カリフ都市メディナ・アサーラ

Caliphate City of Medina Azahara

  • スペイン
  • 登録年:2018年
  • 登録基準:文化遺産(iii)(iv)
  • 資産面積:111ha
  • バッファー・ゾーン:2,186ha
世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ」、宮殿から見下ろす上庭と周辺
世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ」、宮殿から見下ろす上庭と周辺 (C) David Abián
世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ」、上部バシリカの連続アーチ
世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ」、上部バシリカの連続アーチ
世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ」、ヤファール邸のプリメール・ミニストロ門(首相の門)
世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ」、ヤファール邸のプリメール・ミニストロ門(首相の門)
世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ」、サロン・リコの列柱とポリクロミアの馬蹄形アーチ
世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ」、サロン・リコの列柱とポリクロミアの馬蹄形アーチ

■世界遺産概要

アサーラはスペイン南部の主要都市コルドバ(世界遺産)の西7~8kmほどに位置する中世イスラム都市遺跡で、10世紀半ばに後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世がカリフを名乗ってザフラー宮殿と宮殿城下町を建設した。「メディナ」はアラビア語で都市を示し、当時の名称「メディナ・アル・ザフラー」で「光の都」を意味する(妻の名に由来するなど異説あり)。「アサーラ」はスペイン語読みで、以下では「ザフラー」と表記する。

○資産の歴史

イベリア半島は711年にイスラム王朝であるウマイヤ朝に支配されたが、ウマイヤ朝はアッバース朝に取って代わられて750年に滅亡する。ウマイヤ家の唯一の生き残りであるアブド・アッラフマーン1世はイベリア半島まで逃げ、756年にコルドバを首都に後ウマイヤ朝を建国する。後ウマイヤ朝の君主は代々、総督や将軍を意味する「アミール」を名乗っていたが、10世紀前半、アブド・アッラフマーン3世はイスラム教創始者ムハンマドの後継者でありスンニ派最高指導者の称号である「カリフ」を名乗り、同じくカリフを名乗るアッバース朝やファーティマ朝の君主に対して自らの正統を強く主張した。

アブド・アッラフマーン3世は940年に首都コルドバの西、シエラ・モレナ山脈のグアダルキビール渓谷の丘にカリフにふさわしいクサル(城砦)を兼ねた要塞宮殿の建設を開始。950年に宮殿がおおよそ完成すると宮殿を取り囲むように市壁を築き、宗教施設や公共施設・軍事施設、庭園、貴族の邸宅などを有する宮殿城下町の建設に取り掛かった。都市建設は息子ハカム2世に引き継がれ、文化を愛したハカム2世によって町はさらに華やかに彩られた。この頃の宮殿は金銀の瓦や大理石の床、4,000本の大理石柱、イスラム文様アラベスクやスタッコ(化粧漆喰)といった繊細なイスラム装飾などで飾られ、宮殿の南に隣接する庭園にはイスラム教の聖典『コーラン』に描かれたパラダイスを目指して水をふんだんに使った美しいイスラム庭園が広がっていたという。

976年にハカム2世が没すると息子ヒシャーム2世がカリフを継いだものの弱冠11歳にすぎず、侍従のアルマンスールが宰相となって権力を握った。アルマンスールはザフラーに行政府を移して自ら政治を行い、キリスト教勢力の強国であるカスティリャ王国やレオン王国を破り、997年にはイベリア半島のキリスト教信仰の象徴であるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(世界遺産)を侵略するなど後ウマイヤ朝に最盛期をもたらした。

1002年にアルマンスールが没するとカリフの地位を巡って後継者争いが勃発。1009~1010年に事実上カリフ制は終了し、ザフラーも略奪された。1031年、ヒシャーム3世の時代に正式に廃位が決まり、後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラム小王朝タイファの分立時代に移行した。イベリア半島の勢力が弱体化すると11世紀後半に北アフリカ・ベルベル人の王朝であるムラービト朝が侵入してタイファの多くを統一。同じ北アフリカ・ベルベル人のムワッヒド朝が取って代わると、ザフラーをはじめカリフの建物はことごとく破壊された。やがて町は人々の記憶から消え去り、20世紀はじめに再発見されるまで1,000年近い眠りに就いた。

