中世大市都市プロヴァン

Provins, Town of Medieval Fairs

  • フランス
  • 登録年:2001年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:108ha
  • バッファー・ゾーン:1,365ha
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、シーザー塔からの眺め。左はサン=キリアス参事会教会の西ファサード
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、シーザー塔からの眺め。左はサン=キリアス参事会教会の西ファサードで、途中で建築が中止されてこのような形になった (C) Zairon
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、ロウワー・タウンから見上げたサン=キリアス参事会教会。左が身廊、右がクワイヤとアプス、中央は南ファサードとクロッシング塔
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、ロウワー・タウンから見上げたサン=キリアス参事会教会。左が身廊、右がクワイヤとアプス、中央は南ファサードとクロッシング塔 (C) Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、アッパー・タウンを囲む市壁。中央の四角形の塔は最大の側防塔であるアンジャン塔
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、アッパー・タウンを囲む市壁。中央の四角形の塔は最大の側防塔であるアンジャン塔
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、丘の上に築かれた城砦を起源とするシーザー塔
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、丘の上に築かれた城砦を起源とするシーザー塔
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、アッパー・タウンの街並み。奥の左の建物がサン=キリアス参事会教会、右の建物がシーザー塔
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、アッパー・タウンの街並み。奥の左の建物がサン=キリアス参事会教会、右の建物がシーザー塔
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、アッパー・タウンのシャテル広場のハーフティンバーの家並み、中央はメゾン・デ・トワ・ピニョン
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、アッパー・タウンのシャテル広場のハーフティンバーの家並み、中央はメゾン・デ・トワ・ピニョン
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、手前がプロヴァン最古級の住宅として知られるメゾン・ロマーヌ
世界遺産「中世大市都市プロヴァン」、手前がプロヴァン最古級の住宅として知られるメゾン・ロマーヌ (C) Jean-Pol GRANDMONT

■世界遺産概要

プロヴァンはシャンパーニュ地方セーヌ=エ=マルヌ県の都市で、イル=ド=フランス地方の都市でもあり、パリ(世界遺産)の南東約70kmに位置している。シャンパーニュ地方は北ヨーロッパと南ヨーロッパ、中央ヨーロッパを結ぶ要衝として発達し、一帯を治めるシャンパーニュ伯は11世紀頃からヨーロッパ各地の商人を集めて「大市(おおいち。シャンパーニュ大市)」と呼ばれる国際見本市を開催した。その中心を担ったのが大市都市のひとつであるプロヴァンで、市場や商人の邸宅・地下倉庫・ホテル・病院といった大市の関連施設のほか、市壁や側防塔(城壁塔。壁と一体化した防衛塔)といった軍事施設、教会堂や修道院のような宗教施設、道や庭園のようなインフラ、農場や毛織物工場といった産業施設をはじめ、中世の建造物が立ち並ぶ美しい景観をいまに伝えている。

○資産の歴史

ガロ・ローマ(共和政・帝政ローマ時代に征服されたガリアの地、あるいはその文化)の時代、プロヴァンは交通の要衝ではなく、パリやソワソン、トロワ、サンスといった主要都市を結ぶ主要路からも外れていた。しかし、いずれにも近いシャンパーニュ平原の好立地に位置し、セーヌ川の支流であるヴルジー川が流れており、陸運・河川舟運の両面で交通の便にすぐれていた。8世紀後半~9世紀はじめのフランク王国カール大帝の時代、プロヴァンは軍事的な要衝と見なされて、丘の上の城砦が周囲に睨みを利かせていたことが記録されている。

983年にプロヴァンはシャンパーニュ伯領に組み込まれ、伯爵に気に入られて城砦があった場所に宮殿を兼ねた城塞が建設された。城内には宮殿とサン=キリアス参事会教会が建てられ、周囲を石造の城壁が取り囲んだ。その立地を活かして交易都市として発達し、やがて城の外に城下町が形成されて、木造の壁に囲われた都市となった。城の支配域であった丘の上が現在のアッパー・タウンで、その東に広がる城下町がロウワー・タウンだ。

