ニースはプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏アルプ=マリティーム県に属するコミューン(自治体)で、フランスの南東端に位置し、イタリアとの国境から約30kmに位置している。フランスのコート・ダジュール、フランスとイタリアにまたがるリヴィエラ地方に属し、山と海のある風光明媚な景観と冬の温暖な気候のおかげで18世紀半ばから貴族が避寒に訪れるウィンター・リゾートして名を馳せ、宮殿のようなヴィッラ(別荘・別邸)が数多く建設された。19世紀には冬季に特化したリゾート都市として開発が進められ、整然と整備された新市街にはさまざまな建築様式が融合した折衷主義様式(特定の様式にこだわらず複数の歴史的様式を混在させた19~20世紀の様式)のホテルやアパルトマン(集合住宅)が立ち並んだ。リヴィエラの中でも屈指のリゾート都市に成長し、フリードリヒ・ニーチェやアンリ・マティスをはじめ多くの作家や芸術家に愛された。
なお、リヴィエラの海岸線にある世界遺産として、近郊のロクブリュヌ=カップ=マルタンにある世界遺産「ル・コルュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献(スイス/ドイツ/フランス/ベルギー/インド/日本/アルゼンチン共通)」のル・コルビュジエのカップ・マルタン(カップ・マルタンの休暇小屋)や、イタリアン・リヴィエラの「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度」「ポルトヴェネーレ、チンクエ・テッレ及び小島群[パルマリア、ティーノ及びティネット島]」が挙げられる。
「リヴィエラ」はイタリア語で「海岸」を意味し、避暑地・避寒地や保養地が集中するジェノヴァ(世界遺産)の東西に伸びるリグリア海岸の一帯がそう呼ばれていた。やがてフランス国境を越えてコート・ダジュールが含まれるようになり、イタリアン・リヴィエラやフレンチ・リヴィエラといった言葉も使われるようになった。また、コート・ダジュールはフランス語で「紺碧海岸」を意味し、おおよそカシやトゥーロンからイタリア国境に接するマントンまでを示す。
リヴィエラの気候は乾燥した夏と暖かい冬を特徴とする過ごしやすい地中海性気候だ。中でもニースはピレネー山脈、中央高地 (マッシフ・サントラル)、リグリアン・アルプス(アルプス山脈南西端)、アペニン山脈といった山地が北・東・西からの冷たい風を防いでいることや、沖合の水深が深くて冬の海水温が高いこと、年平均2,762時間という地中海北部の海岸で最長級の日照時間を誇ることなどから特に温暖な気候となっている。
ニースには古くから人間の居住の跡があり、モン・ボロン(ボロン山)のラザレット洞窟をはじめ新石器時代や旧石器時代の遺跡が発掘されている。紀元前5~前4世紀頃にギリシア人が勝利の女神ニケの名を持つ植民都市ニカイアを建て、紀元前2世紀に共和政ローマの版図に入った。この頃の城郭都市はやや奥まったシミエの丘にあり、アンフィテアトルム(円形闘技場)跡であるアレーヌ・ド・シミエやテルマエ(公衆浴場)跡であるテルメ・ロマン・ド・シミエなどの遺跡が残されている。
この後、ローマ帝国、東ローマ帝国、東ゴート王国、ランゴバルド王国、フランク王国、中部フランク王国、プロヴァンス王国、神聖ローマ帝国、ジェノヴァ共和国等々、支配国を頻繁に変え、多くの戦争を経験した。各国の軍やイスラム教徒、海賊などからの襲撃を避けるために人々は海岸沿いではなくシミエを中心とした丘で暮らしていたが、8~10世紀にかけて治安が回復すると要塞が立っていた海岸沿いの丘であるコリーヌ・デュ・シャトー(英語でキャッスル・ヒル)の麓が開発された。市壁で囲まれたにバイヨン川左岸は「下の町」を意味する「ヴィル・バセ」と呼ばれ、16世紀には頂にシャトー・ド・ニース(ニース城)が建設された。一方、バイヨン川右岸のラ・プレンヌと呼ばれる平野部ではヒツジやヤギの放牧や畑作が行われた。
近世以降はイタリアからフランスにかけてのサヴォワ一帯を治めるサヴォイア公国の都市としてありつづけた。サヴォイア家は公爵家にふさわしい別荘地を目指してバイヨン川左岸を整備し、16~17世紀にパレ・デュカル(公爵宮殿。現・パレ・ド・ラ・プリフェクチュール。「パレ」は宮殿を意味する)やパレ・コミュナル(公共宮殿。現・市庁舎)、サント=レパラート大聖堂などを建設。貴族がそれに続いてパレ・ラスカリなどの宮殿が立ち並んだ。
ニースは1691~1713年の間、フランス王ルイ14世の支配を受け、シャトー・ド・ニースや市壁が破壊・撤去されて軍事機能を失った。サヴォイア公国はスペイン継承戦争(1701~14年)においてイギリス、オーストリア側につき、最終的にフランス軍を撃破。その結果、シチリア王国を得て王家に昇格し、1720年にシチリア島をサルデーニャ島と交換してサルデーニャ王国を成立させた。
