プラハ歴史地区

Historic Centre of Prague

  • チェコ
  • 登録年:1992年、2012年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)(vi)
  • 資産面積:1,106.36ha
  • バッファー・ゾーン:9,887.09ha
世界遺産「プラハ歴史地区」、西岸のマラー・ストラナと丘上のフラッチャニの夕景。川はヴルタヴァ川、左はカレル橋、上はプラハ城
世界遺産「プラハ歴史地区」、西岸のマラー・ストラナと丘上のフラッチャニの夕景。川はヴルタヴァ川、左はカレル橋、上はプラハ城
世界遺産「プラハ歴史地区」、東岸のスタレ・メスト。下はカレル橋、橋の付け根に立つのは橋塔、中央やや右の双塔はティーン聖母教会
世界遺産「プラハ歴史地区」、東岸のスタレ・メスト。下はカレル橋、橋の付け根に立つのは橋塔、中央やや右の双塔はティーン聖母教会
世界遺産「プラハ歴史地区」、プラハ城。中央の建物は聖ヴィート大聖堂で、塔は大聖堂の鐘楼
世界遺産「プラハ歴史地区」、プラハ城。中央の建物は聖ヴィート大聖堂で、塔は大聖堂の鐘楼
世界遺産「プラハ歴史地区」、チェコのゴシック建築を代表する聖ヴィート大聖堂の西ファサード
世界遺産「プラハ歴史地区」、チェコのゴシック建築を代表する聖ヴィート大聖堂の西ファサード (C) Lynx1211
世界遺産「プラハ歴史地区」、尖塔やドームが立ち並ぶスタレ・メストの夕景。中央の双塔はティーン聖母教会、その右は旧市庁舎、左手前はカレル橋の橋塔、右の尖塔は給水塔
世界遺産「プラハ歴史地区」、尖塔やドームが立ち並ぶスタレ・メストの夕景。中央の双塔はティーン聖母教会、その右は旧市庁舎、左手前はカレル橋の橋塔、右の尖塔は給水塔
世界遺産「プラハ歴史地区」、左は旧市庁舎の天文時計、右の双塔はティーン聖母教会、中央の赤い屋根がゴルツ・キンスキー宮殿
世界遺産「プラハ歴史地区」、左は旧市庁舎の天文時計、右の双塔はティーン聖母教会、中央の赤い屋根がゴルツ・キンスキー宮殿
世界遺産「プラハ歴史地区」、ストラホフ修道院図書館の神学の間
世界遺産「プラハ歴史地区」、ストラホフ修道院図書館の神学の間 (C) Jorge Royan
世界遺産「プラハ歴史地区」、プルーホニツェ城
世界遺産「プラハ歴史地区」、プルーホニツェ城 (C) Richenza

■世界遺産概要

プラハはボヘミア王国や神聖ローマ帝国、ハプスブルク帝国の首都あるいは主要都市として11~18世紀にかけて発展し、最盛期はヨーロッパの中心といえるほどに繁栄した。その美しさから「黄金のプラハ」「北のローマ」「魔法都市」「宝石都市」「建築博物館」など数々の異名を持ち、特に尖塔=スパイアが立ち並ぶ様子から "Hundred-spired Prague"(100のスパイアで彩られたプラハ/百塔のプラハ)と讃えられている。なお、本遺産は2012年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが変更されている。

○資産の歴史

プラハには先史時代から人間の居住の跡があり、紀元前2世紀頃にはケルト人の集落が存在し、紀元後にゲルマン系、6世紀にはスラヴ系の人々が入植して町を形成した。伝説によると8世紀頃に農夫出身の初代国王プシェミスル・オラシュと予言者リブシェが結婚し、チェコ人初の王朝であるプシェミスル朝を打ち立てたという。リブシェは星とともにある栄光の場所に城を築くべきと進言し、王はヴルタヴァ川の西岸の丘(フラッチャニ地区)に城を築いてプラハと命名した。9世紀頃、プシェミスル家に公爵位が与えられてボヘミア公国が成立。同世紀末、ボジヴォイ1世と息子スピティエニェフ1世の時代に聖母マリアに捧げる教会堂(後の聖ヴィート大聖堂)が築かれ、丘全体を城壁で囲って王宮が建設された。10世紀に司教座が置かれて教会堂は大聖堂となり、プラハはボヘミア公国の首都となった。近郊で金や銀の鉱山が開発されたこともあり、プラハは大いに繁栄した。

11世紀後半、スピティエニェフ2世がロマネスク様式で聖ヴィート大聖堂を建て直し、町の石造化が進められた。1135年にはソビエスラフ1世が城を石造で改築し、1143年にはプレモンストラートゥ派のストラホフ修道院が建設された。この頃、橋も石造で建て直されて東岸へのアクセスが向上し、西岸のマラー・ストラナ地区の対岸にスタレ・メスト地区(旧市街)が発達した。

