ヨーロッパの大温泉都市群

The Great Spa Towns of Europe

  • イギリス/イタリア/オーストリア/チェコ/ドイツ/フランス/ベルギー
  • 登録年:2021年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)
  • 資産面積:7,014ha
  • バッファー・ゾーン:11,319ha
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、オーストリアのバーデン・バイ・ウィーンのクアハウス、現・カジノ・バーデン
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、オーストリアのバーデン・バイ・ウィーンのクアハウス、現・カジノ・バーデン
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、チェコのカルロヴィ・ヴァリ中心部の景観。右上の赤い屋根の建物がホテル・インペリアル
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、チェコのカルロヴィ・ヴァリ中心部の景観。右上の赤い屋根の建物がホテル・インペリアル
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、チェコのマリアーンスケー・ラーズニェのコロナーダ・マキシマ・ゴルケーホ
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、チェコのマリアーンスケー・ラーズニェのコロナーダ・マキシマ・ゴルケーホ
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、フランスのヴィシーのスルス公園、アル・デ・スルス
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、フランスのヴィシーのスルス公園、アル・デ・スルス
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、ドイツのバート・エムスのクルザール (C) Maarten Sepp
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、ドイツのバート・エムスのクルザール (C) Maarten Sepp
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、ドイツのバーデン=バーデンのトリンクハレ
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、ドイツのバーデン=バーデンのトリンクハレ
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、イタリアのモンテカティーニ・テルメのテルメ・テトゥッチョ
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、イタリアのモンテカティーニ・テルメのテルメ・テトゥッチョ (C) Daniel rossetti
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、イギリスのバース、下はローマン・バスのグレート・バス、左奥はバース寺院
世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群」、イギリスのバース、下はローマン・バスのグレート・バス、左奥はバース寺院 (C) giomodica

■世界遺産概要

古代あるいは中世以来の歴史を有する鉱泉を持ち、18世紀初頭から1930年代にかけてスパ文化を飛躍させた7か国11のスパ都市を登録した世界遺産。なお、スパは鉱泉をベースとした総合療養施設を意味し、鉱泉水を湧出する鉱泉は温度に応じて温泉・冷泉と呼ばれる。それぞれのスパ都市は地域で登録されており、各構成資産には鉱泉や浴場、ポンプ・ルーム(鉱泉水の汲み上げ施設)、ドリンク・ホール(鉱泉水を飲むための部屋)、レストランといったスパ施設、クアハウス(鉱泉に隣接した健康増進施設)やカーザル(公営保養施設)といった健康・保養・療養施設、庭園や公園・コロネード(水平の梁で連結された列柱廊)・遊歩道などの庭園・公園施設、アセンブリー・ルーム(集会所)やギャラリー、カジノ、劇場といった娯楽・レジャー施設、教会堂や礼拝堂といった宗教施設、市庁舎や病院・福祉施設などの公共施設、ホテルやヴィッラ(別邸・別荘)・宮殿といった宿泊・滞在施設、道路や鉄道、ケーブルカーといった交通インフラ、ローマ時代や中世・近世・近代の遺跡や建造物などが含まれている。11のスパ都市はオーストリアのバーデン・バイ・ウィーン、ベルギーのスパ、チェコのフランティシュコヴィ・ラーズニェ、カルロヴィ・ヴァリ、マリアーンスケー・ラーズニェ、フランスのヴィシー、ドイツのバート・エムス、バーデン=バーデン、バート・キッシンゲン、イタリアのモンテカティーニ・テルメ、イギリスのバース。なお、バート・エムスのリメス(ローマ帝国の国境防塞システム)についてはイギリス/ドイツ共通の世界遺産「ローマ帝国の国境線」、バースについてはイギリスの世界遺産「バース市街」と資産が重複している。

○資産の歴史と内容

オーストリアのバーデン・バイ・ウィーンは首都ウィーン(世界遺産)の南25kmほどに位置するニーダーエスターライヒ州の都市で、一般的には「バーデン」と呼ばれている。古くから硫黄泉で知られ、ローマ時代には鉱泉の町として名を馳せて「アクア・パンノニカエ(パンノニアの水)」と呼ばれていた。中世に「パドゥン」に転じ、ドイツ語で「入浴(する)」を意味する「バーデン」となった。15世紀にハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲するようになった頃から帝都ウィーンの近郊ということもあって皇帝の寵愛を受け、「皇帝のスパ」と呼ばれた。最後の神聖ローマ皇帝であり、最初のオーストリア皇帝であるフランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の時代以降、ウィーンとともにオーストリア啓蒙主義(伝統的な迷妄を批判し、理性による近代的な合理主義を掲げる思想)の中心地となり、スパ・リゾートとして大々的に開発が進められた。

一帯には14の鉱泉があり、一部はローマ時代から使用されていた。温度は22~36度ほどで、硫黄分が強いため飲泉には不向きで主に浴場で使用された。1810年代~20年代にフラウエン浴場、ヨゼフス浴場、レオポルズ浴場、フランツェンス浴場、エンゲルス浴場が新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)や歴史主義様式(ゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式といった中世以降のスタイルを復興した様式)、ビーダーマイヤー様式(1815~48年の簡素で市民的な様式)で建設され、1822年にはヨーロッパ初の独立型スパ・ホテルでローマ風の浴場を持つザウアーホフが完成した。エンゲルス浴場とザウアーホフは建築家ヨゼフ・コーンハウゼルの傑作としても名高い。マリアツェラーホフは1805年にフランツ2世が貧民層のために築いた慈善施設で、その後大幅に拡張されてバーデナー・ホフと呼ばれるホテルとなった。1886年に築かれたクアハウス(現・カジノ・バーデン)は複数の浴場をまとめた総合スパ施設で、劇場やボールルーム(ダンスなどを行うための大広間)などを備えていたが、現在はカジノとして使用されている。ザマーアレーナ(夏劇場)は1906年に建築家ルドルフ・クラウスによって築かれたアール・ヌーヴォー様式の劇場で、現在もオペラなどの公演が行われている。また、1716年創設で1909年に再建されたシュタットシアター(市立劇場)もアール・ヌーヴォーで知られる。テルマルシュトランドバド・リドは1926年に築かれたアール・ヌーヴォー様式の施設で、巨大なプールと砂浜があり、2,000人を収容することができる。トリンクハレ(ドリンク・ホール)は1928年に建設されたアール・デコ様式の飲泉施設だ。

バーデン・バイ・ウィーンはウィーンに近いため数多くの宿泊・滞在施設が築かれた。町の中心には宮殿やホテルが立ち並び、郊外には別荘・別邸としてのヴィッラが立ち並んだ。フランツ2世らが築いたハプスブルク家の宮殿が大建築家チャールズ・モローの設計によるカイザーハウスやフロラシュテッケルだ。バロック様式のグーテンブルンは1782年からホテルとして開業し、19世紀を代表するスパ・ホテルに発展した。エァッツヘァツォーク・ライナーはハプスブルク家が誇るヴィッラで、フランツ・ノイマンが設計したオーストリアのネオ・ルネサンス様式を代表するデザインで知られる。

バーデン・バイ・ウィーンには人々が散歩や運動をしたり、リラックスするための数多くの公園や庭園がある。オーストリアでもっとも美しい庭園のひとつに数えられるのがクアパークで、建築家ジャン・バプテスト・バルベ が1796年に造園した。他にもルネサンス以来の歴史を持ち、イギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)として改装されたドブルホフ公園や、ラウヘンシュタイン城跡が残るヘレネンタル公園などがよく知られている。また、作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する建物も多く、ベートーヴェンが住んでいたマグダレネンホフや交響曲第9番を作曲したベートーヴェン・ハウス、死後100周年を記念記して建てられたベートーヴェン寺院などがある。

ベルギーのスパはベルギー東部リエージュ州の都市で、鉱泉を利用した総合療養施設を意味する「スパ」の語源となった。ワヤイ渓谷の風光明媚な景色とスパに併設されたカフェやカジノから「ベルギー・アルデンヌの真珠」「ヨーロッパのカフェ」の異名を持つ。スパ都市としてのスパは14世紀ほどから発達し、16~17世紀にその医学的効果に注目が集まってクレノセラピー(鉱泉療法)の中心地として開発が進められた。1654年にイングランド王チャールズ2世、1717年にロシア皇帝ピョートル大帝(ピョートル1世)が療養に訪れるなどスパの名声は広まり、この地の健康・保養・療養の総合施設が各地に普及してスパという名称が広まった。最盛期は1763年にオープンした世界初の近代カジノであるラ・ルドゥート(現・カジノ・デ・スパ)がオープンしてからで、スパやカフェ、カジノ、公園、ホテルなどが次々と建設された。

