ヴェルサイユの宮殿と庭園

Palace and Park of Versailles

  • フランス
  • 登録年:1979年、2007年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(vi)
  • 資産面積:1,070ha
  • バッファー・ゾーン:9,467ha
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、中央「コ」字部分が西ウイング、その右が南ウイング、左が北ウイング、手前右下のふたつの池が水のパルテール、奥のふたつの同形の建物がグラン・エキュリーとプティ・エキュリー
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、中央「コ」字部分が西ウイング、その右が南ウイング、左が北ウイング、手前右下のふたつの池が水のパルテール、奥のふたつの同形の建物がグラン・エキュリーとプティ・エキュリー (C) ToucanWings
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、下の建物が西ウイングで最奥部が大理石の中庭。建物の奥のふたつの池が水のパルテール、その奥がラトナのパルテール、緑のラインがタピス・ヴェール、さらに奥がグラン・カナル
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、下の建物が西ウイングで最奥部が大理石の中庭。建物の奥のふたつの池が水のパルテール、その奥がラトナのパルテール、緑のラインがタピス・ヴェール、さらに奥がグラン・カナル (C) ToucanWings
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、ラトナのパルテール、ラトナのバッサン、背後は宮殿の西ウイング。中央右の白大理石像は女神ラトナ
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、ラトナのパルテール、ラトナのバッサン、背後は宮殿の西ウイング。中央右の白大理石像は女神ラトナで、周囲にはふたりの子供、アポロとディアナの像がある
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、手前の整然とした庭園がオランジェリー、左奥は宮殿の南ウイング
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、手前の整然とした庭園がオランジェリー、左奥は宮殿の南ウイング
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、ヴェルサイユ宮殿の象徴・鏡のギャラリー
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、ヴェルサイユ宮殿の象徴・鏡のギャラリー (C) Myrabella / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、神々しい空間が広がる王室礼拝堂
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、神々しい空間が広がる王室礼拝堂
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、グラン・トリアノンとその庭園
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、グラン・トリアノンとその庭園 (C) Anitsircana
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、アングレ庭園にたたずむ愛の神殿(手前)とプティ・トリアノン(奥)
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、アングレ庭園にたたずむ愛の神殿(手前)とプティ・トリアノン(奥)(C) ToucanWings
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、ル・アモー。左の塔がマールボロ塔、中央がコロンビエ、右が王妃のメゾン
世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」、ル・アモー。左の塔がマールボロ塔、中央がコロンビエ、右が王妃のメゾン

■世界遺産概要

「ヴェルサイユの宮殿と庭園」はパリの南西20kmほどに位置するイヴリーヌ県ヴェルサイユにある世界遺産で、太陽王ルイ14世が建設し、1682年からフランス革命でルイ16世が失脚する1789年まで王宮として機能した。当時は8,000ha超(東京ドーム1,700個分以上)という広大な宮殿で、フランス・バロック建築の第一人者ルイ・ル・ヴォーやジュール・アルドゥアン=マンサールによる建築、画家兼室内装飾家シャルル・ル・ブランによる内装、フランス式庭園(フランス・バロック庭園)の完成者アンドレ・ル・ノートルによる庭園を有し、フランス絶対王政の象徴となった。あまりに革新的で豪壮な宮殿と庭園は以後の規範となり、世界各地に「プティ・ヴェルサイユ(小ヴェルサイユ)」と呼ばれる宮殿が建設された。世界遺産に登録されているものだけでも以下の例がある。

  • 「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)」のサンスーシ宮殿やノイエス宮殿(新宮殿)は「プロイセンのヴェルサイユ」と呼ばれる
  • 「ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場(ドイツ)」はヴェルサイユ宮殿を参考にバルタザール・ノイマンが設計した
  • 「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)」は「オーストリアのヴェルサイユ」の異名を持つ
  • 「ドロットニングホルムの王領地(スウェーデン)」はプファルツ朝の宮殿で「北欧のヴェルサイユ」と呼ばれる
  • 「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)」のペテルゴフ宮殿は「ロシアのヴェルサイユ」と呼ばれる
  • 「アランフェスの文化的景観(スペイン)」の宮殿群はヴェルサイユ宮殿を模して改修された
  • 「プラド通りとブエン・レティーロ、芸術と科学の景観」のブエン・レティーロの宮殿や庭園はヴェルサイユを参考に改修された
  • 「カゼルタの18世紀の王宮と公園、ヴァンヴィテッリの水道橋とサン・レウチョ邸宅群(イタリア)」ではヴェルサイユ宮殿に対抗して壮大な宮殿や公園を建設した
  • 「サヴォイア王家の王宮群(イタリア)」のヴェナニア・レアーレ宮殿はヴェルサイユ宮殿を目指して建設・改修された
  • 「フェルテー湖/ノイジードラー湖の文化的景観(オーストリア/ハンガリー共通)」のフェルトードのエステルハージ宮殿は「ハンガリーのヴェルサイユ」と讃えられる
  • 「ブレナム宮殿(イギリス)」はバロック様式の宮殿とイギリス式庭園が調和した姿から「自然主義のヴェルサイユ」の異名を持つ
  • 「国立歴史公園 -シタデル、サン・スーシ、ラミエ(ハイチ)」のサン・スーシ宮はヴェルサイユ宮殿を参考に築かれた

