リラ修道院はブルガリア西部キュステンディル州のリラ山脈の山中深くに位置するブルガリア正教会の修道院だ。正式名称を「リルスキ修道院スヴェティ・イオアン・リルスキ(リラ修道院・聖イヴァン・リルスキ)」といい、イオアン・リルスキやイヴァン・リルスキは「リラのイオアン(イオアンは言語によってヨハネ、イヴァン、ジャン、ジョン、フアン、ヤン、ヨハンなどと呼ばれる)」を意味し、876年頃~946年頃に生きたブルガリアの守護聖人を示す。リラ修道院はイオアンが修行を行っていた山中に弟子たちによって10世紀頃に創設された修道院で、ブルガリアでもっとも重要なキリスト教聖地であり、文化的・歴史的・宗教的モニュメントであると考えられている。
なお、リラ修道院の建物のほとんどは19世紀に再建されたもので、その顕著な普遍的価値についてはさまざまな議論がある。
7世紀、ブルガリア人の祖先とされるブルガール人がドナウ川下流に移動し(ドナウ・ブルガール)、同世紀中に第1次ブルガリア帝国(681~1018年)を建国した。「帝国」といっても当時の首長はハンと呼ばれ、9世紀のボリス1世の時代に国王(クニャス)、10世紀のシメオン1世の時代に皇帝(バシレウスあるいはツァール)となった。やがてブルガール人は南下してきたスラヴ人と同化してブルガリア人を形成しつつ、隣接するビザンツ帝国(東ローマ帝国)からビザンツ文化を吸収した。
9世紀、ボリス1世はキリスト教の正教会に改宗して国教化し、国民にも改宗を迫った。おかげで正教会が普及し、ブルガリア正教会も独立正教会として大いに勢力を伸ばした。そして9世紀後半、876年頃にリラのイオアンが誕生する。
イオアンの両親は敬虔な正教徒で、スクリノ村でふたりの息子を授かった。両親同様、信仰心あついイオアンは25歳頃に両親を亡くすと、すべての財産を貧しい人々に与えて出家し、スクリノ近郊にある聖ディミタル修道院の修道士となった。やがて修道院を出ると、生涯を貧しいまま生きたイエスの生活を範とし、着の身着のままで山に入ったという。やがてリラの山中に移動し、洞窟の中で生活を開始した。伝説では、悪魔がさまざまな誘惑や脅迫で惑わしたがいっさい動じず、神は豊かな木の実を実らせてイオアンを支えたという。
偶然、羊飼いがイオアンを発見すると、次第に評判が広がり、やがて甥のルカをはじめ多くの修道士が訪れて生活を共にした。そして弟子たちは自分たちが生活・修行するための修道院を建設し、カトリコン(中央聖堂)や礼拝堂を整備した。イオアンは病人の病気を治すなど数々の奇跡を起こし、名声はブルガリアを越えて東ヨーロッパに広く轟いたという。時のブルガリア皇帝ペタル1世も心酔したが、俗世間との関わりを嫌ったイオアンは面会を拒否し、支援金も受け取らなかったという。結局、イオアンは946年頃に死去するまで約60年を山中で過ごした。
10~14世紀にかけての修道院の活動はほとんど伝わっておらず、場所もハッキリしていない。ただ、第1次ブルガリア帝国、第2次ブルガリア帝国(1187~1396年頃)を通してほとんどの皇帝がリラ修道院を支援し、一帯はブルガリア正教会の聖地として整備され、ブルガリアの文化的・宗教的支柱となった。特に第2次ブルガリア皇帝のイヴァン・アセン2世やカリマン1世、イヴァン・シシュマンといった皇帝らが修道院の土地や周辺の森を寄進し、数々の特権を与えた。
1334~35年には封建領主のフレリョ(ステファン・ドラゴヴォル)が現在の修道院の場所に防御塔を建設し、頂部にイエスの変容(使徒のペトロ、ヨハネ、ヤコブの前で光り輝いたという『新約聖書』の逸話)に捧げたハリストス顕栄礼拝堂(ハリストスは正教会でキリストを示す)を設置した。これが現在に残るフレリョの塔だ。フレリョはさらに周辺に僧院とカトリコン(フレリョ教会)を建設し、修道院として整備した。
