シエナ歴史地区

Historic Centre of Siena

  • イタリア
  • 登録年:1995年
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iv)
  • 資産面積:170ha
  • バッファー・ゾーン:9,907ha
世界遺産「シエナ歴史地区」のカンポ広場、プッブリコ宮とマンジャの塔
世界遺産「シエナ歴史地区」のカンポ広場、中央はプッブリコ宮殿と高さ88mのマンジャの塔
世界遺産「シエナ歴史地区」、シエナ大聖堂
世界遺産「シエナ歴史地区」、シエナ大聖堂。鐘楼は高さ77mを誇る
世界遺産「シエナ歴史地区」、シエナ大聖堂、ポリクロミアで覆われたドームと交差廊
世界遺産「シエナ歴史地区」、シエナ大聖堂、星とポリクロミアで覆われたドームと交差廊
世界遺産「シエナ歴史地区」、サン・ドメニコ聖堂
世界遺産「シエナ歴史地区」、サン・ドメニコ聖堂
世界遺産「シエナ歴史地区」、サン・フランチェスコ聖堂
世界遺産「シエナ歴史地区」、サン・フランチェスコ聖堂

■世界遺産概要

シエナはイタリア中北部トスカーナ州の古都で、中央広場であるカンポ広場を中心とする歴史地区はロマネスク様式・ゴシック様式を中心に中世・近世の街並みをほぼ手付かずで伝えており、イタリアのみならずヨーロッパ全域の芸術文化に多大な影響を与えた。

○資産の歴史

オオカミに育てられた軍神マルス(ギリシア神アレス)の息子、ロムルスとレムス。兄弟間の闘争を勝ち抜いたロムルスはローマ(世界遺産)を築くが、殺害されたレムスは息子セニウスとアシウスを残した。このふたりが築いた町がシエナであり、カピトリーノのオオカミ像はローマのアポロ神殿からふたりが持ち運んだものと伝えられている。

シエナは紀元前1世紀にエトルリアの植民都市ジュリア・サエナとして歴史の舞台に登場するが、栄えはじめたのは西ローマ帝国や東ゴート王国が滅び、6世紀にランゴバルド王国が成立して以降だ。同国がビザンツ帝国(東ローマ帝国)との通商のために街道を整備すると交易都市として成長し、さらにイギリスのカンタベリーとローマを結ぶ巡礼路フランチジェナ街道の要衝になると多くの巡礼者が訪れた。

キリスト教は金利を取ることを禁じていたが、シエナはいち早く金融業に参戦して成功。12世紀にコムーネ(自治都市)として独立し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサから金貨の鋳造権を得ると、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィア(すべて世界遺産)といった海洋都市と取引を行って金融センターとして発達した。最盛期の13世紀に人口は25,000人に達し、11~15世紀の間に現在見られる歴史地区が築かれた。

同じように金融業で発達した北50kmほどに位置するフィレンツェ(世界遺産)とライバル関係となり、神聖ローマ皇帝と教皇の支持を巡ってもシエナは皇帝派(ギベリン)、フィレンツェは教皇派(ゲルフ)で対立した。シエナはフィレンツェに対して1260年のモンタペルティの戦いで大勝を収めてトスカーナの覇権を握った。1215~63年にかけて聖母マリアに捧げるシエナ大聖堂が建設されていたが、伝説ではこの加護からか白い雲が天から降りてきてシエナ軍を覆い隠し、数的優位に立っていたフィレンツェ軍を打ち破ったという。イタリアのみならずロンドン、マルセイユ、シャンパーニュといった国際市場で大いに活躍し、シエナは西ヨーロッパ有数の金融都市に成長した。

1260~1355年にシエナは黄金期を迎えた。バンキ・ディ・ソプラ通りやバンキ・ディ・ソット通りには金融機関が立ち並び、ヨーロッパ経済をリードした。これらの通りは現在も銀行街として伝統を引き継いでいる。貴族や金融業者・豪商らが数多くの宮殿や別邸を築いたのもこの時代で、プッブリコ宮殿(現・シエナ市庁舎)とマンジャの塔、キージ=サラチーニ宮殿、サリンベーニ宮殿などがゴシック様式で建てられた。ゴシック様式といってもフランス北部やドイツに見られるような高さを競うものではなく、重厚なロマネスク様式をベースにゴシック様式を組み合わせた「国際ゴシック」と呼ばれるもので、「シエナ・ゴシック(シエナ派)」ともいわれる独自の展開を見せた。まもなくフィレンツェから華やかなルネサンス様式が広がっていくが、フィレンツェに対抗するためかルネサンス様式は一部に限られた。絵画や彫刻といった芸術においてもゴシックの影響を受けた「シエナ派」と呼ばれる一派を生み出し、ドラマティックで保守的・神秘主義的・聖書的な作風は華やかで自然主義的なフィレンツェ派と対照をなした。この時代のシエナ派の芸術家にはドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ、シモーネ・マルティーニ、アンブロージョ・ロレンツェッティ、ピエトロ・ロレンツェッティ、ジョヴァンニ・ディ・パオロらがいる。