ニースとその周辺は1792年にふたたびフランスに征服されたが、ナポレオン戦争(1803~15年)後に開催された1815年のパリ条約によってサルデーニュ王国に返還された。サルデーニャ王国はその後、イタリア統一運動リソルジメントを推進し、1861年にイタリア王国を成立させる。ニースを含むサヴォワの地は前年の1860年、トリノ条約によってイタリア王国の承認と引き替えにフランスに割譲された。
ニースは陸路のアクセスが非常に悪く、ほとんど陸の孤島で港も十分なものではなかった。このためサヴォイアやサルデーニャの貴族のリゾートに留まっていた。しかし、1749~56年にコリーヌ・デュ・シャトーの東の湿地に新たにランピア港が建設されるとアクセスが格段に向上し、避寒地として急速に人気を集めた。1773~92年には啓蒙主義(理性による合理的な知によって蒙(もう)を啓(ひら)こうという思想)を掲げる王室の象徴としてヴィットーリオ・アメデーオ3世がヴィットーリオ広場(現・ガリバルディ広場)を築いている。
オーストリア継承戦争(1740~48年)においてサルデーニャ王国はイギリスやロシアとともにオーストリア側で参戦した。イギリス軍の一部はニースに駐屯したが、景色の美しさと冬の過ごしやすさから称賛が止まなかったという。こうした評判を受けて1763年に定期船が運航を開始し、多くのイギリス人貴族や資本家が自国の寒い冬を嫌って暖かいニースを訪れた。口コミはもちろん、保養に訪れたイギリス人作家トバイアス・スモレットやスイス人哲学者ヨハン・ゲオルク・ズルツァーらの旅行記が好評で、さらにスイス人科学者オラス・ベネディクト・ド・ソシュール、フランス人法学者ジャン=バティスト・メルシエ・デュパティ、フランス人天文学者ジェローム・ラランドらがその景観を高く評価したことで名声が高まった。また、イタリアの画家アルバニス・ボーモンがニースを描いた画集を出版し、その後もイギリスの画家ジョセフ・ライト、ジョン・ダウンマン、ジョン・ロバート・カズンズといった画家が描いたことでも評判となった。
18世紀後半、地元の貴族たちは冬に貸し出すための宮殿を後にヴュー・ニース(オールド・ニース)と呼ばれることになるバイヨン川左岸にこぞって建設した。その嚆矢となったのがスピタリエリ家が建設したパレ・スピタリエリ・ド・チェッソーレ(現・パレ・ディヨーク=ヨーク宮殿)で、ゴルビオ家のパレ・コルヴェシーやオングラン家のパレ・オングランなどが続いた。周辺も整備され、オペラ・ド・ニース(ニース・オペラ座)が建設され、遊歩道としてクール・サレヤ(サレヤ広場)が整理され、周辺にはヨーロッパニレをはじめとする木々が植えられた。
しかし、曲がりくねった小道に小さな宮殿や邸宅が並ぶイタリア風の街並みは避寒に訪れる外国人上流階級層の好みに合わず、彼らは郊外に広い土地を購入して大きな庭園を持つヴィッラを建設した。特にパイヨン川右岸(西岸)のクロワ・ド・マルブル地区はこうした需要に合わせて開発され、英語で「ニュー・ボロー “New Borough”(新地区)」と呼ばれた。この地区にはイングランド国教会の教会堂や墓地が建設され、海岸沿いに最初の遊歩道であるイングレース通り(イタリア語でカミン・デイ・イングレス)が築かれ、オレンジやヤシの木々が海岸を彩った。
19世紀に入ると、1792~1815年にかけてフランス領だったこともあってフランス人が急増。さらにロシア皇帝アレクサンドル2世やニコライ2世をはじめロマノフ家の寵愛を受け、ロシア貴族の人気を博した。特にニコライ2世の皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナが愛し、アレクサンドル2世の娘オリガやエカチェリーナがニースに追放されたことはよく知られている。やがてイタリア北部と東部を治めていたオーストリア帝国や、遠くプロイセン王国の貴族も来訪した。この頃、フョードロヴナの支援で建設されたロシア正教会のサン=ニコラ・エ・サンタレクサンドラ教会をはじめ、各地からの訪問客に対応すべくロシア正教会やルター派、聖公会などさまざまな教派の教会堂や礼拝堂が築かれた。
サルデーニャ王カルロ・フェリーチェは領内各地の都市の拡張と美化に励んだが、ニースについても冬の訪問客の需要に合わせた新しい都市計画を推進した。計画はサヴォイア家の拠点都市で多くの宮殿やヴィッラのあるトリノ(世界遺産)を参考に立案され、彼の死の翌年の1832年にニースは最初の計画を承認した。そして同年に「コンシリオ・ドルナート “Consiglio d’Ornato”(美化評議会)」を設立し、上流階級にふさわしい街を目指して区画を整理し、公園や遊歩道を設置して衛生を管理した。建物のファサード(正面)のデザインにも口を出し、場合によっては建設や改修計画の修正を迫ったという。1835年までにマセナ広場、ガリバルディ広場、クール・サレヤ、アルベール1世庭園、エタジュニ埠頭、ジャン・メドゥサン通り、ポンシェット通り、ランピア港などが整備された。1850年代にはコンシリオ・ドルナートの計画はニースの北に広がり、方格設計(碁盤の目状の都市設計)の整然とした街並みが広がった。こうした街には緑豊かな広場が配され、主要な大通りには街路樹が植えられ、建物は通りから7mのスペースを空ける義務を負った。
