アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群

Arles, Roman and Romanesque Monuments

  • フランス
  • 登録年:1981年、2006年名称変更
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:65ha
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、ローヌ川とアルルの歴史地区。中央が円形闘技場=アンフィテアトルム、通称アレーヌ
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、ローヌ川とアルルの歴史地区。中央が円形闘技場=アンフィテアトルム、通称アレーヌ (C) Chensiyuan
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、アンフィテアトルム。中央の塔は中世、要塞時代に築かれたもの
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、アンフィテアトルム。中央の塔は中世、要塞時代に築かれたもの
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、ローマ劇場=テアトルム、通称・古代劇場
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、ローマ劇場=テアトルム、通称・古代劇場。左の舞台の裏に立つ2本のコリント式の石柱は「ふたりの寡婦」と呼ばれている (C) Bokeby
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、公共広場=フォルムの地下回廊=クリプトポルティカス
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、公共広場=フォルムの地下回廊=クリプトポルティカス (C) Sailko
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、左の建物がサン=トロフィーム教会、その右はラシュヴェシェ宮殿(大司教宮殿)、広場はレピュブリック広場で右端はオベリスク
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、左の建物がサン=トロフィーム教会、その右はラシュヴェシェ宮殿(大司教宮殿)、広場はレピュブリック広場で右端はオベリスク (C) Wolfgang Staudt
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、見事な彫刻で飾られたサン=トロフィーム教会のクロイスター
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、見事な彫刻で飾られたサン=トロフィーム教会のクロイスター
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、コンスタンティヌス1世のテルマエ、通称コンスタンティヌス浴場
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、コンスタンティヌス1世のテルマエ、通称コンスタンティヌス浴場 (C) Johan Allard
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、アリスカンの墓群と奥の建物はサントノラ教会
世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群」、アリスカンの墓群と奥の建物はサントノラ教会 (C) Corine REZEL

■世界遺産概要

アルルはフランス南部プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏のブーシュ=デュ=ローヌ県の古都で、ローマ時代に地中海の主要港湾都市のひとつとなり、4世紀にはイタリア半島を守るローマ帝国の防衛拠点として発展した。西ローマ帝国滅亡後に低迷したが、11~12世紀に神聖ローマ帝国の下でふたたび黄金期を迎え、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群が混在する美都となった。

なお、アルルのアリスカンにあるサントノラ教会はフランスの世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産のひとつにも含まれている。

また、本遺産は1981年に「アルルのローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群 "Roman and Romanesque Monuments of Arles"」の名称で世界遺産リストに登載されたが、2006年に現在の名称に変更された。

○資産の歴史

紀元前1000~前800年頃、地中海から40kmほどさかのぼったローヌ川沿岸に広がる一帯にはリグリア人が住んでおり、その後ケルト人が移住して「アレラテ」と呼ばれる都市を建設し、地中海貿易を牛耳るフェニキア人が貿易港として整備した。紀元前600年頃にギリシア人が進出して沿岸部に港湾都市マッサリア(現・マルセイユ)を建てると、アレラテを占領してギリシア植民都市テリンが成立。紀元前5~前4世紀にはケルト人が勢力を盛り返してアレラテに戻したようだが、マッサリアの繁栄の陰に隠れて大きく飛躍することはなかった。紀元前2世紀にケルト系のサルウィイ人などと同盟してマッサリアと戦ったが、洪水などの天災もあって大きな被害を受けた。紀元前122年頃に同盟は崩壊し、この隙に進出した共和政ローマの支配下に入った。プロヴァンス地方は共和政ローマの最前線となり、紀元前103年頃には執政官ガイウス・マリウスがこの地に進出してフォス・マリエンヌと呼ばれる運河を建設して都市を拡張した。

