ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]

Frontiers of the Roman Empire – The Danube Limes (Western Segment)

  • オーストリア/スロバキア/ドイツ
  • 登録年:2021年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)(iv)
  • 資産面積:1,670.6422ha
  • バッファー・ゾーン:1,074.6755ha
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、ドイツ・レーゲンスブルクにあるカストラ・レジーナの門、ポルタ・プラエトリア
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、ドイツ・レーゲンスブルクにあるカストラ・レジーナの門、ポルタ・プラエトリア (C) Steffen Schmitz (Carschten) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、オーストリアにある駐屯地カルヌントゥムのハイデントーア(異教徒門)
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、オーストリアにある駐屯地カルヌントゥムのハイデントーア(異教徒門)
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、オーストリア・トライスマウアー城のローマ門
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、オーストリア・トライスマウアー城のローマ門。下段がローマ時代の遺構で、その後増築されている (C) Bwag
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、オーストリアのマウターン・アン・デア・ドナウにあるカステル・ファヴィアニスの城壁と望楼
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、オーストリアのマウターン・アン・デア・ドナウにあるカステル・ファヴィアニスの城壁と望楼 (C) Bwag
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、スロバキア・ルソフセの駐屯地ゲルラタ(カステル・ルソフセ)の遺跡
世界遺産「ローマ帝国の国境線-ドナウ・リメス[西セグメント]」、スロバキア・ルソフセの駐屯地ゲルラタ(カステル・ルソフセ)の遺跡 (C) Radosław Botev & Sylwia Botev

■世界遺産概要

ローマ帝国が築いた国境防塞システム=リメスのうち、ドイツからオーストリア、スロバキアまでドナウ川沿いの約600kmに点在する城壁や土塁・城・要塞・砦・堀・堡塁・望楼(物見櫓)・駐屯地・埋葬地・居住地など77件の構成資産を登録した世界遺産。なお、本件はハンガリーを含めて4か国で推薦されていたが、ハンガリーは第44回世界遺産委員会で急遽推薦を取り下げて3か国での登録となった。構成資産について、レーゲンスブルクの一部については世界遺産「レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ」と重複している。また、ローマ帝国のリメスを登録した世界遺産には他に世界遺産「ローマ帝国の国境線(イギリス/ドイツ共通)」と「ローマ帝国の国境線-下ゲルマニア・リメス(オランダ/ドイツ共通)」がある。

○資産の歴史

共和政ローマは紀元前3世紀にイタリアを統一し、紀元前2世紀にギリシアや小アジア(現在トルコのあるアナトリア半島周辺)、中東の一部を占領。紀元前1世紀には中東や北アフリカ、ガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)の多くを版図に収めた。紀元前27年にアウグストゥスが帝位についてローマ帝国が成立。この時代、ドナウ川周辺にはローマ人が「バルバロイ(訳のわからない言葉を話す人々。野蛮人といった意味の蔑称)」と呼ぶ異民族が勢力を広げていたが、アウグストゥスの時代にドナウ川以南の多くの土地を版図に収めた。次のティベリウス、第4代皇帝クラウディウス、第5代皇帝ネロらはドナウ川周辺に多くの要塞や砦を築いて防塞線を敷き、時にドナウ川の北に進出して新たな土地を獲得した。

ローマ帝国は国境線に沿って城壁や要塞・砦を築いて「リメス」と呼ばれる防塞システムを敷いた。ハドリアヌスの長城やアントニヌスの長城(いずれも世界遺産)に代表される長城(国境線に築かれた土塁や壁)もリメスの一種で、最盛期には現在イギリスのあるグレートブリテン島からドイツ、黒海、紅海、中東、北アフリカまでリメスの国境線の総延長は7,500kmを超え、要所に城壁や土塁・堀・城・要塞・砦・橋頭堡・堡塁・望楼・駐屯地・居住地・埋葬地・港・道などを建設した。

ドナウ川沿岸については川が巨大な堀として機能するため長大な長城は築かれず、要所に要塞や砦・駐屯地を設けて防衛拠点とし、望楼を建てて異国を監視した。本遺産についてはドナウ川上流の約600kmのリメスを登録したもので、ローマ属州ラエティア(現在のドイツ南部、スイス北部、オーストリア西部の一帯)、その東の属州ノリクム(オーストリアとスロベニア北部の一帯)、さらに東の属州パンノニア(ハンガリー、スロバキア、オーストリア、バルカン半島北部に広がる一帯)の国境を守るものだった。なお、ドナウ川のさらに上流でライン川上流にもあたるラエティア西部と上ゲルマニアのリメスについては世界遺産「ローマ帝国の国境線(イギリス/ドイツ共通)」、ライン川下流にあたる下ゲルマニアのリメスについては世界遺産「ローマ帝国の国境線-下ゲルマニア・リメス(オランダ/ドイツ共通)」に登録されている。