1860年にニースがフランスに割譲されたが、フランスでは産業革命が飛躍した時代であり、その恩恵を受けた。1865年にPLM鉄道(パリ・リヨン・メディテラネ鉄道)が開通すると陸路での訪問客が急増し、同年に10万人だったニース駅への到着者数は1881年には40万人となった。1883年にはヨーロッパの主要都市から直接鉄道が乗り入れるようになり、訪問客は増えつづけた。交通革命の影響で旅行が一般化すると、貴族や資本家のみならず企業や公務員の上層部にまで広がった。滞在スタイルも多様化し、鉄道を用いた短期滞在が主流を占めるようになると、ホテルや家具付きのアパルトマンが増加した。1860年にコンシリオ・ドルナートは解散したが、サヴォイア公国やサルデーニャ王国時代の街並みは規制対象となって保全された。一方で都市は郊外まで拡大し、住宅地が広がった。
この頃にはリヴィエラの名前はリゾート地の代名詞として浸透し、スイスやイタリアのアルプス・リゾートは「アルプスのリヴィエラ」、クリミア半島のヤルタ周辺は「クリミアのリヴィエラ」、ダルマチア海岸のオパティア周辺は「オーストリアのリヴィエラ」などと呼ばれた。そしてニースはリヴィエラを代表するリゾート地に成長し、作家イヴァン・ブーニンやジュール・ロマン、画家のアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックやマルク・シャガール、写真家ブラッサイやアンリ・カルティエ=ブレッソンをはじめ多くの作家や芸術家がこの地を愛した。特にフリードリヒ・ニーチェが主著『ツァラトゥストラはかく語りき』を執筆し、「色彩の魔術師」アンリ・マティスが後半生の多くをこの地で過ごしたことはよく知られている。
第1次世界大戦(1914~18年)では訪問客が急減し、冬の長期滞在者はほとんど姿を消した。代わりに夏の短期旅行先として注目を集め、有力な避暑地となった。終戦後の1920~30年代には会社を引退した高齢層が増加し、夏を過ごすための二次的住宅の需要が高まった。
第2次世界大戦(1939~45年)後、経済が回復するにつれて訪問客が増加し、特に夏季旅行の需要が伸びた。旅行は一般層にまで広がってマスツーリズムが浸透し、1950年代に建設ブームが巻き起こると、ニースはグルノーブルに次いでフランスでもっとも建設が盛んな都市となった。この時代の建物の典型はバルコニーとロッジア(柱廊装飾)を備えた5階建ての鉄筋コンクリート建築で、歴史ある広場や公園・庭園を再生して調和させた。ただ、この頃にはすでに観光はニース経済にとって重要ではありつづけたものの唯一のものではなく、都市開発の最重要課題でもなくなった。
資産について、海岸沿いを中心にニースの街並みが地域で登録されている。範囲はおおよそ東のニース岬の少し先から西のニース・カラ港まで、北は複雑だがおおよそピエール・マティス道路までで、一部はその手前まで、マロッセナ地区やシミエ地区、ツェサレーヴィチ地区は少し先までとなっている。資産は大きく9地区に分けられているので、それぞれ概要を解説する。なお、「パレ」は宮殿、「シャトー」は城館や離宮、「ヴィッラ」は別荘や別邸、「オテル」はホテルを意味する。
1.歴史地区
高さ93mの「城の丘」コリーヌ・デュ・シャトーの麓に広がるパイヨン川左岸の「ヴュー・ニース(旧ニース)」あるいは「ヴィエイユ・ヴィル(旧市街)」と呼ばれる地区で、山頂にシャトー・ド・ニースと呼ばれる城があったことから「ヴィル・バセ(下の町)」とも呼ばれていた。城は18世紀はじめにルイ14世によって撤去され、緑豊かなコリーヌ・デュ・シャトー公園が整備された。同時期に市壁も取り去られてポンシェット通りとなり、同じ高さの平屋を並べて屋根を眺めのよい遊歩道として整備した。クール・サレヤ周辺にそうした通りが残っている。
コリーヌ・デュ・シャトーの北にあるガリバルディ広場は町の中心として王室が威信をかけて建設したもので、1773~92年に建設された当時はヴィットーリオ広場と呼ばれていた。約123×92mの周囲をアーケード(屋根付きの柱廊)付きの4階建てのビルが取り囲むペリスタイル(列柱廊で囲まれた中庭)のようなデザインで、ファサード(正面)は同系色で統一され、リグリアの伝統的なトロンプ・ルイユ(だまし絵)を用いた装飾が施されている。
