ネムルト・ダー、すなわちネムルト山はアナトリア半島の付け根に近いトルコ東部・南東アナトリア地方のアドゥヤマン県にそびえる標高2,150mの山で、その頂部には直径145m・高さ50mのピラミッド形のクルガン(積石塚)が築かれている。周囲のテラスにはペルシアやギリシアの神々を習合(複数の宗教を融合・折衷させること)させた神像やレリーフが祀られているが、神像はことごとく首が落とされており、転がった首像とともに神秘的な空気を醸し出している。
紀元前4世紀、ギリシアのマケドニア王アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)はギリシアからインドの手前のインダス川に至る大帝国を築いたが、ディアドコイ(後継者)を決めていなかったことから大王の死後、ディアドコイ戦争が勃発し、数多くの国々に分裂した。そのひとつがマケドニア人セレウコス1世が治めるセレウコス朝シリアで、一時は帝国の再興も可能かというほどの大国を打ち立てた。このときアナトリア半島中部のカッパドキアから南東部のキリキアまでを占めていたのがコンマゲネ州で、ギリシア、アルメニア、ペルシア、シリアの間の緩衝地帯として機能した。紀元前163年頃、セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスの死を機にサトラップ(知事)のプトレマエウスが王位に就き、コンマゲネ王国を建国した。
プトレマエウスはペルシア人だったが、紀元前109年頃に王位に就いたミトリダテス1世カリニクスはセレウコス朝の王女ラオディケと結婚してギリシア文化を受け入れた。このためコンマゲネ王国は東に現れたペルシア人の大国パルティアとセレウコス朝、両国の関係国であり、アケメネス朝ペルシアの大王ダレイオス1世とアレクサンドロス帝国のアレクサンドロス3世の子孫であることを謳った。
ミトリダテス1世カリニクスとラオディケの子が紀元前69年頃に王位に就いたアンティオコス1世テオスで、同王国の最盛期を築いた。そして紀元前62年頃、宗教的聖域および自身が眠る墓所としてネムルト山の山頂に大規模な宗教施設の建設を開始した。中心となるのは山頂のピラミッドで、小石を積み上げて直径145m・高さ50mの円錐形のクルガンを築いた。これが墳丘墓で、中に巨大な玄室(棺を納める部屋)が隠されているともいわれるが、容易に崩れることから発掘することができず、王墓は未発見となっている。墳丘墓を中心としてその東・西・北にテラスが設けられており、神々の彫像やレリーフが配された。登場する神々はギリシア神話やゾロアスター教を中心にさまざまな宗教の神々を習合させたもので、ギリシア人(マケドニア人)とペルシア人の血を引くアンティオコス1世テオスの宗教戦略を反映したものとなった。
もっとも大きな施設が東のテラスで、玉座と呼ばれる最上段の一帯には高さ約7mを誇る5体の石灰岩製の巨大な坐像が並んでいる。坐像は下から眺めて左からアポロ=ミスラ=ヘリオス=ヘルメス(アポロあるいはアポロンはローマ・ギリシアの太陽神、ミスラ/ミトラスはインド・ペルシアの太陽神、ヘリオスはギリシア・ティーターン神族の太陽神、ヘルメスはゼウスの息子で伝令使)、テュケー(ギリシア・ローマの運命の女神)、ゼウス=オロマスデス(ゼウスはギリシア神話の最高神、オロマスデスはゾロアスター教の最高神アフラ・マズダ)、アンティオコス1世テオス、ヘラクレス=アルタニェス=アレス(ヘラクレスはギリシアの半神半人の英雄、アルタニェスはゾロアスター教の英雄神ウルスラグナ、アレスはギリシアの戦闘神)の5体で、これらの両端を守護神と思われるライオンとワシの2体1組の彫像が挟み込んでいる。ただ、いずれも頭部は落とされており、首像はテラスの下部に転がり落ちている。人為的に落とされた可能性が高く、イスラム教徒による偶像破壊の結果ともいわれるが、定かではない。東のテラスの下部にはピラミッド形の祭壇があり、砂岩のオルトスタット(レリーフが刻まれた石板)で縁取られていた。北側のオルトスタットはアンティオコス1世テオスのペルシア側の祖先、南側にはギリシア側の祖先が描かれており、碑文にそれらの解説が記されている。