紀元前60年にカエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル/シーザー)、ポンペイウス、クラッススという3人の有力者を軸に第1回三頭政治がはじまったが、紀元前53年にクラッススが戦死すると前二者による争いに発展した。このときアレラテはカエサル、マッサリアはポンペイウスを支持し、カエサルが勝利するとマッサリアはその特権を剥奪された。アレラテには第6軍団が置かれ、カエサルの姓であるユリウスを取ってローマ植民都市コロニア・ユリア・パテルナ・アレラテンシウム・セクスタノルム(先祖伝来のアレラテのユリウス第6軍団植民都市)が成立した。アレラテはローマ属州ガリア・ナルボネンシスの主要都市となり、東西を結ぶデクマヌス・マクシムスと南北を貫くカルド・マクシムスという2本の幹線道路とフォルム(公共広場)を中心にローマ式の都市計画が進められ、各種神殿やテアトルム(ローマ劇場)、凱旋門、市壁などが築かれた。また、港湾都市・軍事都市としてのみならず、小麦粉を生産する穀倉地帯としても重要な役割を果たし、経済的に繁栄すると1世紀にはアンフィテアトルム(円形闘技場)、3世紀にはキルクス(多目的競技場)などが建てられて町は拡大した。アレラテは4~5世紀にかけて最盛期を迎え、人口は8万~10万ほどに達し、4世紀の詩人アウソニウスはその繁栄ぶりから「ガリアの小さなローマ」と讃えた。

3世紀にはキリスト教が伝来し、最初の司教である聖トロフィムスが就任したと伝わっている(異説あり)。313年にミラノ勅令でキリスト教を公認した皇帝コンスタンティヌス1世はこの都市を気に入り、宮殿やテルマエ(公衆浴場)を建設し、息子であるコンスタンティヌス2世はこの町で生まれた。395年にローマ帝国が東西に分裂すると、皇帝直属の精鋭部隊であるプラエトリアニ(近衛隊)の本拠地が置かれて西ローマ帝国西部の中心都市となり、ホノリウスとともに共同皇帝となったコンスタンティヌス3世はアレラテを拠点とした。そしてまたアレラテはガリア(イタリア北部からフランス、スイス、ベルギーに至る地域)へのキリスト教宣教の拠点都市となり、5世紀創建のマジョール教会やサンテティエンヌ大聖堂がその中心を担った。460年には大司教区に昇格している。

西ゴート人や東ゴート人をはじめゲルマン系諸民族が圧力を強めると、アレラテはイタリア半島を守る軍事拠点としてさらに重要性を増した。しかし、471年に西ローマ皇帝アンテミウスが西ゴート王エウリックに敗れると、壮絶な争奪戦の末、476年に西ゴート王国の手に落ちた。同年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国を滅ぼし、オドアケルも493年に東ゴート王テオドリックに討たれると、アレラテも東ゴート王国の版図に入った。その後もフランク王国やランゴバルド王国との争いが勃発し、混乱の時代が続いてアレラテは衰退した。7世紀にイスラム王朝であるウマイヤ朝が勢力を伸ばすと、8世紀にたびたび攻撃を受けて一時陥落。フランク王国の宮宰カール・マルテルが732年にトゥール・ポワティエ間の戦いに勝利してウマイヤ朝のイベリア半島からのガリア進出を阻止したが、その勢いでプロヴァンス地方を平定して支配下に収めた。

フランク王国は843年のヴェルダン条約で西フランク、中部フランク、東フランクの3王国に分割されたが、中部フランク王国の版図に入ったプロヴァンス地方では855年頃にプロヴァンス王国が成立。しばしばイスラム教勢力やノルマン人の攻撃を受け、879年にはノルマン人のボソがプロヴァンス王に就き、キスユラブルグント王国(下ブルグント)を成立させた。アルルはヴィエンヌなどとともにこれらの国の首都となった。933年にはユーラブルグント王国(上ブルグント)がキスユラブルグント王国を吸収し、両ブルグントを統一してアルル王国が誕生した。こうしてアルルは首都として発展し、中世の衰退から徐々に回復した。11世紀はじめには神聖ローマ皇帝コンラート2世が王位に就き、アルル王国は神聖ローマ帝国の支配下に入り、代々の神聖ローマ皇帝は同時にアルル王を名乗ることとなった。一方でアルル王国はプロヴァンス伯領やサヴォイア伯国、ブルゴーニュ伯領、リヨン大司教領などさまざまな領土に分割され、アルルは12世紀に自由都市となった。王国としては勢いを失ったが、都市としては繁栄を取り戻した。