コリーヌ・デュ・シャトーの東に位置するランピア港は1749~56年に湿地を開拓して建設された「コ」形の港で、それから1世紀以上をかけて現在の形に整えられた。北に位置するイル・ド・ボーテ広場は船で到着した訪問客を迎えるニースの顔となる場所で、コンシリオ・ドルナートの指導の下で整備された。ノートル=ダム=デュ=ポール教会は新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)の教会堂で、広場に面する南ファサードはギリシア・ローマ神殿を思わせる造りである一方、通りに面する北ファサードは鐘楼を中央に備えた3階建てのビルのようなデザインとなっている。周辺は方格設計で整然と整理されており、高さと色をそろえ、トロンプ・ルイユで彩られたアーケード付きのビルが立ち並んでいる。
オペラ・ド・ニースは建築家フランソワ・オーヌの設計で1881~85年に建てられた新古典主義様式のオペラ座だ。貴族にとってオペラ鑑賞は社会生活に欠かせぬもので、以前からこの場所にはマカラニ劇場と呼ばれる劇場が存在していた。
近郊のサント=レパラート大聖堂は1650~99年に建設されたバロック様式の教会堂で、鐘楼は18世紀の再建だ。ジェノヴァ風の彩釉タイルで彩られたドームや内部のバロック彫刻や絵画など、美しい装飾で知られる。
パレ・ド・ラ・プリフェクチュールは16世紀にパレ・デュカルと呼ばれる公爵宮殿として建設され、王宮を経て県庁舎となり、19世紀後半から20世紀はじめにかけて改修されて現在の形となった。長い歴史の中でさまざまな様式が混在した折衷主義様式で、ファサードは2階がイオニア式、3階がコリント式の柱が立ち並ぶロッジアで飾られており、庭園とよく調和している。その南のピエール・ゴーティエ広場ももともとは宮殿庭園だった。さらに南に広がるクール・サレヤは19世紀半ばから市場だった場所で、南に並ぶ平屋の屋根の上は遊歩道として開放されていた。現在でも多くの露店や店舗が出ており、ひときわにぎわっている。
パレ・ラスカリは17世紀にラスカリ家が建設したバロック様式の宮殿で、バロック様式やロココ様式のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)やスタッコ(化粧漆喰)・彫刻・絵画・タペストリーで覆われた豪奢な内装からニースでもっとも美しい宮殿のひとつに数えられている。現在は楽器博物館として公開されている。
パレ・ディヨークはスピタリエリ家が1762~68年に建設したピエモンテ風の宮殿で、もともとはパレ・スピタリエリ・ド・チェッソーレと呼ばれていた。オテル・ディヨークの名前で最初の外国人向けホテルとしてオープンし、ロシア大公ミハイル・アレクサンドロヴィチや作家のアレクサンドル・デュマ・ペールらが宿泊したことで知られている。
1830年代にコリーヌ・デュ・シャトーの海岸沿いの断崖に建設されたオテル・スイスはその眺望もあって最高級ホテルとして名を馳せた。他にもオテル・レーグル・ドールやパレ・コルヴェシー、パレ・オングランなど、貴族が築いたホテルやアパルトマンは少なくない。
2.ラ・プレンヌ
バイヨン川右岸の平野部で、コリーヌ・デュ・シャトーの旧市街に対して新市街として開拓された。この地区はさらに細分化して5つ、ラ・プレンヌ南西部の「クロワ・ド・マルブル」、南東部の「サン・ジャン=バティスト」、北東部の「ボーリュー」、北西部の「ミュジシャン」、ガンベッタ通りからフランソワ・グロッソ通り周辺の「ガンベッタ/グロッソ」、マロッセナ通り周辺の「マロッセナ」に分けられている。もともとヴィッラが数多く建設された場所だが、18世紀から19世紀はじめにかけての初期のヴィッラはほとんど残っておらず、多くがビル形式の宮殿やホテル、アパルトマンに建て替えられた。
この地区には新市街の外国人の需要に合わせてキリスト教の各教派の教会堂や礼拝堂が築かれた。サン=ニコラ・エ・サンタレクサンドラ教会はアレクサンドラ・フョードロヴナの働き掛けて1860年に奉献された西ヨーロッパ初となるロシア正教会の教区教会堂で、「+」形のギリシア十字形に近いビザンツ・リバイバル様式で建てられている。サント=トリニテ教会(ホーリー・トリニティ教会)はイングランド国教会系の聖公会の教会堂で、ゴシック・リバイバル様式で1860~62年に建設された。旧エピスコパリエン・アメリケーヌ教会(旧アメリカン・エピスコパル教会)はイングランド国教会から独立した米国聖公会の旧教会堂で、1886~88年にゴシック・リバイバル様式で建設された。旧ヴォードワ寺院は1857年にプロテスタントのヴァルド派福音教会の教会堂として新古典主義様式で建設された。
