慈善の入植地群

Colonies of Benevolence

  • オランダ/ベルギー
  • 登録年:2021年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:2,012ha
世界遺産「慈善の入植地群」、フレーデリクスオールトの戸建て住宅
世界遺産「慈善の入植地群」、フレーデリクスオールトの戸建て住宅
世界遺産「慈善の入植地群」、ウィルヘルミーナオールトのレストハウスII
世界遺産「慈善の入植地群」、ウィルヘルミーナオールトのレストハウスII
世界遺産「慈善の入植地群」、フェーンハイゼンの国立刑務所博物館
世界遺産「慈善の入植地群」、フェーンハイゼンの国立刑務所博物館 (C) Robert EA Harvey
世界遺産「慈善の入植地群」、ウォルテルの初期の様子
世界遺産「慈善の入植地群」、ウォルテルの初期の様子。グリッド構造で、各戸に住宅と農場が割り当てられている

■世界遺産概要

「慈善の入植地 "Koloniën van Weldadigheid"」は19世紀、ネーデルラント王国の都市の生活困窮者に対する福祉施設で、地方に農業入植地を開拓して移住を促した。啓蒙主義(理性による合理的な知によって蒙(もう)を啓(ひら)こうという思想)による社会改革の一部で、都市部の社会問題と荒廃した地方の再生を目的に慈善協会によって設立された。当初は入植した家族を自営農民として独立させることを目的としていたが、19世紀後半から集団農場が増え、救護施設や児童養護施設・刑務所等として使用されることが多くなった。構成資産はオランダのフレーデリクスオールトとウィルヘルミーナオールト(土地が連続しているため1件と数えられている)、フェーンハイゼン、ベルギーのウォルテルの3件。

○資産の歴史

17世紀にいわゆる「オランダの世紀」を迎えて覇権国家となったオランダ(ネーデルラント連邦共和国)だが、18世紀にイギリスとの競争に敗れて海外市場を失い、産業革命にも出遅れて中継貿易に依存するようになった。フランス革命後にフランスの侵攻を受けて傀儡国家バタヴィア共和国が成立し、フランス皇帝ナポレオン1世の弟であるルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国の時代を経てフランス帝国の直轄領となった。ヨーロッパを席巻したナポレオン戦争(1803~15年)後、1814~15年のウィーン会議で北ネーデルラント(オランダ)と南ネーデルラント(ベルギー)をまとめてネーデルラント王国が成立し、オラニエ=ナッサウ家のウィレム1世が王位に就いた。

こうした長年にわたる混乱の結果、オランダ経済は弱体化し、都市部で多数の孤児が出るなど貧困問題が深刻化し、地方では農地の荒廃が進んだ。一方で、フランス革命やナポレオン戦争を経て民主主義や自由主義・啓蒙思想が浸透し、社会改革の要望が高まった。こうした中で商工業の振興によって都市の再生が進められると同時に、地方においては農場の再建が計画された。その一環として進められたのが慈善の入植地だ。

1818年、後にオランダ領東インドの総督となる将校ヨハネス・ファン・デン・ボスが貧困問題を解決するために慈善協会を設立する。オランダ北東部ドレンテ州の手付かずの土地を購入し、ヒース(荒れた低木帯や草原)や荒地を開拓して試験的な入植地を建設して53の家族を送り込んだ。まもなくこの町は後援者のひとりであるウィレム1世の次男フレデリック・ファン・オラニエ=ナッサウから名を取ってフレーデリクスオールトと名付けられた。内部は直交した道路で整然と区切られており、それぞれの家族に長方形の細長い土地を割り当てて住宅と農場が与えられた。ここで人々は農民として訓練を受け、最終的に独立した自営農民を目指した(独立型入植地)。

やがて入植地は規模を拡大し、1820~22年には隣接地にウィルヘルミーナオールトが設立された。ウィレム5世の公妃ウィルヘルミーネ・フォン・プロイセンにちなんで命名された町で、こちらも独立型入植地として開墾された。世界遺産の構成資産ではないが、周辺にはさらにボシオールトやウィレムスオールトがオープンしている。こうした入植地で各家族は自営農民を目指したが、農場が小さすぎたり肥料が不足するなど独立は難しく、国の援助に頼らざるをえなかった。

慈善協会は活動を継続するために州と契約し、孤児のための施設として1823年にフェーンハイゼンの入植地を建設した。その後、失業者や浮浪者を受け入れて最大規模の慈善の入植地となった。この入植地は自営農民を目指すものではなく、寮のような集合住宅で生活を行い、監督官の下で労働を行う中央集権的な集団農場となった(非独立型入植地)。