スパには300以上の鉱泉があり、多くは南の丘の中腹に位置している。4つの帯水層があってそれぞれ水質が異なり、ミネラル分をほとんど含まない軽鉱泉水からミネラル分を溶かし込んで発泡している炭酸鉱泉水まで多様で、用途によって飲泉や冷泉・温泉などに使い分けられた。16世紀頃から飲用のミネラルウオーターで有名になり、ボトルに詰めてヨーロッパ各地に輸出された。

主なスパ施設として、アンシャン・テルム・ド・スパ(旧テルム・ド・スパ)が挙げられる。ブリュッセルの建築家レオン・スイスによって1868年に建てられたスパで、新古典主義様式(一部にネオ・ルネサンス様式など歴史主義様式)の重厚なファサードを持ち、温泉療法の機能をすべて取り入れた先端施設として築かれた。2004年には正面の山腹にポスト・モダニズムの新しいテルム・ド・スパがオープンしている。プーオン・ピエール=ル=グランは1880年にヴィクトール・ベスメによって建設されたスパで、5,700l/日もの鉱泉が流入しており、全長9mの巨大な絵画『リヴレ・ドール』で知られる。

スパでは飲泉・入浴の他に運動と娯楽が重視されていたこともあり、散歩のできる遊歩道や公園・庭園、ダンスのできるボールルーム、乗馬場、カジノなどが整備された。1770年に建設されたヴォー=オルはラ・ルドゥートと並ぶヨーロッパ最古の近代カジノで、飲泉設備とともに豪華なボールルームなども充実していた。セ=トゥール公園は療養者に人気の散歩コースで、18世紀半ばにフランス式庭園(フランス・バロック庭園)として建設されたが、19世紀後半にイギリス式庭園に改められた。また、プロムナード・グリューネ、プロムナード・マイアベーアなど遊歩道も数多い。

スパには旅行者や療養者のために数多くの宿泊・滞在施設が建設された。典型的なスパ・ホテルが1769年操業のホテル・ディアランドやホテル・ブルボンだが、現在は営業を停止している。1865年に建設されたホテル・ミディは後にベルギー王妃マリー=アンリエットの別邸ヴィッラ・ロイヤーレとなった。マリー=アンリエットはこの地で亡くなり、1886年に建設された教区教会で葬儀が行われた。1905年に完成したホテル・ブリタニークは第1次世界大戦(1914~18年)末期にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が総本部を置いたことで知られる。これ以外にもフランス・パリ近郊のヴェルサイユ宮殿(世界遺産)のプティ・トリアノン(小トリアノン宮殿)を模したシャトー・デ・ラ・フレヌーズ、アール・ヌーヴォー様式のヴィッラ・ル・ソユルーなど多彩なホテルやヴィッラが見られる。

交通インフラとしてスパへの鉄道があり、1855年にウィーンとの間で開通して駅舎は新古典主義様式で1863年に建設された。また、1909年にヴェルヴィエとの間で路面電車が開通し、ユニークな停留所の数々が設置された。

チェコのフランティシュコヴィ・ラーズニェはドイツ国境に近いチェコ北西部カルロヴィ・ヴァリ州の都市で、24の鉱泉が湧き出し、小川が森を流れる美しい湿地帯に位置している。こうした鉱泉は少なくとも14~15世紀頃から知られており、すぐれた水質から汲み出してミネラルウオーターとして出荷されていた。1793年に神聖ローマ皇帝フランツ2世が町を興し、ドイツ語で「皇帝フランツの町」を意味する「カイザー・フランツェンスドルフ」と命名され、19世紀初頭に「フランツの浴場」を意味するドイツ語の「フランツェンスバート」、チェコ語の「フランティシュコヴィ・ラーズニェ」に改名された。

町は300m四方の方格設計(碁盤の目状の整然とした都市設計)でバロック様式でデザインされ、東西に1km以上、南北に約400mの公園が広がっており、森と湿地に囲まれている。鉱泉水は飲用・吸引・入浴とあらゆる方法で使用され、特に泥炭スパは世界最古の歴史を持つとされる。また、女性の病気に対して治療効果が高く、女性の訪問客でにぎわった。ドイツの作家ゲーテが「中央ヨーロッパでもっとも美しい町のひとつ」と絶賛して33回も訪問しているほか、ドイツの作曲家ベートーヴェン、オーストリアの作家マリエ・フォン・エブナー・エッシェンバッハ、チェコの作家ボジェナ・ニェムツォヴァー、ドイツの哲学者フィヒテらが贔屓にしていたことでも知られる。

フランティシュコヴィ・ラーズニェには現在も活発に湧出を続けている23の鉱泉がある。9.0~16.3度と冷たく、炭酸を多く含んだアルカリ性の鉱泉水を特徴としている。町のメインストリートがカイザーシュトラーセ、現在のナーロドニーで、この南端にたたずんでいるのが1832年に築かれたフランツ鉱泉のパビリオンだ。ガス鉱泉のパビリオンとノヴァ・コロナーダ(新列柱)が隣接しており、新古典主義様式の重厚な空間となっている。町にはこのように泉を覆うパビリオンが各所に見られ、町の西に立つアンピール様式(帝政様式。古代ローマやエジプトを模したナポレオン時代の新古典主義様式)のルイジン鉱泉のパビリオンや、町のさらに南に立つ新古典主義様式のルチニホ鉱泉のパビリオンなどがある。飲泉のための施設も多く、セルビアのナタリア女王にちなんで命名されたナタリア鉱泉のパビリオンやグラウベル鉱泉のパビリオンが一例で、いずれも1930年代に新古典主義様式で築かれた。

代表的なスパには、1840年創建で1872年まで改装が続いた新古典主義様式のルイーザ・スパや、1864年に歴史主義様式で建設され泥炭浴や塩水浴で知られるムーア・スパ、1880年に完成したネオ・ルネサンス様式のチーサルスケ・ラーズニェ(皇帝浴場)などがある。アセンブリー・ハウス(クアサロン)は1794年に建設され、1877年にネオ・ルネサンス様式で改装された建物で、会議室やイベント会場、ダンスホールなどを兼ねて社交の中心的な役割を果たした。劇場としては1928年に完成した作家ボジェナ・ニェムツォヴァーの名を冠したボジェナ・ニェムツォヴァー劇場がある。

宿泊・滞在施設も非常に多彩で、著名人が訪れたことで知られる施設も少なくない。最古級のスパ・ホテルである1794年建設のホテル・チリ・リエは1827年に最初の公共温泉が建設され、作家ゲーテや皇帝フェルディナント1世らが訪れたことで知られる。神聖ローマ皇帝御用達で最初の薬局が設立されたローマ皇帝の家、ベートーヴェンが滞在したネオ・バロック様式のベートーヴェン・ハウス、海外の重鎮がしばしば滞在したゴシック・リバイバル様式のJ.W.ゲーテ・スパ・ハウスなど、歴史的なホテルは数多い。また、1794年にバロック様式で建てられたシュタット・ドレスデン・ゲストハウスや、1888年に歴史主義様式で再建されたドイチェス・ハウスは特にドイツの貴賓を招く迎賓館として使用された。

スパ地区は公園に囲まれており、八角形の音楽のパビリオンのある町の北の市立公園、もっとも古い歴史を持ち1820年代にイギリス式庭園として改装された町の南の南庭園、町の東に位置しローマ皇帝の家やスパ劇場などが点在するベドルジハ・スメタナ公園、白鳥の湖やテニスコートで知られる西公園、ロッジ風のアメリカ・レストランのある南西のアメリカ森林公園など多くの緑が見られる。