また、ラ・プレンヌには鉄道駅が建設され、19世紀後半からはニースの中心に躍り出た。ニース=ヴィル駅は1865年にオープンした最初の鉄道駅だ。全長103mを誇る長大な駅で、ルイ13世時代の初期バロック様式であるルイ13世様式を再解釈した歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興したゴシック・リバイバル様式やネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式等)で建てられており、ニースの玄関口であるホールにはヨーロッパの主要都市の紋章を刻んでいる。旧プロヴァンス鉄道ニース駅はシュド駅(南駅)とも呼ばれた旧駅舎で、近郊のグラースやディーニュ=レ=バンを結ぶ路線の駅として1892年にオープンした。もともと1889年のパリ万国博覧会におけるロシアとオーストリア=ハンガリーのパビリオンとして建築家プロスペル・ボビンが設計したもので、歴史主義様式とモダニズム様式の影響を受けた作品となっている。
ラ・プレンヌには数多くの宮殿やホテルがある。サルデーニャ王カルロ・フェリーチェの王妃の名を冠したパレ・マリー=クリスティーヌや、全長140mの象徴的なファサードを有する旧グランドテル・ド・フランス、サンテティエンヌ伯オーディベルティ家の宮殿で1844~47年に建設されたパレ・オーディベルティ・ド・サンテティエンヌなどは19世紀半ばに築かれた新古典主義様式の壮大な建物として知られる。
建築家ヴィクトル・サバティエが自らの邸宅として1858~65年に建てたヴィッラ・サバティエはルイ13 世様式の赤く華やかな建物で、装飾庭園の美しさも際立っている。一方、1902年完成のパレ・ドナデイは6つの建物を統合した宮殿コンプレックスで、後期バロックの一種である華やかなルイ15世様式だ。
ポール・デルレード通りのヴィッラ・ジュメレーはイギリスのテラスハウス(境界壁を共有する長屋のような連続住宅)から着想を得た半戸建ての二世帯住宅群で、美しい庭園と新古典主義様式のヴィッラが立ち並んでいる。
ヴィッラ・ラ・ベル・エポックはその名の通り19世紀後半から第1次世界大戦までのベル・エポック(すばらしき時代)期の数少ないヴィッラのひとつで、1909~11年にさまざまな建築様式を統合して折衷主義様式で建設された。同様の様式の宮殿には1904年建設のパレ・ラマルティーヌや1905年建設のパレ・マリー=レヴィ、多彩な装飾で知られるインマーブレ・ダグレマンやヴィッラ・ショーン、パレ・トスカーナなどがある。
1929~30年に建設されたラ・ロトンドはアール・デコ様式の傑作として知られ、外観からギリシアやローマの円形神殿ロトンダ(ロタンダ)の名が付けられた。1935年に建てられたパレ・レスクリアルは大きいな窓とランタン塔(採光用の塔)が特徴的なアール・デコ様式の建物で、宿泊施設に加えて映画館をはじめ数々の娯楽施設を備えていた。アール・デコ様式の建物には他にパレ・イジス・エ・オジリやパレ・ド・マドリードなどがある。
建築家ルネ・リヴィエリの設計で1950年に建設された旧ヴィッラ・ヴァニエは直線が際立ったユニークなモダニズム建築で、現在はラルティスティークと呼ばれる美術館が入っている。1952年に建設されたル・ラファイエットも同じ建築家の手によるもので、直線で構成しながらコーナーに円筒を用いた特徴的なデザインとなっている。
こうした建物を調和させ、人々の健康と福祉に対応するため各地に広場や公園が建設された。一例がウィルソン広場やアルザス=ロレーヌ庭園、モザルト広場(モーツァルト広場)だ。
3.カラバセル/ビーケール
ラ・プレンヌより上流のバイヨン川右岸、カラバセルの丘のエリアで、カラバセルはおおよそカラバセル通り、ビーケールはエミール・ビーケール通りの北の一帯を示す。旧市街や新市街に近く、眺めもよいことから19世紀前半に人気を集め、折衷主義様式のホテルやアパルトマンが数多く築かれた。
筆頭が1864年にオープンした旧グランドテル・ド・ニースで、ナポリやセルビアの貴族からアナトール・フランスやオーギュスト・ロダンといった作家や芸術家まで、上流階級の人々が集まった。
1872年頃に建設され、1880年に改築されたアンペリアル・オテルはネオ・ルネサンス様式を中心とした折衷主義様式のホテルで、華やかな装飾で名を馳せた。
カラバセルの丘でもっともよい眺望を有する建物のひとつが1920年に建設されたパレ・カラバセルで、かつてはオテル・エルミタージュやオテル・ランガムとして営業を行い、景観に加えて折衷主義様式の内装とエキゾチックな庭園で外国人観光客を魅了した。旧マジェスティック・パレス、旧グラン・パレなども同様の様式だ。
アール・ヌーヴォーを取り入れたヴィッラ・レイジアン、アラベスク(イスラム文様)などムーア様式(イベリア半島のイスラム教徒の芸術様式)の装飾を配したヴィッラ・アジアデとヴィッラ・ヤスミナ、水平線が際立つアメリカン・モダニズムの影響を受けたル・セレナなど、個性的な建物も少なくない。
4.シミエ
