アトス山は全長約50km・幅10kmほどのアトス半島の先端に位置する標高2,033mの聖山で、半島のほとんどがアトス自治修道士共和国という宗教国家として自治が行われている。世界遺産の資産はこの共和国領とほぼ一致する。共和国内は女人禁制で、男性も18歳以上の正教徒しか入国できず、旅行にも特別な許可が必要となっている。内部では現在20の修道院が活動を続けており、約1,400人の修道士が厳しい修行を行っている。
ギリシア神話においてアトスは巨人族ギガス(ギガンテス)のひとりで、オリュンポス12神に挑戦して海神ポセイドンに巨大な山を投げ付けたとされる(あるいは逆にポセイドンに山を投げつけられて倒されたともいわれる)。このとき海に突き刺さった山がアトス山で、古くから聖山として祀られ神殿が建設された。
3~4世紀にキリスト教が広がるとアトス山に住み着く信者が現れはじめ、392年にローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教以外の宗教を禁止すると神殿は破壊された。キリスト教の伝説では、生神女マリア(ローマ・カトリックでいう聖母マリア)が船で移動中に嵐にあい、アトス半島の海岸に流れ着いたという。土地の美しさに惹かれたマリアはこの地に祝福を与え、以来アトス山はキリスト教の聖山となり、マリアはアトス山の守護聖人となった。7~8世紀にウマイヤ朝やアッバース朝といったイスラム王朝が勢力を伸ばすと北アフリカや西アジアから多くのキリスト教徒が移り住んだ。10世紀に修道士の活動が活発化し、数多くの小型修道院や共同体が形成された。
958年、聖アタナシオスがアトス山に移住し、ビザンツ皇帝ニケフォロス2世フォカスから免税特権などの支援を得ると963年にメギスティ・ラヴラ修道院を建設する。メギスティ・ラヴラ修道院は正教会の頂点に当たるコンスタンティノープル総主教庁の下に入り、アトス山最大の修道院として厳しい戒律に基づく共同生活を行った。972年には皇帝ヨハネス1世ツィミスケスとティピコンと呼ばれる規定を交わし、自治権を確立した。アトス半島ではこれを模倣して11世紀初頭までに50前後もの本格的な修道院が建設された。ヴァドペディ修道院やドヒアリウ修道院は聖アタナシオスの弟子たちが築いた修道院だ。
11世紀に入るとセルビア人やロシア人など多くのスラヴ系修道士が流入した。ロシア人によって1089年に築かれた修道院がアギウ・パンテレイモン修道院で、当初はキエフ大公国(キエフ・ルーシ)、後にはロシアやウクライナと深いつながりを持った。この修道院には15もの教会堂や礼拝堂があるが、ロシア建築らしいオニオン・ドームが特徴で、ロシア芸術の粋を集めたものとなっている。ヒランダル修道院、フィロテウ修道院、エスフィグメヌウ修道院などはセルビア人やロシア人による修道院で、教会堂はロシアやセルビア、ブルガリアなどに多い内接十字式(正方形を9等分した対角線上にドームを冠する形)のクロス・ドーム・バシリカとなっている。
14世紀に入るとオスマン帝国が勢力をヨーロッパにまで拡大し、バルカン半島南東部のトラキア地方に進出する。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は著しく弱体化し、14世紀半ばにアトスはビザンツ帝国からセルビア帝国の支配下に入り、セルビアが支持するヒランダル修道院が半島の1/3を所有する最大の修道院となった。イスラム教勢力の脅威と政情不安の中でアトスの多くの修道士が内陸部のメテオラ(世界遺産)などに拠点を移したが、アトスはセルビア帝国や第2次ブルガリア帝国の保護を得ることに成功し、この時代に数々の修道院が建設・再建された。1453年にオスマン帝国が首都コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を落とし、ビザンツ帝国が滅亡。オスマン帝国は宗教に比較的寛容だったこともあり、修道院は忠誠を誓った結果、アトスの独立は維持された。ただ、免税特権を認めず重税を課したため、修道院は聖画像イコンやフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)を販売して支払いに充てた。この結果、キリスト教美術が急速に発達した。
オスマン帝国がヨーロッパに勢力を拡大する過程で土地を奪われたスラヴ系修道士がアトス山に集まり、これを受けて1540年にスタヴロニキタ修道院が設立された。オスマン皇帝が修道院を庇護することもあり、クシロポタムウ修道院などは皇帝セリム1世の後援を受けていた。