チェコのカルロヴィ・ヴァリはチェコ北西部カルロヴィ・ヴァリ州の州都で、テプラー川が流れる渓谷に位置し、80を超える鉱泉が湧き出している。各国の貴族や芸術家が集うスパ都市であったことから「ヨーロッパ最大の野外サロン」と讃えられた。集落ができたのは1350年頃で、1370年には神聖ローマ皇帝カール4世によって都市に昇格され、皇家の庇護と特権を受けた。伝説では、カール4世は周辺の森に狩りに出掛けて偶然温泉を発見し、その温泉で傷を癒やしたという。彼の名を取って町はドイツ語で「カールの浴場」を意味する「カールスバート」、チェコ語で「カールの熱水噴出孔」を意味する「カルロヴィ・ヴァリ」と命名された。町は1759年の大火を受けてバロック様式で再建され、1870年に鉄道が開通すると経済的に大きく成長し、1890~1914年に最盛期を迎えた。このふたつの時代、18世紀のバロック様式と、19~20世紀の新古典主義様式あるいは歴史主義様式、アール・ヌーヴォー様式のスパが町を特徴付けている。構成資産の中心は南のヤポンスカー庭園からオフルジェ川に至るテプラー川の流域で、東西については一帯の森林が含まれている。

カルロヴィ・ヴァリには現在89の鉱泉があり、一部はテプラー川の川底に位置している。鉱泉の温度は17.0~73.4度で一部は非常に熱く、間欠泉のような熱水現象を見せる場所もあり、「温かい川」を意味するテプラー川の由来となっている。鉱泉は飲泉・吸引・入浴などあらゆる方法で利用されるが、古くから飲泉療法で知られ、人々は専用の磁器カップでミネラルウオーターを常飲していた。

カルロヴィ・ヴァリの象徴といえるスパがチーサルスケ・ラーズニェだ。1893~95年にフェルディナント・フェルナーとヘルマン・ヘルマーの設計で築かれたネオ・ルネサンス様式の総合スパ施設で、貴賓のための皇帝浴場や泥炭浴場など豪華ですぐれた施設は世界に名を轟かせた。一方、もっとも重要や公共スパがラーズニェIII(クアハウス)で、ゴシック・リバイバル様式で1863~66年に建設された。アルジュビェティニー・ラーズニェ(ラーズニェV/エリーザベト・スパ)は皇妃エリーザベトにちなんで名付けられた浴場で、1906年に新古典主義様式で築かれた。ヴジードロは72度の熱水を高さ11mほどまで吹き上げる間欠泉で、ヴジーデルニ・コロナーダの列柱が隣接している。スパの周辺に設置されたこうしたコロナーダ(コロネード)も町の特徴で、全長132mのムリンスカ・コロナーダ(ミル・コロネード)や、市庁舎を彩るトルジニー・コロナーダ、ネオ・ルネサンス様式の屋根で覆われたサドヴァ・コロナーダ、円形パビリオンや飲泉ホールを備えた新古典主義様式のザメツカ・コロナーダなどが知られる。

カルロヴィ・ヴァリでもっとも重要な娯楽施設が市立劇場で、1884~86年にフェルディナント・フェルナーとヘルマン・ヘルマーの設計で築かれた。ネオ・バロック様式の建物で、特にロビーと階段のデザインは多くのヨーロッパの劇場のモデルとなった。壁画やカーテンはグスタフとエルンストのクリムト兄弟やフランツ・マッチの傑作で非常に名高い。フェルナーとヘルマーのコンビは他にもチーサルスケ・ラーズニェやグランドホテル・パップの祝祭ホール、グランドホテル・アンバサダーのナショナル・ハウスなども手掛けており、ネオ・バロック様式やゴシック・リバイバル様式の格調高い町並みの演出に貢献している。

宿泊施設も数多いが、歴史あるラーズニェスキー・ドム(浴場と寝室を備えたバス・ハウス)も少なくない。最古級の例が1706年建設の新古典主義様式のラーズニェスキー・ドム・マルテズスキー・クリーシュ(マルタ十字)と、1709年に建設されたバロック様式のラーズニェスキー・ドム・ペトルで、いずれもいまだにホテルとして営業を続けている。1760年にオープンしたチイ・モーレイニヌはゲーテが9回も通い詰めたことで知られ、現在はゲーテ・ウー・チイ・モーレイニヌとして営業中だ。カルロヴィ・ヴァリのランドマークが一帯を一望するホテル・インペリアルで、フランス人建築家エルネスト・エブラールの設計で1912年に建設された。ホテル・ブリストル・パレスもランドマークのひとつで、ネオ・ルネサンスとネオ・バロックの折衷様式で築かれている。このふたつのホテルは長期的な療養を行うサナトリウムとしても利用されている。中世の城を模したサナトリウム・トロツノフは1898年に教会のホスピスとして建設されたもので、現在はサナトリウムとして営業している。

主要な公園・庭園施設としてドヴォルザーク・サディ(果樹園)が挙げられる。1820年代にランドスケープ・アーキテクト(景観設計家)であるウェンゼル・スカルニクがイギリス式庭園に改装したもので、1878年にさらに改装された後、作曲家アントニン・ドヴォルザークにちなんで命名された。コンサートを行うための音楽パビリオンやサドヴァ・コロナーダなど多くの見所が点在している。ゲーテの小道はテプラー川沿いの遊歩道で、ゲーテの胸像が備えられている。森のプロムナードをはじめ森に通じる遊歩道は数多く、散歩などの軽い運動やすぐれた景観を楽しむことが治療の一環であったことがうかがえる。

チェコのマリアーンスケー・ラーズニェもチェコ北西部カルロヴィ・ヴァリ州の都市で、フランティシュコヴィ・ラーズニェ、カルロヴィ・ヴァリとともにボヘミアの森に三角形を描くように点在していることから「西ボヘミアの温泉トライアングル」と呼ばれている。12世紀頃にテプラー修道院の管理下に入り、鉱泉の治療効果が知られるようになった。18世紀後半にテプラ-修道院の医師ヨハン・ヨーゼフ・ネールは医学的に治療効果を確認するとスパ都市の建設を提言し、1810年代に開発がはじまった。最初にマリイン鉱泉(マリア鉱泉)とスパ公園がオープンしたことからドイツ語で「マリアの浴場」を意味する「マリーエンバート」、チェコ語で「マリアーンスケー・ラーズニェ」と命名された。自然を活かしたスパ公園を中心に据えたことから「公園のスパ」とも呼ばれ、緑地を中心に広々とした都市設計が進められた。この時代の建物にはビーダーマイヤー様式がしばしば見られる。1870年代から第1次世界大戦にかけて最盛期を迎え、ネオ・ルネサンス様式を中心に新古典主義様式や歴史主義様式、アール・ヌーヴォー様式、モダニズムのさまざまな施設が建設された。

この地の40を超える鉱泉からは7~10度の冷泉が湧き出しており、豊富な炭酸とミネラル分を含んだ酸性のミネラルウオーターを特徴とし、成分に応じて飲泉・吸引・入浴と使い分けられている。中心的なスパは1880年代~90年代に築かれたネオ・ルネサンス様式のスパ群で、1892年に築かれたツェントラルーニー・ラーズニェ(中央スパ)や、1896年に建設されたノヴェ・ラーズニェ(新スパ)などが挙げられる。特にヨーゼフ・シェーファーによって設計されたノヴェ・ラーズニェは豪華な浴場とロッジア(柱廊装飾)のあるラウンジ、ローマ時代を思わせるローマン・バス(ローマ浴場)など、数多くの名所を有する。コロネードも町の見所で、クシーショヴェホ鉱泉(十字鉱泉)のパビリオンであるコロナーダ寺院や、全長135mのネオ・バロック様式の鉄柱コロネードが特徴的なコロナーダ・マキシマ・ゴルケーホ、ルドルフフォヴァ鉱泉に隣接した新古典主義様式のコロナーダ・カロリニーナ、円形のグロリエッテ(小部屋)のあるフェルディナンド鉱泉のコロナ-ダ・フェルディナンドヴァ・プラメネなどがある。フェルディナンド鉱泉では古くから蒸発させて塩が採取されており、製塩所で加工して輸出されていた。ミネラルウオーターの品質も高く、1950年頃からエクセルシオールとアクア・マリアが水をボトルに詰めて販売している(現在は他の鉱泉の水も詰めている)。

主要な娯楽施設としてノヴェ・ラーズニェにあるクルザールが挙げられる。1868年に建設され、1900年に建築家ヨゼフ・シャファーの設計で 巨大なアーチ型ドームが据えられたネオ・ルネサンス様式の建物で、カジノやボールルーム、サロン、読書室、カフェ、レストランなどを備え、町で中心的な社交場となっていた。市立劇場は1868年にフリードリヒ・ツィックラーの設計でネオ・ルネサンス様式で建設され、1905年にアール・ヌーヴォー様式で改装された。1877年に建設された市庁舎もヨゼフ・シャファーによるネオ・ルネサンス様式の建物で、中には銀行や郵便局、正教会の礼拝室などが入っている。