西のテラスにも東のテラスと同様にライオンとワシの彫像に挟まれて5体の坐像が置かれており、首が落とされている。オルトスタットはやはりペルシア・ギリシアの祖先の系図を示しているが、祭壇は存在しない。オルトスタットの中にはアンティオコス1世テオスがアポロ=ミスラ=ヘリオス=ヘルメスやゼウス=オロマスデス、ヘラクレス=アルタニェス=アレスと握手を交わしているものもあり、国王が神格化されている。また、「王の星占い」と呼ばれるオルトスタットにはライオン像が刻まれており、水星・火星・木星を示すとされる3つの星が描かれている。一説では紀元前62年7月7日の空を示しており、占星術の最古級の記録とされる。
北のテラスは全長80mほどの城壁が続いており、両端にワシが彫られているが、大きな彫像は見られない。未完成、あるいはなんらかの道だったともいわれるが、明らかではない。
アンティオコス1世テオスは多民族を治め統一するひとつの手段としてギリシア・ペルシアの宗教を習合させた新たな宗教を構築した。彼の死後、後継者たちはこの聖域を訪問しては儀式を行い、ネムルト山にそれぞれ独自の王墓を建設した。しかし、年の半分を雪に閉ざされたネムルト山は次第に放棄され、風化・侵食作用で廃墟となった。
コンマゲネ王国はローマ皇帝ティベリウスによって西暦17年にシリア属州に編入されたが、数年後に皇帝クラウディウスが再興した。しかし、72年にふたたび皇帝ウェスパシアヌスが支配下に収め、ここに滅亡した。これによりネムルト・ダーは完全に放棄された。
コンマゲネ国王アンティオコス1世テオスの墓はきわめて独創的な芸術的成果である。ネムルト・ダーの自然に対する景観設計はヘレニズム時代(紀元前323~前30年)のもっとも巨大な事業のひとつである(使用された石材の中には重さ9tに及ぶものもある)。
ネムルト・ダーの墓あるいはヒエロテセイオン(聖域や宗教的中心地)はコンマゲネ王国の文化を示すユニークな証拠である。アンティオコス1世テオスはこのモニュメントで父ミトリダテス1世カリニクスからさかのぼってダレイオス1世の子孫であり、母ラオディケからさかのぼってアレクサンドロス3世の子孫であることを表現した。この半伝説的な家系は東西両勢力からの独立を図った王朝の野心を系図に置き換えたものである。
カラクシュやエスキ・キャフタといった遺跡の類似の墳丘墓と比較して、ネムルト・ダーの墳丘墓は非常に自由で独創的かつ多神教的な習合を通して重要な歴史や時代を示している。ゼウスとオロマスデス(ペルシアの神アフラ・マズダ)、ヘラクレスとアルタニェス(ペルシアの神ウルスラグナ)といった神々の同化は彫像やレリーフにおいてギリシア・ペルシア・アナトリアの芸術の密接な融合をもたらしており、芸術性においても同程度の価値あるものとなっている。
ネムルト・ダーはほぼ手付かずであり、顕著な普遍的価値を真正で信頼性のある形で表現している。コンマゲネ王国の重要な聖域は構造的にオリジナルのままありつづけ、本来の相互関係を観察・確認することができる。資産には墳丘墓と東・西・北のテラスが含まれているが、儀式が行われていたルートの全域は含まれていない。
資産の完全性に対する最大の脅威は、季節や日ごとの大きな温度変化、凍結と融解のサイクル、風、積雪、日照といった環境条件による物理的な損傷である。もともと墳丘墓は60mほどの高さだったと推測されるが、高さは風化や過去の無制約な調査、訪問者による登山などによって低くなった。また、資産は地震活動の活発な東アナトリア断層にきわめて近く、第一級の地震地帯にある。そのため墳丘墓や彫像・石板は地震に対して脆弱である。
資産は国の文化財に指定されているだけでなく、資産を含む周辺の自然はネムルト・ダー国立公園に指定されており、国立保護法や国立公園法で保護されている。バッファー・ゾーンは存在しないが、国立公園がその役割を果たしている。
ネムルト・ダーはヘレニズム時代の独創的な芸術的成果であり、壮大な自然環境の中にたたずむ記念碑的な彫刻作品としてきわめて魅力的で美しい。資産は形状・素材・デザインの面で真正性を保っており、保存状態は高いレベルで維持されている。また、当時から伝わるこのヒエロテセイオンへの儀式のルートが知られており、今日でも遺跡へのアクセスに使用されている。