当初はイタリアの商人たちがブドウを栽培できない地方のためにワインを持ち込み、シャンパーニュ地方の特産品である毛織物や毛皮を持ち帰った。こうした商人のために11世紀には大きな市が定期的に開催されるようになった。シャンパーニュ伯は自由な交易を奨励して商人を保護し、1137年と1164年には大市を開催する特権を与えた。大市は日常的な市場(英語で "market"、フランス語で "marché")とは異なる国際的な見本市・展示会(英語で "fair"、フランス語で "foire")といったもので、各地から持ち込まれた商品をアピールする場となった。この頃、大市が開催されていたのはプロヴァンとトロワ、ラニー、バール=シュル=オーブの4都市で、1回6~7週間の大市が年6回ほど持ち回りで開催された。主な交易品は、イタリアなど地中海商業圏からもたらされるワインや香辛料・宝飾品・絹織物・医薬品、ハンザ同盟を中心に北海やロシア沿岸部といった北方商業圏から持ち込まれるタラやニシン・羊毛・毛皮・オイル・小麦・木材、シャンパーニュ地方やフランドル地方などの内陸部の毛織物や毛皮で、大市は「織物市」などとテーマを決めて開催された。

イタリアからもたらされた金融業が参入するとさらに規模が拡大した。プロヴァンは「デニー」と呼ばれる銀貨を鋳造し、ヨーロッパ全域で受け入れられる数少ない貨幣のひとつとなったことで金融の中心地としても発展した。この時代、各地の商業圏が交流を深めてヨーロッパ全域で商業が活性化したが、シャンパーニュ大市はこの商業ルネサンスに大いに貢献した。最盛期には人口1万人を超え、パリ、ルーアンに続くフランス第3の都市に成長した。

富と情報が集まるプロヴァンには学者や芸術家も集結し、詩人クレティアン・ド・トロワや神学者・哲学者ピエール・アベラールといった才人が集まり、芸術都市としても花開いた。シャンパーニュ伯ティボー4世(ナバラ王テオバルド1世)は自ら詩人として名を高め、「詩人王」の異名を取った。ティボー4世は1239~41年のバロン十字軍を率いたことでも知られるが、遠征の帰りにロサ・ガリカと呼ばれるバラを持ち帰り、プロヴァン(ローズ・ド・プロヴァン)の名でこれを広めた。以来、プロヴァンは「バラの町」として知られるようになり、花としてのバラだけでなく、薬や香料・ローション、シロップやジャム・ハチミツ、茶や菓子などさまざまな用途で使用され、町の産業となった。

1234年にシャンパーニュ伯テオバルド1世がピレネー山脈の北に位置するナバラ王国の王位に就き、次第にシャンパーニュ伯の重心は他に移っていった。1284年にフランス王家であるカペー家のフィリップがシャンパーニュ伯でナバラの女王でもあったフアナ1世と結婚し、フェリペ1世としてナバラ王となった。翌年、フィリップ4世としてフランス王にも就いたことでナバラとシャンパーニュはフランスの支配下に入った。

13~14世紀になるとフランスは宿敵イングランドとの長きにわたる戦いで疲弊し、国家財政の悪化に伴って税金が高騰してシャンパーニュの経済も悪化した。特にフィリップ4世は厳しく税を徴収したため多くの市民が町を去ったという。また、13世紀に入るとジェノヴァ(世界遺産)をはじめとするイタリアの海洋都市国家が羅針盤を使うようになり、ガレー船で地中海を出て北海に到達した。こうして海運が発達して直接取引を行うようになった結果、大陸内部の陸運は急速に衰退し、大市はその重要性を失った。少なくとも1120年に開始されたプロヴァンの大市は1320年に幕を下ろした。

プロヴァンは百年戦争(1337〜1453年)でイングランド領に組み込まれ、戦後フランス領に戻るなど混乱し、経済が低迷して19世紀まで小さな地方都市に転落した。しかし、そのため町は大きく更新されることなく保全され、人々は中世の都市プランや建造物を活かしながら生活を続けた。産業革命やフランス革命、世界大戦といった変革の影響も少なく、他の大市都市が中世の面影を失っていく中でプロヴァンは中世の街並みを維持することに成功した。

○資産の内容

プロヴァンの歴史地区はヴォルジー川とその支流であるデュルタン川の合流地点付近に位置しており、西側の丘の上に位置するアッパー・タウンと東側の谷のロウワー・タウンからなっている。資産はこれを含む一帯が地域で登録されており、おおよそ市壁が残る北のデュルタン川や運河から南のヴォルジー川までを範囲としている。