1198年、ドイツの支配権を巡る争いに乗じてオタカル1世が神聖ローマ皇帝オットー4世から王位を認められ、ボヘミアは公国から王国へ昇格した。1212年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は金印勅書によってプシェミスル家によるボヘミア王家の世襲を認め、ドイツ王(実質的に神聖ローマ皇帝。ドイツ王が教皇の承認を経て皇帝となった)を決定する際の選挙権を与えて選帝侯とした。これによりボヘミア王国は中央ヨーロッパで最有力の王朝のひとつとなった。続くヴァーツラフ1世は王位を引き継ぎ、プラハを全長1.7km・高さ10mの城壁で囲み、信心深い妹のアネシュカは修道院に入って聖アネシュカ・チェスカー修道院(現・プラハ国立美術館)や病院を建設して福祉を充実させた。続くオタカル2世の時代にボヘミア王国は最大版図を築き、現在のチェコからオーストリア、ハンガリーの一部、スロベニア、イタリア東部を経てアドリア海に達した。ヴァーツラフ2世の時代に多くの領土は返却されたが、ポーランド王位に就いたうえに息子ヴァーツラフ3世をハンガリー王に即位させた。最終的にヴァーツラフ3世はボヘミア、ポーランド、ハンガリーの王位を継承し、今度はバルト海まで北に勢力を伸ばした。しかしながら1306年にオロモウツで暗殺され、プシェミスル家は断絶した。

王位を巡る争いを経て、ヴァーツラフ3世の妹エリシュカと結婚したヨハン・フォン・ルクセンブルクが1310年にボヘミアの王位に就き、ルクセンブルク朝が成立した。その息子カレル1世はボヘミアの勢力拡大に注力し、隣のモラヴィア、ポーランド国境付近のシュレージエン(シレジア)、その西のラウジッツを押さえて領土を広げ、1355年にはカール4世として神聖ローマ皇帝に選出された。カレル1世はプラハを帝都にふさわしいものにするためにイタリアをはじめ世界中から芸術家や建築家を集めて都市改造を行い、スタレ・メストの南東にノヴェ・メスト地区(新市街)を設立して城壁で囲った。聖ヴィート大聖堂を含むプラハ城をゴシック様式で建て直し、カレル大学(プラハ大学)やカレル橋を建設したほか、ノヴェ・メストにもエマオ修道院、聖アポリナージェ教会、聖母被昇天・聖カレル教会、聖シュテパーナ教会などを建設して開発を進めた。これらは主にゴシック様式で建設され、ゴシック様式の尖塔であるスパイアが立ち並ぶ様子から「百塔のプラハ」あるいは「黄金のプラハ」と讃えられた。

プラハはローマ・カトリックの盟主である神聖ローマ帝国の首都だったが芸術と自由の町でもあり、宗教にも寛容だった。1411年に教皇ヨハネス23世がそれを買って敵を倒せば罪が許されるという贖宥状(しょくゆうじょう。免罪符)を発行したことに対し、ボヘミア出身でカレル大学の学長であるヤン・フスはローマ・カトリックを激しく非難した。教会の腐敗を受けてフスの主張はボヘミアの諸侯や庶民に浸透したが、拡大を恐れた神聖ローマ皇帝ジギスムントは1414年にコンスタンツ公会議を開いて異端を認定し、翌年フスを火刑に処した。これに対してフス派が蜂起してフス戦争(1419~36年)が勃発。プラハ、特にカレル大学がフス派の拠点となったのに対し、ジギスムントはクトナー・ホラ(世界遺産)を拠点に反撃を行った。フス派が分裂したことから皇帝軍が勝利したが、フス派はチェコ同胞団となって存続した。フスは処刑前、改宗すれば命を助けると提案されたがキッパリと拒絶し、「真実は勝つ」と最期の言葉を遺したという。この言葉はチェコの標語となり、1915年には死後500年を記念して旧市街広場にヤン・フス像が設置された。

1526年にフェルディナント1世が即位して以降、ボヘミア王位は4世紀にわたってハプスブルク家に引き継がれた。フェルディナント1世はボヘミア王国のみならず神聖ローマ帝国、オーストリア大公国、ハンガリー王国の皇帝位・王位を得てハプスブルク帝国を打ち立てた。1541年の大火で多くの建物が焼失したが、町はルネサンス様式で建て替えられた。この頃、イスラム王朝であるオスマン帝国がヨーロッパへの圧力を増し、1529年には第1次ウィーン包囲を行っていた。皇帝ルドルフ2世は再来に備えて1583年に帝都をウィーンからプラハに遷して退避した。ルドルフ2世は芸術家や建築家を集めて帝都の充実を図り、ルネサンス様式やマニエリスム様式で数多くの建物を建設した。一例が建築家ジョヴァンニ・マリア・フィリッピによるプラハ城新王宮であり、後にフランツ・カフカが生活したというミヌティ邸だ。