なお、本遺産は2007年の軽微な変更でバッファー・ゾーンが設定された。

○資産の歴史

1607年、フランス王アンリ4世は息子のドーファン(王太子のこと)とともに王家の狩猟場だったヴェルサイユに狩りに出掛けたという。対人恐怖症を患っていたドーファンは人里離れたこの狩猟場を気に入り、しばらくこの地で暮らした。アンリ4世が暗殺されたため1610年に弱冠8歳でルイ13世として王位に就いたが、5年ほどは政治を母マリー・ド・メディシスに任せてこの地を離れなかったという。

ルイ13世は一帯の土地を購入し、1623年に狩猟小屋を建設。「小さな宮殿」と呼ばれた隠れ家的な小屋に親しい友人や愛人を招いてはひっそりとした宴を催し、あるいはひとりでこの地に閉じこもったという。1630年代に土地を買い増し、建築家フィリベール・ル・ロイによって庭園を持つコートハウス(中庭を持つ建物)に建て替えられた。この場所は現在の宮殿の中心部、西ウイング(中央ウイング/王のウイング)の大理石の中庭周辺の旧宮殿に当たる。ルイ13世は長男が成長した後、ヴェルサイユでの隠遁生活を望んでいたが、1643年に41歳の若さで病没した。

ルイ14世はわずか4歳で即位したため、パリのルーヴル宮殿(世界遺産)の北に位置するパレ・ロワイヤルを拠点として王妃アンヌと宰相のマザランによる摂政政治が行われた。1651年から翌年の冬にかけて重税に苦しむ民衆が起こしたフロンドの乱(1648~53年)でパリが荒れたため、ヴェルサイユへの退避を余儀なくされた。

ルイ14世は1660年代に財務官ニコラ・フーケの宮殿であるマンシーのヴォー=ル=ヴィコント城を訪ねた大いに感銘を受けたという。贅を極めたバロック様式の宮殿で、内部は建築と彫刻・絵画が一体化した総合芸術の場であり、造園家アンドレ・ル・ノートルによって完成された平面幾何学式のフランス式庭園は時代の最先端を行くものだった。その勢力を恐れたルイ14世はフーケを失脚させるが、宮殿には多大な影響を受け、ヴェルサイユの地にこれを模した前代未聞の宮殿の建設を決意した。パリではなくヴェルサイユが選ばれたのはフロンドの乱で危険を感じたためといわれる。

1661年にマザランが亡くなると、ルイ14世は宰相を置かず、自ら政治を執り行うことを宣言した。同年にヴェルサイユの宮殿と庭園の改築を開始し、ヴォー=ル=ヴィコント城を担当していた建築家ルイ・ル・ヴォーが抜擢された。1664年に本格的な第1期工事がはじまり、フランソワ・ジラルドンやエティエンヌ・ル・オングルの彫刻で飾られた前庭やテティスの洞窟、オランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための温室)、メナジェリー(動物園)などが築かれ、1667年にはアンドレ・ル・ノートルによってグラン・カナル(大運河)をはじめフランス式庭園の造園が開始された。

1669年に第2期工事がはじまり、ル・ヴォーのエンヴェロープ、閣僚のウイング、トリアノン・ドゥ・ポルセレーヌ(磁器のトリアノン)が建設され、1670年にル・ヴォーが亡くなると建築家フランソワ・ドルベイに引き継がれた。

1678年からはじまる第3期工事ではバロック建築の第一人者である建築家ジュール・アルドゥアン=マンサールが起用され、ヴォー=ル=ヴィコント城の装飾家でもあったシャルル・ル・ブランとともに宮殿を完成に導いた。この工事で宮殿本館の南ウイング(王子のウイング)、北ウイング(貴族のウイング)、別館のグラン・コミュン、グラン・エキュリー(大厩舎)、プティ・エキュリー(小厩舎)、トリアノン・ドゥ・マーブル(大理石のトリアノン。後のグラン・トリアノン=大トリアノン宮殿)などが建設され、宮殿の象徴である鏡のギャラリー(鏡の回廊/鏡の間)を含む西ウイングが完成した。また、一帯は荒野で宮殿や庭園に水を供給する大きな川がなかったため、北7kmほどを流れるセーヌ川に「マルリーの機械」と呼ばれる水車14基からなる汲み上げ装置と水路・水路橋を建設し、いったん高低差150mの丘まで水を引き上げてヴェルサイユに送水した。工事期間中の1682年にルイ14世は玉座をヴェルサイユに遷し、事実上首都となった。

