マティルデの丘の歴史は1800年にヘッセン=ダルムシュタット方伯のクリスティアン・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットがイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)を造園したことにはじまる。1806年にヘッセン=ダルムシュタット方伯領はヘッセン大公国に昇格するが、クリスティアンは初代ヘッセン大公ルートヴィヒ1世の弟に当たる。庭園からはダルムシュタットの街並みからライン渓谷、オーデンヴァルトの森を経て、遠くタウヌスやドナースベルクの山地まで美しい景色を眺めることができた。1833年に大公ルートヴィヒ3世がバイエルンの王女マティルデ・カロリーネと結婚すると、マティルデが町の上に公園を整備したことから「マティルデの丘」と呼ばれるようになった。1877~80年には土木技師オットー・ルエーガーによって貯水池と水路が築かれ、ダルムシュタットの家々に上水を供給した。
1892年に大公位に就いたエルンスト・ルートヴィヒは祖母がイギリスのヴィクトリア女王だったこともあってイギリスを訪れてその発展に衝撃を受け、自国で産業や芸術の振興に奔走した。イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動(生活工芸品や民芸品の中にも芸術を組み込もうという美術工芸運動)の建築家マッケイ・ヒュー・ベイリー・スコットやチャールズ・ロバート・アシュビーに宮殿を改修させ、ドイツの建築家カール・ホフマンに丘の斜面を利用して都市設計を依頼し、住宅やテラスハウス(境界壁を共有する長屋のような連続住宅)を建設させるなど、マティルデの丘とダルムシュタットの開発を進めた。1894年には妹のアリックス(アレクサンドラ・フョードロヴナ)がロシア皇帝ニコライ2世と結婚したのを記念して丘の上にロシア礼拝堂を建設した。
エルンスト・ルートヴィヒは1899年に芸術家村を設立し、村で活動を行う7人の創業メンバーを召集した。指揮を執ったのはウィーン美術アカデミーで巨匠オットー・ワーグナーに学んだオーストリアの建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒで、建築家で画家でもあるペーター・ベーレンス、画家でありグラフィック・アーティストでもあるポール・ビュルク、画家ハンス・クリスティアンゼン、彫刻家ルドルフ・ボッセルト、彫刻家ルートヴィヒ・ハビッヒ、内装や家具デザイナーのパトリツ・フーバーが名を連ねた。オルブリッヒは丘の南斜面の東部を使って村の設計を行い、芸術家のスタジオと職人のワークショップが一体化した芸術フィールドを生み出した。総合芸術の理念や芸術家と職人の再定義などはバウハウス(世界遺産)の思想に近いが、20年以上も先行するものだった。
1901年に芸術家村の開村式が行われると、同年中に村の成果を示すイベントとして「ドイツ芸術の証言」と題された世界初のモダニズム建築の国際展示会が開催された。展示会では芸術・建築・工芸が一体となった近代的生活がテーマとなり(ダルムシュタット原則)、オルブリッヒやベーレンスが設計し、それぞれの芸術家や建築家が装飾や家具等を担当した住宅群が公開された。これらの住宅は仕事場であるスタジオを兼ねたスタジオハウスで、居住性のみならず、北向きの大きな窓から柔らかく均質な光を取り込むなど機能性も重視したものとなり、アッパー・ミドル層をターゲットとしたモデルハウスでもあった。家々にはハウス・ベーレンス、ハウス・オルブリッヒなどと住人の名が冠された。また、オルブリッヒが設計した町の貴人の私邸も大きな見所で、エルンスト・ルートヴィヒ・ハウスやハウス・ケラー、ハウス・ダイターズなどが建設された。これら以外にもエントランス・ビルやフラワー・ハウス、レストラン、劇場をはじめさまざまな建物が建設されたが、多くは仮設で展示会終了後に撤去された。