ピエール・マティス道路の北、シミエ通り周辺に広がるシミエの丘の一帯で、ヴュー・ニースやラ・プレンヌ、地中海を一望することができる。ギリシア・ローマ時代に都市があった場所で、中世までは町の中心となっていた。
アレーヌ・ド・シミエ庭園はローマ時代のアンフィテアトルムやテルマエの遺跡を利用した庭園で、1628年にジェノヴァ風の宮殿が築かれた頃はパレ・ド・グベルナティと呼ばれていた。1823年に大幅に改装され、1954年に市の所有になるとヴィッラ・デ・アレーヌとしてオリーブ畑やマティス美術館が整備された。
モナステール庭園は「修道院庭園」の名の通り、少なくとも11世紀以来の歴史を誇るベネディクト会のシミエ修道院だった場所で、15世紀にゴシック様式で建設されたノートル=ダム=ド=ラソンプシオン教会や16世紀のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)・墓地・イタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)などが残されている。周囲を見渡す絶景は名高く、また墓地には作家のロジェ・マルタン・デュ・ガールや画家のラウル・デュフィ、アンリ・マティスらの墓があることでも知られる。
シャトー・ド・ヴァルローズはロシア皇帝アレクサンドル2世の顧問を務めていたロシア貴族ポール・フォン・ダーヴィーズが1867~70年に築いた城館だ。ゴシック様式への傾倒が強く、イギリス・ゴシックのチューダー様式、フランス・ゴシックのレイヨナン様式やフランボアイヤン様式(火焔式)などを再興したゴシック・リバイバル様式に、ロマネスク・リバイバル様式やイスラム建築の要素も加えた折衷主義様式となっている。庭園についても整然とした幾何学式のフランス式庭園(フランス・バロック庭園)や自然を模した風景式のイギリス式庭園など多彩な景色が混在している。
イギリスのヴィクトリア女王の来訪に合わせて1895~97年に建設されたのがエクセルシオール・レジーナ・パレス、旧オテル・レジーナだ。女王は実際に1897~99年の冬に繰り返し滞在している。モダニズムの建物にベル・エポック時代の多彩な装飾、イタリア式・フランス式の庭園を備え、アンリ・マティスが活動していたアパルトマンなども残されている。これ以外にも旧オテル・アルハンブラや旧ホテル・ウィンター・パレスのように眺望を活かした100室を超える大きな宮殿やホテルも少なくない。
20世紀はじめに建設されたヴィッラ・フィオレンティーナはイタリア、特にフィレンツェのルネサンス様式、マノワ・ベルグラーノはフランスのロワール渓谷(世界遺産)のブロワ城やクロ・リュセ城に見られるルネサンス様式を模したネオ・ルネサンス様式の建物で、華やかな外観でシミエに花を添えている。一方、ル・トリアノンはフランスのヴェルサイユ宮殿のプティ・トリアノン(小トリアノン宮殿)にならった新古典主義様式の建物だ。さまざまな様式を混在させた折衷主義様式だが、このようにある特定の様式をメインに据えることも少なくなかった。
5.レ・ボメット
ラ・プレンヌの西に位置するボメットの丘の一帯で、ボザール美術館周辺となっている。
ボザール美術館はもともとロシア貴族レフ・コチュベイが1878~82年に築いた別荘で、完成を待たずアメリカ人実業家に売却されてヴィッラ・トンプソンと呼ばれた。イギリス式庭園に面したネオ・ルネサンス様式の本館は印象的で、特に「名誉の階段」は屈指の傑作とされる。1925年に市が購入し、画家ジュール・シェレのコレクションを収蔵する美術館としてオープンした。
丘の頂に立つシャトー・ド・ラ・トゥールは1850年代にニースのオーフィフレ家が中世の城を象って建設した城館で、城塔や胸壁(凹部と凸部が並ぶ防御用の壁)を備えた重厚な造りとなっている。
この下にたたずむのがネオ・ルネサンス様式のシャトー・デ・ボメットで、19世紀前半にロシアの貴族によって建設された。他にレ・ボメットには1922年建設のヴィッラ・エミナや1928年建設のパレ・ロス・アンヘレスなどがある。
6.ツェサレーヴィチ(サン=フィリップ)
ラ・プレンヌの北西に位置するサン=フィリップの丘の一帯で、ツェサレーヴィチはロシア皇太子を意味し、ロシア大公ニコライ・アレクサンドロヴィチを示す。もともとロシア人の多い場所で、皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチもヴィッラ・ベルモンドに滞在していたが、1865年に病死してしまう。父であるアレクサンドル2世は一帯を買収し、1867~68年にツェサレーヴィチ・ニコライ・アレクサンドロヴィチ礼拝堂を建設した。1903~12年には最後のロシア皇帝ニコライ2世が隣にサン=ニコラ大聖堂を建てている。いずれもビザンツ・リバイバル様式だが、特にサン=ニコラ大聖堂は彩釉タイルで彩られたオニオン・ドームを冠した内接十字式(クロス・イン・スクエア式。四角形の内部にギリシア十字形を埋め込んだ様式)のロシアらしいスタイルとなっている。