1699年にはじまる第4期工事では王室礼拝堂の建設や王や王妃の居室である西ウイングのグランズ・アパルトマンの拡張が進められた。1708年にマンサールが亡くなると王室建築家のロベール・ド・コットに引き継がれ、1710年の礼拝堂の完成をもってルイ14世による宮殿と庭園の建設は完成を迎えた。建設には延べ6万人が投入され、宮殿には1万~2万人の従者が働いていたという。

完成した宮殿は絶対君主ルイ14世の力を世界に喧伝するものとなった。「私の中には太陽が宿っている」という言葉のように、水なき土地に水を引き、丘や谷をならして区画して自然さえ征服して建設された宮殿は、自らが神から力を授かって地上を征服する者であることを高らかに宣言した(王権神授説)。また、「朕は国家なり」というようにすべての権力を国王に集中させてこの地で政治(絶対王政)を行い、貴族を住まわせ、各地の王や貴族を招待し、庭園を庶民に開放してその力を知らしめた。

1715年にルイ14世が死去すると、曽孫であるルイ15世が5歳で王位に就いた。オルレアン公フィリップ2世が摂政政治を行い、王宮は短期間ではあるがパリのパレ・ロワイヤルやテュイルリー宮殿に移された。1722年、ルイ15世は居城をヴェルサイユ宮殿に戻すと、ロベール・ド・コットの指揮下でグランズ・アパルトマンの改修やネプテューヌ(ネプチューン)のバッサン(バッサンは泉水・池・水盤)、浴場などの建設などを行った。1742年には主任建築家がコットから古典主義建築の旗手アンジュ=ジャック・ガブリエルに移行し、王妃のグラン・アパルトマンの改築やファサードの新古典主義様式への改修、王室オペラ劇場やプティ・トリアノン(小トリアノン宮殿)、パヴィヨン・フランセ(フランス・パビリオン)の建設などを進めた。1763年の年末から翌年の正月にかけてわずか8歳のモーツァルトがヴェルサイユを訪れ、磁器のダイニング・ルームで驚異的な演奏を披露したという。1770年には王室礼拝堂でルイ15世の孫であるルイ・オーギュストとオーストリア大公マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットの結婚式が行われた。これにより長年対立していたフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が姻戚関係を結んだ。

1774年にルイ15世は天然痘を患ってヴェルサイユ宮殿で死去し、ルイ・オーギュストがルイ16世として即位した。ヴェルサイユ宮殿で生まれたルイ16世はその後もこの宮殿で暮らしたが、ルイ14世・15世時代の相次ぐ外征や宮殿建設などによって財政状況は悪化しており、宮殿の増築や改修は控えられた。そんな中でルイ16世はアンジュ=ジャック・ガブリエルに依頼して自分がくつろぐ部屋としてルイ16世の図書館を整備し、エントランスにガブリエル・ウイングを建設した。一方、王妃マリー・アントワネットはルイ15世がポンパドゥール夫人のために建てたプティ・トリアノンと周囲の庭園を提供され、自然を模してイギリス式庭園のアングレ庭園(イギリス庭園)を造園し、田園風景が広がるル・アモー(王妃の村里/ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ)を開発した。整然と広がるヴェルサイユ庭園の中に強いアクセントを加えたが、その浪費によって貴族や民衆の間で反発が高まった。

ルイ14世の時代から積み重なった財政負担は想像以上に重いもので、ルイ16世は財政再建を余儀なくされた。増税が不可避となったことから1789年5月にヴェルサイユ宮殿の議場に三部会を召集し、第1身分(聖職者)・第2身分(貴族)・第3身分(平民)の代表者が集まった。身分の対立から議会が空転すると第3身分は国民の代表を謳って国民議会を創設したが、議場から閉め出され、宮殿の外に位置するジュ・ド・ポーム(球戯場。世界遺産資産外)で憲法制定の実現を決議した(球戯場の誓い/テニスコートの誓い)。ルイ16世は武力制圧を図るが、1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃を皮切りにフランス革命が勃発し、10月5~6日には民衆がヴェルサイユ宮殿を取り囲んでルイ16世とマリー・アントワネットをパリに連れ戻った(ヴェルサイユ行進)。これにより王宮はテュイルリー宮殿に移され、ふたりは1793年にテュイルリー広場で斬首刑に処された。ヴェルサイユ宮殿に飾られていた彫刻や絵画・家具といった動産は一部を除いて多くが撤去され、多くはルーヴル美術館(世界遺産)の収蔵となり、一部は売却された。また、庭園や公園の一部は耕作地となり、メナジェリーの動物もパリの国立自然史博物館に移された。ヴェルサイユ宮殿はその後、ルーヴル美術館を補完する中央博物館として整備された。1804年に皇帝位に就いたナポレオン1世はしばしばグラン・トリアノンに滞在し、ヴェルサイユ宮殿を王宮として整備したが、志半ばで失脚した。

