歴史的城塞都市カルカッソンヌ

Historic Fortified City of Carcassonne

  • フランス
  • 登録年:1997年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:11ha
  • バッファー・ゾーン:1,358ha
上空から眺めた世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」。中央下やや左がコンタル城、右の建物がサン=ナゼール=サン=セルス・バシリカ、中央左奥の赤い双塔がナルボンヌ門
上空から眺めた世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」。中央下やや左がコンタル城、右の建物がサン=ナゼール=サン=セルス・バシリカ、中央左奥の赤い双塔がナルボンヌ門 (C) Chensiyuan
オード川から見上げた世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」。中央がコンタル城、右の橋はヴィユー橋(ポン=ヴィユー)
オード川から見上げた世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」。中央がコンタル城、右の橋はヴィユー橋(ポン=ヴィユー)
世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」、カルカッソンヌ伯の居城・コンタル城の堀と城壁
世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」、カルカッソンヌ伯の居城・コンタル城の堀と城壁。右にエスト・バービカンが続いている
世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」のサン=ナゼール=サン=セルス・バシリカ
世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」のサン=ナゼール=サン=セルス・バシリカ。右がアプス、中央が南ファサードでバラ窓が確認できる (C) Gzen92
世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」のサン=ナゼール=サン=セルス・バシリカ。アプスのステンドグラスとゴシック彫刻群
世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」のサン=ナゼール=サン=セルス・バシリカ。アプスのステンドグラスとゴシック彫刻群
世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」、オード・バービカン跡地。左がサン=ジメール教会
世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」、オード・バービカン跡地。左がサン=ジメール教会 (C) Chensiyuan

■世界遺産概要

カルカッソンヌはローマ時代以前からの歴史を誇る古都で、フランス南部オクシタニー地域圏、いわゆるラングドック地方のオード県に位置している。世界遺産の資産となっているのは古代と中世に築かれた全長約3kmの二重の市壁に囲まれた「シテ 」と呼ばれるオード川右岸(東岸)の丘で、ガロ・ローマ(共和政・帝政ローマ時代に征服されたガリアの地、あるいはその文化)の痕跡を残す中世の街並みがいまに伝えられている。一帯はフランス革命前後の動乱期に損壊したが、建築家ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクやその後継者ポール・ボスヴィルヴァルトらによる長期にわたる作業によって修復され、建造物の修復・保全に関する理論と実践の発展に大きく寄与した。

なお、近辺を世界遺産「ミディ運河」が通過しているが、両者の資産は重なっていない。

○資産の歴史

カルカッソンヌは大西洋岸と地中海岸、ガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)とイベリア半島を結ぶ古代の交易路の要衝で、紀元前6世紀にはシテと呼ばれる丘の上にオッピドゥム(城郭都市)が成立していた。カルカソ・ヴォルカルム・テクトサグムと呼ばれたこのオッピドゥムは紀元前1世紀はじめに共和政ローマによって征服されると、ローマ属州ガリア・ナルボネンシスに組み込まれ、ローマ帝国が成立した紀元前27年に植民都市ユリア・カルカソとなった。都市はナルボンヌとトゥールーズを結ぶローマ街道の途上に位置し、ワインと小麦を運ぶ交易で繁栄した。

ゲルマン系諸民族の移動が活発化した3~4世紀にローマ帝国はカルカッソンヌをカストルム(軍事拠点)として強化し、シテに34~38基ほどの馬蹄形の塔を持つ全長1.2kmの市壁を建設した。この市壁は現在見られる二重壁の内壁のベースとなっている。

5世紀にゲルマン系の東ゴート人、西ゴート人、6世紀にフランク人の支配下に入り、フランク王国の版図となった。東ゴート人の大王テオドリックの時代、6世紀はじめに司教座が置かれ、司教都市となった。このときローマ皇帝ネロの時代に殉教した聖ナザリウス(フランス語でナゼール)と聖ケルスス(同、セルス)に捧げられた大聖堂、すなわちサン=ナゼール=サン=セルス大聖堂(現・サン=ナゼール=サン=セルス・バシリカ)が創設された。