リメスで中心的な役割を果たしたのが10~30kmおきに築かれた大型の軍事拠点である要塞や小型の砦で、特に重要な拠点となったのがカストラ・レジーナ(現・レーゲンスブルク。世界遺産)やローリアクム(現・エンス)、ウィンドボナ(現・ウィーン。世界遺産)、カルヌントゥム、ケレマンティア(現・イジャ)といった要塞で、大規模な軍の駐屯地や民間の居住地を伴っていた。こうした要塞や砦の間に1~2km間隔で監視塔あるいは信号塔となる望楼が築かれ、これらを結ぶラインに沿ってライム道と呼ばれる道が整備された。多くのライム道はドナウ川とほぼ平行に走っており、ドナウ川についてはローマ帝国の艦隊が睨みを利かせていた。

2世紀はじめ、トラヤヌスの時代にローマ帝国は最大版図を築き、ヨーロッパではダキア(現在のルーマニア周辺)が支配下に入ってドナウ川流域のリメスの構成が見直された。2世紀には異民族による上ゲルマニアやラエティア、パンノニア、ダキアなどへの侵出が相次ぎ、166〜180年にマルコマンニ戦争が勃発した。時の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは植民都市アクインクム(現・ブダペスト。世界遺産)やカルヌントゥムの要塞を拠点に戦い、一時はこれらを落とされて撤退したが、最終的に帝国領を守り抜いた。戦後、リメスの再建や新たな拠点の整備が行われた。

3~4世紀になると北からゲルマン系諸民族、東からペルシア系のサルマティア人が圧力を強め、コンスタンティヌス1世・2世はリメスを強化して対応した。この時代の要塞や砦は以前のものより大きく厚くなり、馬蹄形の塔は円筒形の塔に置き換えられた。4世紀後半のウァレンティニアヌス1世は最後にリメスを本格整備した皇帝で、兵士の数が減ったため要塞や砦の規模は小さくなったが、3~4階建ての高い望楼が建てられた。

5世紀に入るとフン帝国の出現と、彼らに押し出されてローマ帝国領に侵入したゲルマン系諸民族によって防塞線は突破され、リメスや植民都市は破壊され、多くは放棄された。そしてゲルマン人はイタリア本土に進出し、476年に西ローマ帝国は滅亡した。

○資産の内容

主な構成資産として、まずカストラ・レジーナが挙げられる。175年頃にマルクス・アウレリウス・アントニヌスによって創設されたラエティア最重要の要塞で、540×450mほどの長方形で高さ8~10mほどの城壁に囲まれており、4基の門と30基の塔があり、外側に堀が巡らされていた。内部には6,000人を収容する兵舎群を内蔵し、城外にはカナバエやウィクスと呼ばれる居住地と穀物を生産する後背地を伴っていた。こうした居住地が発展して後にレーゲンスブルクとなった。現在、ビルの一部に組み込まれている有名なポルタ・プラエトリア(プラエトリア門)は要塞の北門に当たり、レーゲンスブルクではこのようにローマ時代の遺構や城壁を組み込んだ建造物がいくつか見られる。クンプフミュール城はレーゲンスブルクを見下ろす南の丘に立つ城砦で、80年頃に建設された。もともと木造で、後に石造で建て替えられたが、マルコマンニ戦争で2世紀後半に破壊された。

ローリアクムはノリクム最大の要塞で、カストラ・レジーナとウィンドボナの間の要衝を押さえる拠点となっいた。紀元前1世紀、アウグストゥスの時代にすでに砦が築かれており、マルコマンニ戦争で異民族に対する防塞線として重要性を増すと、2~3世紀に拡張されて本格的な要塞となった。隣接するロルヒの居住地には3万人が暮らしており、これらが後にエンスの町を構成した。要塞は540×400mほどの長方形で、高さ6mほどの城壁と堀、4基の門と36基の塔を有し、内部には兵舎や将校・知事の邸宅・病院・浴場・倉庫などが設置されていた。