14世紀末になるとイスラム教大国であるオスマン帝国がブルガリアへ侵入を繰り返し、15世紀はじめに支配を固めた。リラ修道院は15世紀半ばに幾度もの襲撃を受けて破壊され、状態は悪化した。しかし、ギリシアのアトス山(世界遺産)との関係が確立され、同山のアギウ・パンテレイモン修道院やバックにいるロシア正教会の支援を得、またセルビア皇帝ジュラジ・ブランコヴィチの娘でオスマン皇帝ムラト2世に嫁いだマラ・ブランコヴィチの援助も受けて再建・修復が進められた。マラ・ブランコヴィチはまた、ソフィアやエステルゴム、タルノヴォ(現・ヴェリコ・タルノヴォ)の教会堂に収められていたイオアンの遺体をリラ修道院に戻している。結果的に、オスマン帝国の支配がかえってキリスト教信仰を強化し、リラ修道院の神格化を促したともいわれる。
18世紀後半から19世紀前半にかけてトルコ人の強盗の襲撃などでたびたび火災に見舞われ、1778年には多くの建物が焼失した。建築家アレクシー・リレツらによって再建されたものの、1833年に決定的な大火によってフレリョの塔や一部の基礎を除いてほぼ全焼した。時代はオスマン帝国の支配を脱却してブルガリアの文化を再興しようという18~19世紀のブルガリア民族再生運動期だったこともあってすぐに再建が決まり、先の再建でも活躍したアレクシー・リレツの指揮の下で1834~62年にふたたび再建された。ただ、これらの火災の被害はあまりに大きく、文化遺産の調査・評価を担当している世界遺産委員会諮問機関のICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はこれを理由にリラ修道院の真正性を認めなかったほどだ。
1844年にはフレリョの塔に隣接して鐘楼が設置された。またこの頃、神学校の教師であるネオフィト・リルスキが修道院に神学校を建設して教育方面で目覚ましい成果を挙げ、ブルガリアの文化再興に貢献した。
19世紀後半になるとオスマン帝国に対する独立運動が激化し、リラ修道院は多くの独立運動家や革命家の隠れ家となった。そして1878年にブルガリア公国、1908年にはブルガリア王国が独立を勝ち取った。
リラ修道院はリラ修道院自然公園内に位置しており、周辺の森や草原、川や湖なども保護対象となっている。構成資産は「リラ修道院コンプレックス」「オルリツァ女子修道院コンプレックス」「プチェリノ女子修道院コンプレックス」「聖ルカ礼拝堂コンプレックス」「リラの聖イオアン墓地コンプレックス」の5件だ。
「リラ修道院コンプレックス」はその名の通りリラ修道院を中心とした建造物群だ。基本的に修道院は19世紀の再建で、ビザンツ・リバイバル様式となっている。修道院はおおよそ四角形で、周囲は僧院が取り巻いており、北東にサモコフ門、南西にドゥプニツァ門という2基の門があり、それぞれフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)で装飾されている。4階建ての僧院の外側は高さ22mの石壁で、窓も少なく城壁を兼ねた堅牢な造りとなっている。それに対して内側は柱とアーチが並ぶ4層のロッジア(柱廊装飾)で、白い柱と梁、アーチに描かれた紅白のポリクロミア(縞模様)がよく映えている。屋根は木造の瓦葺きだ。僧院には修道院長の部屋・修道士の部屋・図書館・ゲストルーム・キッチン・食堂・会議室など約300の部屋があり、一部は博物館として公開されている。
中心に立つ建物が中央聖堂=カトリコンである生神女誕生聖堂だ。屋根に5基のドームを「+」形に並べたギリシア十字式の教会堂で、西側の三方は列柱廊で囲われている。特徴的なのは壁面やアーチを覆う紅白あるいは白黒のポリクロミアで、オスマン帝国を通じて流入したイスラム建築の影響と考えられている。列柱廊も内部もほぼ全面がフレスコ画で覆われており、ザハリとディミタルのゾグラフ兄弟やディミタルとシメオンのモレロフ親子といった19世紀の名だたる画家の作品で埋め尽くされている。西の身廊と東の内陣を分けるイコノスタシス(身廊と至聖所を区切る聖障)は金箔で覆われており、繊細な彫刻とイエスや使徒・聖人らを描いた多数のイコン(聖像)で飾られている。フレスコ画と黄金のイコノスタシスはブルガリア民族再生運動期の最高傑作のひとつに数えられている。