7~8世紀にイスラム王朝であるウマイヤ朝が中央アジアから西アジア・北アフリカに至る大帝国を築き、711年にはイベリア半島に進出して瞬く間に征服。ピレネー山脈を越えると、724年にはカルカッソンヌを含むセプティマニア(おおよそラングドック地方)を支配下に収めた。この危機に対し、フランク王国は宮宰カール・マルテルの指揮の下、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝を撃破し、キリスト教諸国の救世主としてヨーロッパに覇を唱えた。751年にその息子ピピン3世(小ピピン)が王位に就いてカロリング朝が成立。ピピン3世は759年にウマイヤ朝の拠点となっていたナルボンヌとともにカルカッソンヌを奪還した。

このとき生まれたのがレディ・カルカスの伝説だ。ピピン3世の息子であるカール(後のカール大帝)はカルカッソンヌの領主バラクを打ち破り、シテを包囲する。夫の死後、バラクの妻カルカスが指揮を執って5年にわたる籠城戦を戦っていたが、食料は底を突きかけていた。それを悟られまいとカルカスは一計を案じ、イスラム教徒が食べないブタに小麦を与えて太らせて城塔から投げ落としたという。カールはブタを浪費するほどの食料が残っていることを知り、ついに撤退。人々は町のすべての鐘を打ち鳴らして祝い、この音を聴いたカールの部下は「カルカス・ソンヌ(カルカスが鳴らしている)」とつぶやいたという。12世紀頃から伝わるカルカッソンヌの由来の物語で、カルカス像は現在も城門前などで見ることができる。ただ、カールは包囲戦を戦っていないと見られ、どこまで事実であったか定かではない。

解放後、カルカッソンヌはアキテーヌ公国やトゥールーズ伯領の下に入り、カルカッソンヌ伯が治めた。11世紀後半になると領主権を巡って争いが激化し、アルビ(世界遺産)、ニーム、ベジエといった都市を治めるトレンカヴェル家が支配下に置いたが、反乱などが起こってたびたび戦火に見舞われた。同家の最盛期に当たるのがベルナール・アトー4世の時代で、多くの建造物が建設されている。一例がサン=ナゼール=サン=セルス大聖堂の建て替えで、1096年に起工し、1120年頃にロマネスク様式の壮大な教会堂が完成した。また、ローマ時代の市壁を大幅に増築し、シテを市壁で完全に取り囲んだ。この時代の人口は3,000~4,000人ほどで、キリスト教のカタリ派(アルビジョワ派)が信者を増やしていった。

カタリ派は異教的な二元論的世界観を持つ教派で、ローマ・カトリック聖職者の腐敗に対する不信もあって11世紀頃から南フランスに広がった。教皇庁はローマ・カトリックへの改宗を説得して回り、12世紀には正式に異端を宣言したが、教皇や国王の影響力を恐れた諸侯らはこれに従わなかった。1209年に教皇インノケンティウス3世の呼び掛けでアルビジョア十字軍が結成され、イングランドのレスター伯シモン・ド・モンフォールが指揮官となり、北フランスの諸侯が中心となって軍を派遣した。同年8月にはカルカッソンヌのシテを包囲して水の供給を絶つと、領主のレイモン=ロジェ・トレンカヴェルは市民の安全を条件にわずか1週間で投降した。この勢いでシモン・ド・モンフォールは1215年にカタリ派の最大拠点都市トゥールーズを落とし、南フランスをほぼ制圧した。しかし、1218年に死去すると反攻に遭い、跡を継いだ息子のアモーリ・ド・モンフォールは次々と占領地を失った。1224年にはレイモン2世トレンカヴェルやトゥールーズ伯レイモン7世らがカルカッソンヌを奪還。これを受けてアモーリ6世・ド・モンフォールは占領地の支配権をフランス王ルイ8世に譲渡した。