1906~08年に築かれたヴィラ・エル・パティオはスペイン・グラナダのアルハンブラ宮殿に影響を受けたムーア様式で、城砦のようなユニークな外観を見せている。
ニース・ローン・テニス・クラブは1890年に設立されたテニス・クラブで、1924年に約20面のコートを持つ現在の複合施設が折衷主義様式で建設された。
1929年に建設されたイムーブル・ル・パラディウムはニースでも屈指のモダニズム建築として知られる。
7.プロムナード・デ・ザングレ
プロムナード・デ・ザングレはパイヨン川河口のアルベール1世庭園から西の海岸沿いを走る道路で、庭園から東はエタジュニ通りと呼ばれる。「イギリスの遊歩道」を意味するようにもともとイギリス人が整備した遊歩道で、イタリア時代はカミン・デイ・イングレス=イギリス通りと呼ばれていた。1835年に市の所有になるとコンシリオ・ドルナート時代に本格的な開発が進み、遊歩道の拡張や植林が進められた。当初、道沿いには貴族や資本家による庭園付きのヴィッラが多かったが、1900年前後からビル形式の宮殿やホテル、カジノなどの娯楽施設に建て替えが進んだ。海岸には公共ビーチやプライベート・ビーチが並んでおり、夏は海水浴客で混雑する。
一帯最初期の建物がヴィッラ・フルタド=アイヌだ。1787年に新古典主義様式で建設されたイギリス男爵家の別荘だが、1792年のフランス軍の侵攻で接収された。所有者が転々した後、1883年にパリの銀行家であるフールド家のセシル・フルタド=アイヌが購入して錬鉄製の門を設置するなど近代風にアレンジを加えた。美しい庭園はいまも健在だ。
オテル・ウェスト=エンドは1854年にオープンした一帯最初の大型ホテルで、リヴィエラ屈指の名門ホテルとして1世紀半以上にわたって営業を続けている。現在、マセナ美術館となっている隣のヴィッラ・マセナはリヴォリ公ヴィクトル・マセナが1898~1901年に建設したアンピール様式(帝政様式。古代ローマやエジプトを模したナポレオン時代の新古典主義様式)のヴィッラで、美しいイギリス式庭園と隣接するオテル・ウェスト=エンドとともに異国情緒あふれる空間を醸し出している。
さらに西に隣接するオテル・ネグレスコは1913年に当時最先端のモダンなホテルとしてオープンした。南東端にドームを冠したダイヤモンド形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、内外装ともロココ・テイストを多用している。
1910年建設のパレ・アクアヴィヴァ、1911年建設のヴィッラ・コラン・ド・フオヴィラは新古典主義様式とアール・ヌーヴォー様式を組み合わせた特徴的なデザインで、鉄やスタッコ、彩釉タイルを用いた華麗な装飾が目を引く。一方、1927年建設のラ・クロンヌや1928年建設のパレ・ド・ラ・メディテラネはアール・デコ様式で、前者が多彩な装飾を加えた独自のスタイルを発展させているのに対し、後者は直線的でシンプルなアール・デコを追求している。
1925年以降、ニースに滞在して一帯の景観に大きな影響を与えたのがウクライナ出身の建築家ジョルジ・ディカンスキーだ。ラ・クロンヌ、ル・フォーラム、レ・ロッジア、ル・キャピトル、ル・マリーランドをはじめ、息子ミシェルとともに数多くの建物の設計を担い、ニースに洗練されたモダニズム建築をもたらした。
8.モン・ボロン
ランピア港の東からモン・ボロンの西および南の一帯。モン・ボロンには中世から要塞があり、近代には大規模な砲台が設置された。一帯の開発がはじまったのは19世紀で、海岸沿いのフランク・ピラット通りは当初ロシア皇后通りと呼ばれており、ロシア人やイギリス人の貴族が多くのヴィッラを建設した。
一帯最初期の建物が旧オテル・ロワイヤルだ。19世紀前半にメゾン・サルヴィーと呼ばれていた新古典主義様式の建物で、19世紀後半にホテルとして営業を行っていた。
1848~53年に建設されたヴィッラ・ラ・コートは本格的なスパ(鉱泉をベースとした総合療養施設)を備えたヴィッラで、以来スパはこのエリアのひとつの名物となった。先史時代の遺跡が発見されたラザレット洞窟を含む広大な庭園を有し、モン・ボロンを緑で彩っている。この庭園と隣接するシャトー・ド・ラングレーは「イギリス人の城館」を意味し、イギリス人のインド陸軍大佐ロバート・スミスによって1856~59年に建設された。イギリスのロマネスク様式の城やインド西部ラジャスタンの宮殿に影響を受けたユニークな造形で、モン・ボロンのエキゾチックな景観に貢献している。
海に突き出した断崖の上に立つラ・レゼルヴは1876年に建設されたネオ・バロックの影響が強い折衷主義様式の建物で、壮大な海の景色が広がるレストランとスパでよく知られている。レストランは現在も営業中で、リヴィエラの歴史の生き証人となっている。