○資産の内容

ザフラーは東西1,500m×南北750mの市壁に囲まれた要塞宮殿都市で、グアダルキビール渓谷の丘を利用して築かれた。北側は丘に掛かっており、もっとも高い場所にはカリフの宮殿と関連施設が築かれ、続いて公共施設や軍事施設、もっとも低い一帯には住宅が割り当てられた。都市全体を囲む市壁の内側には宮殿エリアや庭園エリア、モスク・エリア等々とエリアを囲む壁が設けられ、都市内部は幾何学的に分割されていた。宮殿からは都市はもちろんグアダルキビール渓谷が一望できたが、それぞれのエリアからは壁に阻まれて宮殿はほとんど見えなかったと思われる。

宮殿遺跡の主な建物には、宮殿の主要ホールのひとつだったサロン・リコ(リコの間)が挙げられる。アブド・アッラフマーン3世が建設した38×28mほどのホールで、ピンクとライトブルーの大理石柱が交互に並んでおり、紅白ポリクロミア(縞模様)の馬蹄形アーチを支えている。壁面はかつて繊細な大理石製装飾パネルで覆われていたという。

サロン・リコの南に隣接して上庭があり、中央には4つの池に囲まれたパビリオンが設けられていた。パラダイスを再現したこれらの池は景色を楽しむだけでなく、庭園に水を供給する水利システムの一部でもあった。西には下庭が隣接しており、宮殿部にも小さな庭園があった。

大モスクは壁に囲われた25×18mほどの建物で、多柱室、パティオ(中庭)、ミナレット(礼拝を呼び掛けるための塔)を持つアラブ式のモスク跡だ。中心の軸をメッカの方角に向けるためにこの建物だけ斜めに築かれている。

これ以外に、東エントランスである大ポルティコ(列柱廊玄関)とアルマス広場、北門、軍あるいは公共施設だった上部バシリカ(ミリタル館)、アブド・アッラフマーン3世が住んでいたと伝わる王の家、首相ヤファールの家と伝わるヤファール邸、プールが付いているプールの家などがある。また、宮殿の東西には労働者のエリアがあり、南には建物のない広いエリアが広がっており、動物園などなんらかの施設だったと考えられている。現在発掘されているのは都市中心部の12haと全体の10%程度にすぎず、今後の発見が期待されている。

■構成資産

○カリフ都市メディナ・アサーラ

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

カリフ都市メディナ・アサーラは国家主導で一から計画・建設された都市であり、後ウマイヤ朝の文化と建築、あるいはイベリア半島南部沿岸一帯のアンダルス(アンダルシア地方)におけるイスラム世界西部の文化の発展を示す卓越した証拠である。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

カリフ都市メディナ・アサーラは建築と景観のアプローチ、都市インフラの技術、建築、装飾と景観の融合などを特徴とする都市プランの際立った例であり、後ウマイヤ朝の君主がカリフを宣言した10世紀のイスラム世界西部の重要な時代を表現している。

■完全性

資産には未発掘地を含めてカリフ都市の全体が含まれており、バッファー・ゾーンには都市が所属する自然環境とそこから放射状に広がる道路や運河といった主要インフラ、さらには建築資材が採取されていた採石場やムニャ(別荘)跡なども含まれている。

11世紀初頭の滅亡から20世紀初頭の再発見まで遺跡が埋没していたことや、家畜の放牧地として利用されていて開発されていなかったことなどから非常によい状態で保たれている。これまで遺跡の10%ほどしか発掘されておらず、未発掘部分は今後の研究に託されている。宮殿の発掘部分について、継続的な発掘調査と保全作業により高さ数mに達する壁を含め、状態のよいすぐれた遺構を見ることができる。

■真正性

資産の大部分は地下に手付かずで残されており、素材・デザイン・位置に関して真正性を満たしている。発掘された遺構については外部環境からの保護、安定性の確保、発見された情報の保全といった目的で遺構の脆弱性を補うために最小限の介入が行われている。そうした作業で加えられた要素は遺構に溶け込んでいる一方で明確に区別することができ、真正性を損なっていない。遺跡から発掘されたさまざまな遺物の元々の位置を特定することでこうした作業が可能となった。

遺跡の真正性はまた自然環境が保全されることで保証されており、都市が破壊・放棄されて以降、最近の小さな変化を除いてほとんど無傷で保たれている。さらに、歴史資料や碑文の記述、1世紀以上にわたって行われてきた質の高い調査・研究がこの遺跡の真正性を補強している。

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