フランス王国の影響力が及ばない南フランスを征服する大義名分を得たルイ8世は1226年にアルビジョア十字軍を再結成。カルカッソンヌを含む多くの占領地を再奪還した。同年にルイ8世が死去するとルイ9世が遺志を継ぎ、1228年にトゥールーズを占領。翌年、レイモン7世と協定を結んで征服を完了した。ただ、カタリ派の残党やアラゴン王国がこの地を狙っていたこともあって防衛ラインを整備し、その一部としてシテの市壁の外側に14基の塔を持つ約1.5kmの新たな市壁を建設した。1231年に教皇グレゴリウス9世が異端者に対する罰として改宗者には終身刑、改宗しない者には死刑を定めたこともあり、異端審問による虐殺や拷問が頻繁に行われた。審問官にはドミニコ会やベネディクト会の修道士が選ばれ、シテの塔で審問を行った。

1240年にはアラゴンに亡命していたレイモン2世トレンカヴェルがシテを包囲したものの破ることができず、ルイ9世の援軍が到着すると敗走し、1247年に所有権を放棄した。ルイ9世はアラゴンと交渉し、南のルシヨンやカタルーニャを放棄する代わりにラングドックの所有権を認めさせ、アラゴンとの国境を画定した。そして13~14世紀にかけてシテの市壁を強化するとともに、「カルカッソンヌの5子息」と呼ばれるペレペルトゥース城、アギラール城、ケリビュス城、ピュイローラン城、テルム城を整備して防塞線を構築した。この頃、サン=ナゼール=サン=セルス大聖堂がゴシック様式で改装されている。

これ以降、カルカッソンヌが戦渦に巻き込まれることはほとんどなかった。ただ、カルヴァン派プロテスタントである新教派=ユグノーと旧教派=ローマ・カトリックの争いが激化したユグノー戦争(1562~98年)においてシテはローマ・カトリック信者の軍事拠点となり、ユグノーの攻撃を受けた。1659年にはピレネー条約を締結し、スペインと国境を接するルシヨン地方がフランスの版図に入った。これにより国境から離れたカルカッソンヌは軍事拠点としての重要性を失い、徐々にシテは放棄され、町の中心はオード川左岸(西岸)に移動した。やがてスラムのように荒廃したが、サン=ナゼール=サン=セルス大聖堂はシテで活動を続けた。

1789年にはじまるフランス革命において、シテは軍の武器庫や補給庫として使用された。1801年にはサン=ナゼール=サン=セルス大聖堂が大聖堂の地位を失い、司教座は左岸のサン=ミシェル大聖堂(カルカッソンヌ大聖堂)に移された。旧大聖堂は1898年に教皇レオ13世によってバシリカの称号が付与されている。

シテは1820年には軍事拠点としての意義も失い、内部の建造物群は石材を持ち去られるなどして崩壊が進んだ。これに対してカルカッソンヌ出身の歴史家・考古学者で市議会議員も務めたジャン=ピエール・クロ=メイレヴィエイユは発掘調査と同時に保存活動を進め、1840年にサン=ナゼール=サン=セルス大聖堂が歴史的建造物に認定されて保護下に置かれた。1846年にはモニュメント修復の第一人者である建築家ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクが依頼を受けて報告書を作成している。1849年に政府によってシテの解体が決定されたが、メイレヴィエイユは翌年、計画の白紙化に成功した。また、小説『カルメン』の著者で歴史家としても名高いプロスペル・メリメもシテの重要性を政府にアピールした。こうした活動を受けて1853年にナポレオン3世が修復プロジェクトを承認し、修復・保全作業が開始された。1862年には市壁の全体が歴史的建造物に認定され、こちらも修復対象となった。1879年にウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクが亡くなると、弟子であるポール・ボスヴィルヴァルトが跡を継ぎ、さらにアンリ・ノデに引き継がれた。作業は1911年まで続けられ、シテのおよそ30%が復元された。この過程で多くの歴史家や考古学者・カメラマン・画家が調査や記録に参加し、シテの建造物群の構造や形態・歴史が明らかにされた。ただ、ナルボンヌ門の跳ね橋のように存在しなかったものを追加したり、塔の尖頭状のスレート屋根のようにアルビジョワ十字軍が持ち込んだ北フランスのスタイルで修復された箇所もあり、これらについては議論を呼んだ。