アッパー・タウンは中世に城砦や宮殿があった場所で、大市が開催された場所でもあった。採石場でもあり、約130もの地下室や地下道が残されていて、軍事施設や倉庫、ワイン・カーヴ(貯蔵庫/セラー)などとして使用された。丘は11~13世紀に建設された1.2kmの市壁で囲まれており、22の側防塔が立ち並んでいた。市壁はよく保存されており、サン=ジャン門とジュイ門という城門や、マドレーヌ塔やアリー塔、アンジャン塔、キャリー塔などの側防塔が残されている。

ランドマークのシーザー塔は共和政ローマのカエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)による創設伝説が伝わっているが定かではない。現在の建物は9世紀の城砦跡に12世紀にドンジョン(キープ。中世の城の主要部分となる主塔あるいは天守)として築かれたものだ。ロマネスク様式の建物で、下層は四角形で四方に塔を有し、上層は八角形でピラミッド形の木造屋根が架けられている。頂部には鐘が収められていて鐘楼としても機能し、中層は市長の部屋など市の施設で、地下のダンジョン(地下牢)は刑務所や避難所として使用された。

もうひとつのランドマークがサン=キリアス参事会教会だ。11世紀はじめにブロワ伯ユーデス2世の創設と伝わる教会堂で、大市の規模が大きくなったことからより大きな教会堂が必要となり、12世紀にシャンパーニュ伯ティボー2世とその息子アンリ1世がゴシック様式で再建した。1181年にアンリ1世が亡くなると建設は中断されたが、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)やアプス(後陣)が完成していたため教会堂として使用された。13世紀に作業が再開されてトランセプト(ラテン十字形の短軸部分)が完成したが、ふたたび中断。16世紀に再開されたが、1625年に身廊を1/4ほど築いたところで建設は中止となった。このため「†」形のラテン十字形の下部が短い珍しい形となった。クロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)のドームは17世紀に冠され、19世紀に再建されて、第2次世界大戦後に修復された。美しいステンドグラスが見られるが、多くは18世紀に置き換えられたものだ。

アッパー・タウンの大きな特徴は大市で使用された中世の住宅が残されている点だ。こうした住宅は住居と商館・倉庫を兼ねており、石造あるいは木造・石造の中間的なハーフティンバー(半木骨造)の2~3階建てで、筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)天井の地下貯蔵スペースを有している。大市に際してこうした地下室に荷物が搬入された。代表的な住宅として、12世紀に建てられたプロヴァン最古級の住宅建築でプロヴァン・エ・デュ・プロヴィノワ博物館として公開されているメゾン・ロマーヌ(ロマネスクの家)、12世紀の部屋が残るメゾン・デ・プティ=プレッド(小格子の家)、13~14世紀に築かれたテンプル騎士団の住宅と農場が残るマドレーヌ農場、ポータル(玄関)に聖ヤコブの貝(コキーユ・サン=ジャック)を掲げる14世紀のオテル・ド・ラ・コキーユ(貝の家)、15世紀のハーフティンバーの住宅であるメゾン・デ・トワ・ピニョン(三破風の家)などが挙げられる。

大市の関連施設にはグランジュ・オ・ディーム(什分の一の納屋)がある。13世紀に建設された石造の建物で、屋根付きの市場として使用されていた。シャテル広場には通貨取引所が設けられていたが、13世紀に立てられたシャンジの十字架にはシャンパーニュ伯の大市に関する勅令が刻まれている。シャンパーニュ伯爵宮殿は12~13世紀に建設された宮殿で、17世紀・18世紀・19世紀の改築によって大きく姿が変わったが、礼拝堂など一部に当時の姿を留めている。サンテスプリ病院(聖霊病院)はアンリ1世によって1177年に創設された病院で、ロマネスク様式の建物が残されている。

ロウワー・タウンはアッパー・タウンの東に展開する城下町で、かつては全長約5kmの市壁で囲われていたが、市壁は19世紀にほとんど撤去された。大市のニーズに合わせて区画されており、当時の整理されたグリッド構造や道路・水路が引き継がれている。アッパー・タウンの丘や住宅は地下室を特徴としていたが、ロウワー・タウンでは地下室はあまり造られず、倉庫は地上に築かれた。かつてはロウワー・タウンの半分以上が修道院の敷地だったこともあり、その関連施設や教会堂など多くの宗教建築が伝えられている。