1814年にブルボン朝が復活してルイ18世による復古王政が敷かれた。ルイ18世はヴェルサイユ宮殿を修復しつつ、エントランス付近に新たにガブリエル・ウイングと対称を成すパヴィヨン・デュフール(デュフール・パビリオン)を建設した。ただ、革命の余波が収まらない中で絶対王政の象徴であるヴェルサイユ宮殿に住むのはためらわれ、王宮とすることはなかった。

1830年に七月革命が起こるとブルボン家の分家であるオルレアン家から自由主義者で知られるルイ・フィリップ1世が迎えられて王位に即位した(七月王政)。ルイ・フィリップ1世はヴェルサイユ宮殿をフランスの栄光の歴史を証明する歴史博物館に転換することを決め、ガブリエル・ウイングとパヴィヨン・デュフールのペディメント(頂部の三角破風部分)に「フランスのすべての栄光に」の文字を刻んだ。宮殿の修復は建築家ピエール・フォンテーヌに委ねられ、南ウイングに戦闘のギャラリー(戦闘の回廊)と呼ばれる中世から近代までのフランス軍事史を物語る絵画を展示するスペースを設置して1837年にオープンした。また、ルイ・フィリップ1世は自らの住居としてグラン・トリアノンを整備した。

1852年に皇帝位に就いたナポレオン3世は迎賓や祝賀といった催しの際にヴェルサイユ宮殿を使用し、イギリスのヴィクトリア女王らを招待した。しかし、1870~71年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)で捕らえられて失脚。プロイセン軍はヴェルサイユ宮殿を占領して拠点とし、1871年1月に鏡のギャラリーでヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行った(ドイツ帝国の成立)。3月にはドイツ軍のパリ入城を許し、こうした数々の屈辱に対して労働者が立ち上がって労働者政権パリ・コミューンを結成すると、ナポレオン3世失脚後に政権を担っていた臨時政府はヴェルサイユ宮殿に退避した。5月下旬、ドイツ軍が包囲する中で行われた凄惨な戦い(血の週間)の末にパリ・コミューンは臨時政府に鎮圧され、第3共和政が成立した。

ヴェルサイユ宮殿は基本的に博物館として継続し、第1次世界大戦(1914~18年)でも被害を受けることはなかった。戦勝国となったフランスをはじめとする連合国とドイツは1919年6月にヴェルサイユ条約の調印式を鏡のギャラリーで行った。条約ではドイツに天文学的な賠償金を請求し、すべての海外植民地の放棄や軍備・徴兵制の制限を要求するなど、ドイツ皇帝戴冠式やパリ入城を雪辱するものとなった。このヴェルサイユ条約で確立された新しい国際秩序は「ヴェルサイユ体制」と呼ばれている。また、1920年6月にはグラン・トリアノンで連合国とハンガリー王国の間でトリアノン条約が結ばれた。

戦後、ロックフェラー財団などの協力により宮殿と庭園の修復が進められた。第2次世界大戦(1939~45年)でナチス=ドイツに占領されたものの多くの収蔵品は退避されており、大きな被害を受けることはなかった。1910年に宮殿にウォルドーフ・アストリア・ヴェルサイユ=トリアノン・パレス、通称でトリアノン宮殿ホテルと呼ばれる高級ホテルがオープンしていたが、1944年に連合国の総司令部がここに移された。

戦後も博物館としてありつづけ、1982年のG7サミットをはじめ国際会議や世界的な芸術イベントの会場となるなど、国際舞台として活躍している。

○資産の内容

世界遺産の資産はヴェルサイユの宮殿と庭園・公園とその周辺で、グラン・カナルの北東に伸びる約5kmの水路跡も含まれている。ただ、ヴェルサイユ市庁舎やヴェルサイユ・サン=ルイ大聖堂、グラン・コミュン、レ・モルトメ、ジュ・ド・ポーム(球戯場)などは含まれていない。以下では宮殿、宮殿周辺、庭園、公園、トリアノンの5つに分けて紹介する。

