シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷

The Loire Valley between Sully-sur-Loire and Chalonnes

  • フランス
  • 登録年:1981年(「シャンボールの城と領地」)、2000年、2017年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iv)
  • 資産面積:86,021ha
  • バッファー・ゾーン:213,481ha
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、均整の取れた美しいたたずまいを見せるシャンボール城
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、均整の取れた美しいたたずまいを見せるシャンボール城 (C) Starus
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、ロワール川を見下ろすアンボワーズ城
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、ロワール川を見下ろすアンボワーズ城
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、ブロワ城。左から新古典主義様式のオルレアン公ガストンのウイング、ルネサンス様式のフランソワ1世のウイングと螺旋階段、ゴシック様式のルイ12世のウイング
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、ブロワ城。左から新古典主義様式のオルレアン公ガストンのウイング、ルネサンス様式のフランソワ1世のウイングと螺旋階段、ゴシック様式のルイ12世のウイング (C) Tango7174
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、シェール川と「貴婦人のシャトー」シュノンソー城。左がアーチ橋とギャラリー、右がシャトーの本館
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、シェール川と「貴婦人のシャトー」シュノンソー城。左がアーチ橋とギャラリー、右がシャトーの本館
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、自然を模したイギリス式庭園の中にたたずむアゼ=ル=リドー城
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、自然を模したイギリス式庭園の中にたたずむアゼ=ル=リドー城
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、水堀の中から立ち上がるシュリー=シュル=ロワール城
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、水堀の中から立ち上がるシュリー=シュル=ロワール城
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、美しいルネサンス庭園が広がるヴィランドリー城
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、美しいルネサンス庭園が広がるヴィランドリー城 (C) Hélène Rival
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、オルレアンのサント=クロワ大聖堂の西ファサードと街並み
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、オルレアンのサント=クロワ大聖堂の西ファサードと街並み
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、フォントヴロー修道院のグラン=ムーティエの修道院教会
世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」、フォントヴロー修道院のグラン=ムーティエの修道院教会 (C) Jean-Etienne Minh-Duy Poirrier

■世界遺産概要

フランス西部を流れるロワール川の中流域、オルレアンの東に位置するシュリー=シュル=ロワールからアンジェの西に位置するシャロンヌ=シュル=ロワールまでのおよそ280kmに及ぶロワール渓谷の文化的景観を登録した世界遺産。「フランスの庭」と呼ばれる一帯にはヨーロッパの原風景といわれる美しい河川や森林が広がっており、シュリー=シュル=ロワール、オルレアン、ブロワ、アンボワーズ、トゥール、モンソロー、シノン、ソーミュール、アンジェといった古都が点在している。また、「シャトー・ドゥ・ラ・ロワール "Chateaux de la Loire"」と呼ばれるシャトー群は名高く、シャンボール城やシュノンソー城、アゼ=ル=リドー城、ブロワ城、アンボワーズ城、シノン城をはじめ資産外のものも含めて300を超えるシャトーが立ち並んでおり、修道院や教会堂・ブドウ畑などとともに文化的景観を構成している。

なお、フランス語の「シャトー "château"」について、シャトーは王家をはじめ貴族や有力者の住居を示し、王宮や宮殿・離宮を意味する。中には城壁や塔を有するシャトーもあり、城塞や城砦・城館の機能を備えていることもある。日本語では「○○宮殿」や「××城」と訳されることが多いが、シャンボール城のように城といっても城の機能をほとんど持たない宮殿であることも少なくない。本稿では宮殿であるか城であるかにかかわらず一般的に知られている名称を使用している。

また、シャンボール城は1981年に単独で「シャンボールの城と領地 "Chateau and Estate of Chambord"」として世界遺産リストに登載されたが、2000年に本遺産が登録された際に構成資産として吸収された。また、2017年の軽微な変更でシュノンソー城など不明確だった資産の範囲を明確化した結果、資産面積は当初の85,394haから86,021haへ、バッファー・ゾーンは208,934haから213,481haへ拡大された。