1348年のペストによってシエナは荒廃し、金融業も下火になる一方で、フィレンツェやミラノが影響力を増していった。1399年にはミラノに一時町を奪われている。しかし、1458年にシエナのピッコローミニ家のピウス2世が教皇に就いたことで一時的に勢いを取り戻した。ピウス2世はルネサンス都市・ピエンツァ(世界遺産)を築いたことで知られるが、シエナでもピッコローミニ宮殿やロッジア・デル・パパといったルネサンス様式の建物を建設した(ピッコローミニ・クレメンティーニ宮殿のようなゴシック建築も築いている)。また、1472年には現存する世界最古の銀行であるモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行が創設された。

イタリア領有を巡ってフランスと神聖ローマ帝国の間で争われたイタリア戦争(1494~1559年)において、シエナはフランスと同盟を組んで神聖ローマ帝国とフィレンツェ、スペインに対抗するが、1555年のマルシアーノの戦いに破れてスペインに降伏。スペインはメディチ家から巨額な支援を受けていたため1559年にフィレンツェ公国に譲渡され、後にはトスカーナ大公国の下に入り、繁栄を終えた。

トスカーナ大公であるメディチ家はペトルッチ宮殿を購入してレアーレ宮殿として改修して居城とし、城壁を整備すると同時にサンタ・バーバラ要塞(メディチ要塞)を築いて町を固めた。しかしながら金融業については拠点がフィレンツェに移り、産業が再興することはなかった。

○資産の内容

世界遺産の資産は14~16世紀に築かれた全長7kmの城壁の内側で、一帯が地域で登録されている。3つの主な通りがY字形をなしており、カンポ広場北のクローチェ・デル・トラヴァッリョで会している。

代表的な建造物として、「イタリアでもっとも美しいゴシック建築」と讃えられるシエナ大聖堂、正式名称メトロポリターナ・ディ・サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂が挙げられる。全長89.4×54.5mのラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で、十字形の交差廊に巨大なドームを頂いている。ドームは直径約20m・高さ48mでロッジア(柱廊装飾)に囲われており、頂部にジャン・ロレンツォ・ベルニーニによる黄金のランタンを掲げている。身廊はロマネスク様式の重厚な造りながら、ジョヴァンニ・ピサーノが指揮したファサード(正面)は明確なゴシック様式で、バラ窓や尖頭アーチ、ティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)、ピナクル(ゴシック様式の小尖頭)、ガーゴイル(悪魔や怪物を象った雨樋)といったゴシック装飾や、ロッジア、モザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)などで彩られている。三角形のペディメントの黄金のモザイク画はイエス降誕、聖母戴冠、聖母奉献を描いている。壁面や鐘楼・内部のポリクロミア(多色大理石による縞模様)はムーア建築(イベリア半島のイスラム教建築)の影響で、こうしたデザインはフィレンツェのルネサンス建築にも大いに影響を与えている。大聖堂の内部は芸術作品であふれており、アルベルト・アリンギエーリらによるモザイク画の床、ドメニコ・ベッカフーミやヴェントゥーラ・サリンベーニらによるフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)、ニコラ・ピサーノの説教壇、バルダッサーレ・ペルッツィによる主祭壇、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャによるステンドグラス、ミケランジェロ・ブオナローティによる聖ペトロ像、ドナテッロによる洗礼者聖ヨハネ礼拝堂の洗礼者聖ヨハネ像など、シエナ派を中心に傑作の宝庫となっている。

大聖堂隣接のピッコロミーニ図書館は蔵書や文書を保管するために教皇ピウス3世が1492年に建設した図書館・公文書館で、やはり見事なフレスコ画やモザイク画、絵画、彫刻、スタッコ細工、ポリクロミアなどで覆われている。14世紀に建設されたサン・ジョヴァンニ洗礼堂も同様で、15世紀はじめに制作されたルネサンス様式の洗礼盤はドナテッロやロレンツォ・ギベルティをはじめルネサンスの芸術家による見事な彫刻・レリーフで彩られている。ロマネスク様式の鐘楼は高さ77mで、ポリクロミアと6層のランセット窓(細長い連続窓)が独特の外観を生み出している。