展示会はそのセンセーショナルで革新的な内容から予想以上の好評を博し、芸術家村は国際的な名声を獲得した。ただ、販売実績には直結せず、財政的には赤字で終わった。また、この頃から意見の相違が拡大し、1903年までに7人の創設メンバーのうちオルブリッヒとハビッヒを除く5人が村を去った。その代わりとしてエルンスト・ルートヴィヒは彫刻家でグラフィック・アーティストであるダニエル・グライナーや、金細工師でデザイナーであるポール・ハウシュタイン、画家で各種デザイナーを兼ねるヨハン・ヴィンセンツ・シザルツらを召集し、芸術家村の第2回国際展示会を開催した。
1904年に開催されたこの展示会のテーマもやはり近代的な生活で、多世帯住宅をはじめユニークな試みが発表された。一例がオルブリッヒが設計したドライハウザーグルッペ(三軒家グループ)で、テラスハウスのように一部の壁を共有して3棟を接続することで経費とスペースを大幅に抑えることに成功した。また、オルブリッヒはエルンスト・ルートヴィヒ・ハウスの北東に彫刻家スタジオを増設し、芸術家村の彫刻家たちに快適なスタジオを提供した。これら以外にも野外ホールや5棟のパビリオンなどが建てられたが、前回の財政的失敗を受けて総じて小規模で、多くが仮設で終了後に撤去された。おかげで展示会は黒字に終わったが、やはり次回の展示会までの間にメンバーの多くが入れ替わり、代わって建築家アルビン・ミュラーや陶芸家ヤコプ・ユリウス・シャルフォーゲルらが加わった。
1908年には「純粋美術と応用美術に関するヘッセン大公国展示会」と銘打った展示会が開催された。この展示会は前回までのものと異なり、大公国の出資を得て国内各地の芸術家や建築家・メーカーが参加して行われた。近代生活に焦点を当てている点は変わらないが、費用の上限を定めてより小さな住宅やスタジオを中心とし、内装や家具を重視して行われた。一例がオーバーヘッシシェス・ハウスで、オーバーヘッセン地方の建築スタイルを踏襲し、地元の素材を使った美術品や工芸品が展示された。また、エルンスト・ルートヴィヒは長らくマティルデの丘を象徴する塔を待望していたが、ダルムシュタット市はエレオノーレとの再婚を記念して結婚式の塔を贈呈した。さらに、塔と隣接して築かれた展示館は純粋美術と応用美術の作品を展示する美術館となるもので、結婚式の塔とともに町のランドマークとなり、一帯は「ダルムシュタットのアクロポリス」と讃えられた。この展示会も好評を博し、黒字で終わることができたが、同年中にオルブリッヒが40歳の若さで病没した。
芸術家村の第3回国際展示会は1914年5月16日に開催された。オルブリッヒに代わって指揮を執ったのはアルビン・ミュラーで、これまでのダルムシュタット原則を引き継ぎつつ、住宅については多くの集合住宅が展示されたほか、庭園や景観の強化が図られた。たとえばミュラーは工業化が進む都市向けに3階建て8棟のテラスハウスを設計し、パーツを工場で製作して現地で組み立てるプレハブ工法の先駆けとなる工法を採用した。また、丘の景観設計を見直し、マヨルカ焼きのタイルを敷き詰めてリリエンベッケン (ユリの水盤)と呼ばれる水場を演出し、セラミック・タイルで描いたハクチョウのレリーフで知られるシュヴァーネンテンペル(白鳥寺院)を制作するなど、景観の向上を図った。いずれも機能性やデザイン性のみならず、工法や素材といった点でも新たな可能性を提示するものとなった。他の作家では、1909年から芸術家村に入村している彫刻家ベルンハルト・ヘトガーがプラタナス林を40点以上の彫刻やレリーフで演出し、新たな名所として開拓した。展示会は10月まで開催予定だったが、第1次世界大戦の影響で8月2日に終了となった。
戦争がはじまると、エルンスト・ルートヴィヒが戦争に注力し、村民が兵役に参加したこともあって芸術家村の活動はほぼ停止した。それでも一帯では「1920年ダルムシュタットのドイツ表現主義展」をはじめ重要な展示会が開催されが、芸術家村で以前のような国際展示会が開催されることはなかった。ただ、世界的には同様の建築展示会が各地で開催されるようになり、その影響力の大きさを見せつけた。第1次世界大戦では大きな被害を受けなかったが、第2次世界大戦では1944年にマディルデの丘が爆撃された。これにより多くの建物が損傷して修復・改修を余儀なくされ、被害規模が大きかったハウス・クリスティアンゼンやハウス・ワーグナー=ゲヴィンが撤去された。