ウィンドボナは現在のウィーンに続く古代都市で、もともとケルト人の集落があり、紀元前15年頃にローマ帝国が占領して要塞と居住地を築いて拠点として整備した。パンノニアの要衝で中心都市でもあったことから要塞は単独ではなく近郊のカルヌントゥム、ブリゲティオ(現・コマーロム)、アクインクムといった要塞とネットワークを形成して防衛に当たった。周辺には水道橋や運河が建設され、上下水道を完備していた。やがて人口は2万~3万に達し、6,000人ほどの兵士が駐屯していたと見積もられている。ただ、ウィンドボナは現在のウィーンより8mほど低かったと見られており、ほとんどの遺構が地下深くに眠っている。その中で、これまでに城壁や堀・塔・兵舎・司令部・宮殿・浴場・病院・厩舎・運河・水路・井戸・橋などが発掘されている。

カルヌントゥムはウィンドボナの東に位置するパンノニアの重要な要塞で、紀元前1世紀の共和政ローマの時代から城砦が築かれており、港にはローマ艦隊が駐留していた。1世紀に大規模な要塞が建設され、2世紀はじめのトラヤヌスの時代までにドナウ川の中心的な要塞となった。2世紀前半に皇帝ハドリアヌスがこの地を植民都市アエリウム・カルヌントゥムとして整備すると人口は5万に達し、パンノニアの行政の中心を担った。パンノニアの総督であるセプティミウス・セウェルスが皇帝位に就くと大いに繁栄し、カルヌントゥムは最盛期を迎えた。「3世紀の危機」と呼ばれたローマ帝国の混乱期に衰退し、4世紀にフン人やゲルマン系諸民族をはじめとする民族大移動で大きな被害を受け、4世紀後半に破壊された。以後は衰退し、中世の時代に放棄された。一帯では数多くの遺構が発見されており、要塞の城壁・堀・塔・兵舎・病院・港・望楼・倉庫・砦や、都市の宮殿・フォルム(公共広場)・アンフィテアトルム(円形闘技場)・テルマエ(浴場)・神殿・住宅・墓地・上下水道・水道橋などの跡が発掘されている。

ケレマンティアは下パンノニアの中心都市アクインクムの北西に位置する要塞で、ドナウ川を挟んでブリゲティオの要塞とほぼ対峙している。異民族の圧力に対抗するためにマルクス・アウレリウス・アントニヌスが2世紀後半に建設した要塞で、最前線のローマ軍駐屯地となった。要塞は172×172mほどの大きさで高さ4~5mほどの城壁と堀で囲われており、2基の門と20基の塔を有していた。兵舎は石材が不足していたためかレンガ造で、レンガの質も低いものとなっている。3世紀頃からゲルマン系諸民族の侵入によってたびたび破壊され、ローマ皇帝ウァレンスがゲルマン系の西ゴート人に敗れて戦死した378年のアドリアノープルの戦いの前後に滅ぼされて放棄された。現在、この地にはイジャの町が広がっており、遺構が残されている。