フス戦争以来、ローマ・カトリックに対する反発が強まり、16世紀の宗教改革ではルターらの新教=プロテスタントがボヘミアに広がった。これに対してボヘミア王で後に神聖ローマ皇帝となるフェルディナント2世が弾圧を行い、三十年戦争(1618~48年)が勃発した。ボヘミアは早々に帝国軍に鎮圧されたがヨーロッパ諸国を巻き込んで戦線は拡大し、帝国軍はプロテスタント勢力であるスウェーデンや、ローマ・カトリックであるにもかかわらず反ハプスブルクで参戦したフランスの前に劣勢を強いられた。同じハプスブルク家(スペイン・ハプスブルク家)のスペインも敗退し、1648年にはプラハにスウェーデン軍が侵入して略奪を行った。戦争は同年に終了したが、被害を受けて帝都がふたたびウィーンに遷される一方で、プラハはバロック様式で町の再建が進められたが宗教・文化の弾圧が続いて低迷した。18世紀はじめのペストの流行や、1740~63年にハプスブルク帝国とプロイセン王国の間で行われたシュレージエン戦争などで被害を受けた。特に1757年のプラハの戦いでは集中砲火を受けてプラハ城など多くの建物が破壊された。ヴァルトシュテイン宮殿や聖ミクラーシュ教会、ロレタ、ストラホフ修道院図書館をはじめバロック様式の建物が築かれたのは17~18世紀のこの時代だ。

プラハが首都に戻るのはボヘミア、モラヴィア、スロバキアがチェコスロバキア共和国として独立した1918年で、1993年にチェコとスロバキアに分離するとチェコ共和国の首都となった。19世紀以降、工業化が進められたが歴史地区については大規模な開発は行われず、都市構造と歴史的建造物が保全された。ただ、芸術の町らしく新古典主義様式や歴史主義様式、アール・ヌーヴォー、モダニズム、ポスト・モダニズムといった新しいデザインによる建造物も積極的に取り入れられた。

○資産の内容

世界遺産の資産はプラハ歴史地区とプルーホニツェ公園で、プラハ歴史地区はおおよそ西岸川岸のマラー・ストラナ地区とプラハ城の立つ高台のフラッチャニ地区、東岸川岸の旧市街=スタレ・メスト地区とその南東に広がる新市街=ノヴェ・メスト地区、さらに南のヴィシェフラット地区に分けられる。

プラハを代表する建造物は第一にプラハ城であり、全長570m・幅128mという世界最大級の宮殿コンプレックスとなっている。中心に立つのはプラハ大司教座の置かれた聖ヴィート大聖堂(聖ヴィート・ヴァーツラフ・ヴォイテフ大聖堂)で、平面124×60m、双塔の高さ82m、鐘楼が高さ96.6mというゴシック様式の巨大な教会堂となっている。内部にはゴシックからバロックまで21もの礼拝堂があり、「最後の審判」のモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)やアルフォンス・ミュシャのステンドグラス、無数の彫刻や絵画で彩られている。また、代々のボヘミア王の墓地でもあり、フェルディナント1世やルドルフ2世をはじめ数多くの国王の棺が収められている。その東に立つ聖イジー教会は920年創建と伝わるプラハ最古級の教会堂のひとつで、10~11世紀にロマネスク様式で改修を受け、17世紀後半にバロック様式のファサード(正面)が取り付けられた。全使徒教会は12世紀建設のゴシック様式で、大火で焼失して16世紀にルネサンス様式で改修された。

プラハ城の宮殿としては、10~16世紀にかけて国王の居城とされたロマネスク・ゴシック様式の旧王宮、16世紀以降の居城であるルネサンス・バロック様式の新王宮、16世紀にフェルディナント1世が庭園とともに築いたルネサンス様式のアン女王夏宮(ベルヴェデーレ)、15世紀の創建でマリア・テレジアをはじめ王家の女性が生活したルネサンス・バロック様式のロゼンベルク宮殿、ロブコヴィツ家の宮殿であるルネサンス・バロック様式のロブコヴィツ宮殿などがある。これ以外にも大統領官邸や乗馬学校、黄金小路、各種庭園・中庭など、主なものだけでも50を超える建造物や庭が存在する。