世界遺産の構成資産は2件で、「1901年、1908年、1914年の展示場」は22の建造物群を含んでおり、「1904年の展示場」は1つの建築グループ(ドライハウザーグルッペ)で成立している。以下では23の建造物群を紹介する。
ロシア礼拝堂はマグダラのマリアに捧げられたロシア正教会の礼拝堂で、ロシア・サンクトペテルブルク(世界遺産)の建築家レオン・ベノワ(レオンティ・ニコラエビッチ・ベノイス)の設計で1897~99年に建設された。ロシア建築らしく3基の金色のオニオン・ドームを頂いた内接十字式(クロス・イン・スクエア式。四角形の内部にギリシア十字形を埋め込んだ様式)・歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興した様式)の建物だが、ロシアの画家ヴィクトル・ヴァスネツォフによるファイアンス焼きによる装飾など、モダニズムの要素を備えている。ポータル(玄関)に掲げられた巨大な人物像はマグダラのマリアのモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)で、アプス内部の聖母子像のモザイク画やイコノスタシス(聖障)の装飾群、壁面を埋めるユーゲントシュティール(ドイツ版アール・ヌーヴォー)の文様とともに古今東西の芸術文化が融合した美的空間を演出している。
エルンスト・ルートヴィヒ・ハウスは南斜面の丘の上部中央に位置する1901年の展示会の中心的な建物で、オルブリッヒの設計で1901年に建設された。直線と曲線、白色で構成されたモダニズムらしいデザインで、そのシンプルさがポータルや軒のユーゲントシュティールの装飾を引き立てている。南と北にポータルを持つが、南はオメガ・ポータルと呼ばれ、彫刻家ルートヴィヒ・ハビッヒによる強さと美しさを象徴した男女の彫像で飾られている。ドアの上には彫刻家ルドルフ・ボッセルトによるゲッケイジュ(月桂樹)の花輪を持つ女性像が掲げられており、勝利を表現している。内部には各芸術家・建築家のためのスタジオが設けられ、メイン・ホールや劇場・ジムなどの施設を備えていた。
ハウス・オルブリッヒはその名の通りオルブリッヒが自ら設計したスタジオハウスで、1900~01年に建設された。ほぼ正方形の平面を持つ3階建てで、シンプルな白い壁面にマヨルカ焼きの青タイルの層と赤い宝形造(円形や正多角形の屋根構造)の屋根がよく映えている。内部は自然光を巧みに利用したスタジオをはじめ随所に工夫が見られ、大理石製の人物レリーフで飾られた噴水や、太陽を冠し手をつないだ人々をデフォルメした鉄扉、花で彩られた庭園など、庭やポータルにもこだわりが見られる。ただ、第2次世界大戦でひどく損傷して改築されており、オリジナルの部分はファサード(正面)や庭園などの一部に限られている。
ハウス・ハビッヒはオルブリッヒの設計で1901年に完成した彫刻家ハビッヒのためのスタジオハウスだ。白漆喰で覆われた3階建てのシンプルな住宅で、直線と四角形を組み合わせたモダニズムらしいデザインとなっている。白い外装はマグリブ(リビア以西の北アフリカ)の住宅建築に影響を受けており、もともとマグリブの建物のように傾斜のない陸屋根だったが、第2次世界大戦で損傷して寄棟屋根で修復された。レンガと切石の壁や白い鉄柵も特徴的で、緑豊かな庭とよく調和している。鉄の燭台など、所々にハビッヒの作品が飾られている。
クライネス・グリュッケルトハウスはもともと彫刻家のボッセルトのためのスタジオハウスだったが、ダルムシュタットの家具メーカーのオーナーであるユリウス・グリュッケルトが引き継いで私邸とした。オルブリッヒの設計で1901年に建設された住宅で、ハウス・ハビッヒにも似た幾何学構造と白漆喰が美しく、各所にボッセルトによる人物や草花文様の彫刻やレリーフが配されている。屋根は側面にアーチを持つユニークなマンサード屋根(途中で角度が変わる寄棟屋根)で、南に屋上テラスを持つ。白の屋根枠や窓枠は庭の周囲を囲う白の鉄柵とよく調和している。内装や家具を担当したのはパトリツ・フーバーで、内部はほとんどオリジナルのまま維持されている。