以上はすべて北ネーデルラントのドレンテ州の施設だが、慈善協会は1821年に南ネーデルラントに支部を設立し、森林を開拓してウォルテルやメルクスプラスの入植地を建設した。こちらは独立型入植地として計画され、整然と区画された土地に各家族の住宅と農場が割り当てられた。

1827年時点で慈善協会は入植地群に500以上の家族を抱え、6,744人の住民が暮らしており、2,700haの土地で農業を営んでいた。ただ、自給自足はやはり難しく、特に人々の体力的な問題と肥料不足のため収穫量は乏しく、肥料購入のために多大な出費を強いられた。

当時、経済が低迷していた北ネーデルラントに対し、南ネーデルラントは豊富な地下資源を利用して1820~30年代にイギリスに次ぐ産業革命を成功させた。にもかかわらず高圧的な態度で接する北ネーデルラントに対して独立革命が勃発し、1830年にベルギー王国として独立を宣言した。ヨーロッパ列強は翌年これを承認し、北ネーデルラントも1839年に分離・独立を認めた(以降、ネーデルラント王国はオランダ王国と呼ばれる)。ベルギーの経済状況は悪くなかったが、ベルギーの南部慈善協会は資金繰りに苦しみ、1842年に破産。1870年に復活すると、ウォルテルでは独立型を諦めて、大きな集合住宅と大農場を整備して生活困窮者を収容する非独立型の入植地に建て替えられた。1910年には6,000人ほどが居住していたが、徐々に減少。20世紀にはてんかんや結核の患者を収容する療養施設や刑務所が建設された。ウォルテルでは1993年に農業生産を終了し、以後は主に刑務所として運用された。

オランダの入植地群では19世紀半ばの最盛期に11,000人を超える住民を抱えていたが、資金難はオランダの慈善協会も同様で、1859年にはフェーンハイゼンの入植地が政府管理に移行した。それまでの集団農場を維持しながらも、製粉所や食肉処理場といった工場を建設して新産業が開拓された。1918年以降、複数の刑務所が開所して刑務所コンプレックスとなり、一部は現在も運用されている。

この頃、慈善協会が運営するフレーデリクスオールトとウィルヘルミーナオールトでも改革が進められ、集合的に運営される大農場を建設。農業に適さない土地では造園業や林業への転換が図られて、園芸学校や林業学校が開学した。20世紀には軽犯罪者の受け入れもはじまり、刑務所や職業訓練校としての役割も果たした。しかし、第2次世界大戦の混乱と農業政策の失敗から1953年に農業生産は中止され、慈善協会の活動は社会プログラムの実施と遺産保護に重心を移した。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は3件で、オランダのフレーデリクスオールトとウィルヘルミーナオールト、フェーンハイゼン、ベルギーのウォルテルとなっている。いずれの地域でも開発が進んだ現代的な街並みは資産から除外されている。

フレーデリクスオールトは試験入植地から移行した最初期の入植地で、直交する直線的な道路で区切られた土地を細長い長方形に分割し、それぞれに住宅と小規模な農場を整備して各家族に割り当てた。グリッド構造は並木道によって強調されており、主要な交差点に作業場や集会所・学校といった公共施設が配された。1864年以降は集団で耕作を行う集団農場に移行したが、以前の構造を活かしたまま整備されたため、レイアウトから歴史的推移を読み取ることができる。また、慈善協会の本部と創設者であるヨハネス・ファン・デン・ボスの家もここに設けられた。半分ほどの住宅や農場・大農場・園芸学校・林業学校・郵便局・食品店・工作所などの施設が残されており、一部の施設はコロニーホフ博物館のように博物館として公開されている。ホテル・フレーデリクスオールトはもともと1770年に建設されたゲストハウスで、慈善協会の施設として使用され、現在はホテルとして営業している。一部の農場は貸し出されており、いまでも畑や牧場として使用されている。

ウィルヘルミーナオールトはフレーデリクスオールトに隣接して築かれた入植地で、両者を合わせて555haの広さとなっている。フレーデリクスオールトに比べると不規則な形をしており、その中に長方形の区画が平行して並んでいる。かつては輸送用の運河が整備され、水路が張り巡らされていた。1859年に集団農場に移行したが、主な道路はそのまま残されており、レイアウトはおおよそ維持されている。住宅の半数は現存しており、家族農場や集団農場とともにレンガ造の教会堂や高齢者用の施設であるレストハウスIとレストハウスII、学校、療養施設、かご細工や裁縫・製鉄などの工場、墓地などが伝えられている。