11~12世紀、第1回十字軍を皮切りに各地のイスラム教勢力に対してアルビゲンシア十字軍、マヨルカ十字軍、アラゴン十字軍といった十字軍が編成され、アルルもしばしば参加した。これらの影響で西アジアとの東方貿易(レヴァント貿易)をはじめ地中海で海洋交易が活発化し、港湾都市であるアルルもその恩恵を受けた。経済的に飛躍したアルルではロマネスク様式の建物が盛んに建設されたが、最たる例がサンテティエンヌ大聖堂で、12世紀に建て替えられると町の象徴となり、1152年にアリスカンと呼ばれる墓地に葬られていた聖トロフィムスの遺骨を聖遺物として収容したことからサン=トロフィーム教会を呼ばれるようになった。1178年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサがここでアルル王の戴冠式を行った。イングランドの貴族であるティルベリのゲルウァシウスは各地を旅して中世の奇譚集『オティア・インペリアリア(皇帝の閑暇)』を著したが、数ある都市の中でもアルルの美しさを絶賛して移住している。

13世紀、フランス王ルイ8世の子であり、ルイ9世の弟であるアンジュー伯シャルル・ダンジュー(シチリア王・ナポリ王カルロ1世)がプロヴァンス伯領を継承した。1365年にカール4世がアルル王の戴冠式を行ったが、これが戴冠式を行った最後の皇帝となった。そして1378年、カール4世はフランス王太子、後のシャルル6世にアルル王国を割譲したことで王国は消滅し、アルルはフランスの版図に入った。ただ、アルル王の名は神聖ローマ皇帝位が消滅する1806年まで引き継がれた。

1378〜1417年にローマとアヴィニョンに教皇が並び立った大シスマ(教会大分裂)に際してアルルはアヴィニョンを支持し、ローマを支持したマルセイユと対立した。14~15世紀はペストの流行や干ばつ・洪水などもあってアルルは衰退して人口は1万人を切り、主要貿易港としての立場もマルセイユに奪われた。16~17世紀にクラポンヌ運河の建設などもあって一時的に町は再生し、華やかなルネサンス様式の建物が建てられた。しかし、ペストや洪水の被害に宗教改革の混乱が重なって大きく回復することはなかった。こうして政治的・経済的・宗教的に重要性を失ったことが、アルルのローマおよびロマネスク時代の建造物が現在に引き継がれる一因となった。

○資産の内容

世界遺産の資産はローヌ川左岸(東岸)の一帯で、特に8件(アンフィテアトルム、古代劇場、クリプトポルティカスとフォルム、コンスタンティヌス浴場、ローマの城壁、アリスカン、サン=トロフィーム教会、ローマのエクセドラ)が具体的に記されている。

アンフィテアトルム、通称アレーヌ(英語でアリーナ)は90年頃に建設された長軸136m・短軸109mの楕円形の円形闘技場で、当時は20,000人以上を収容した。高さ21mで120ほどのアーチを備えているが、現在残るのは2層のみで、かつては3層構造だった。剣闘士や猛獣による戦いや軽戦車(戦闘用馬車/チャリオット)のレースなどが行われていたが、西ローマ帝国が滅亡すると移民の避難所となり、やがて4基の塔を備えた要塞に改築された。現在、東・西・北に残る塔はその名残だ。現在は闘牛やコンサート・演劇といったイベントの会場として使用されている。

テアトルム、通称・古代劇場(テアトル・アンティーク)は初代皇帝アウグストゥスの治世に建てられたローマ劇場で、紀元前40~前10年頃の建設と考えられている。かつては50×6mほどの木製の舞台の前に半径約50m・33列の半円形3層の観客席が展開し、約10,000人を収容したが、現在は第1層のみが残されている。かつては多数の彫刻やコリント式の柱などで飾られていたが、多くは倒壊したか持ち去られてしまった。そのひとつがフランス・パリのルーヴル術館に収蔵されている「アルルのヴィーナス」像だ。

クリプトポルティカスとフォルムはそれぞれ地下回廊と公共広場を意味し、ローマ時代は現在のレピュブリック広場付近のこの場所が町の中心となっていた。フォルムが築かれたのは紀元前30~前20年頃で、ポルティコ(列柱廊玄関)の一部が残されている。クリプトポルティカスはフォルムの地下約6mに築かれた回廊で、西・南・北の3本のギャラリー(通路)で「コ」字形を形成している。南北のギャラリーは約90m、それらを結ぶ西ギャラリーは60mほどで、いずれも幅約10mとなっている。用途は時代によってさまざまで、広場や市場・散歩道・貯蔵庫・兵舎などとして使用されていた。

コンスタンティヌス1世のテルマエ、通称コンスタンティヌス浴場はその名の通りコンスタンティヌス1世が4世紀はじめに建設した公衆浴場で、カルダリウム(高温浴場)、テピダリウム(低温浴場)、ハイポコースト(一種のサウナ)などの跡が残されている。他の遺跡と同様に西ローマ帝国滅亡後に移住者の待避所となり、建造物の素材として多くの石材が持ち去られた。それでも壁や半円形の出っ張りであるアプスなどが残されており、ローマ時代のテルマエとしてはよい状態で維持されている。