「宮殿」はアルム広場と名誉の中庭を分ける金色の門・名誉の門で区切られており、アルム広場にはルイ14世の騎馬像がたたずんでいる。名誉の門の先には手前から名誉の中庭、王室の中庭、大理石の中庭が続いており、名誉の中庭の両サイドには閣僚のウイングの南棟・北棟、王室の中庭の両サイドには南のパヴィヨン・デュフール(デュフール・パビリオン)と北のガブリエル・ウイングが対称に立っており、最奥部が大理石の中庭となっている。閣僚のウイングは17世紀に築かれた大臣らの行政機関の建物で、18世紀のガブリエル・ウイングと19世紀のパヴィヨン・デュフールは宮殿の前殿としての役割を果たした。

宮殿の本館が西ウイング(中央ウイング/王のウイング)、南ウイング(王子のウイング)、北ウイング(貴族のウイング)という3つのウイング(翼)だ。中央の「コ」字形の西ウイングの中庭が大理石の中庭で、内側はルイ13世時代の旧宮殿の跡を留めている。南北のウイングは「日」形でそれぞれふたつの中庭を持ち、ほぼ対称形となっている。宮殿の象徴である鏡のギャラリーは西ウイングの最奥部に位置し、マンサールの設計、ル・ブランの装飾で1678~84年に建設された。全長73m・幅10.5m・高さ12.3mの部屋に17の窓があり、これと対峙する17の鏡を含めて357の鏡が使用されている。天井画や壁面の彫刻・レリーフ、壁と天井をつなぐスタッコ(化粧漆喰)、枠飾りであるカルトゥーシュ、シャンデリアなど部屋は余すところなく装飾されており、建築と装飾が一体化したバロック総合芸術の完成形を見ることができる。ル・ブランが担当した天井画群の主題はルイ14世の功績で、戦勝の様子などが描かれている。並べられた彫像は主にローマ皇帝やローマ神話の神々の像となっている。鏡のギャラリーの南北には国王によってもたらされた平和と勝利に捧げられた部屋が設けられている。南の平和のサロン(サロンは居間・応接室)には画家フランソワ・ルモワーヌによるルイ15世のメダリオンをはじめ平和を主題とした絵画や、ル・ブランによる平和の女神の天井画が掲げられている。一方、北の戦争のサロンには彫刻家アントワーヌ・コワズヴォによるオランダ侵略戦争(ネーデルラント戦争)でライン川を渡るルイ14世のレリーフや、ル・ブランによる勝利の女神の天井画で飾られている。また、西ウイングは王と王妃の居住区画(グランズ・アパルトマン)でもあり、王のグラン・アパルトマン、王のアパルトマン、王のアパルトマン・アンテリア、王妃のグラン・アパルトマン、王太子のアパルトマン、王太子妃のアパルトマン、ルイ15世の娘たちのアパルトマン、デュ・バリー夫人のアパルトマン、ポンパドゥール夫人のアパルトマンなどが並んでいる。もっとも豪壮な一帯が王のグラン・アパルトマンで、英雄ヘラクレスを描いたフランソワ・ルモインの天井画で知られるエルキュールのサロン(ヘラクレスのサロン)、バーや軽食堂の役割を果たしたラボンダンスのサロン、ル・ブランがバロック総合芸術の場として整備したウェヌス(ギリシア神ヴィーナス)のサロン、ゲームルームとして使用されていたディアナ(ギリシア神アルテミス)のサロン、宴会場だったメルキュール(メルクリウス。ギリシア神ヘルメス)のサロン、ルイ14世の玉座が置かれていたアポロン(アポロ。ギリシア神アポロン)のサロンなどがある。これ以外にも、ルイ14世が寝室として使用していた王のアパルトマンの王のシャムブル(シャムブルは寝室)、ルイ15世の寝室だった王のアパルトマン・アンテリアのルイ15世のシャムブル、モーツァルトが演奏を行った磁器のダイニング・ルーム、マリー・アントワネットをはじめ王妃の寝室だった王妃のグラン・アパルトマンの王妃のシャムブル、ナポレオン1世の初勝利を記念した「アウステルリッツの柱」や画家ジャック=ルイ・ダヴィッドによる戴冠式の絵画で知られる戴冠式のサル(サルは部屋・広間)、ナポレオン1世やルイ・フィリップ1世の収集品を集めた帝国のサルなどがある。