大聖堂の南西に位置するサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会は1257年に建設が開始されたロマネスク様式の教会堂で、15世紀後半にルネサンス様式で改修された。単廊式(身廊のみで側廊を持たない様式)のバシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の建物)で、内部には木造格天井やアプスのフレスコ画、大理石製の主祭壇、ロレンツォ・ディ・ピエトロによるイエスのブロンズ像など数多くの見所がある。

サン・ドメニコ聖堂は1226~65年頃に建設されたラテン十字形・単廊式の教会堂で、14世紀にゴシック様式で改修された。ゴシック様式といっても小さなバラ窓やステンドグラス以外に装飾をほとんど持たないシンプルな外観で、シエナ・ゴシックの特徴を示している。特に有名なのは巡礼地として名高いサンタ・カテリーナ礼拝堂で、ルネサンス様式の礼拝堂にはドミニコ会の修道士で後に列聖されたシエナの聖カテリーナの頭部が聖遺物として収められている。

サントゥアリオ・ディ・サンタ・カテリーナ(サンタ・カテリーナの聖域)は聖カテリーナの生家があったと伝わる場所で、1461年に教皇ピウス2世によって列聖されてから聖域として開発が進められた。生家といわれる建物は一種の集合住宅で、1~2階はルネサンス様式のロッジアやポルティコで装飾されている。隣接するクロチフィッソ教会(十字架教会)は17世紀に建てられたバロック様式の教会堂で、聖カテリーナが聖痕を受けたと伝わる聖痕の十字架を収めている。

サン・フランチェスコ聖堂はラテン十字形・単廊式の教会堂で、13世紀にロマネスク様式で建設され、14~15世紀にゴシック様式で改修された。シエナはフランシスコ会を創設する聖フランチェスコが13世紀に訪れてから聖母マリアの祝福を受けてキリスト教都市として発展したともいわれるが、この教会堂は聖フランチェスコの依頼で建設されたと伝わっている。シボリウムと呼ばれる儀式用の容器に入れられたパンが腐敗しないという奇跡で知られ、巡礼地となっている。身廊の壁面はポリクロミアで覆われており、主祭壇は見事なステンドグラスで飾られている。

これら以外にも、ゴシック・ルネサンス様式のサンタ・マリア・デイ・セルヴィのサン・クレメンテ聖堂、ルネサンス様式のロッセルヴァンツァ聖堂(サン・ベルナルディーノ聖堂)やサント・スピリト教会、ゴシック・バロック様式のサンタゴスティーノ教会など名高い教会堂は数多い。

シエナの代表的な宮殿建築には、現在シエナ市庁舎として使用されているプッブリコ宮殿がある。1297~1310年に建設されたシエナ共和国の庁舎で、カンポ広場に面してゴシック様式で建設された。凸形で左右が3階建て、中央が4階建てで、下層は石造、上層はレンガ造となっている。リソルジメントの間、バリアの間、枢機卿の間、マッパモンドの間、ノヴェの間をはじめ主要な部屋はフレスコ画で飾られており、アンブロージョ・ロレンツェッティやシモーネ・マルティーニ、スピネッロ・アレティーノといった一流画家が参加している。特に宮殿礼拝堂を覆い尽くすタッデーオ・ディ・バルトーロのフレスコ画は名高い。付属のマンジャの塔は高さ88mを誇り、1338~48年にルネサンス様式で建設された。基壇は凝灰岩の切石、本体は多くがレンガ造で、最上部の王冠部分は画家・彫刻家リッポ・メンミによってトラヴァーチン(石灰質の岩石の一種)で築かれている。

キージ=サラチーニ宮殿はもともと12世紀にゴシック様式で建てられた建物で、徐々に増築されて14世紀ほどに現在の大きさになった。16世紀にロッジアや内装がルネサンス様式で改修され、塔が設置された。フレスコ画や彫刻など数々の芸術作品が見られ、現在はキジャーナ音楽院が入っている。

サリンベーニ広場に面したサリンベーニ宮殿は14世紀にゴシック様式で建設されたサリンベーニ家の宮殿で、「コ」字形のコートハウス(中庭を持つ建物)となっている。現存する世界最古の銀行であるモンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行の本店が入っており、銀行の美術コレクションが収められている。