○資産の歴史

ロワール渓谷には中期旧石器時代の10万~5万年前ほどにネアンデルタール人が居住しており、3万年ほど前にクロマニヨン人と入れ替わったようだ。1万年ほど前からはじまる新石器時代にメガリス(巨石記念物)を伴う巨石文化がはじまり、ロワール渓谷でもソーミュール郊外のバニュー・ドルメン(ドルメンは天井石を複数の支石で支えた支石墓)をはじめ数々のメガリスが築かれた。その後、ガリア人やカルヌテス人といったケルト系諸民族が数多くの町を切り拓き、ロワール川や陸路を利用してギリシア人やフェニキア人と交易を行った。当時の主要都市がケナブム(現・オルレアン)やシャトリエ(現・アンボワーズ)だ。

紀元前58~前51年のガリア戦争で共和政ローマのガイウス・ユリウス・カエサルがこの地を征服し、各地でローマ都市が建設され、あるいは既存の町がローマ化された。一例が「カエサルの要塞(あるいは丘)」を意味するカエサロドゥヌム (現・トゥール)であり、「ユリウスの市場(あるいは畑)」を示すユリオマグス(現・アンジェ)だ。ローマ帝国時代の1世紀にはローマ属州ガリア・アクィタニアの一部となり、3世紀には皇帝アウレリアヌスがケナブムを再建してアウレリアヌムと命名した。後の時代にこれがなまってオルレアンとなる。

3世紀にキリスト教が伝わり、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認されると、カエサロドゥヌム、ユリオマグス、アウレリアヌムに司教座が置かれて大聖堂が築かれた。また、アミアン(世界遺産)でイエスと出会うなど数々の奇跡で知られるカエサロドゥヌムの司教マルティヌス、通称「トゥールのマルティヌス(聖マルティヌス)」が372年頃に町の東にマルムティエ修道院を創設した。また、トゥールのマルティヌスの遺体を収めるために470年頃に築かれた教会堂がトゥールのサン=マルタン聖堂で、やがてトゥールのマルティヌスはガリア(イタリア北部からフランス、スイス、ベルギーに至る地域)の守護聖人となり、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(世界遺産)に取って代わられるまでフランス随一の巡礼地となった。ロワール渓谷はキリスト教の重要拠点となり、651年頃にはシュリー=シュル=ロワールの近郊にベネディクト会のフルーリー修道院(サン=ブノワ=シュル=ロワール修道院)が創設されるなど、修道院や教会堂・神学校の建設が相次ぎ、写本やコデックス(冊子写本)の製作などが行われた。こうした宗教建築の多くは11~13世紀にロマネスク様式で建て替えられた。

6世紀、フランク王国が現在のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる大国を成立させたが、843年のヴェルダン条約で西フランク、中部フランク、東フランクの3王国に分割され、870年のメルセン条約で中部フランク王国を解体して東西フランク王国に割り当てた。987年にユーグ・カペーが王位に即位してカペー朝を成立させて以降、西フランク王国は一般にフランス王国と呼ばれる。しかし、カペー朝の時代、各地に公爵や伯爵が治める領邦が乱立しており、国家としての基盤は脆弱だった。ユーグ・カペーは国王を名乗ってはいたが、パリ伯としてパリ(世界遺産)を中心としたイル=ド=フランス地区を治めるのみで、他の地域で権力を振るうことはできなかった。ロワール渓谷もブロワ伯やアンジュー伯、シュリー伯といった諸侯が勢力を競っており、9~10世紀にはロワール川を上ってヴァイキング(北ヨーロッパを拠点とするノルマン人)が襲来して略奪も受けた。

そんな中で10世紀頃からロワール川中流域で急速に勢力を拡大したのがアンジェを拠点とするアンジュー伯だ。特に1151年にアンジュー伯となったアンリはノルマンディー公とメーヌ伯を兼ね、妻のアリエノール・ダキテーヌはアキテーヌ公でもあり、フランスの北部から西部を経て南部までを版図に収めた。そしてアンリは1154年にヘンリー2世としてイングランドの王位に就いてプランタジネット朝を開くと、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドをも得てアンジュー帝国を打ち立てた。これによりロワール渓谷はイングランドとフランスの最前線となり、都市は堅固な城郭都市となり、数多くの要塞や城砦が建設された。アンジュー伯が築いた主なシャトーがアンジェ城やアンボワーズ城、シノン城、ソーミュール城などで、特にシノン城はヘンリー2世が居城として大幅に増築したことで知られる。