1832年にオスマン帝国からギリシア王国が独立するとアトス山もギリシアの支配下に入ったが、アトス自治修道士共和国として治外法権を獲得し、実質的に独立が認められた。現在、共和国は20修道院の代表である聖共同体が行政権、年2回開催される聖議会が立法権、聖局(聖評議会)が執行権を持ち、3組織によって運営されている。また、共同体によって選出された典院を宗教的な君主として頂いている。修道院は以前同様コンスタンティノープル総主教庁の管轄下にあるが、ヒランダル修道院はセルビア正教会、ゾクラフウ修道院はブルガリア正教会、アギウ・パンテレイモン修道院 はロシア正教会に帰属している。
なお20修道院は以下となっている。アギウ・パヴルウ修道院、アギウ・パンテレイモン修道院 、イヴィロン修道院、ヴァドペディ修道院、エスフィグメヌウ修道院、オシウ・グリゴリウ修道院、カラカルウ修道院、クシロポタムウ修道院、クセノフォンドス修道院、クトゥルムシウ修道院、コンスタモニトウ修道院、シモノス・ペトラ修道院、スタヴロニキタ修道院、ゾクラフウ修道院、ディオニシウ修道院、ドヒアリウ修道院、パントクラトール修道院、ヒランダル修道院、フィロテウ修道院、メギスティ・ラヴラ修道院。
山を神聖な場所へと変貌させたことで、アトス山は自然の美と建築の美を組み合わせた独創的な芸術作品となった。また、アトスの修道院群は壁画(プロタトン聖堂のマヌエル・パンセリノスの作品群やメギスティ・ラヴラ修道院のフランゴス・カテラノスの作品群など)や携帯用イコン、金のオブジェ、刺繍、装飾写本等々、芸術作品の宝庫となっている。
アトス山は正教会の精神世界の中心として宗教建築と記念碑的な絵画について大きな影響力を行使しつづけた。建築について、修道院群の典型的なレイアウトは遠く離れたロシアの地にまで影響を与えた。絵画について、アトス山の絵画学校によって記された『絵画の手引き』はディドロンに発見され1845年に出版されたが、ここに詳述された図像的なテーマは16世紀以降、クレタ島からバルカン半島まで広く参考にされ、精巧に模倣された。
アトスの修道院群は正教会の修道院施設の典型的なレイアウトを提示している。高い塔を有する正方形・長方形あるいは台形の要塞建築で、外壁がそのまま堅固な城壁となっており、中庭は聖域ペリボロスを構成し、中央には主教会であるカトリコンが配された。こうした構造は10世紀に確立され、食堂・独居房・病院・図書館といった共同体施設や、礼拝堂や洗礼所といった宗教施設、武器庫や塔といった防衛施設が戦略的に組織された。また、修道院を離れた修道士共同体(集落)であるスケーテ、ケリア、カティスマータやそれらに運営された農地も特徴的である。
アトス山の修道院の理想的な生活スタイルは、地中海の農耕文化を代表する伝統的な生活スタイルを踏襲したものとなっている。ただ、こうしたスタイルは現代の社会変容の影響を受けて脆弱になっている。また、アトス山は農業や工芸の伝統のみならず、地域特有の建築文化を引き継いでいる。
10世紀以降、正教会の精神的支柱となった聖山アトスは、1054年に正教会の主要な修道院として認められた。1453年にコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡し、1589年にモスクワ総主教が独立した後もこの重要な役割は引き継がれており、20世紀においても程度の差はあれ20か国以上に存在する正教会の信仰と直接かつ密接に関連している。隔絶された自然環境の中で1,000年にわたる歴史が生み出した建造物群や貴重なコレクションは卓越した価値を持ち、今日においても普遍的で際立った重要性を保持している。
伝統的な農業と林業が営まれているが、何世紀にもわたって修道院の規則は厳格に守られており、神聖視された美しい自然環境が維持されている。この結果、アトス山に残された地中海の貴重な森林と、森林をベースとする植物相はほとんど手付かずで保存されている。
アトス山は正教会の歴史と密接に関係しており、修道院の施設群と芸術的なコレクションを通じて顕著な普遍的価値を保持している。すべての修道院は承認を得たプロジェクトに従って修復されており、使用される素材も環境にやさしい伝統的なもので、よく保全されている。
世界遺産の資産面積は33,042.3haで、アトス半島のほぼ全域をカバーする。豊かな動植物相を維持するのに十分な広さがあり、森林と伝統的な農業を慎重に管理することで自然環境は保持されている。修道院活動は何世紀にもわたって持続可能な伝統的スタイルを貫いており、今後も修道生活の変化が環境に悪影響を及ぼすことはないと考えられる。ただ、森林火災や地震、道路などのインフラ整備に対しては脆弱であり、注意が必要である。
資産は修道院と関連施設の位置、建物や農場の形状・デザイン・素材、それらの使用法や機能、精神性と印象といった点で真正性を維持しており、登録基準に明記された文化的価値を保持している。アトス山は過去12世紀にわたって積み重ねられ刻み込まれた膨大な歴史的・芸術的・文化的資産を有し、これらは修道院コミュニティによって適切に保護されている。