宿泊・滞在施設は18世紀頃からスパを備えたスパ・ハウスとして建設がはじまり、ホテルやヴィッラといった多数の施設が築かれた。1818年に建設されたウー・ズラテーホ・ホロズヌ(黄金のブドウ。現・市立博物館)は1階がレンガ造、2階が木造の新古典主義様式の建物で、ゲーテの定宿として知られ、滞在時の家具や内装がそのまま保存されている。一方、イギリス王エドワード7世が毎年滞在していたのが旧・クレベルスベルク宮殿であるラーズニェスキー・ドム・ヴァイマール(ワイマール・スパ・ハウス)で、1821年に新古典主義様式で建設され、1903~05年に改装された。イタリア・トスカーナ風のユニークなたたずまいを見せるのがホテル・ファルケンシュタイナーで、1873年にマリーエンバートのグランド・スパ・ホテルとしてオープンし、後に温泉療法研究所が置かれた。純白の美しいたたずまいで知られるホテル・エスプラネードはオーストリアの建築家アーノルド・ハイマンの設計で1910~11年に建設された歴史主義様式とアール・ヌーヴォー様式のホテルで、発明家トーマス・エジソンが滞在していたことで知られる。ネオ・パッラーディオ様式のヴィッラ・パトリオットは1870年にフリードリヒ・ツィックラーの設計で築かれたもので、チェコのパッラーディオ様式を代表するものとされる。フレデリック・ショパン記念博物館はもともとショパンが秘密の愛人マリアと過ごしたゲストハウスで、1820年にビーダーマイヤー様式で建設された。

主要な公園・庭園施設として、旧市街の中心に位置するスカルニコヴィ・サディ(中央公園)が挙げられる。1817年に幾何学的な整形庭園として設計され、1820代に風景式庭園(非対称・不均衡・曲線を特徴とする自然を模した庭園)であるイギリス式庭園に改装された。白鳥の湖や歌う噴水といった多くのアトラクションが用意されている。また、町には多くの遊歩道があり、ラスカ礼拝堂やフリードリヒヴィルヘルム展望台へ続くシュヴァルツェンベルク王子の道、「リトル・スイス」と呼ばれるゲーテの道、エドワード7世が開設したゴルフ・コース周辺に広がるエドワードの道、森の泥炭沼やガスの湧出地に至るダンカンの道などがある。

フランスのヴィシーはフランス中部オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏アリエ県の都市。フランスを代表するスパ都市でその美しさから「スパの女王」と讃えられ、町並みについてはパリを模していることから「リトル・パリ」とも呼ばれる。紀元前2~前1世紀頃に共和政ローマによって築かれた植民都市アクア・カリダエ(熱い水)が起源と見られ、この頃すでに飲泉や入浴が行われていた。14世紀にブルボン家の所領となり、1527年にフランス王国の版図に入った。中世、ヴィシーの鉱泉は入浴による治療効果の高さで知られ、ブルボン家をはじめ多くの貴族が療養に訪れた。1761~62年にはルイ15世の娘たちが訪問したが、アクセスが不便で施設もみすぼらしかったことからヴィシーの開発をルイ16世に提言したという。フランス皇帝ナポレオン1世がスルス公園を整備し、シャルル10世がスパを拡張するなど開発が進められたが、特に1861~66年に皇帝ナポレオン3世が滞在してからパリを参考に本格的な都市開発がはじまった。これにより住民と訪問者の数は10倍まで増えたという。

ヴィシーには289もの鉱泉があり、鉱泉水の温度は14~73度と幅広く、炭酸と微量元素を多量に含んでいる。町にはパイプ・ネットワークが張り巡らされており、鉱泉水を引いて飲用や入浴・泥炭浴などに利用されている。ミネラルウオーターは瓶詰めされて40か国以上に輸出されているほか、スキンケア用品や薬品類の原料にもなっている。

構成資産はおおよそアリエ川東岸に広がるテルマル地区とパリ通りの周辺だ。鉱泉関係の施設として、セルスタン公園にたたずむセレスタン鉱泉のパビリオンが挙げられる。バロック様式と新古典主義様式の移行期に当たるルイ16世様式の美しいパビリオンで、人工的な洞窟や鉱泉が湧き出す岩が演出されており、ミネラルウオーターを飲むことができる。ラルディ鉱泉のポンプ・ルームは1864年に創建され、1902年に再建された汲み上げ施設で、飲泉施設にもなっている。スルス公園のアル・デ・スルスはグランデ・グリル鉱泉とショメル鉱泉のポンプ・ルームを兼ねた鉄とガラスのアール・ヌーヴォー様式のパビリオンとなっている。周辺にはギャラリー・クベルトと呼ばれる屋根で覆われたコロネードが伸びている。グラン・エタブリスマン・テルマルは1899~1903年に建築家シャルル・ル・クールとリュシアン・ウーグの設計で建てられた総合スパで、170×165mを誇るフランス最大のスパとなっている。エキゾチックな巨大な黄色のドームはイランのモスクを模している。

ヴィシーを代表する娯楽施設としてパレ・デ・コングレが挙げられる。もともと1863~65年に建築家チャールズ・バッジャー が折衷様式で建設した建物で、カジノを中心に劇場やボールルーム、読書室などを備えた総合娯楽施設だった。1903年にはシャルル・ル・クールとリュシアン・ウーグによるアール・ヌーヴォー様式のオペラ座(ヴィシー歌劇場)がオープンし、1905年にはガラスのピラミッド・ホールが完成した。

宿泊・滞在施設について、ヴィシーには1849年に18棟のホテルしかなかったが、1939年には12の宮殿を含む203のホテルがオープンしていた。ホテル街となっていたのがアルキー通りやポンティヤール通りの周辺で、一帯の象徴的なオテル・アンバサダー(1866年/1900年)や建築家ルネ・モローによるオテル・テルマル(現・オテル・パラス・アレッティ)などがよく知られている。一方、南のユベール・コロンビエ通りには歴史主義様式や折衷様式のホテルが数多く建てられた。モダニズムのホテルにはオテル・アストリアがある。ルネ・モローの設計で1910年に完成した5~6階建ての高層ホテルで、パリの先端的な建築を持ち込んだ。シャレー・ド・ランペルールは1864年にナポレオン3世が築いた山小屋風の別荘で、家族のために周辺に計5棟のシャレーを完成させ、4棟が現存している。

宗教・公共建築としてはナポレオン3世の支援によって築かれたサン=ルイ教会と市庁舎がよく知られている。サン=ルイ教会はジャン・ル・フォーレの設計で1862~65年に建設されたロマネスク・リバイバル様式とゴシック・リバイバル様式の建物で、巨大なふたつのスパイア(ゴシック様式の尖塔)とバラ窓が特徴的だ。一方、バッファー・ゾーンに位置する市庁舎はパリ市庁舎を模した建物で、1913~25年にネオ・ルネサンス様式で建設された。1672年創建のサン=ブレイズ教会は1925~31年にアール・デコ様式で再建され、1956年には高さ67mの鐘楼が増築された。

ドイツのバート・エムスはドイツ西部ラインラント=プファルツ州に位置するライン川の支流ラーン川沿いの都市で、古くからスパ都市として知られていた。ローマ帝国は国境線に沿って城壁や要塞・砦を築いて「リメス」と呼ばれる防塞システムを敷いたが、バート・エムスでもエムス城や城砦アウフ・デア・シャンツ、城壁などが築かれてその一部を形成していた。その遺構はイギリス/ドイツ共通の世界遺産「ローマ帝国の国境線」の構成資産となっており、一部は本遺産の構成資産と重複している。バート・エムスの「バート」はドイツ語で「浴場」、「エムス」はエムス城を意味するが、ローマ人が温泉を利用していたか否かは確証がない。中世にはすでに温泉街として知られており、14世紀には町として認められ、15世紀から急速に発達して18世紀はじめまでにドイツ有数のスパ都市へ発展した。18世紀はじめから近代スパ・リゾートとして再開発がはじまり、19世紀にはヘッセン大公国やナッサウ公国の下で数多くのホテルやヴィッラが建てられた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世やロシア皇帝ニコライ1世、アレクサンドル2世らに愛されたことから「皇帝のスパ」と讃えられ、また避暑地となっていたことから「ヨーロッパの夏の首都」、あるいは小さいながら洗練された総合スパだったことから「ヨーロッパの偉大なスパ」などと称された。また、1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)の原因となったエムス電報事件が起きた場所でもあり、ヴィルヘルム1世はこの地で開催されたフランス大使ベネデッティとの会談後に電報を打って知らせたが、プロイセン王国首相ビスマルクが内容を改ざんしてフランスの非礼を非難するなどして両国の敵愾心を煽った。