宮殿建築としては他に、マラー・ストラナに位置するヴァルトシュテイン家のバロック宮殿であるヴァルトシュテイン宮殿や新古典主義様式のコロヴラット宮殿、オーストリア屈指のバロック建築家フィッシャー・フォン・エルラッハによるクラム・ガラス宮殿などがある。また、プラハ城の南東14kmほどに位置するプルーホニツェ城は14世紀の創建で、時代時代の改修・改築を受けて1885年にネオ・ルネサンス様式で再建された。ロマネスク様式の聖母マリア生誕教会が残るほか、周辺の公園はチェコ随一の風景式庭園(非対称・不均衡・曲線を特徴とする自然を模した庭園)として知られる。

主な教会建築としては、11世紀に築かれたプラハ最古級の建物である聖マルティン教会のロトンダ、13世紀創建で18世紀の豪奢なバロック様式の内装で知られるイエズス会の聖ミクラーシュ教会(マラー・ストラナ)、14世紀建設でゴシック様式の意匠が際立つスタレ・メストの象徴ティーン聖母教会、17世紀建設の宗教コンプレックスでバロック様式のファサードやロレタ礼拝堂などで知られるロレタなどがある。また、1143年創立のストラホフ修道院はロマネスク・ゴシック様式の聖母マリア被昇天教会やルネサンス・バロック様式の僧院で知られ、20万冊以上の蔵書を誇るバロック様式の修道院図書館が名高い。ノヴェ・メストのエマオ修道院は1347年にカレル1世によって創設されたベネディクト会の修道院で、ゴシック様式の聖母マリア修道院教会をはじめ数多くの名建築で知られる。

公共建築としては、14世紀建設のゴシック建築で1410年の制作と伝わる天文時計を備えた旧市庁舎、1402年開通で本体はゴシック様式ながらバロック様式の彫像で飾られたカレル橋、ネオ・ルネサンス様式で1818年オープンのプラハ国立博物館や1881年オープンの国民劇場などがある。

■構成資産

○プラハ歴史地区

○プルーホニツェ公園

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

プラハ歴史地区は中世から現在に至る継続的な都市の成長過程を見事に表している。14世紀以降の中央ヨーロッパの政治的・経済的・社会的・文化的進化の中で重要な役割を果たし、建築的・芸術的伝統の豊穣さは中央および東ヨーロッパの多くの都市開発の主要なモデルとして機能した。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

プラハは個々の建造物と街並みの両面で卓越したクオリティを誇る都市建築アンサンブルであり、明白に世界的な名声を勝ち得ている。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

中央ヨーロッパにおいて中世キリスト教の発展におけるプラハの役割は都市の形成・進化における役割と同様に傑出したものである。中世後期以降の政治的重要性からヨーロッパ中の建築家や芸術家を魅了し、建築と芸術の傑作の宝庫となった。14世紀にカレル大学が設立されたことで学問の拠点としても名声を博し、今日まで轟いている。カレル1世の治世以来、プラハは地域の知性と文化の中心であり、ヨハネス・ケプラー、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、アントニン・ドヴォルザーク、フランツ・カフカ、アルベルト・アインシュタインといった世界的に著名な数多くの人物と結び付いている。

■完全性

構成資産には顕著な普遍的価値を伝えるすべての重要な要素が含まれており、範囲とサイズは適切である。また、周辺についても既存の保護地域に沿ってバッファー・ゾーンが設定されている。

ただ、プラハ歴史地区の完全性は資産とバッファー・ゾーンにおける巨大な建造物の建設計画に関する開発圧力によって脅かされており、新たに建設される建造物の高さと容量は管理当局によって見直される必要がある。また、百塔のプラハと呼ばれた歴史地区において屋根上部の開発によってこれまでよく保全されてきた視覚的な完全性に負の影響を与える可能性が懸念される。

プルーホニツェ公園の完全性については資産が都市の近郊に位置していることもありバッファー・ゾーンが開発圧力にさらされている。

■真正性

プラハ歴史地区は1,000年以上にわたる有機的な都市の発展の様子を物語っており、真正性を保持している。継続的に使用するために改修や変更が行われているにもかかわらず個々の建造物や建造物群に関して区画・集合・構造・素材・装飾および建築の詳細に関して真正性のレベルは非常に高い。プラハ歴史地区の形状と外観は何世紀にもわたる開発のさまざまな段階を反映しており、法律で保護された際立って貴重な考古学的地形でもある。プラハが持つ保全に関する長い歴史と伝統は資産の真正性維持に役立っており、修復作業は厳格な基準に基づいて伝統的な素材と技術を用いて行われている。

プルーホニツェ公園の形状と外観は自然の木々と植樹された木々の組み合わせで形成されており、公園として高い真正性を保っている。こうした真正性は歴史的な開発計画や関連の文書と現在の形状を比較することで証明されている。

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