■構成資産

  1. バート・ゲーグギング:浴場(ドイツ)
  2. アイニング-ヴァインベルク:望楼と聖域(ドイツ)
  3. ヴェルテンブルク-アム・ガルゲット: 小砦(ドイツ)
  4. レーゲンスブルク・グロースプリュフェニング:砦とウィクス(ドイツ)
  5. レーゲンスブルク・クンプフミュール : 砦とウィクス1(ドイツ)
  6. レーゲンスブルク・クンプフミュール : 砦とウィクス2(ドイツ)
  7. レーゲンスブルク:要塞1(ドイツ)
  8. レーゲンスブルク:要塞2(ドイツ)
  9. レーゲンスブルク:要塞3(ドイツ)
  10. レーゲンスブルク:要塞4(ドイツ)
  11. レーゲンスブルク:要塞5(ドイツ)
  12. レーゲンスブルク:要塞6(ドイツ)
  13. レーゲンスブルク:要塞7(ドイツ)
  14. レーゲンスブルク:要塞8(ドイツ)
  15. レーゲンスブルク・ニーダーミュンスター:要塞(ドイツ)
  16. レーゲンスブルク:西カナバエ(ドイツ)
  17. レーゲンスブルク:東カナバエ(ドイツ)
  18. レーゲンスブルク:大埋葬地(ドイツ)
  19. シュトラウビング :東砦(ドイツ)
  20. シュトラウビング :ザンクト・ペーター砦(ドイツ)
  21. キュンツィング:アンフィテアトルムとウィクス(ドイツ)
  22. パッサウ・アルシュタット:砦(ドイツ)
  23. パッサウ・ボイオトロ:砦(ドイツ)
  24. パッサウ・ハイバッハ:監視塔(ドイツ)
  25. オーバーランナ:小砦(オーストリア)
  26. シュレゲン:ウィクス(オーストリア)
  27. シュレゲン:砦(オーストリア)
  28. ヒルシュライテングラーベン:望楼(オーストリア)
  29. リンツ:マーティンスフェルト居留地(オーストリア)
  30. リンツ:城と要塞(オーストリア)
  31. エンス:墓地道(オーストリア)
  32. エンス:カナバエ南西部(オーストリア)
  33. エンス:ザンクト・ローレンツ(オーストリア)
  34. エンス:カナバエ北西部(オーストリア)
  35. エンス:カナバエ北東部(オーストリア)
  36. エンス:要塞中央部(オーストリア)
  37. エンス:要塞北部(オーストリア)
  38. アルビング:要塞(オーストリア)
  39. ヴァルシェ:砦(オーストリア)
  40. ヴァルシェ:小砦(オーストリア)
  41. イップス:小砦(オーストリア)
  42. ペヒラルン:砦の馬蹄形塔西部(オーストリア)
  43. ペヒラルン:砦中央部(オーストリア)
  44. ペヒラルン:砦の馬蹄形塔東部(オーストリア)
  45. ペヒラルン:ウィクスと浴場(オーストリア)
  46. ブラスハウスグラーベン:望楼(オーストリア)
  47. ザンクト・ヨハン・イム・マウアーターレ:望楼(オーストリア)
  48. バッハアーンスドルフ:望楼(オーストリア)
  49. ザンクト・ローレンツ:望楼(オーストリア)
  50. ヴィントシュタルグラーベン:望楼(オーストリア)
  51. マウターン:砦西部(オーストリア)
  52. マウターン:砦東部(オーストリア)
  53. トライスマウアー:砦南西部と側防塔(オーストリア)
  54. トライスマウアー:小砦(オーストリア)
  55. トライスマウアー:砦中央部(オーストリア)
  56. トライスマウアー:砦の馬蹄形塔(オーストリア)
  57. トライスマウアー:砦のローマ門(オーストリア)
  58. ツヴェンテンドルフ:城、ウィクス、埋葬地(オーストリア)
  59. トゥルン:砦の馬蹄形塔(オーストリア)
  60. トゥルン:砦中央部(オーストリア)
  61. ツァイゼルマウアー:小砦(オーストリア)
  62. ツァイゼルマウアー:砦中央部(オーストリア)
  63. ツァイゼルマウアー:砦の馬蹄形塔(オーストリア)
  64. ツァイゼルマウアー:砦の穀物庫、側防塔、東城壁(オーストリア)
  65. クロスターノイブルク:砦とウィクス(オーストリア)
  66. ウィーン:カナバエ西部と埋葬地(オーストリア)
  67. ウィーン:カナバエ南西部(オーストリア)
  68. ウィーン:要塞城壁(オーストリア)
  69. ウィーン:要塞中央部(オーストリア)
  70. ウィーン:要塞将校邸(オーストリア)
  71. カルヌントゥム:駐屯地、砦、要塞、植民市、ウィクス、埋葬地(オーストリア)
  72. ルソフセ:ゲルラタ-ローマ駐屯地(砦)(スロバキア)
  73. ルソフセ:ゲルラタ-ハイポコーストと埋葬地のある住宅(スロバキア)
  74. ルソフセ:ゲルラタ-ウィクス(スロバキア)
  75. イジャ:ケレマンティア-ローマ駐屯地(砦)(スロバキア)
  76. イジャ:ケレマンティア-仮設キャンプ(西部)(スロバキア)
  77. イジャ:ケレマンティア-仮設キャンプ(東部)(スロバキア)

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ドナウ・リメスの西セグメントにおいて、ローマ帝国の建築や管理に関する技術的情報は帝国の末端にまで広がり、防塞システムを構成する要塞・砦・望楼や関連のインフラ・民間建築にまで拡張された。

この地域では巨大な城壁のようなものは建設されなかったが、軍だけでなく商人をはじめとする民間人の移動をも制御し、また許可していた。これにより辺境といえるこの地の内外に居住形態や建築・景観・空間構成といった面で重大な変化と発展をもたらし、長期にわたって持続した。

国境沿いに生まれたこうした景観は帝国北部の社会に複雑な軍事システムが適用されたことを証明する際立った例といえる。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

本遺産は、世界を支配してローマの法と生活様式を確立するというローマ帝国の政策を表す卓越した証であり、この地域において帝国が最大限の力を発揮して北方の国境を画定した具体的な証拠が示されている。また、軍事技術や建築・芸術・宗教・政治といった文化や伝統が首都から帝国の最果ての地へと伝播し、一帯を植民地化する過程が表現されている。