マグニフィコ宮殿は事実上シエナの領主だったパンドルフォ・ペトルッチが1508年に完成させた宮殿で、ジャコモ・コザレッリの設計でドメニコ・ディ・バルトロメオが建設を行った。特に内部はピントゥリッキオ、ルカ・シニョレッリ、ジローラモ・ジェンガといったシエナ派のルネサンス芸術家を総動員してフレスコ画や絵画、スタッコ細工などで装飾され、当時もっとも豪華な宮殿のひとつと評された。同時期にパンドルフの兄弟であるヤコポがペトルッチ宮殿を建設しているが、こちらは16世紀末にメディチ家によって買い取られ、フィレンツェの建築家ベルナルド・ブオンタレンティの設計でルネサンス様式に改修されてレアーレ宮殿となった。

アルチヴェスコヴィレ宮殿(大司教宮殿)は18世紀に大聖堂に隣接して築かれた大司教のための宮殿だ。大聖堂の美観を考慮してシエナ・ゴシックのリバイバル様式で築かれており、下部は切石、上部はレンガのツートーンとなっている。バロック様式の礼拝堂やシエナ派の絵画を集めたホールなど、豪華な内部空間が広がっている。

シエナの主要な軍事建築にはサンタ・バーバラ要塞がある。もともとこの場所にはスペインによって築かれた砦があり、この地を占領したメディチ家のフィレンツェ公(トスカーナ大公)コジモ1世が1561~63年にかけて再建したことからメディチ要塞とも呼ばれる。四角形の角から稜堡が飛び出した星形要塞だが、18世紀に非武装化されて公園となった。

また、中世初期から15世紀にかけて築かれたシエナの城壁の多くが残されている。数多くの城門があり、城壁にアーチが口を開けたトゥフィ門、ラテリーナ門、サン・マルコ門、カモリア門、甕城(おうじょう。バービカン。城門外に張り出した二重の城門部分)を持つピスピニ門やロマーナ門、オヴィレ門、建物と一体化したサン・マウリツィオ門、ラルコ門、二重門(アルコ・デッレ・ドゥエ・ポルテ)などが残されている。

■構成資産

○シエナ歴史地区

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

都市と建築においてシエナ歴史地区は人類の創造性の証であり、その芸術的・美的資質を物理的に証明している。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

建築・絵画・彫刻・都市計画といった点で芸術文化の際立った例であり、特に13~17世紀にかけてシエナ共和国全域のみならずイタリアを越えヨーロッパにまで多大な文化的影響を与えた。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

デザイン的に統一された町の構造と何世紀にもわたる途切れることのない発展はシエナをイタリアの中世およびルネサンス期のもっとも貴重な町に引き上げている。

■完全性

シエナ歴史地区は14~16世紀にかけて築かれた城壁に囲まれており、城壁には城塞・塔・門が設置され、都市のある3つの丘の輪郭に沿って延びている。こうした城壁に加え、資産はトンネルのある噴水、道路網、都市計画に関連した緑地、公共施設、宮殿やタワー・ハウスをはじめとする住宅など、多くの独創的で重要な要素を含んでいる。

シエナ歴史地区は環境汚染や観光圧力に脆弱で、年に数か月間、市のサービスによって過剰な負担が掛かっている。また、地域住民が歴史地区を放棄しつつあるという点も懸念される。この地域は1983年の調査で地震について低~中程度のリスクがあると発表されたが、現在の保護活動は適切であると考えられる。

■真正性

その保存状態と歴史的真正性を考慮すると、シエナはこの規模の中世の歴史都市としてきわめて稀有な例であるといえる。これはシエナが深刻な戦争の被害を受けておらず、国の大規模な開発エリアから外れていたため近代的な産業開発を免れることができたことによる。住民の数は比較的少ないままで中世の頃とほとんど変わっておらず、そのため大規模な都市拡張も行われなかった。周辺についても19世紀に小規模なプロジェクトが実施されたのみで、シエナの歴史的真正性と不可分な価値を共有している。

これらの要因により、15世紀の都市レイアウトを備えた本来の都市形態がゴシック様式の公共施設や宮殿、タワー・ハウスとともに維持されており、城壁内に築かれた菜園のように中世の機能も変更されていない。バンキ・ディ・ソプラ通りやバンキ・ディ・ソット通りに見られるように、伝統的な活動は都市の特定のエリアで中世同様に継続されており、こうした古い通りは両替商で占められ、現在は銀行が立ち並んでいる。ただ、汚染による建築要素の除去やレプリカへの交換は建物やモニュメントの真正性に対する脅威となっている。

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