ローマの城壁は主にアウグストゥスの治世の紀元前1~後1世紀に築かれた市壁で、ローマの城郭都市としてこの内部に町が発展していた。中世に入っても増改築して使用が続けられ、13世紀には全長2.8kmの市壁が残っていたという。アンフィテアトルムの北や東、テアトルムの西に残る城壁やムルグ塔はローマ時代のものだが、カヴァルリ門(騎兵門)やその周辺の城壁は13世紀の創建で16世紀に再建されたものだ。

アリスカンは墓地が広がるネクロポリス(死者の町)で、ローマ時代や中世には南の城壁の外に広がっていた。キリスト教が普及する以前からの墓地で、やがて聖トロフィムスをはじめ司教や大司教らも埋葬されるようになり、キリスト教の墓地となった。聖トロフィムスをはじめ、迫害されながら信仰を貫いた聖ジェネスや教会名になっている聖オノラ(聖ホノラトゥス)といった聖人の埋葬地であることなどからやがてプロヴァンス地方の有力な巡礼地となった。サントノラ教会(聖オノラ教会)は11世紀にアリスカンの東端に創建された教会堂で、12世紀にロマネスク様式で再建された。「+」形のギリシア十字式の教会堂で、中央にクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)がそびえ、西にナルテックス(拝廊)、東に3基のアプス(後陣)を備えている。中央にそびえる八角形のクロッシング塔は四隅からアーチ(スキンチ・アーチ)を架けてドームを載せるスキンチ(入隅迫持)と呼ばれる特徴的な構造が使われている。プロヴァンス地方からスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(世界遺産)に至る巡礼路(世界遺産)の出発点でもあり、そのためフランス世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産に含まれている。アリスカンはまたゴーギャンやゴッホがしばしば作品に描いたことでも知られている。

サン=トロフィーム教会の場所にはかつて5世紀創建と伝わるサンテティエンヌ大聖堂が立っていたが、11~12世紀にロマネスク様式で建て替えられ、1152年にアリスカンから聖トロフィムスの遺骨が移されたことで名称が変更された。アルルを代表する大聖堂で、フリードリヒ1世バルバロッサやカール4世のアルル王戴冠式が行われたが、1801年に教区教会に格下げされて大聖堂の名を失った。「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、十字の交差部にはクロッシング塔として正方形の平面を持つ高さ42mの鐘楼がそびえている。ロマネスク様式を代表する建造物であるだけでなく、ポータル(玄関)や柱頭などに見事な彫刻が残されており、数多くのロマネスク芸術の傑作が見られる。また、クワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)など一部は15世紀にゴシック様式で改装されており、ゴシックやバロック様式の彫刻やステンドグラスも点在している。特に名高いのが28×15mの長方形のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)で、12~14世紀に建設が進められた。長い建設期間の中でスタイルが変化しており、回廊の東と北はロマネスク様式、西と南はゴシック様式となっている。壁面や柱には見事な彫刻やレリーフが刻まれており、イエスやマリア、使徒、聖トロフィムスらの像や物語が描かれている。また、北にはタペストリーの部屋があり、17世紀に作られた美しいタペストリーが飾られている。

ローマのエクセドラはローマ時代にフォルムの南端に築かれた半円形の建物で、ローマ皇帝に捧げられていた。現在はアルラタン博物館の中庭に壁や石畳などの遺構が残されている。

マジョール教会(ノートル=ダム・デ・ラ・マジョール教会)は8件には含まれていないが、ロマネスク様式の重要な建築物として知られている。452年創建と伝わるアルルでもっとも歴史ある教会のひとつで、現在見られる建物は1152年頃に建て直された。といっても正方形の鐘楼やクワイヤ、アプスなどは16世紀、西ファサードは17世紀の再建で、ゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式が混在している。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式の教会堂で、主祭壇の他にサン=マルタン礼拝堂やピュルゲトワ(煉獄)礼拝堂、サクレ=クール礼拝堂などの礼拝堂があり、中世から現代までの芸術作品で彩られている。

■構成資産

○アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

資料なし

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

資料なし

■完全性

資料なし

■真正性

資料なし

■関連サイト

■関連記事