フランス王フィリップ2世はアンジュー伯がフランスに所有するノルマンディー公国以外の領地を没収し、ブルターニュ公アーサーに与えた。これに怒ったイングランド王ジョンはフランスに戦争を仕掛けるが、大陸のほとんどの諸侯はフィリップ2世の側につき、ジョンはノルマンディー地方さえ失ってしまった。これ以降もフランドルなどを巡ってイングランドとフランスは戦争を繰り返し、ついに両国の国境を画定させることになる百年戦争(1337〜1453年)が勃発する。

百年戦争で危機感を抱いた貴族たちはパリを離れてトゥールをはじめロワール渓谷に退避し、宮殿と城塞を兼ねたシャトーを建設した。15世紀に入ってイングランド軍がパリを落としてフランス北部をほぼ制圧。ふたたびロワール渓谷周辺が最前線となり、1429年にはフランス最後の拠点都市オルレアンを包囲した。このときシノン城で王太子シャルル(後のシャルル7世)と面会したのがジャンヌ・ダルクだ。神から「イングランドを倒し、フランスを助けよ」との啓示を受けたというジャンヌ・ダルクは軍を授かるとイングランド軍を打ち破ってオルレアンを解放。これを機にフランスは勢力を回復し、終戦までにイングランド軍を大陸から一掃した。パリを奪還した後もシャルル7世はトゥールを事実上の首都とした。貴族たちもこの地に住みつづけ、16世紀末までロワール渓谷には数々のシャトーが築かれた。シャルル7世やその息子ルイ11世が拠点としたシャトーがプレシ=レ=トゥール城で、百年戦争終了前後に築かれた代表的な城がゴシック様式のモンソロー城やランジェ城だ。

15世紀末からフランスはイタリアの領有権を巡って神聖ローマ帝国とイタリア戦争(1494~1559年)を戦った。戦争には敗れたものの、「フランス・ルネサンスの父」フランソワ1世はイタリア最盛期のルネサンスを目の当たりにして感銘を受け、レオナルド・ダ・ヴィンチを筆頭にルネサンスの芸術家や建築家を呼んでシャトーの建設に当たらせた。この頃、フランスの中心はパリではなくロワール渓谷だったため、フランス・ルネサンスはロワール渓谷で花開いた。フランソワ1世が建設したロワール渓谷を代表するシャトーがシャンボール城であり、ブロワ城やアンボワーズ城などの改修も行っている。他にルネサンス様式を中心としたシャトーにはシュノンソー城やアゼ=ル=リドー城、ブレゼ城、ヴィランドリー城などがある。これらの多くは以前のシャトーを増改築したもので、ロマネスク様式やゴシック様式が混在していることが多い。また、ロワール渓谷のすばらしさはピエール・ド・ロンサール、ジョアシャン・デュ・ベレー、オノラ・ド・ラカンといった詩人によって描き出され、人々の知るところとなった。

16世紀に入ると宗教改革でフランスは二分された。ローマ・カトリックを支持する旧教派とカルヴァン派プロテスタントである新教派=ユグノーの争いが激化し、ユグノー戦争(1562~98年)が勃発した。ロワール渓谷にも戦争が持ち込まれ、ユグノーの拠点となったオルレアンでサント=クロワ大聖堂が破壊されるなど、虐殺や破壊活動が広がった。結局、ユグノーだったアンリ4世が1593年にローマ・カトリックに改宗し、1598年にローマ・カトリックが国家宗教であることを宣言すると同時に、信仰の自由を認めるナントの王令を公布することで争いをまとめた。また、アンリ4世は1594年にパリに移り住み、首都を戻している。