グローセス・グリュッケルトハウスは実際の住宅としてではなくショールームの展示場として建てられたもので、オルブリッヒの設計で1901年に建設された。グリュッケルトは目的別に部屋を装飾し、家具コレクションを発表したが、こうしたコレクションにもフーバーをはじめ芸術家村のデザイナーが関与していた。基本的には幾何学構造と白漆喰の建物だが、4面のファサードはすべて異なる非対称のデザインで、屋根には曲線で構成された釣鐘破風が見られ、ポータルは「オメガ・アーチ」と呼ばれる馬蹄形アーチで構成されており、全体としてきわめてユニークな外観を呈している。内部は幾何学図形や草花文様で上品に飾られており、オメガ・アーチも取り入れられている。インテリアについてはグリュッケルトによって1908年の展示会で変更されている。
ハウス・ベーレンスも1901年に完成したスタジオハウスだが、設計したのはペーター・ベーレンスで、彼の最初の建築作品として非常に価値の高いものとなっている。ベースは白いモダニズムの住宅ながら、ユニークなのは釣鐘形の破風や角柱のピラスター(付柱。壁と一体化した柱)で、クリンカー・レンガ(部分的にガラス化したレンガ)の赤褐色や緑のラインが特有の外観を生み出している。ポータルは赤褐色と緑のラインを組み合わせた重厚な造りで、ワシの翼を描いたフロント・ドアを引き立てている。内装や家具もベーレンスがこだわったもので、暗い色彩で統一した音楽室と、白と赤で統一した明るいダイニングが対照をなしている。第2次世界大戦で被害を受けたが、外壁や家具はほとんど維持されている。
ハウス・ケラーはオルブリッヒがカール・ケラーの私邸として1901年に築いた建物で、「ボーリュー」とも呼ばれている。屋根裏部屋のある2階建てで、白漆喰の外壁と赤褐色の屋根のシンプルなデザインで半円形の出窓がアクセントとなっている。白の鉄柵や葉をモチーフとした鉄扉もスタイリッシュで、庭とよく調和している。第2次世界大戦で損傷した後、本来と少々異なる形で修復・改築されており、オリジナルからは遠くなってしまった。
ハウス・ダイターズは芸術家村の事務局長ヴィルヘルム・ダイターズの私邸で、オルブリッヒの設計で1901年に築かれた。特徴的なのは頂部の赤褐色・六角形の大きなタレット(壁から上に伸びる塔)と、グレーで円錐形の小さなふたつのタレットで、楕円や曲線で構成されたポータルや、4面で異なるファサードのデザインとともに独創的な外観を形成している。1901年に建てられた住宅の中ではもっとも小さいが、こうしたデザインは構造に影響を与えておらず、内部は最大限の空間を確保している。戦争の影響をほとんど受けておらず、戦後の改築も後に撤去されている。
彫刻家スタジオはオルブリッヒが1904年の展示会のために設計した彫刻家のための作業場で、エルンスト・ルートヴィヒ・ハウスの北東に設置された。平面は正方形で北西の角にオクタゴン(八角形の建造物)がそびえており、東に作業場としても使える開放的な中庭を備えている。オクタゴンのポータル上部には1907~43年までここで働いていたハインリヒ・ヨープストによるレリーフ『ダフネとアポロ』が掲げられている。彫刻家の作業場としての機能性に特化して構造も装飾も最小限に抑えられており、剥き出しのレンガと鉄でシンプルにデザインされている。
ドライハウザーグルッペは英語で「スリー・ハウス・グループ」といわれる3棟の連続住宅で、オルブリッヒの設計で1904年に建設された。経費とスペースを抑えるために一部の壁を共有していることからテラスハウスの要素を持つが、壁以外のデザインはそれぞれ異なり、独立した住宅として自由にデザインされている。3棟はL字形に並んでいるが、北西の住宅は青タイルで覆われていることから「青の家」、東の住宅は灰色の漆喰で塗られていることから「灰色の家」、ふたつの間に位置する住宅はLの角に位置することから「角の家」と呼ばれている。外観は異なるものの間取りはほぼ同じで、屋根裏部屋のある2階建てとなっている。第2次世界大戦の被害を受けて、青の家と角の家の上層階と屋根は戦後に修復されている。なお、本遺産はこの1件で構成資産「1904年の展示場」を構成している。