バート・エムスの鉱泉は27~57度ほどの温度で比較的温かく、炭酸を多く含んだ酸性およびアルカリ性の鉱泉水を特徴としている。ラーン川両岸に15ほどの鉱泉があり、全長約3kmのパイプラインと汲み上げ施設で水を配給していた。飲泉・吸引・入浴とさまざまな方法で使用され、また飲用のミネラルウオーターとして、あるいはミネラル分を抽出して塩や薬剤として輸出された。また、地中にたまった炭酸ガスの圧力で熱水が噴き出すガス・リフトと呼ばれる現象が見られ、ロバート=カンペ噴水では57度の熱水が最大8mも噴出している。

代表的なスパ施設としてクアハウス(現・ヘイカーズ・グランド・ホテル)が挙げられる。ケッセルブルネン鉱泉の上に1709~25年に建設されたバロック様式の最古級の総合スパで、ポンプ・ルームや水を飲むトリンクハレ、浴場、レストラン、大ホールなどを有していた。当時はヘッセン大公国やナッサウ公国の貴族を迎える専用浴場も備えており、バート・エムスのスパの中心を担った。クアハウスの東端にロバート=カンペ噴水があり、背後の遊歩道はクアパークへ続いている。旧クルミッテハウスは1853年に建設されたスパだが、1994年に閉鎖され、現在は州の施設として使用されている。ケレン塔はノイケレ鉱泉の水を汲み上げて貯水・配水するために1907~08年に建設された給水塔で、近隣のスパに熱水を供給した。レンガ塔だが、内部は鋳鉄製となっている。

バート・エムスの主要な娯楽施設にクルザールがある。建築家ヨハン・ゴットフリート・グーテンソーンがイタリア・ローマにあるルネサンス建築の傑作ヴィッラ・ファルネジーナ(世界遺産)をモデルに1836~39年に建設したネオ・ルネサンス様式の建物で、後にネオ・ロココ様式の劇場やコンサート・ホールなどが増築された。クルザールの場所にはもともと集会所があり、1720年にドイツ最古のカジノとしてオープンした。クルザールはこれを引き継いでカジノを中心とした総合娯楽施設となったが、カジノは1872年にプロイセン王国によって閉鎖された。現在はカジノが再興され、集会所や結婚式場等として使用されている。また、クルザールとクアハウスの間はコロネードで接続されている。

一帯には数多くの宿泊・滞在施設があり、著名人が訪れたことで知られるホテルも少なくない。ロシアの作家ドストエフスキーが訪れて『カラマーゾフの兄弟』を執筆したシュタット・アルジェや、ドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーがオペラ『パルジファル』の作曲に励んだシュロス・バルモラル(バルモラル城)、フランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワが滞在したブラウンシュヴァイガー・ホフ、ベルギー王レオポルド2世の定宿で最高のプライベート・ホテルのひとつとされたエングリッシャー・ホフ、ロシア皇帝アレクサンドル2世が訪れたダルムシュタット・ホフ、スウェーデン王オスカル2世をはじめ多くの貴族に愛されたヴィエ・トゥルメなどが有名だ。アレクサンドル2世はこの地を訪れるロシア人のためにロシア正教会の聖アレクサンドラ教会の建設を支援した。四角形にギリシア十字形を組み込んだ内接十字式(クロス・イン・スクエア式)の平面プランで、5つのオニオン・ドームが特徴的だ。町には他にローマ・カトリックのマリア・ケーニギン礼拝堂やザンクト・マルティン教区教会、プロテスタントのカイザー・ヴィルヘルム教会など宗教・教派ごとに教会堂や礼拝堂が築かれた。

代表的な公共施設には旧ラートハウスがある。1823年に建設され、1861年に鐘楼が増築されて、1906年にネオ・バロック様式で改装された。もともと市庁舎として使用されていたが、現在は博物館となっている。

ドイツのバーデン=バーデンはドイツ西部バーデン=ヴュルテンベルク州の都市で、ローマ時代には水や浴場を示す「アクア」、3世紀には「アウレリア・アケンシス(アケンシスはアクアの複数形)」と呼ばれていた。このようにローマ時代から鉱泉で知られており、一説では皇帝カラカラが湯治に訪れたという。中世にはドイツ語で「入浴(する)」を意味する「バーデン」と呼ばれていたが、同じ名前の都市がドイツやスイスに多かったことから16世紀頃からバーデン=バーデンと呼ばれるようになった。フランス王ルイ14世がプファルツ選帝侯領の継承権を主張して起こしたプファルツ戦争(1688~97年、大同盟戦争)で1689年にフランス軍の侵略を受け、町は焼き払われた。これにより半ば放棄されたが、18世紀後半になって再興され、フランス革命以降の革命で追われた貴族や富裕層を受け入れてヨーロッパ随一のスパ都市へ発展した。19世紀には貴族の避暑地となって「ヨーロッパの夏の首都」と呼ばれ、国際的なカジノ都市としても名を馳せて「ギャンブル・スパ」の異名を取った。ただ、1872年にプロイセン王国がカジノを禁止したことからカジノ路線は中止され、音楽や演劇・オペラといった芸術にあふれたスパ・リゾートへの転換が図られた。

一帯には12の鉱泉があり、52~67度の熱水が毎分340~500lほど湧出している。塩分やミネラル分が豊富であるほか、放射性物質であるラドンを含むため一部では放射線量が高くなっている。飲用・入浴はもちろん、蒸発させて吸引したり、ラドンを含む泥炭はパックとして人気が高く、鉱泉水を原料とするミネラルウオーターや塩・化粧品といった商品は各地に輸出されている。

スパ関連の遺跡として、ローマ時代のローマン・バス遺跡が挙げられる。3世紀にカラカラ帝が建設したテルマエ(公衆浴場)の跡で、貯水池やプール、各種浴室、サウナ、床暖房などさまざまな施設・設備が発見されている。遺構はフリードリヒスバート(フリードリヒ浴場)の地下で見学することができる。中世以来の歴史を持つスパ・ホテルにはバルトレイトがある。1460年に記録に登場する最古級のホテルで、17世紀後半に当初の図面に基づいて再建された。トリンクハレはフリードリクスバート鉱泉とニュルンベルク鉱泉の汲み上げ施設であるポンプ・ルームを兼ねた飲泉施設で、ハインリヒ・ヒュプシュの設計で1839~42年に建設された。幅90mを誇るポルティコ(列柱廊玄関)が特徴で、16本のコリント式の円柱と角柱、半円アーチで支えられており、中央にレリーフを刻んだペディメント(三角破風)を掲げ、内部にはヤコブ・ゲッツェンベルガーによる地元の伝説や神話を描いた14枚の絵画が飾られている。ハインリヒ・ヒュプシュは1848年に完成したアルテス・ダンプバート(旧蒸気浴場)と呼ばれるスチーム・バスも設計している。フリードリヒスバートはローマン・バス遺跡の場所に1869~77年に建設されたスパで、建築家カール・ダーンフェルドがヨーロッパ中のスパを訪ね歩いて研究した後、集大成としてネオ・ルネサンス様式で設計した。デザイン的にすぐれているだけでなく、シャワーや冷温浴、スチーム・バス、流れるプールなどさまざまな設備があり、当時世界最先端の温泉療養施設と讃えられた。地下にはローマン・バス遺跡が保存されている。

バーデン=バーデンを代表する娯楽施設がクアハウスだ。ドイツの新古典主義建築の旗手フリードリヒ・ヴァインブレンナーの設計で1821~24年に建設された建物で、カジノ、ボールルーム、レストラン、劇場、図書室などを備えていた。カジノのためのホールはヴェルサイユ宮殿などをモデルにしており、ネオ・バロック様式の豪華な内装が見られる。近隣のバーデン=バーデン劇場は1862年に完成したネオ・バロック様式の建物で、巨大なペディメントとレリーフ、2階のバルコニー、イオニア式の円柱などによってドラマティックなファサード(正面)を演出している。