17世紀以降、ロワール渓谷の景観は多くの芸術家に愛され、文章や絵画などに描かれた。詩人や作家ではジャン・ド・ラ・フォンテーヌやセヴィニエ侯爵夫人、アルフレッド・ド・ヴィニー、ギュスターヴ・フローベール、オノレ・ド・バルザック、シャルル・ボードレール、ヴィクトル・ユーゴー、ルネ・バザンと枚挙にいとまなく、画家ではウィリアム・ターナーやウジェーヌ・ドラクロワらがよく知られている。また、ロワール渓谷に惹かれる学者も多く、エリゼとオネジムのルクリュ兄弟は「世界でもっとも美しい地域」と評し、歴史家アベル・ユーゴーや旅行家ヴィクトール=ウジェーヌ・アルドゥアン=デュマゼらはヨーロッパの最高の景勝地のひとつに挙げている。

19世紀の産業革命以降の交通革命によって汽船や鉄道が普及するとフランスは旅行ブームに沸いた。ロワール渓谷でも19世紀初頭に蒸気船が導入され、1838年にはロワール運河が開通。1852年のパリ=オルレアン鉄道の創設を皮切りに鉄道網が整備され、水陸の交通網が充実すると数多くの観光客が押し寄せた。一帯の美しい文化的景観はヨーロッパの原風景とされ、フランス人はもちろん、多くのヨーロッパ人を魅了した。

○資産の内容

世界遺産の資産として、シュリー=シュル=ロワールからシャロンヌ=シュル=ロワールまでロワール川沿岸のおよそ280kmが地域として登録されている。資産にはヴィエンヌ川、アンドル川、シェール川、コソン川といった支流の一部も含まれているが、ロワール川の周辺に限られており、アンジェ城やロシュ城、シュヴェルニー城、ヴァランセ城、リヴォー城といったロワール川から比較的離れた場所にあるシャトーは含まれていない。

ロワール渓谷を代表するシャトーがシャンボール城だ。一帯はもともと狩猟場でブロワ伯の城砦が立っていたが、15世紀末に王家の領地となり、フランソワ1世が狩猟館を建てる計画を立案した。1519年に建築家ドメニコ・ダ・コルトーナの設計で建設が進められ、来仏していたレオナルド・ダ・ヴィンチが本館中央部や二重螺旋階段などの設計に関与したともいわれる(異説あり)。フランソワ1世が完成を待たず1547年に逝去するとアンリ2世が引き継いだが、まもなく中断され、約1世紀ほど放置された。その後、オルレアン公ガストンによって修復され、ルイ14世が離宮として整備し、平面幾何学式のフランス式庭園(フランス・バロック庭園)を整えた。宮殿は156×112m・高さ56mほどで、中央の本館の周囲に回廊を持ち、「回」字中央部に当たる本館が上辺に接するような形となっており、本館の4角、回廊北面の2角に塔を持つ。建物の全体や庭園に見られる幾何学構造はルネサンス様式だが、屋根の随所に見られるピナクル(ゴシック様式の小尖塔)などにゴシック様式、ロッジア(柱廊装飾)などにはイタリアの建築文化の影響が見られ、さまざまなスタイルが混在している。本館は「田」字形でギリシア十字形の通路が十字架を表しており、内部には426の部屋や77の階段がある。代表的な部屋区画が、フランソワ1世が住居とした王のロジ(ロッジ)、ルイ14世が整備したパレードのアパルトマン、オーストリアのマリア・テレジアが居住した貞応のアパルトマンだ。また、宮殿の周囲に広がるシャンボール庭園はルイ14世が整備したフランス式庭園で、その西にはイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)が広がっている。

アンボワーズ城の地にはローマ時代から城砦が築かれており、時代時代に増改築が繰り返された。本格的に開発されたのは王家の所有となった1434年以降で、シャルル8世がゴシック様式で大改修を行い、後期ゴシックのフランボアイヤン様式(火焔式)やフランスでは最初期のルネサンス様式の装飾を散りばめ、サンチュベール礼拝堂などを建設した。また、フランソワ1世はイタリアからダ・ヴィンチや造園家パチェロ・ダ・メルコリアーノをはじめルネサンスの建築家や芸術家を招聘して建物や庭園をルネサンス様式に改修した。ダ・ヴィンチは近くのクロ・リュセ城に滞在し、1519年に亡くなるとサン=フロランタン教会に埋葬され、後にサンチュベール礼拝堂に移葬されたと考えられている。ユグノー戦争やフランス革命で荒廃し、以後はほとんど放棄された。