その上の断崖に建設されたヴィッラ・ボー=シットはイギリス人商人が1885~90年に建設したもので、イタリアのルネサンス様式に触発された折衷主義様式で、ロッジアやペリスタイルといった美しい柱廊装飾が見所となっている。庭園には数々の別館があり、こうしたスタイルも一帯で流行した。
ロッジアなどの伝統建築をアール・デコの中に組み込んだ別荘が1929年に建設されたヴィッラ・マリチューだ。断崖をもデザインに組み込んで柱廊を巡らせており、海岸線によく映えている。
1918年に建設された新古典主義様式のパレ・メーテルリンクはもともとカステッラマーレと呼ばれており、『青い鳥』で知られるベルギーの作家モーリス・メーテルリンクが1930年に購入してヴィッラ・オルラモンドと命名した。フランスの作家サン=テグジュペリやイギリスの映画監督チャールズ・チャップリンをはじめ文化人が集まる社交場となっていたが、その後売却されて現在の名称となった。
ヴィッラ・プルクワ=パは1961年建設のモダニズム建築で、断崖に鉄筋コンクリート杭を打ち込んで張り付くような形で立っており、直線で構成された壁面を覆う大きなガラスとロッジアが断崖とよく調和している。
9.ル・パイヨン
パイヨン川河口を埋め立てた緑広がる一帯で、海岸沿いのアルベール1世庭園から上流へマセナ広場、クーレ・ヴェルテ公園、ニース近現代美術館、サシャ・ソスノ庭園、テーテ・カレなどが続いており、プロムナード・デュ・パイヨンと呼ばれる遊歩道が走っている。
アルベール1世庭園はサルデーニャ王カルロ・フェリーチェの時代に構想され、300本以上の木々が立ち並ぶイタリア式庭園として1852年にオープンした。その後も野外ステージやトリトンの泉、グロッタ(洞窟)などが整備され、1892年にはサントネール記念碑、1946年にはテアトル・ド・ヴェルデュール(緑の劇場)が設置された。庭園名は、第1次世界大戦を前にしてドイツに対し断固たる態度を貫いたベルギー王アルベール1世に敬意を表して1914年に命名された。
パイヨン川の両岸を結ぶマセナ広場だが、もともとは結ばれておらず、左岸に1820~30年に造られた半円形のカルロー・オベール広場があるのみだった。1820~24年に両岸にヌフ橋(ポン・ヌフ/新橋)が架かると、1843~67年に右岸に長方形のマセナ広場が建設された。いずれも1階にアーケードを備えたビルが取り囲んでおり、ユニークな都市景観を形成した。1882年に橋が撤去されて一帯がかさ上げされ、両岸の広場が結ばれて全体がマセナ広場となった。1956年にカルロー・オベール広場の場所にソレイユの泉(太陽の泉)が築かれ、噴水とフランスの彫刻家アルフレッド・ジャニオのブロンズ像群が設置された。名称はフランス第1帝政時代の元帥アンドレ・マセナから取られており、それもあって第2次世界大戦時のヴィシー政権に対するデモや、ドゴール将軍の演説が行われるなど、政治的なイベントがしばしば行われた。また、ヨーロッパ3大カーニバルにも数えられるニースのカーニバルのメイン会場としてもよく知られている。
プロムナード・デュ・パイヨンは海岸から1.2kmにわたって伸びる遊歩道で、アルベール1世庭園、マセナ広場、クーレ・ヴェルテ公園を貫いている。70,000以上の植物が繁茂する緑の回廊で、水鏡=ミロワール・ドーが涼しげな景観を演出している。
ニース近現代美術館は1990年にオープンした美術館でモダニズム建築であるのに対し、2002年にオープンしたテーテ・カレは人物の胸像を象った基部の上に14階建ての建物が載った奇抜なポストモダン建築となっている。
本遺産は登録基準(iv)「人類史的に重要な建造物や景観」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていた。しかしICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、(iv)について冬のリゾート都市として開発された新しい種類の都市であるという主張に対し、そのように開発される以前からの都市であり、そうでない地域も多く、また建築物自体は他のリゾート都市でも見られるありふれたものであり、新しい建築様式が発明されたわけでもないと指摘した。また(vi)について、ニースが多くの作家や芸術家を魅了してフレンチ・リヴィエラと呼ばれるコート・ダジュールのイメージを確立したとの主張に対し、そうしたイメージを打ち立てた貴族や上流階級の人々、作家や芸術家はニースだけでなくイエールやカンヌなど多くの町を愛し訪問しており、ニースだけに限られたものではないとした。以上のように、両基準については顕著な普遍的価値は証明されていないと評価した。
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