宿泊・滞在施設は数多いが、最初期のホテルが1807年にオープンしたホテル・バディッシャー・ホフ(現・ラディソン・ブルー・バディッシャー・ホフ)だ。もともとカプチン修道院だった建物をフリードリヒ・ヴァインブレンナーが新古典主義様式のホテルに改築したもので、スパを備えた総合スパ・ホテルとなった。同様のスパ・ホテルが1834年に設立されたホテル・ステファニー・レ・バン(現・ブレナーズ・パーク=ホテル&スパ)で、1872年に名門ブレナー家が買収して拡張し、建造物群は全長300mに及んだ。14世紀に創設されたノイエス・シュロス(新城)はバーデン辺境伯領の居城で、16世紀にルネサンス様式で改装され、夏の宮殿として使用された。ヴィッラ・メルク(現・ビロン宮殿)は建築家オーギュスト・デ・ムーロンの設計で1859年に建てられたメルク家の夏の離宮で、オーストリア皇妃エリーザベトをはじめ各国の貴賓が訪れたことで知られる。1867年に建てられたヴィッラ・ツルゲーネフはロシアの作家イワン・ツルゲーネフの私邸として建設されたもので、ほとんど当時のまま引き継がれている。

シュティフト教会は10世紀創建と伝わるローマ・カトリックの教会堂で、14世紀末からバーデン辺境伯の埋葬地とされた。教会堂は時代時代の改築・改修を受けたが、ロマネスク様式の鐘楼は当時のまま残されている。現在はペトロとパウロに捧げられた教区教会として機能している。一方、シュタット教会はプロテスタント・福音派の教区教会で、1864年にゴシック・リバイバル様式で建設された。これ以外にルーマニア正教会のシュトゥルザ礼拝堂やロシア正教会のロシア正教会教会(救世主顕栄教会/プレオブラジェンスキー教会)のようにさまざまな教派が教会堂を建てている。リヒテンタール修道院は1243年に創設された歴史ある修道院で、シュティフト教会に移るまでバーデン辺境伯の墓地として使用されていた。修道院教会は15世紀に建てられたもので、バロック様式で改装されている。

代表的な公園・庭園施設としてリヒテンターラー・アレーが挙げられる。19世紀半ばにスパ地区の南に築かれた自然に近いイギリス式庭園で、オース川西岸に約2.5kmの遊歩道が伸びている。これと対照をなすゲンネル=アンラーゲは1909~12年に整備された整形庭園で、ドイツの幾何学式庭園の最高傑作とされる。ヴァッサークンストアンラーゲ・パラディースは高さ40mの斜面に築かれた水をテーマとした公園で、イタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)を参考に1921~25年に建設された。噴水や水路、カスケード(階段状の連滝)、グロッタ(洞窟)などさまざまな演出が施されており、町の絶景を見下ろすことができる。

ドイツのバート・キッシンゲンはバイエルン州北部の古都で、9世紀頃から記録に「チッツィチャ "chizzicha"」という名前で登場する。中世、塩の生産や鉱泉で知られるようになり、16世紀にはスパが設立され、本格的に飲泉や入浴が行われた。1738年にヴュルツブルクの司教がクアハウスとスパ・ガーデンを建設し、1814年から町の再開発が進むとヨーロッパ有数のスパ都市へと飛躍した。19世紀初頭はビーダーマイヤー様式、20世紀初頭は歴史主義様式やモダニズムで開発が進められ、1871年にドイツ帝国が成立して鉄道が開通するとさらに大きく発展した。

現在使用されている鉱泉は7か所で、鉱泉水の温度は12.8~20.2度、4か所ではミネラルウオーターとして飲むことができる。古くから飲用・吸引・入浴を通した治療が行われており、ミネラル分と症状に応じて使い分けられた。代表的なスパとして、ルイトポルトバート(ルイトポルト浴場)が挙げられる。スパ利用者の急増に対応するため3番目の公衆浴場として1867~71年に建設されたネオ・ルネサンス様式の建物で、20世紀はじめに増築されてヨーロッパ最大級の入浴施設となった。現在はカジノや博物館・庁舎などとして使用されている。南にはイギリス式庭園であるルイトポルト公園が広がっており、ザーレ川や池・芝生・並木道・花壇が癒やしの空間を演出している。一方、1823年に建設されたクアハウスバート(クアハウス浴場)は最初の公衆浴場で、1858年に新古典主義様式の別館に置き換えられ、1927年に現在の建物に建て替えられた。1911年建設のマックス鉱泉はローマ神殿を思わせる新古典主義様式の建物で、1520年に記録に登場する最古級の鉱泉として知られる。ブルーネンハレ(鉱泉ホール)はラコチ鉱泉とパンドゥール鉱泉のポンプ・ルームで、そのホワイエ(玄関近くの広間。ロビー)である全長90mのヴァンデルハレを特徴とする。ヴァンデルハレは1910~12年に建築家マックス・リットマンによって設計されたモダニズム建築で、ガラスと鋳鉄、鉄筋コンクリートによる先端的なデザインはヴィシーなど各地のスパ都市のスパやパビリオンのモデルとなった。

娯楽施設として、まずレゲンテンバウが挙げられる。こちらもマックス・リットマンの設計で1910~13年に建設されたクラシック・リバイバル様式とネオ・バロック様式の折衷的な建物で、凸に湾曲した西ファサードと凹に湾曲した東ファサードが特徴的だ。サクラの木製パネルで覆われたメイン・ホールは音響についてヨーロッパ有数のコンサート・ホールとされる。マックス・リットマンは1905年に完成したクアシアターも設計しており、1834~38年に築かれたクルザールの改装も担当している。クルザールは当初カジノとして営業していたが、現在はコンサート・ホールや集会所として使用されている。クルザールからレゲンテンバウにかけてアルカデンバウと呼ばれる新古典主義様式のコロネードが伸びており、東にはクアガルテン(クア庭園)が展開して重厚なスパ・コンプレックスを形成している。

バート・キッシンゲンではスパ地区・ホテル地区・住宅地区が分かれておらず、全体がスパを中心に形成された。1900年頃には3棟に1棟が宿泊施設で、オーナーも同じ施設に居住していることが多かった。代表的な宿泊施設にホテル・カイザーホフ・ヴィクトリアがある。1835~40年に建設された新古典主義様式のホテルで、当時は皇帝の名を冠する町で最高のホテルとされた。バーリングハウスは1834年に開業医が建設したビーダーマイヤー様式の建物で、療養所と宿泊施設を兼ねていた。バート・キッシンゲンでは医師が運営するこうした療養・宿泊施設が数多くの見られた。ヴィッラ・ハイルマンは1903年に建設されたネオ・ルネサンス様式の別荘で、ザーレ渓谷を見下ろす広々とした公園内に位置している。オーベル・ザリーネは1767~72年に製塩所の従業員の集合住宅として建設されたもので、1869年に製塩所が閉所するとドイツ帝国宰相ビスマルクの邸宅として改築された。現在はビスマルク博物館やオーベル・ザリーネ博物館として使用されている。

スパ関連のインフラとしてはウンテレ・ザリーネが重要だ。この地域では823年にすでに塩の生産が確認されており、中央ヨーロッパ最古級の塩の生産地となっていた。18世紀には製塩所・倉庫・住宅棟の3棟の建物があり、1870年には新しい工場やポンプ施設が建設された。新工場では塩の生産ではなくミネラル分を抽出した入浴剤などの薬剤が生産された。一方、クルークマガジンはミネラルウオーター工場の跡だ。

イタリアのモンテカティーニ・テルメはフィレンツェ(世界遺産)の北西40kmほどに位置するトスカーナ州の都市で、「テルメ」はイタリア語で温泉を意味する。構成資産にはそのスパ地区と、北東に位置するモンテカティーニ・アルトが含まれている。この地の鉱泉はローマ時代にすでに知られており、中世には塩を抽出して輸出していた。ただ、位置的にフィレンツェやピサ(世界遺産)、ルッカといった都市国家の争いに巻き込まれ、また湿地や湖沼が多くマラリアなども流行していたため大きく発展することはなかった。18世紀後半、この地を本格的に開発したのがオーストリア大公マリア・テレジアの息子であるトスカーナ大公ピエトロ・レオポルト(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)で、都市開発と同時にスパを利用した治療や療養法の研究を進めてスパの需要を高めた。この時代まで自然の山や森に囲まれた田園都市だったが、19~20世紀には公園・庭園・遊歩道などを含む都市景観全体がデザインされ、美しい景観都市 "landscape city" へ変貌を遂げた。1853年に鉄道が開通すると訪問客が急増し、1897年にケーブルカーが開通するとより山奥の避暑地や別荘地としてモンテカティーニ・アルトが開発された。