南ウイングの最大の見所が戦闘のギャラリー(戦闘の回廊)だ。5世紀の初代フランク王クローヴィス1世から19世紀のフランス皇帝ナポレオン1世までフランスの歴史的な戦いを描いた33枚の絵画を偉人の胸像などとともに展示している。議会のサル(コングレス・ホール)は1870年代に議事堂として建設されたホールで、現在でも国民議会などが開催されている。北ウイングの象徴的な建物が王室オペラ劇場だ。ルイ15世とガブリエルの代表作で、約1,500人を収容する劇場として1770年にオープンした。画家ルイ・ジャン=ジャック・デュラモーの天井画や彫刻家オーギュスタン・パジューの彫刻をはじめとする華麗な装飾でも知られている。北ウイングとガブリエル・ウイングの間に挟まれている建物が王室礼拝堂で、ルイ14世の命でマンサールと後任のコットが1710年に完成させた。宮殿でもっとも高い建物で、礼拝堂の内外は天使や使徒・聖人の彫像や絵画で飾られており、アントワーヌ・コワペルの天井画は得に名高い。

「宮殿周辺」の代表的な建物がアルム広場の東に並ぶグラン・エキュリー(大厩舎)とプティ・エキュリー(小厩舎)だ。ルイ14世の時代にマンサールが建設した厩舎で、王室のウマや軍馬を収容した。現在前者はヴェルサイユ馬術アカデミーや馬車ギャラリー、後者にはヴェルサイユ国立高等建築学校やラ・マレシャルリー現代美術センターが入っている。王の菜園はルイ14世のために造られた果樹園兼菜園で、約5,000本の果樹と広大な畑で果物と野菜を生産した。隣のバルビ公園は後にルイ18世となるプロヴァンス伯がバルビ夫人のために築いたイギリス式庭園だ。菜園や庭園の水源となったのがスイス人衛兵によって掘られたスイスの池だ。王の菜園やバルビ公園は宮殿の外部に位置するが、国王は王の門を通ってアクセスすることができた。

「庭園」は宮殿の西に広がる一帯で、アポロンのバッサンのあるアポロン通りまではヴェルサイユ庭園(かつてのプティ・パルク)、それ以西はヴェルサイユ公園(同グラン・パルク)と呼ばれる。ル・ノートルが設計を開始し、ジャン=バティスト・コルベールが指揮を執ったフランス式庭園の造園は約40年にわたって続けられた。西ウイングの鏡のキャラリーのすぐ西に位置するのが水のパルテール(パルテール・ドー。パルテールは花壇と通路を幾何学的に配した刺繍花壇)で、ふたつの池が光を反射して鏡のギャラリーを照らす仕組みとなっている。水のパルテールの西にはもっとも華麗な一帯であるラトナのパルテールが展開し、丘の下に広がる庭園と公園を見下ろしている。ローマ神話の女神ラトナ(ギリシア神レト)は太陽の神アポロと月の神ディアナの母であり、「私の中には太陽が宿っている」と豪語する太陽王ルイ14世にとって母なる神に当たる。ラトナのパルテールの中心であるラトナのバッサンはガスパールとバルタザールのマルシー兄弟が制作したラトナ、アポロ、ディアナの神像を中心に数多くの神々や動物の彫刻で飾られており、異民族を示す数十匹のカエル、トカゲ、カメが水を噴き上げている。さらに西にはタピス・ヴェール(緑の絨毯)を経てアポロンのバッサンがあり、彫刻家ジャン=バティスト・テュビによる4頭のウマに引かれた戦車に乗るアポロ像が掲げられており、太陽神と太陽王を重ねてその権威を示している。鏡のギャラリー-水のパルテール-ラトナのパルテール-タピス・ヴェール-アポロンのバッサン-グラン・カナル(大運河)という東西のライン、水と光のラインが庭園と公園の中心軸となっている。

一方、水のパルテールの南にある南パルテールは導線をオランジェリーとスイスの池に導いている。オランジェリーは1660年代にル・ヴォーが築いた果樹園を1680年代にマンサールが再建したもので、幾何学式の庭園にオレンジを中心にヤシやザクロなど1,500本もの果樹が立ち並んでいる。その逆、北のパルテールはピラミッドのバッサン、ドラゴンのバッサン、ネプテューヌ(ネプチューン)のバッサンへ続いており、南北のラインを形成している。ピラミッドのバッサンは4段のピラミッド状の噴水をイモリやイルカ、ザリガニが支えており、ドラゴンのバッサンにはギリシア神話の怪物ピュトン像がそびえ、ネプテューヌのバッサンは海神ネプチューン像を中心に33もの噴水で飾られている。