また、防塞システムに関連した人々の居住地跡は兵士やその家族、民間人の生活の様子を伝えている。一例が最大の居住地を有するカルヌントゥムで、フレスコ画や彫刻で飾られた宮殿や劇場・神殿・浴場などの遺構が残されている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

本遺産において使用されている素材や原料はローマ帝国の軍事システムが地理的な影響を受け、帝国の脅威に対応するために4世紀以上にわたって進化を続けてきた事実を示している。そして脅威に対応するための軍事戦略は砦の周囲に造られた駐屯地やドナウ川両岸に築かれた橋頭堡、馬蹄形や扇形の塔、ローマ時代末期の戦争の変化に対応して開発された強力な要塞などに反映されている。こうした防塞システム上の建造物の多くが後の時代の入植の核となり、継続して使用されることで中世の町が形成された。

■完全性

本遺産の一連の構成資産はローマ帝国の防塞システムの要となっていた要塞を筆頭に、ドナウ川南岸に沿って展開する防塞線を構成する砦や望楼から民間の居住地まで、かつて辺境の防衛を担っていたすべての要素を含んでいる。また、これらの建造物群はドナウ川西部がローマ帝国の国境を形成していた長い期間、1世紀の創設から5世紀の崩壊まですべての期間を網羅しており、その際立った複雑さと一貫性を示している。

個々の構成資産の中には土地利用の変化や自然のプロセスあるいは別の建造物が建てられて断片を残すのみとなった遺構も存在するが、視認できる遺跡や土中の遺構の考古学的特徴は維持されており、いずれも遺産全体の顕著な普遍的価値に貢献する要素を有しており、範囲も十分で適切である。中には遺構の一部を覆うように新たな建造物が築かれている例も存在するが、遺構を資産とすればそうした建造物は資産ではないが、垂直方向に展開するバッファー・ゾーンを構成している。

いくつかの構成資産について、風力発電所をはじめインフラ開発などの影響を受けているものが存在する。これらについては早々に影響を評価し、さらなる影響を防ぐ必要がある。

■真正性

ドナウ川西部のローマ帝国の国境沿いに展開する施設群は要塞や関連の居住地から小規模の砦や一時的な駐屯地までローマ帝国の最前線に関するすべての特徴的な要素と地形を網羅している。

すべての構成資産は集中的な調査と研究がなされており、過去から現在に至る発掘調査や実地踏査、航空写真や地球物理学的アプローチなどあらゆる考古学的手法に加えて、記録文書などの史資料の収集・研究によって裏付けられている。構成資産について、個々の価値が明確化されており、それぞれの資産の遺産全体の顕著な普遍的価値に対する貢献の内容も示されている。ドナウ川は国境線として、あるいは軍事支援や物資の供給、人々の移動の輸送経路としてきわめて重要な役割を果たし、構成資産はドナウ川とダイナミックな関係性を持っている。中にはドナウ川との関係が明確でないものも存在するが、これはローマ時代以降、ドナウ川の流路が大幅に変わったためと考えられ、当時の流れが特定できないため関係性が明確に証明できずにいる。これらについては今後、流路に関する調査・研究を進めて関係性を明らかにする必要がある。

全体として現存する遺跡の構造は良好に保存されているが、地下の遺構の一部は長年の耕作による損傷や浸食作用によって非常に脆弱な状態となっている。

21の構成資産で建造物の復元が実施されたが、多くの場合、小規模で歴史的に行われている。ただ、オリジナルの部分と再建された部分の違いを明確化する方法については一貫したアプローチがほとんど存在しない。もっとも大規模な復元はカルヌントゥムで行われており、いまだ進行中である。可逆的なもので遺跡を損傷させるようなものではないが、復元は推測の域を出ておらず、十分に科学的とはいいがたい。イジャ(ケレマンティア)では砦の一部がオリジナルの素材と容易に区別できない方法で復元されており、問題が残されている。遺産全体を通して明確で一貫した復元方法を見直す必要があり、またオリジナルの遺構の上に大規模な建造物を推測で復元することは避けるべきである。復元作業の多くは進行中の保存計画の一部であり、更新が必要であるため、改善の機会に見直される必要がある。

カルヌントゥムにおける近郊の大規模な風力発電所が視覚的に不適切であるなど、すべての構成資産が適切に保存・管理されているわけではない。これらについても修正が必要である。

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