一帯には11ほどの鉱泉があり、18.0~33.4度ほどでわずかに塩味のする酸性の鉱泉水となっている。モンテカティーニ・テルメを代表するスパがテルメ・テトゥッチョ(テトゥッチョ温泉)だ。ピエトロ・レオポルトの命で開発が進められた温泉で、ローマ建築を思わせる重厚な新古典主義様式の建物は1779~81年に築かれた。コッラード・ヴィーニの彫刻、ジュゼッペ・モローニ の装飾、アントニオ・マライーニのレリーフ、エツィオ・ジョヴァンノッツィのフレスコ画と芸術作品であふれており、見所が多い。テルメ・レオポルディナ(レオポルディナ温泉)はピエトロ・レオポルトから名前を取った温泉で、1780年に建設されて1919~26年に改装された。こちらもローマン・バスを模した新古典主義様式の浴場となっている。テルメ・エクセルシオール(エクセルシオール温泉)は1907年にオープンした建築家ジュリオ・ベルナルディーニによる総合スパで、1968年に大幅に改築された。ネオ・ルネサンス様式のロッジアやエルネスト・ベランディによるホールの天井画をはじめ建物や装飾が特徴的であるだけでなく、各種浴室に加えて温泉プールや泥炭パック、エアロゾルまでさまざまなサービスを提供している。ジュリオ・ベルナルディーニは20世紀はじめにこうした新しいスパをいくつもデザインしてスパ都市の近代化を進めた。一例がテルマーレ・タメリチ(タメリチ温泉)やバンギ・グラトゥイティだ。

町を代表する娯楽施設がクルザールだ。1907年のオープン当初は劇場を中心にカフェやレストランを併設していたが、1910~20年代の拡張で庭園やカジノ、野外映画館などが増築された。テニス・トレッタは1925年に完成した4面のテニスコートを中心とした施設で、イタリア最高のテニスコートであっただけでなく、ネオ・ルネサンス様式のパビリオンやアール・ヌーヴォー様式のカサ・デッリ・スポート(スポーツの家)といった建物も特筆すべきものだった。

代表的な宿泊・滞在施設としてグランド・ホテル&ラ・パーチェが挙げられる。ヨーロッパの主要スパ都市を巡ったジュリオ・ベルナルディーニは超一流の宿泊施設がモンテカティーニ・テルメに存在しないことを知り、1900~26年にかけて3棟のホテルを大幅に改装してこのホテルをデザインした。町を代表する高級ホテルであるだけでなく、温泉を備えた総合スパでもあり、現在も当時の建物や内装を引き継いでいる。ジュリオ・ベルナルディーニが手掛けた高級ホテルには他に、1787年に建設された建物を改装したグランド・ホテル・プラザ&ロカンダ・マッジョーレや、モダニズム建築のモダン・ホテルなどがある。パラッツィーナ・レジアは「王家の小宮殿」といった意味で、ハプスブルク家の分家であるロレーヌ家が1782年に夏の離宮として建設したものだ。

町には多くのスパ関連施設が残されており、製塩所跡や洗濯所跡・温室といった産業遺産や、1853年に建設されたモンテカティーニ駅、1898年に開通したケーブルカーといった交通インフラ、1920年に建設された市庁舎のような公共施設を見ることができる。

イギリスのバースはイングランド西部サマセット州の都市で、2,000年以上の歴史を誇るスパ都市。古代のローマ時代と近代のジョージアン時代(18世紀、ジョージ1~4世の治世)の建築と都市レイアウト、景観などの価値が認められて「バース市街」の名称で世界遺産リストに搭載された。「ヨーロッパの大温泉都市群」の構成資産としての価値はスパと関連の建造物・景観等によるものだが、その範囲は「バース市街」の資産の範囲と一致している。

紀元前の時代、バースの地にはケルト人の集落があり、温泉は水の女神スリスの聖地とされていた。ローマ帝国は1世紀にこの地を治めると町の周囲に城壁を巡らせて城郭都市アクアエ・スリスを建設した。そしてスリスをローマ神話のミネルヴァと同一視してスリス・ミネルヴァ神殿として改修し、温泉場をローマン・バスとして整備した。5世紀にローマ人が撤退すると町は急速に衰退し、温泉なども泥に埋まって機能を失った。ただ、鉱泉は細々と利用されつづけたようで、いつしか町は温泉を意味する「バース」と呼ばれるようになった。バースがスパ都市として復活するのは18世紀、ジョージ1~4世が治めるジョージアン時代だ。都市全体を1枚の絵のように捉えたランドスケープ・アート(造園芸術/景観芸術)やピクチャレスク(粗野・不規則・変化に富む自然の造形に回帰し絵画的な美を重視する思想)の思想の下で町を再生し、新古典主義様式や歴史主義様式の重厚な建物で街を彩り、丘陵地や公園・庭園・広場の緑を適度に配して都市設計を行った(詳細は世界遺産「バース市街」参照)。また、飲泉や入浴、運動やレクリエーションの医療効果を研究して治療法として確立し、「バース・ルール "Rules of Bath’"」と呼ばれるスパのルールを打ち立ててヨーロッパのスパ文化に多大な影響を与えた。

バース中心部ではキングス鉱泉、クロス・バス鉱泉、ヘットリング鉱泉(コモン鉱泉/ホット・バス鉱泉)という3つの鉱泉が古くから知られている。いずれも44~47度と入浴に適した温泉で、43種のミネラル分を含む鉱泉水を1日125万lも湧出している。キングス鉱泉を利用した浴場が現在ローマ浴場博物館となっているローマン・バスで、鉱泉の脇にはキングス・バスと呼ばれる浴場が整備されている。現在の建物や91×45mのグレート・バスはジョン・ウッド親子がローマ時代以来の鉱泉や浴槽・水路等を利用して1794~97年にローマン・リバイバル様式で再建したものだ。隣にはグランド・ポンプ・ルームの建造物群があり、鉱泉の湯を引き入れてその湯を飲むドリンク・ホールとして使用されたほか、ポンプ・ルーム・オーケストラの公演は現在も引き継がれている。ネオ・パッラーディオ様式のファサードなど建築としての価値も高く、1789~99年にトーマス・ボールドウィンとジョン・パーマーによって設計された。クロス・バス鉱泉を利用したクロス・バスもローマ時代以来の浴場で、現在の建物は1783~84年にトーマス・ボールドウィンが再建し、1798年にジョン・パーマーが改修した。同時期に、隣接してクロス・バス・ポンプ・ルームも建設されている。ヘットリング鉱泉を利用したホット・バスは1775~78年にジョン・ウッド・ザ・ヤンガーが再建したもので、男女別の浴室をはじめて導入した浴場として知られている。こちらもヘットリング・ポンプ・ルームが隣接している。クロス・バスとホット・バスは21世紀に入ってサーメ・バース・スパの施設として復元された。

町には鉱泉を利用した病院や救貧院といった施設も多数建設された。一例がセント・ジョンズ病院で、イギリス最古の救貧院として12世紀後半に創設された。クロス・バス鉱泉に隣接していて鉱泉水を療養に活用しており、内部にはセント・マイケル礼拝堂を備えて心身両面の健康を支援している。1726年にジョン・ウッド・ジ・エルダーが再建し、20世紀に改装されている。リウマチ性疾患ロイヤル国立病院は貧しい人々のための総合病院として創設された病院で、ジョン・ウッド・ジ・エルダーの設計で1738~42年に建設された。キングス鉱泉の鉱泉水がパイプを通じて供給され、療養に使用された。1887年に王室御用達を受け、王立ミネラルウオーター病院が発足した。2003年にリウマチ性疾患とリハビリを専門とすとするNHS財団の下に入り、この名称となった。旧ロイヤル・ユナイテッド病院(現・ゲインズボロー・バス・スパ)はもともとヘットリング鉱泉に隣接する病院で、貧者に対するチャリティー施設としてジョン・ピンチ・ジ・エルダーの設計で1824~26年に創設された。