クロ・リュセ城はアンボワーズ城の南東約500mに位置する城で、15世紀前半はモンセ修道院の施設だった。15世紀後半にルイ11世がゴシック様式で改修し、1490年にシャルル8世が購入して王家のシャトーとなった。1516年にイタリアを発ったダ・ヴィンチはフランソワ1世の計らいでクロ・リュセ城に居住し、画家・建築家・エンジニアとして働くことになった。このとき現在ルーヴル美術館(世界遺産)が収蔵している『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』の3作品を持参したという。城にはフランソワ1世の姉マルグリットの寝室や、ダ・ヴィンチが来客をもてなした部屋、ダ・ヴィンチの弟子たちによるフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)が残る礼拝堂などがある。

ブロワ城はもともとブロワ伯の城砦で、14世紀にオルレアン公の所領となり、1429年にはオルレアン包囲戦に向かうジャンヌ・ダルクが訪れてランス大司教の祝福を受けた。ここで生まれ育ったヴァロワ=オルレアン家のルイ12世が王位に就いたことで王家のシャトーとなり、ルイ12世はゴシック様式で新たなウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)の増築を行い、ルネサンス様式の装飾を追加した。続くフランソワ1世はルネサンス様式のウイングを建設し、美しい彫刻で飾られた螺旋階段がブロワ城の象徴となった。17世紀、ルイ13世がオルレアン公ガストンにブロワ伯領を与えるとブロワ城はその居城となり、当時のフランスを代表する建築家フランソワ・マンサールによって新古典主義様式のウイングが築かれた。フランソワ・マンサールのウイングはファサード(正面)の1階がドーリア式、2階がイオニア式、3階がコリント式の柱で飾られている点が特徴的だ。

シュノンソー城はシェール川にまたがる優美な姿で知られ、多くの貴婦人に愛されたことから「貴婦人のシャトー」の異名を持つ。13世紀、この地には城砦と製粉所が立っていたが、16世紀はじめにシャルル8世の侍従であるトマ・ボヒエが購入してシャトーを建設した。その後、フランソワ1世の所領となり、息子アンリ2世が愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエに贈った。ディアーヌ・ド・ポワチエはこの城を愛し、アーチ橋やフランス式の庭園(ディアーヌの庭園)を建設した。アンリ2世が1559年に逝去すると、正妻であるカトリーヌ・ド・メディシスはショーモン城(ショーモン=シュル=ロワール城)と交換してこの城を入手した。カトリーヌ・ド・メディシスもフランス式の庭園を建設し(カトリーヌ・ド・メディシスの庭園)、アーチ橋の上にギャラリーを増設した。その後もアンリ3世の妻ルイーズ・ド・ロレーヌやアンリ4世の愛妾ガブリエル・デエストレらに愛され、18世紀には城を買い取った地主のクロード・デュパンの妻ルイーズが改修し、招いたヴォルテールやモンテスキュー、ブッフォン、ベルナール・フォントネル、ジャン=ジャック・ルソーといった文化人に絶賛されたという。なお、ショーモン城はもともとアンジュー伯に対抗してブロワ伯が10世紀に築いた城砦で、15~16世紀にシャルル1世ダンボワーズやシャルル2世ダンボワーズがゴシック様式とルネサンス様式で再建したシャトーだ。

アゼ=ル=リドー城はアンドル川の水辺に立つ美しい城で、12世紀はじめに一帯の要衝だったこの地を守るために城砦が築かれた。この城砦を本格的なシャトーに再開発したのがフランソワ1世の財務官でトゥール市長でもあったジル・ベルテロで、1518年からルネサンス様式のシャトーの建設を進めた。四角形のコートハウス(中庭を持つ建物)を計画していたが、未完のまま南と西ウイングのみの「L」字形で終了し、フランソワ1世によって没収された。外観・内装ともにフランス・ルネサンスの傑作として知られ、19世紀にはネオ・ルネサンス様式の改修が加えられた。周囲はイギリス式庭園で、シャトーと林や川が調和した風光明媚な景観が広がっている。