ゴットフリート・シュワブ記念碑はドイツの詩人ゴットフリート・シュワブに捧げられた記念碑で、1905年に完成した。中央の両手を挙げた若者の像は古代の祈りを描いており、ハビッヒの作品となっている。基壇にはシュワブのブロンズ・レリーフが掲げられており、3つの詩が刻まれている。
展示館はマティルデの丘の頂部に位置する建物で、1908年の第3回国際展示会のためにオルブリッヒが設計したメイン・ホールだ。隣接する結婚式の塔とともにダルムシュタットを特徴付ける印象的なアンサンブルを形成しており、王冠やアテネのアクロポリスにたとえられた。シンプルな直線で構成された鉄筋コンクリート造のモダニズム建築で、明るい灰色の壁面にオレンジ色の屋根がよく映えている。メイン・ファサードである西面は列柱とガラス窓で飾られている一方で、他のファサードはシンプルに処理されている。内部には彫刻家ベルンハルト・ヘトガーの彫刻や、ヘッセンの象徴であるライオンが描かれたモザイク画、1914年にアルビン・ミュラーが追加した鳥のモザイク画で彩られた噴水などがあり、建物自体が芸術の場となっている。展示館は1880年に閉鎖された貯水池の上に建てられており、地下にはレンガ造の貯水池が各種設備とともに保存されている。
結婚式の塔はエルンスト・ルートヴィヒの再婚を記念してダルムシュタット市が贈ったもので、オルブリッヒの設計で1908年に完成した。ドイツ表現主義(感情など主観の動きを表現することに重きを置いたイズム)の先駆けといわれる作品で、鉄筋コンクリート造ながら赤褐色のレンガで覆われており、頂部は青のクリンカー・レンガや緑の銅板が敷き詰められている。塔は高さ約50m・平面12.5×6.5mの四角柱で、209段の螺旋階段や戦後設置されたエレベーターで展望室に上ることができる。頂部には5基の塔が伸びており、指のように見えることから「5本指の塔」とも呼ばれている。壁面には4人の女性が強さ・知性・正義・愛情という4つの美徳を掲げるハインリヒ・ヨープストのレリーフ『救済』や、ミュラーが1914年に追加した黄金の時計、同様に1914年に増築された太陽と十二支のモザイクで彩られたフリードリヒ・ヴィルヘルム・クロイケンスの日時計(1914年追加)などが見られる。また、内部も大公の部屋のフリッツ・ヘーゲンバルトの壁画や、大公妃の部屋のフィリップ・オットー・シェーファー による絵画集をはじめ、多くの芸術作品で飾られている。
オーバーヘッシシェス・ハウスはオーバーヘッセン地方の美術品や工芸品を展示するためにオルブリッヒの設計で1908年に建てられた。芸術家村のスタジオハウスとは対照的に、当地の一流貴族の邸宅を模した古典的なデザインで、建設に当たっては地元の職人や地元の素材が多用された。壁面は色もデザインもシンプルながら、大きなマンサード屋根と南のロッジア(柱廊装飾)がアクセントとなっている。
ガルテンハウスは「庭園の家」を意味する小屋で、1910年にオーバーヘッシシェス・ハウスの南の庭に調理器具メーカー・ローダーのために建設された。設計は建築家のヤーコブ・クリュッグで、正方形の平面でピラミッド形の宝形屋根を持ち、スタッコ細工や木造パネルなどを駆使した豪華な内装で知られる。
ハウス・ズッターは建築家コンラート・ズッターの設計で1908年に建てられた住宅で、スッターはインテリア全般の設計も担当した。白漆喰の壁に赤砂岩のラインがよく映えており、L字に交差した灰色の寄棟屋根が全体を引き締めている。ユーゲントシュティールの装飾はほとんど見られないが、ポータルや、赤砂岩の曲線や渦巻き文様などに確認できる。
ユリの水盤を意味を意味するリリエンベッケンはミュラーが1914年の国際展示会のために設計した水場で、ロシア礼拝堂のポータルの真西を彩っている。かつてはこのライン上にライオン門と呼ばれる正門が立っていたが、門はローゼンヘーエと呼ばれるバラ園に移転した。水盤は長方形で、底部にマヨルカ焼きのタイルでユリをデフォルメした美しいタイル画が描かれている。水盤の東ではドーリア式の円柱がロシア礼拝堂を支えるように水中から立ち上がり、東端の壁にはヘトガーの彫刻『マリアとヨセフ-逃避途上の休息』が刻まれている。一方、西端の下部には水盤を支えるようにドーリア式の柱が立っており、礼拝堂を頂部とした階層構造を成している。