バースが画期的のはテラスハウス(境界壁を共有する長屋のような連続住宅)やタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)のような集合住宅にも一流建築家のすぐれたデザインを採用し、公園や庭園・広場・遊歩道と合わせて総合的に景観設計された点にある。都市の中の緑の空間として整備された広場の例がオレンジ・グローヴやテラス・ウォーク、クイーン・スクエア、パレード・ガーデンで、広場には砂利や芝生・木々を配して市民の憩いの場となった。30棟のテラスハウスが円形に並んだザ・サーカスはジョン・ウッド・ジ・エルダーの設計で1754年に起工し、翌年亡くなると息子のジョン・ウッド・ザ・ヤンガーが引き継いで1766年に完成した。ドーリア式・イオニア式・コリント式の柱が連なる重厚なファサードを持ちながら、3つの通りが出入りする交通インフラとして効率的なデザインで、円の内部を広場にして景観にも配慮した。ロイヤル・クレセントはジョン・ウッド・ザ・ヤンガーの設計で1767~75年に建設された全長約150m・高さ平均15mの三日月形のテラスハウスで、円弧上に30棟が連なっている。芝生や並木もよく映えており、ロイヤル・クレセントからの眺望も、ロイヤル・クレセントを含んだ眺望もバースを代表する景観となった。ジョン・パーマーの設計で1792年に建設されたランズダウン・クレセント・アンサンブルはランズダウン・クレセント、ランズダウン・プレイス・イースト、ランズダウン・プレイス・ウエスト、キャヴンディッシュ・クレセントという三日月形のテラスハウスが連なる一帯で、山のテラスに緑とともに配置され、景観に強く配慮されている。

代表的な宗教建築としてバース寺院が挙げられる。もともとは675年創建と伝わるバース修道院の修道院教会で、11~15世紀にはローマ・カトリックの大聖堂として地域の中心を担っていた。ヘンリー8世の修道院解散令を受けて1539年に修道院が解散した後、エリザベス1世によってイングランド国教会の教区教会へ改修され、16~17世紀に現在のゴシック様式の外観が完成した。19世紀にゴシック・リバイバル様式による改修を受けている。修道院墓地は町の南の丘に1843年に築かれた墓地で、名造園家ジョン・クラウディス・ラウドンによって緑に囲まれた美しいイギリス式庭園がデザインされた。

代表的な公園・庭園施設として、まずシドニー・ガーデンズが挙げられる。トーマス・ボールドウィンが設計し、弟子のチャールズ・ハーコート・マスターズが1794年に完成させた六角形の庭園で、1799年頃にケネット・アンド・エイボン運河、1836年に別荘のシドニー・ハウス、1840年代にグレート・ウエスタン鉄道の一部が組み込まれ、さらには乗馬場、クリケット・コート、アーチェリー・スペース、テニス・コートなどを備え、都市的な景観を組み込んだ庭園となった。1830年に整備されたロイヤル・ヴィクトリア・パークはその北に広がるロイヤル・クレセントとゴルフ・コース、乗馬場とともに町の北の景観に緑を提供するもので、自然を模したイギリス式庭園となっている。

■構成資産

○バーデン・バイ・ウィーン(オーストリア)

○スパ(ベルギー)

○フランティシュコヴィ・ラーズニェ(チェコ)

○カルロヴィ・ヴァリ(チェコ)

○マリアーンスケー・ラーズニェ(チェコ)

○ヴィシー(フランス)

○バート・エムス(ドイツ)

○バーデン=バーデン(ドイツ)

○バート・キッシンゲン(ドイツ)

○モンテカティーニ・テルメ(イタリア)

○バース(イギリス)

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(iv)「人類史的に重要な建造物や景観」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(iv)について健康・レジャー・療養施設として重要な建造物群であるとの主張に対し、それらはこれらの構成資産で発明されたものではなく、またすべての構成資産が持つ特質であるわけでもなく、(ii)による評価がよりふさわしいとし、(vi)について健康とレジャーについて国際的な文化を喚起したとの主張に対し、それは温泉に限るものではなく、他のレジャーと比較した場合、顕著な普遍的価値が証明されていないと評した。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

本遺産は1700年頃から1930年代まで医学・温泉療法・レジャー活動の発展に影響を与えた革新的なアイデアの重要な交流を示している。こうした交流は天然鉱泉を中心とした健康とレジャーを目的とした都市の類型学によって明確に表されており、その思想はヨーロッパや世界各地の温泉街や温泉療法の流行と発展に多大な影響を与えた。

ヨーロッパの偉大なスパ群は競合との競争を通じて訪問者の嗜好や感性・需要の変化に対応して種々の挑戦の中心地となった。医師や建築家、デザイナー、庭師らの貢献によってスパを構成する種々の建造物や自然的な環境が整えられ、その結果としてそれぞれの構成資産には天然の鉱泉資源を活用して入浴あるいは飲用するために設計されたクアハウスやカーザル、ポンプ・ルーム、ドリンク・ホール、コロネード、ギャラリーといった温泉建築の重要な例が整備された。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

本遺産は古代にそのルーツを持ち、1700年頃から1930年代にかけて最高の表現を得たヨーロッパのスパ現象の卓越した証拠である。体外的な入浴あるいは体内的な飲泉や吸引による療養は高度に構造化・スケジュール化された日々の処方や医療・レジャーの組み合わせによるものであり、ギャンブルや演劇・音楽・ダンスといった娯楽や社会活動、スパを含む屋外の景観の中で実施された身体的な運動などを伴うものだった。

これらの要素はスパ都市の空間レイアウトやスパ関連の建造物、いわゆるスパ建築の形状や機能に直接影響を与えた。また、都市の公園やプロムナードは人々が他人を見たり他人に見られたりするための心理的治療の空間でもあった。

■完全性

シリアル・プロパティ(それぞれ離れた場所にある資産)を形成する11の構成資産はヨーロッパ・スパ都市のもっとも卓越した例を示している。すべての構成資産はその歴史と発展の中でもっとも重要な文化創造局面である1700年頃から1930年代までの最盛期に形成された決定的な特徴を共有しており、いずれもが本来の開発目的のための機能をいまなお引き継いでいる。

これらのシリーズはまたスパ現象の発展の主要段階を示しており、18世紀のもっとも影響力のあるスパ都市から19世紀に発達したスパ都市モデル、20世紀初頭のスパ現象の最終段階を例証する都市までを網羅している。

資産の範囲は顕著な普遍的価値をもたらす要素、具体的にはもっとも重要なスパ構造と温泉関連の活動に使用される建造物群、社会的施設と余暇・娯楽のための建造物群、宿泊施設、関連のスパ・インフラ、および療養とレクリエーションを目的としたスパの周辺景観に関連して決定されている。また、バッファー・ゾーンは鉱泉の流域と重要な環境を保護するために設定されている。

すべての構成資産とその構成要素はおおむね良好な状態にある。保全が必要な物件はすでに計画されているか、代替手段を有しているかのいずれかであり、現状の保全状態は維持されている。ただ、サービスや衛生面、新しいスパ技術の水準を維持するために行われる改良や再開発は歴史的建造物の保全との間に緊張をもたらす可能性があるため慎重に対処する必要がある。また、産業構造の適応的な再利用や技術的な改善についても同様の課題を有している。

■真正性

本遺産はその形状・デザイン、素材と原料、用途と機能、伝統、立地と環境といった点で真正性を満たしている。すべての構成資産は共通のさまざまな要素によって顕著な普遍的価値を表現しており、高度な真正性を保持している。多様性に富む鉱泉は素材・場所・環境を含む自然の物理的特性を維持しており、明確で見やすい空間レイアウトと手入れの行き届いた立地と配置は精神性と印象を永続的に保っている。スパ建築はいくつかの建造物について用途が変更されているが、形状とデザイン、オリジナルの素材と原料を引き継いでいる。スパを含む療養施設の景観はその形状・デザイン・機能を維持しており、当初と同様の目的で使用が続けられている。スパのインフラについて、多くはオリジナルのままか、当初の理念の上に発達したものであり、今日の需要を満たすものであるにもかかわらず、スパは継続的に使用され、機能を保っている。

顕著な普遍的価値を体現する主要期間である1700年頃から1930年代にかけての建造物群に示された要素の真実性と信頼性は、各構成資産が有する計画書・文書・出版物・写真といった膨大なアーカイブ・コレクションに基づいた本質的かつ持続的な保存作業によってさらに証明されている。

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