フェーンハイゼンは非独立型の入植地で、慈善の入植地としては最大を誇る907haの土地を持つ。中央に公共施設と集合住宅を配し、周囲に大農場が展開する形で、フォフテローラフェーン自然保護区と隣接している。一帯は養分豊富な泥炭地(植物の死骸が完全に腐る前に堆積した土地)で、運河や水路で囲って干拓(海を堤防で囲み、排水して陸地化すること)を行い、四角形の土地をさらに小さな四角形に区画して耕作を行った。ただ、現在は多くが埋め立てられており、運河や水路も機能を失っている。残っているのは24農場の内の11農場で、ほとんどは1890年以降に整備されたものだが、ヤフトヴェイデ農場は1820年代の構造を留めている。建物としては孤児院や集合住宅、刑務所、ローマ・カトリックやプロテスタントの教会堂、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)、食肉処理場、製材所、木材工場、製粉所、紡績工場、発電所、病院、学校、監督官の家、墓地などが残されており、一部は博物館として公開されている。特に刑務所関連施設が有名で、現役の刑務所や国立刑務所博物館などが立ち並んでいる。

ウォルテルは550haの広がりを持つ入植地で独立型入植地として建設されたが、1870年以降に非独立型に移行した。主要道路と農場の基礎部分は1820年代にさかのぼるが、ほとんどの要素は1870年以降のもので、グリッド状に区画された農場の中央に集合住宅や公共施設が集中するフェーンハイゼンに似た構造を採っており、外には自然保護区の森が広がっている。1993年に農業生産を終了してからは主に刑務所として使用され、中央南には現在も運用中の刑務所と関連施設が連なっている。中央北に立つ西・南・北の3棟からなるU字型の集合住宅群をはじめ、入植地本部や中央事務所、礼拝堂、幹部の家、聖職者の家、墓地、人工池などが残されている。

■構成資産

○フレーデリクスオールト=ウィルヘルミーナオールト(オランダ)

○フェーンハイゼン(オランダ)

○ウォルテル(ベルギー)

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

慈善の入植地群は大規模な農業・住宅入植地であり、全国的で卓越した啓蒙実験による社会改革の実践を証明している。入植地群は困窮した人々を勤勉な市民に変え、不毛の荒地を生産的な土地に改良することを目的としており、「生産的労働」の概念に基づくソーシャル・エンジニアリング(社会工学)のモデルを提供した。労働に加え、教育と道徳の向上は自立した市民を育成するという目的に対する不可欠な要素と考えられ、入植地群は最先端の公共施設を備えた体系的で持続的な農業集落として開発された。入植地のモデルが確立されると国際的な注目を集め、1世紀以上にわたって西ヨーロッパ内外のさまざまな救護施設や介護施設の発展に寄与した。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

慈善の入植地群は貧困問題の解決という社会目的で19世紀に実践された家族向け農業入植地のすぐれた例である。国内でも遠方のヒースや泥炭地といった陸の孤島といえる土地が意図的に選ばれ、空間的に合理的で機能的かつパノラマ的な施設を築いて農業生産を行った。入植地群は社会的な目的のために築かれた農業住宅入植地の景観設計の際立った例であり、多様な景観パターンは入植地の当初の特徴とその後の発展を反映しており、特に繁栄期(1818〜1918年)における社会実験の広がり・野心および進化を示している。

■完全性

資産は独立型と非独立型という両タイプの入植地の最重要の例が選ばれており、顕著な普遍的価値を伝えるすべての要素を含んでいる。それぞれの構成要素は入植地モデルの繁栄期の様子を伝える景観レイヤーを形成し、各時代の景観の組み合わせによって全体の文化的景観が成立している。独立型入植地では直交する道路と、住宅と小農場を含む同形のフィールドが細長いリボン構造を形成しているのに対し、非独立型の入植地では直行する大通りと大農場の中央により大きな建造物群や住宅が集中して設けられている。景観における特徴的な要素として、道路や街路樹・植栽・牧草地・草原・森林・住宅・農場・施設・教会堂・学校・工場と、全体の直交構造が挙げられる。これらの要素は時間の経過とともに変化・発展が見られ、資産はもっとも保存状態のよい独立型・非独立型の入植地の最良の文化的景観を示している。

■真正性

資産の位置・形状・デザイン・素材は適正であり、真正性は保たれている。入植地群が創設され繁栄した時代にもたらされた構造化された形状・植栽・残存する建造物群・考古遺跡を備えた独創的な文化的景観は、慈善の植民地群の物語を真正かつ確実に伝えるものであり、顕著な普遍的価値を表現している。

農業と慈善協会によって策定された社会目的のために行われた2世紀にわたる継続的な入植地群の使用によって入植地の社会的重要性は再定義され、時代の変化に対応するため新たな機能によって補完された。構成資産の景観構造は単調な歴史によってもたらされたものでなく、ふたつの決定的な段階、最初の創設期(1818~59年)と、進化をもたらした国家機関と民営化の段階(1860~1918年)が結び付くことで形成された。

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