そしてこの南北のラインの西側に数々のボスケ(林・木立)が広がっている。それぞれのボスケはテーマによって幾何学的なデザインや樹種が決められ、噴水や彫像・花壇などが配されている。代表的なボスケには、マリー・アントワネットのためにバラやチューリップで飾られた王妃のボスケ、ル・ノートルの設計で8段のカスケード(階段状の連滝)で囲われた屋外ダンス・ホールとして造園されたボールルームのボスケ、マンサールとル・ノートルの共作で32本のイオニア式大理石柱に支えられたコロネード(水平の梁で連結された列柱廊)で囲われたコロネードのボスケ、マンサールとル・ノートルによる円形劇場を模したドームのボスケ、地中に封じられたギリシア神話の巨人エンケラドスを描いたエンセラード(エンケラドス)のボスケ、マンサールとル・ノートルの共作でアポロと泉の妖精ニンフを描いたアポロンの泉のボスケ、マンサールの設計でオベリスク(古代エジプトで神殿の前に立てられた石碑)を噴水で表現したオベリスクのボスケ、正五角形の星のボスケ、ル・ノートルの作品で3基の噴水とふたつの滝が並ぶ三噴水のボスケ、正方形の区画にひし形を組み込んで水劇場(ウオーターシアター)としたルイ14世お気に入りの水劇場のボスケなどがある。

「公園」は庭園の周辺に広がる緑地で、中心にグラン・カナルが位置している。グラン・カナルは東西約1.67km・南北約1.0kmの十字形の運河で、ル・ノートルは水のパルテールから続く水と光のラインの最奥部にこの運河を配置した。ルイ14世は「プティ・ヴェニス(小ヴェネツィア)」と呼ばれたこの運河に王の艦隊やヴェネツィア(世界遺産)から贈られたゴンドラを浮かべては悦に浸ったという。グラン・カナルからは全長22kmのギャリー水路が流れ出しており、緑豊かな湿地帯や林を育んでいる。ラ・ランテルヌ(ランタンのパビリオン)はグラン・カナルの南西に位置するパビリオンで、もともとポワ公の狩猟場だった場所でルイ15世に寄贈された。18世紀に狩猟小屋として建てられたパビリオンは現在、大統領官邸のひとつとして使用されている。周辺にはパヴィヨン・デ・マテロ(水兵のパビリオン)やレ・モルトメといった宮殿や庭園が散在している。「ヤギとオオカミ」を意味するシェーヴルルー樹木園はトリアノンの北に広がる約200haの広大な植物園で、もともとルイ14世の狩猟場として使用されていた。ふたつの世界大戦で荒廃した後、2,500種以上の樹木を植え、温室を備えた植物園として整備された。

「トリアノン」はルイ14世が郊外の村落を買い取って離宮として開発した三角形(トリアノン)の土地で、1670年頃にル・ヴォーの設計でトリアノン・ドゥ・ポルセレーヌ(磁器のトリアノン)が建設された。1688年にマンサールの設計でトリアノン・ドゥ・マーブル(大理石のトリアノン)に建て替えられ、さまざまな増築を経てグラン・トリアノン(大トリアノン宮殿)と呼ばれるようになった。ルイ14世は夏の離宮として使用したほか、子供たちや親族・愛人を住まわせた。ルイ15世やルイ16世はほとんど住むことはなかったが、ロシアのピョートル大帝(ピョートル1世)やポーランド王スタニスワフ1世レシチニスキなどが滞在する迎賓館として使用され、後の時代にはナポレオン1世が私邸として改装した。現在は博物館であると同時に官邸や迎賓館としても使用されている。主な区画には、ルイ14世の時代の部屋が残るグラン・アパルトマン、ナポレオン1世が生活を行った皇帝のプティ・アパルトマン、ナポレオン1世の皇妃マリー・ルイーズが愛した皇妃のアパルトマン、ルイ14世の親族が生活するためのトリアノン=スー=ボア・ウイング、これらを接続するペリスタイル(列柱廊で囲まれた中庭)、ミシェル2世ル・ブートゥーやル・ノートルによるフランス式庭園のグラン・トリアノン庭園などがある。プティ・トリアノン(小トリアノン宮殿)はルイ15世がガブリエルに命じて1768年に建設させた離宮で、コリント式のギリシア建築を模倣した新古典主義様式の傑作として知られる。周辺にはフランス式庭園であるフランセ庭園が造園され、1750年代にポンパドゥール夫人に捧げられたロココ様式の優美なパヴィヨン・フランセ(フランス・パビリオン)や、ダイニング・ルームとして築かれた緑色のパヴィヨン・フレ(フレッシュ・パビリオン)、深さ30mに達する井戸を含んだ氷室、庭師の家であるパヴィヨン・ジュシューなどが整備され、一帯は新古典主義様式やロココ様式の優美な空間となった。次の時代、ルイ16世は王妃マリー・アントワネットにこの離宮を提供し、彼女が自分好みに改装を行った。彼女が特に力を入れたのがアングレ庭園(イギリス庭園)で、建築家リシャール・ミキとともに川や池・林・小道を自然に見えるように配してイギリス式庭園を設計し、各所に洞窟や島・パビリオン・村落を整備した。愛の神殿は小川の中州に築かれたコリント式のトロス(円形神殿)で、中央に彫刻家ルイ=フィリップ・ムーシーによるアモール(クピド/キューピッド)像が置かれている。ベルヴェデーレは池を見下ろす岩場にたたずむ八角形のパビリオンで、周囲を8体のスフィンクス像が守っている。隣にはグラン・ロシェと呼ばれる岩山が立っており、風光明媚な景観にアクセントを与えている。近くの山腹に設置されたマリー・アントワネットのグロッタ(洞窟)には小川が流れ、苔むした岩場が風情を出している。ル・アモー(王妃の村里/ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ)はマリー・アントワネットの依頼で1783~86年に築かれた農村で、王妃のメゾン(住宅)とブドワール(王妃のプティ・メゾン)を中心に、灯台の形で建てられたマールボロ塔、水車を備えたムーラン(製粉所)、暖房施設を備えてダイニング・ルームとして使用されたリショファー(暖房所)、クリームやチーズを生産したレタリー(酪農場)、ハトやニワトリの小屋を備えたコロンビエ(鳩舎)、警備員が滞在した衛兵のメゾンなどが設置され、周囲には農家の家々や菜園・果樹園・牧草地・花壇などが配された。マリー・アントワネットはここに実家の家族を招き、土いじりを楽しんだという。ル・アモーの北東にはルイ16世が建設した凱旋門であるサンタントワーヌ門があり、外部へ続いている。ウォルドーフ・アストリア・ヴェルサイユ=トリアノン・パレス(トリアノン宮殿ホテル)はトリアノンの東、サンタントワーヌ門の外に位置する建物で、1910年に宮殿の最高級ホテルとして建設された。建築家ルネ・セルジャンによる新古典主義様式の華麗な建物で、1990年には新たにパヴィヨン・デュ・トリアノンと呼ばれる建物が建設された。これらも世界遺産の資産に含まれている。