シノン城はロワール川とヴィエンヌ川の合流地点付近の断崖に立っており、交通の要衝でかつ要害であったことからローマ時代から城砦が築かれていた。10世紀にブロワ伯が要塞化し、11世紀にアンジュー伯の手に渡るとアンジュー帝国の下で増改築が進められ、ヘンリー2世らの居城となった。フィリップ2世によって一帯はフランスの版図に入り、クードレイの砦を増築するなど城をさらに強化した。百年戦争では王太子シャルルの居城となり、1429年にジャンヌ・ダルクが謁見したのはあまりに有名だ。16世紀にユグノーの拠点となり、アンリ4世によって刑務所となって以降は次第に荒廃した。城は東からサン=ジョルジュ(聖ゲオルギオス)の砦、ミリュー(中央)のシャトー、クードレイの砦の3エリアに分かれており、それぞれ城壁で囲われている。

ソーミュール城はロワール川の畔の丘に立つシャトーで、もともと修道院が立っており、11世紀にアンジュー伯の所有となった。1203年にフィリップ2世が占領して王家のシャトーとなり、塔を増築するなどして城を強化した。14世紀にルイ1世ダンジュー、15世紀にルネ・ダンジューといった歴代のアンジュー公(1360年にアンジュー伯からアンジュー公に昇格)が改修を行い、現在見られる重厚なシャトーが完成した。16世紀に周囲に稜堡(城壁や要塞から突き出した堡塁)を設置して星形要塞となり、陸軍の施設となった。19世紀はじめにはナポレオン1世によって刑務所となり、ルイ18世の時代には武器と弾薬を備える倉庫として使用された。

モンソロー城はロワール川の河床から立ち上がる唯一のシャトーで、10世紀にブロワ伯、11世紀にアンジュー伯に整備された。アンジュー帝国の時代にはヘンリー2世がランジェ城などとともに防衛ラインとして重視して強化した。15世紀にシャルル7世に仕えるジャン2世・ド・シャンベがこの城を入手すると、ゴシック様式だったシャトーをルネサンス様式で改修し、両様式が混在した現在の姿が確立された。

ランジェ城はブロワ伯国とアンジュー伯国の国境付近にそびえており、両国の争いが絶えなかった。城砦は10世紀にブロワ伯によって建設されたが、アンジュー伯との戦闘よって奪還・再奪還を繰り返し、アンジュー帝国の時代にはリチャード1世が大型の要塞に拡張した。1206年にフランス王フィリップ2世が奪還したものの、百年戦争でイングランド軍によって破壊された。15世紀半ば、ルイ11世がこれを再建。1491年にはシャルル8世とブルターニュ公アンヌとの結婚式が行われ、1547年のフランス王国とブルターニュ公国の合併のきっかけとなった。ルイ13世の時代まで王家のシャトーとしてありつづけ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス様式が混在する姿が完成した。

シュリー=シュル=ロワール城はロワール川とサンジュ川の合流地点に立つシャトーで、もともとは3つの島がある中州だったが洪水で水没した。中世には城砦が築かれており、これをベースに1218年にフィリップ2世が堅牢なドンジョン(キープ。中世の城の主要部分となる主塔あるいは天守)を建設した。14世紀末にギー6世・ド・ラ・トレモイユがこの城を購入すると、現在見られるシャトーの多くを増設。彼の死後、妻のマリーが事業を引き継ぎ、プティ・シャトーなどの城館を追加した。シャトーは4つの塔を持つ長方形の北のドンジョンと、ふたつの塔と門塔を持つ南の住居部に分かれており、プティ・シャトーも南側に位置している。