パーゴラ(軒先や庭に設置する格子状の屋根を持つ棚。一例がブドウ棚や藤棚)と庭園はロシア礼拝堂の南に広がる一角で、ミュラーの設計で1914年に設置された。もともと画家のハンス・クリスティアンゼンが所有していたバラの庭を改修したもので、南にはパーゴラが東西に伸びている。
「白鳥の寺院」を意味するシュヴァーネンテンペルは上記の庭の北東に設置されたパビリオンで、こちらもミュラーの設計で1914年に設置された。直径6.5mの円形で、頂部に円錐形の屋根を持ち、2対の大理石円柱×8組=計16本の円柱で支えられている。二重柱の上には白鳥をモチーフとした白い陶器レリーフを備え、ドーム天井はユーゲントシュティールの美しい草花文様で覆われている。
プラタナス林は丘の北に広がる人工林で、1830年頃に開発がはじまったとされる。125×40mほどで、四方を擁壁やトレリス(格子状の棚)で囲われており、内部にはプラタナスの木が整然と植えられている。1904年に東側にオルブリッヒが設計したバッカス噴水が建設され、ハビッヒやダニエル・グライナーの彫刻やレリーフで飾られた。1912~14年にはポータルのヒョウ像やライオン像、ヒョウとライオンによって支えられた水瓶群、水差しを運ぶ女性像、死にゆく母子像、4点の救済レリーフ、3体の女性像を掲げた北の噴水をはじめ、ヘトガーによる40点以上の彫刻やレリーフが設置されて一大芸術空間となった。
スタジオ・ビルはミュラーの設計で1914年に建設された建物で、第3回国際展示会の期間中に芸術家村のメンバーのスタジオとして機能した。直線的・幾何学的・機能的な構造を持つウィーン分離派=セセッション様式の影響を受けたシンプルなデザインで、鉄筋コンクリート造・5階建てのモダニズム建築となっている。北ファサードは非常にシンプルで、白漆喰で覆われた壁面に窓枠もない巨大な窓が並んでいる一方で、南ファサードは青と赤褐色のクリンカー・レンガが格子状の幾何学模様を描いており、小さな窓が多く見られる。北側の大きな窓は柔らかい間接光を取り込むためのもので、北側はスタジオに割り振られ、可動壁によって部屋の構成を変えることができた。日当たりのよい南側の部屋はリビングや談話室といった公的な部屋に割り振られ、外のスタジオ・ガーデンは屋外作業場として使用された。かつては8棟が並んでいたが、現在は大学棟として使用されている1棟のみが残されている。
エルンスト・ルートヴィヒ噴水は、1901年に建設されたハウス・クリスティアンゼンが1958年に撤去された跡地に設置された。彫刻家カール・ハルトゥングと建築家オットー・バルトニングによる作品で、1958年に開催されたブリュッセルの世界博覧会で展示されていたものを市が購入し、翌年移築された。半円形の噴水で、円形の水盤のレリーフはエルンスト・ルートヴィヒを記念したものとなっている。
本遺産は20世紀のモダニズム建築と都市景観デザインに関するインターナショナル・スタイルの出現についてコンパクトで際立った証拠を提示するものであり、このような現象が起こった前衛的なプロセスを物語るものである。また、初期モダニズムの総合的なシンボルであり、その画期的な機能性と審美性は芸術と社会の輝かしい改革の時代を導くもので、建築とデザイン、都市計画、景観設計および近代展示文化の発展について重要な国際交流を体現している。1901年から1914年にかけて開催された4回の建築展示会は先駆的で国際的な評価の高いものであり、多くの来場者を魅了し、業界と一般の両面で広範な知名度を得た。展示会の革新的な展示物はドイツ国内外の企業との共同開発によるもので、こうした展示物、実験的でありながら機能的な建築や斬新な室内装飾、統合的な景観デザインといったものがマティルデの丘に普遍的な形を与えた。また、展示会で一般公開された常設住宅を用いて近代的な生活環境と労働環境に対する提案を行ったが、こうした試みはそれまでにないものであった。