聖堂の北に立つフレリョの塔は1334~35年に建設された防御塔で、四方に支えとなるバットレス(控え壁)を備えている。高さ23mの地上5階・地下1階建てで、エントランスには木製の昇降機が設けられており、非常時にはこれを上げて籠城することができた。最上階にはハリストス顕栄礼拝堂があり、14世紀にさかのぼるフレスコ画が残されている。1844年には隣接してロッジアのある2階建ての鐘楼が設置された。
リラ修道院の南には墓地があり、生神女就寝聖堂がたたずんでいる。修道士のための墓や納骨堂があり、18世紀建設と見られる聖堂内部には彫刻で飾られた木製のイコノスタシスが見られる。
「オルリツァ女子修道院コンプレックス」はリラ修道院の西15kmほどに位置する修道院で、15世紀半ばの建設と考えられている。僧院の他に聖ペトル=パヴェル聖堂(聖ペトロ=パウロ聖堂)があり、15世紀の貴重なフレスコ画を見ることができる。
「プチェリノ女子修道院コンプレックス」はリラ修道院の南西3.5kmほどに位置し、18世紀に建設された僧院・教会堂・農場などからなっている。教会堂は生神女就寝聖堂で、18世紀のイコンや19世紀のフレスコ画で飾られている。
「聖ルカ礼拝堂コンプレックス」はリラ修道院の北東2kmほどに位置する礼拝堂を中心とした建造物群だ。リラのイオアンの甥であるルカが庵を建てたと伝わる場所で、18世紀後半に聖ルカ礼拝堂が建設され、美しいイコノスタシスやフレスコ画で飾られた。19世紀はじめにはその上に生神女庇護聖堂が築かれた。
「リラの聖イオアン墓地コンプレックス」はリラ修道院の北東約3.5kmに位置しており、リラのイオアンが暮らしたとされる洞窟が残されている。1746年にはリラの聖イオアン就寝聖堂が建設され、イオアンの遺体が安置された。聖堂は1820年に再建されている。
本物件は1982年に推薦された際、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)によって調査・評価され、登録延期の勧告を受けた。その理由は修道院のほとんどが1833年の火災後に再建されたものであり、真正性の基準を満たさないというものであった。しかし、翌年の第7回世界遺産委員会はその価値を認め、逆転での登録が実現した。
リラ修道院は途切れることのない歴史的連続性を再確立しようとスラヴ的な価値観を導入した19世紀のブルガリア民族再生運動期の象徴である。
世界遺産リストに登載されて以来、資産の完全性に大きな変化はない。修道院の関連教会や礼拝堂に収められた中世および民族再生運動期の木彫や壁画については適切で確実な保存を目指して計画的な保全作業が進められている。また、修道院を力学的な影響から守ることも重要な課題であり、地質工学に基づく恒久的な観測を行いながら地盤構造を強化するための提言を行っており、これらの結果に基づいてその他の保存・修復作業が決定されている。また、開発計画も策定中で、資産の保護を支援するために通信や技術インフラの改善提案も予定している。
リラ修道院はブルガリアの民族再生運動期におけるもっとも重要な精神的・文学的中心地であり、中世から現代まで途切れることのない歴史を有している。1833年の火災の後で再建されたが、新しい教会堂や修道院の構造といった一部には18世紀の建造物が残されている。資産は立地・文脈・コンセプト・用途・機能・伝統について真正性の要件を十分に満たしており、その精神と印象も適切に保存されている。