ユッセ城はアンドル川の畔にたたずむシャトーで、シャルル・ペローがここで『眠れる森の美女』を書き上げたことで知られている。当然、物語に登場する城のモデルはユッセ城だ。1004年頃にノルマン人のゲルドゥアン1世・ド・ソーミュールが木造の城砦を建設し、11世紀半ばに息子のゲルドゥアン2世が石造に造り替えたと伝わっている。15世紀にジャン5世・ド・ブエイユが購入し、アントワーヌ・ド・ブエイユがゴシック様式のシャトーの建設を開始。まもなくブルターニュ公に売却し、ブルターニュ公フランソワ2世の息子ジャック・デピネーがルネサンス様式を加えて16世紀はじめに完成させた。その後も持ち主は変遷し、17世紀はじめにはルイ1世・ド・ヴァロンティネがシャトーの北にフランス式庭園を建設した。

ヴィランドリー城のあるヴィランドリーは17世紀初頭までコロンビアンと呼ばれており、12~13世紀に城砦が築かれ、14世紀にはゴシック様式で改修された。1533年にフランソワ1世の財務官であるジャン・ル・ブルトンが入手すると、中世の城砦の多くを撤去してルネサンス様式のシャトーを建設して1536年に完成した。18世紀半ばにミケランジュ・ド・カステラーヌが購入してバロック様式やロココ様式による改修を行い、別棟やオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための果樹園)、フランス式庭園を整備して各種パビリオンを設置した。18世紀後半にはさらに外側にイギリス式庭園が築かれた。1906年にスペイン人医師ホアキン・カルヴァリョがこの地を購入すると、16世紀のルネサンス庭園を復元することを決め、資料を集めて1908~16年に再建した。この庭園はイタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)に触発されたルネサンス庭園で、バロック様式のフランス式庭園との間をつなぐ貴重な庭園となっている。

宗教施設としては、まずトゥールに点在するトゥールのマルティヌス=聖マルティヌスに関する施設群が挙げられる。マルムティエ修道院はトゥールのマルティヌスが372年頃に設立したと伝わるロワール渓谷最初期の修道院だ。フランス革命中の1799年に解体され、現在はローマ・カトリックの神学校が立っているほか、修道院の遺構が遺跡として残されている。トゥールのサン=マルタン聖堂はカンド=サン=マルタンで亡くなったトゥールのマルティヌスの遺体を収めるために470年頃に創建された教会堂で、11世紀にロマネスク様式で再建された。シャルルマーニュ塔や時計塔などはこの時代のものだ。フランス革命後に解体されたが、1886年から20世紀はじめに歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興した様式)で建て直された。マルムティエ修道院とサン=マルタン聖堂は中世のガリアの有力な巡礼地で多くの巡礼者を集めた。トゥールには他にもロマネスク様式のサン=リベール礼拝堂やゴシック様式のサン=ガティアン大聖堂(トゥール大聖堂)など、歴史ある教会建築が少なくない。

フルーリー修道院はサン=ブノワ=シュル=ロワール修道院ともいわれるベネディクト会の修道院で、651年頃にヌルシアのベネディクトゥス(聖ベネディクトゥス)の遺骨を収める修道院として創設された。西ヨーロッパ有数の修道院として君臨し、11世紀に大火で多くが焼失するとロマネスク様式の大修道院として再建された。フランス革命後の混乱で廃院となったが、11世紀に建設されたロマネスク様式の修道院教会(ノートル=ダム教会)と鐘楼が残されており、ポータル(玄関)や柱頭などには11~13世紀の貴重な彫刻が残されている。

オルレアン大聖堂の名でも知られるオルレアンのサント=クロワ大聖堂は4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世からイエスが磔刑に処された聖十字架(サント=クロワ)の断片を聖遺物として収めるために創建されたと伝わる教会堂で、ジャンヌ・ダルクが足しげく通ったことでも知られている。10~11世紀にロマネスク様式、13~14世紀にゴシック様式で建て替えられたが、16世紀後半、宗教改革による混乱でユグノーに破壊された。フランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスによって1601年に再建が開始されたが、フランス革命による中断などで作業は遅れ、ようやく1829年に竣工を迎えた。全長140mという巨大な教会堂で、「†」形のラテン十字式・五廊式(身廊と4つの側廊を持つ様式)、鐘楼の双塔は高さ88m、トランセプトと身廊の交差部に立てられたスパイア(ゴシック様式の尖塔)は高さ114mを誇る。