芸術家村のメンバーはさまざまな改革運動から刺激を受けつつ、芸術本来の自由さをもってマティルデの丘で制作に取り組んだ。マティルデの丘は単に芸術家の住宅やスタジオの集合体であるだけでなく、異なるスタイルが調和して前例のない総合芸術作品となって現れた。そしてセミ・ユートピア・コミュニティとして発展し、初期モダニズムというトレンドの中心となり、20世紀および21世紀の数多くの国際的建築展に本質的な影響を与えつづけた。
本遺産は20世紀のモダニズム建築と都市景観デザインに関してインターナショナル・スタイルの出現を物語るモダニズムのプロトタイプを提示し、意図された景観を構成するさまざまな要素を含む独創的で卓越した建築アンサンブルであり、建築史に残る総合芸術作品である。これらは1899年から1914年にかけて築かれたもので、モダニズムの革新的な時代を予感させる急進的な実験期間であり、20世紀において芸術や建築にもっとも大きな影響を与えたデザインであった。
芸術・建築・デザインの急進的な統合は進歩的な建築や野心的な都市景観、現代的な空間芸術、革新的な芸術家の住宅やスタジオといった実験的な展示物によってもたらされた。マティルデの丘の頂にそびえるのはアンサンブルの中心的存在である結婚式の塔で、手を掲げたような独特の形状で、2本の窓のラインがアクセントとなっている。隣接する巨大な展示館は当時「アクロポリス」「都市の王冠」と評された建物で、結婚式の塔とともにダルムシュタットのランドマークとなり、そのユニークなシルエットは地域の文化的アイデンティティの確立に貢献している。そしてふたつの建物は設計時の本来の機能を現在でも維持している。これらの正面、長方形の敷地にプラタナスの神秘的な林が広がっており、多くの彫刻作品やレリーフが自然の循環や普遍的な文化、精神性を表現している。林と平行してロシア礼拝堂とリリエンベッケンの軸が走っており、リリエンベッケンは礼拝堂の聖なる建築を水面に反射している。こうした景観を補完するように南・東・西には計算された広いオープンスペースが広がっており、公園やパビリオン、道路や小道などとともにさまざまな建築タイプの実験的住宅やスタジオが立ち並んでいる。
本遺産は適切なサイズと全体性を持ち、時間の経過にもかかわらずその重要性は維持されており、顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての特徴と要素を備えている。資産の範囲は芸術家村の主要な居住域と展示場を他から区切るように引かれており、もっとも重要な建物や空間をすべて含み、機能的な完全性と空間構成の様子を明確に示している。特に結婚式の塔(丘の建造物群の中で最高所に位置する)、展示館、エルンスト・ルートヴィヒ・ハウス、1914年のスタジオ・ビル、芸術家たちの数々のスタジオ・ハウスは特筆すべきものであり、プラタナス林、噴水群、彫刻群、景観を構成する小道の数々が補完している。構成資産の中には第2次世界大戦で被害を受けて修復された箇所も認められるが、構造的・機能的・視覚的に完全性を維持している。全体的に良好な保存状態にあり、開発や放棄といった悪影響は見られない。潜在的な劣化についても厳密に管理されている。
本遺産の位置や配置・特徴・要素の真正性は高いレベルで保たれており、本物で信頼でき、真正であり、時を超えてその重要性を伝えている。重要な建造物群について、建築的要素と景観デザインは形状とデザイン、素材と原料といった点で真正性の基準を十分に満たしており、何よりマティルデの丘はアンサンブル全体でその継続的な真正性を表現している。建物と空間の両面において当初の意図が忠実に反映されており、伝統的な機能と使用が継続的に管理され、その精神は活気ある文化的表現として維持されている。一般的に遺産保護を妨げる要素はなく、継続的に使用され、常時のメンテナンスがなされており、遺産の独自性と総合的な状態は非常に良好である。戦争で被害を受けたマティルデの丘のさまざまな部分は戦後まもなく慎重に修復されており、その後の資産の拡張は保護機関の管理下で実施されている。ダルムシュタットのマティルデの丘は最初の国際的かつ常設の建築展が実施された場所であり、モダニズムの出現を明確に物語るきわめて重要な遺産である。