■構成資産

○ベルサイユの宮殿と庭園

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

ヴェルサイユの宮殿と庭園の建造物群はその規模のみならずクオリティと独創性において他に類を見ない芸術的成果を達成している。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ヴェルサイユ宮殿は17世紀末から18世紀末にかけてヨーロッパ中に多大な影響を及ぼした。建築家クリストファー・レンがイギリス・ロンドンのハンプトン・コートで、アンドレアス・シュリュターがドイツのベルリンで、それぞれ宮殿のファサードを設計する際にヴェルサイユ宮殿を想起・模倣したように、ドイツのニンフェンブルク、カールスルーエ、ヴュルツブルク、ポツダム、オーストリアのシュライスハイム、スウェーデンのストックホルム をはじめ各地に「プティ・ヴェルサイユ」が誕生した。アンドレ・ル・ノートルが設計した庭園についてもイギリスのウィンザーやドイツのカッセルからスウェーデン、デンマーク、ロシアまで、数え切れないほど多数の庭園のモデルとなった。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

絶対君主の権力の座であるヴェルサイユ宮殿は1世紀半にわたるフランス王室の宮廷生活の場であり、ルイ14世自身がチケットを発行して宮廷作法を承認して「エチケット」という言葉の由来にもなった。音楽や演劇・装飾といった分野における芸術的創作の最高の舞台であり、作品が集う坩堝(るつぼ)となった。また、国王らが王立アカデミーを創設して科学を奨励したことで数多くの科学的発見がもたらされた。1789年10月6日、民衆がルイ16世とマリー・アントワネットをヴェルサイユ宮殿から連れ去ったヴェルサイユ行進によって権力の中枢はふたたびパリに戻り、ヴェルサイユの時代は終焉を迎えた。

■完全性

ヴェルサイユの宮殿と庭園はフランス革命によって機能を失ったが、建造物群は19世紀初頭には国によって保全され、博物館として生まれ変わった。一部の家具や装飾は持ち去られたり破壊され、また一帯の所有権が別組織に変わって影響力が変化するなどしたが、ヴェルサイユ宮殿の完全性は良好であるといえる。外部にあった建物や土地の所有権が1996年に公的機関に譲渡されたことでそれらの復元が可能になった。そのもっとも重要な例がグラン・コミュン、グラン・エキュリー、レ・モルトメ、南ウイング、アルム広場である。

■真正性

フランス革命の結果、ヴェルサイユ宮殿は破壊と散逸の危機にさらされたが、19世紀に宮殿が博物館に転換されたことで新しい装飾と新しい空間が与えられた。ヴェルサイユ宮殿の真正性は数十年にわたって行われてきた内部空間と調度品の再生策によって保持されている。

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