○資産の内容

世界遺産の資産としてはシテの市壁とその内側が地域として登録されている。オード門周辺についてはサン=ジメール教会まで資産となっている。

シテを囲う市壁は二重に巡っている。内壁は3~4世紀に建設されたローマ時代の市壁をベースに12~13世紀に増築されている。全長1,250mでもともと 34~38基の塔を有していたが、現在は円形または馬蹄形の26基の塔がそびえている。ローマ時代の市壁はローマン・コンクリートの基礎にレンガや切石が積み上げられており、厚さ3m・高さ6~8mほどで、マルキエール塔、サンソン塔、ムーラン・ダヴァール塔はほぼ無傷で伝えられている。一方、13~14世紀に建設された外壁は全長1,650mで19基の円形の塔を持つ。4基の城門は門を守るバービカンと一体化しており、東にメイン・ゲートであるナルボンヌ門とサン=ルイ・バービカン、西にコンタル城(伯爵城)にアクセスするためのオード門とオード・バービカン、南にサン=ナゼール門とサン=ナゼール・バービカン、北にブール門とノートル=ダム・バービカンが設けられている。オード門の外にはもともと甕城(おうじょう。城門外に張り出した二重の城門部分)としてオード・バービカンが広がっていたが、19世紀はじめに解体され、跡地にサン=ジメール教会が建設された。市壁の外に深さ4mの堀が巡っていたが、ナルボンヌ門周辺など一部を除いて埋め立てられた。

カルカッソンヌ伯の居城がオード門の内側に立つコンタル城だ。12世紀にトレンカヴェル家が建設したロマネスク様式の城館で、円錐形の屋根を持つ9基の塔が立ち並んだ堅牢な城壁が巡っており、その外も堀とバービカン(エスト・バービカン)で守られている。このうちパント塔は西ゴート王国時代の正方形の望楼で、シテでもっとも高い建造物となっている。

サン=ジメール教会は10世紀はじめにカルカッソンヌ司教を務めた聖ジメールの生誕地に築かれた教会堂で、11世紀末に礼拝堂として創建されたが、13世紀に撤去されてオード・バービカンが築かれた。フランス革命期にバービカンが解体されると、1854~59年にウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクが礼拝堂の跡地にゴシック・リバイバル様式のシンプルな教会堂を建設した。「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂だが、「T」形の頂部にアプス(後陣)を張り出させたような形状で、南フランス特有のデザインとなっている。

サン=ナゼール=サン=セルス・バシリカは1096~1120年頃にロマネスク様式で建設され、13世紀後半にゴシック様式で改装された折衷様式の教会堂だ。平面59×36mほどのラテン十字式・三廊式の教会堂で、サン=ジメール教会同様、「T」形の頂部にアプスが突き出した形となっている。身廊はロマネスク様式ながら、アプスやトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)はゴシック様式で、ファサード(正面)についても西ファサード(ファサードは正面)はロマネスク様式、南と北ファサードはゴシック様式となっている。ただ、北フランスのようにフライング・バットレス(飛び梁。横に飛び出したアーチ状の支え)は使用されておらず、ピナクル(ゴシック様式の小尖塔)やガーゴイル(悪魔や怪物を象った雨樋)で飾られたバットレス(控え壁)が壁を支えている。ステンドグラスは1280年代までさかのぼる南フランス最古級の逸品で、13~16世紀の貴重なステンドグラスが引き継がれている。南・北ファサードは巨大なバラ窓で飾られており、アプスやトランセプトにはランセット窓(細長い連続窓)がズラリと並び、主にイエスの生涯を描いている。代々の司教の墓所でもあり、先の聖ジメールもここに眠っている。

17世紀の建物を改装した異端審問博物館はカタリ派の歴史と異端審問の様子を伝える博物館で、数々の拷問道具を展示しており、審問や処刑の様子が再現されている。

■構成資産

○構成資産名

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

資料なし

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

資料なし

■完全性

資料なし

■真正性

資料なし

■関連サイト

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