フォントヴロー修道院、あるいはフォントヴローのノートル=ダム王立修道院は修道士ロベール・ダルブリッセルによって1101年に創設された修道院だ。アンジュー伯の支援を受け、第2代の修道院長にはイングランド王ヘンリー2世の伯母に当たるマティルド・ダンジューが就いた。また、ヘンリー2世の王妃アリエノール・ダキテーヌをはじめ、多くの貴族の女性がここで修道女となった。修道院はプランタジネット家の菩提寺でもあり、ヘンリー2世やアリエノール・ダキテーヌ、彼らの息子リチャード1世らが埋葬されている。ヴァロワ朝やブルボン朝の時代も庇護を受け、王家の関係者が修道院長に就くことも少なくなかった。しかし、フランス革命で廃院となり、1804~1963年まで刑務所として使用された。院内には最大4つの修道院施設があったが、グラン=ムーティエとサン=ラザールという施設が現存している。保存状態がいいのはグラン=ムーティエで、12世紀に建設されたゴシック様式の修道院教会や、13世紀の創建で16世紀に改装された全長59mのクロイスター(中庭を取り囲む回廊。ペリスタイルが発達したもの)、数多くの彫刻やフレスコ画が残る16世紀のチャプター・ハウスなどが残されている。

クノーのノートル=ダム教会はもともと4世紀に創設された修道院の修道院教会で、12~13世紀にロマネスク様式とゴシック様式を融合させたアンジュー・ゴシック(プランタジネット・ゴシック)様式で再建された。身廊などのベースは重厚なロマネスク様式で、ゴシック様式で発達する尖頭アーチ(頂部が尖ったアーチ)や交差ヴォールト(アーチを並べた筒型ヴォールトを交差させた「×」形のヴォールト)を駆使しており、特に交差八分のリブ・ヴォールト(枠=リブが付いた「*」形のヴォールト)がアンジュー・ゴシック最大の特徴となっている。北の中央部に正方形の鐘楼が立っており、独特の外観を築いている。内部ではすぐれたフレスコ画やゴシック彫刻を見ることができる。同様に、ロマネスク様式とゴシック様式が融合した特徴が見られる教会堂に、ブロワのサン=ニコラ教会やカンドのサン=マルタン協同教会がある。

■構成資産

○シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷

■顕著な普遍的価値

1981年に世界遺産リストに登載された「シャンボールの城と領地」には登録基準(i)が適用されていた。その後、「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」は登録基準(ii)と(iv)で推薦されたが、シャンボール城の件やICOMOS(国際記念物遺跡会議)の勧めもあって登録基準(i)も適用された。

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

ロワール渓谷はシャンボール城をはじめ世界的な名声を博するシャトーを筆頭に、ブロワ、シノン、オルレアン、ソーミュール、トゥールといった歴史都市に存在する建築遺産の質に関して卓越した地域である。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ロワール渓谷は大河沿いに展開する傑出した文化的景観である。それはまた人類の多彩な価値の交流の場であり、2,000年を超える人類と環境の相互作用の調和的発展の証である。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ロワール渓谷の景観と、特にそこに含まれる数多くの文化的モニュメントは、西ヨーロッパの思想とデザインに関するルネサンスと啓蒙の時代の理想を雄弁に物語っている。

■完全性

ロワール渓谷の歴史的な軌跡は現在の景観にはっきりと見て取れる。資産に見られる建築・都市・景観の多様な類型が280km以上にわたって十分かつ広範囲にわたって表現されている。

■真正性

ロワール渓谷は数多くの保全事業のおかげで建造物群、特に主要都市の歴史地区やモニュメントの用途や素材などに関して高度な真正性を保持している。しかし、農業の変質や都市の拡大、街や交通網といった新たな生活領域の導入、橋や高速道路といった大規模な建設プロジェクトなど、資産に影響を及ぼしかねない危険因子が確認されている。

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