一例がサンタユール教会だ。996年にブールジュ司教・聖アユールの墓が収められた礼拝堂が発見され、その場所に教区教会として建設された。1048年に隣接してベネディクト会のサンタユール修道院が創設されたが、教会堂はそのまま教区教会としてありつづけた。12世紀にロマネスク様式で再建されたが、1157年の大火で修道院とともに焼け落ちたためゴシック様式で再建され、13世紀まで改修が続けられた。16世紀に教区とベネディクト会の間で所有権が問題となり、身廊を中心とする西側と、アプスを中心とする東側に分割された。フランス革命期に修道院は廃院となり、国に接収・売却された。教会堂については州が買い戻している。教会堂の他、クロイスター(中庭を取り囲む回廊)やチャプター・ハウス(会議室・集会所)などが残されている。

サント=クロワ教会は12世紀に建設されたゴシック様式の教会堂で、13世紀にティボー4世がエルサレム(世界遺産)から持ち帰った聖十字架(サント=クロワ)の破片を聖遺物として収めている。14世紀に火事で損傷して修復され、16~17世紀にはルネサンス様式による改修を受けた。ラテン十字式の教会堂でクロッシング塔を掲げており、西ファサードは中央ポータル(玄関)がルネサンス様式、南ポータルは大きなステンドグラスを掲げたゴシック様式、北ポータルは種々の彫刻やレリーフで飾られたゴシック様式となっている。内部はシンプルだが、多くのステンドグラスで飾られている。

ノートル=ダム=デュ=ヴァル塔はもともとノートル=ダム=デュ=ヴァル参事会教会の鐘楼だったもので、16世紀に建設された。教会堂はフランス革命期に撤去されたが、鐘楼は維持され、サンタユール教会の鐘が持ち込まれた。厚い壁とバットレス(控え壁)があり、上層に鐘室を持ち、頂部に尖塔、下部に通路を備えている。

大市の関連施設の例として、12世紀創建で13世紀に改修された公衆浴場のドゥメール・デ・ヴュー・バン(旧浴場)、13世紀建設で16世紀に宿屋となったプロヴァン現存最古のホテルであるオステラリー・ド・ラ・クロワ・ドール(金十字の宿)、13世紀に築かれゴシック様式のステンドグラスが残るオテル・ド・ヴリュザンなどが挙げられる。オテル=デュー・ド・プロヴァンはもともと12~13世紀に築かれたシャンパーニュ伯爵夫人のためのゴシック様式の宮殿で、病院や療養所・救貧院・各種保護施設を兼ねた複合施設であるオテル=デューに改装された。

プロヴァンにはバラ園やバラが植えられた庭園が点在している。代表的なバラ園が町の北にあるロズレ・ド・プロヴァンで、ローズ・ド・プロヴァンをはじめ300種・1,500本以上のバラを栽培しており、ティー・ルームやショップを備えている。

■構成資産

○中世大市都市プロヴァン

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(iii)「文化・文明の稀有な証拠」でも推薦されていたが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)はその価値を認めなかった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

第2ミレニアム(1001~2000年)のはじめ、プロヴァンはシャンパーニュ伯領のいくつかの都市のひとつであり、北ヨーロッパと地中海世界を結ぶ年次の大市が開催される会場となった。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

プロヴァンは中世の大市都市を特徴付ける建築と都市レイアウトを高いレベルで保持している。

■完全性

プロヴァンは14~15世紀の百年戦争やフランス革命期の破壊に直面したが、その規模はかなり小規模に収まった。そのため中世の都市プランはよく保存されており、歴史的建造物や運河・水利システムの大部分も同様である。150棟ほどの歴史的家屋には物資を保管するための中世のヴォールト天井を持つ地下室が残されている。17世紀以降、小規模な変化はあったものの、都市はその完全性を維持しており、大市のさまざまな機能に関連した個々の建造物もそれぞれ完全性を保っている。アッパー・タウンとブリアール高原の関係は手付かずであり、ロウワー・タウンの新しい建物はアンサンブルとしてバランスを尊重していて歴史的建造物群とうまく調和している。

■真正性

プロヴァンの中世大市都市は経済的に衰退しつつも都市機能が維持されていたため今日まで比較的無傷で残されている。オープンスペース・地下室・公共施設・宗教施設・要塞などが大市の会場としての中世的特徴を伝えている。

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