ハンガリー東部、ボルショド=アバウーイ=ゼンプレーン県、ヘヴェシュ県、ハイドゥ=ビハール県、ヤース=ナジクン=ソルノク県にまたがる世界遺産で、一帯にはレス(黄土)と呼ばれる砂質の草原=プスタが広がっている。この広大なプスタを利用してウシやウマ、ヒツジの放牧を中心に4,000年以上にわたって持続可能な農牧業が営まれており、人々の生活と自然が一体化した文化的景観が伝えられている。
北と東に伸びるカルパチア山脈、西を走るアルプス山脈、南を封じるディナル・アルプス山脈に囲まれた盆地はカルパチア盆地と呼ばれ、中心にはハンガリー大平原が広がっている。東部や南部は年間500mmほどと少ない降水量とレスと呼ばれるアルカリ性の砂質の地盤のため「プスタ」と呼ばれる草原地帯が広がっている。乾燥した土地ではあるが南北にティサ川が貫いており、川の周囲には湖沼や湿地が広がり、しばしば洪水が起こる氾濫原となっている。
カルパチア盆地を中心とした一帯は古くから「パンノニア」と呼ばれ、家畜の放牧に適していたことから東ヨーロッパやアジアの遊牧民族を招き入れた。青銅器時代の紀元前2000年頃に遊牧民族がクンハロム(マウンド・墳丘)やクルガン(積石塚)の建設をはじめ、人類の足跡を最初にこの地に残した。紀元前後にはイラン系の遊牧民族であるサルマティア人や、一部にローマ帝国が進出し、その後もフン人(フン帝国)やアヴァール人といった遊牧民族や、スラヴ人、フランク王国などが進出した。
ハンガリー人の祖とされるマジャール人がこの地にやってきたのは9世紀頃とされ、896年には大首長アールパードが諸部族を統一してハンガリー大公国を建国。1000年にはキリスト教国家として認められてハンガリー王国に昇格した。マジャール人はハンガリーの中西部を流れるドナウ川と中東部を流れるその支流・ティサ川の周辺の平野で放牧を行って生活基盤とした。降水量が少なく、しばしば干ばつに見舞われるプスタは耕種農業(植物を栽培する農業)には向いておらず、19世紀まで灌漑農業(水を人工的に供給しながら行う農業)が導入されることはなかった。13世紀初頭までにホルトバージを中心に畜産農業を中心とした経済ネットワークが完成し、ハンガリー王国の首都オーブダやペスト(現・ブダペスト。世界遺産)からホルトバージのティサフュレド、デブレツェンを経由してトランシルヴァニア(ルーマニアの中北部・中西部)に抜ける交易ルートも確立された。特にトランシルヴァニアからこのルートを通って貴重な塩が持ち運ばれたことから「塩の道」と呼ばれた。13世紀にはテュルク系(トルコ系)のクマン人などもこの地に進出している。
1241年にモンゴル帝国がヨーロッパに侵攻し、ポーランド王国のクラクフ(世界遺産)やハンガリー王国のオーブダやペストを破壊した。同年末にハン(汗。カン。君主)であるオゴタイが死去したため翌年には撤退したが、プスタは帝国軍に踏みにじられて荒廃し、多くの集落が放棄された。14世紀にはペストが流行して同様に過疎化が進んだ。一方で、デブレツェンには集落から人が集まって中心都市として発達した。
16世紀にオスマン皇帝スレイマン1世がハンガリーを攻略し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を撃破。その後、オスマン帝国は撤退したが、ハンガリー中部と南部はオスマン帝国領ハンガリーとして残された。デブレツェンは1543年に占領されてイスラム教勢力の支配下に入った。1593~1608年にはオスマン帝国とハンガリー王国の間で戦争が起こり、1594年にはオスマン帝国に服属していたクリミア・ハン国からテュルク系のクリミア・タタール人が入植を行った。しかし、オスマン帝国が1683~99年の大トルコ戦争に敗れるとカルロヴィッツ条約でヨーロッパの多くの領土をオーストリアに割譲し、オスマン帝国領ハンガリーも消滅した。
トルコ人は1711年までにハンガリーから去り、約150年にわたる支配を終えた。しかし、イラン系、モンゴル系、テュルク系といった各種遊牧民族が伝えたホルトバージの農業システムはこの時代に統合・完成された。それは大きな土地を持つ領主が農奴を利用して畜産農業を行うもので、春から秋にかけて家畜を放牧地で放牧し、冬は水源近くで舎飼(畜舎で飼料を与えて家畜を飼うこと)するという移牧が19世紀頃まで盛んに行われた。この時代にプスタに残されていた多くの樹木が伐採された。
19世紀に入るとナポレオン戦争(1803~15年)後のヨーロッパ全域の混乱と経済低迷・食生活の変化によって牧畜や交易のシステムが崩壊し、ホルトバージの社会も大きな打撃を受けた。一方で、近代の灌漑システムにより草原に水路が整備されたり湿地の廃水が行われると、草原や湿地が耕作地として開発され、畜産農業から耕種農業への転換が進められた。これにより小麦やヒマワリ、トウモロコシ、タバコなどの栽培が主力産業となった。
1914~18年および1950年代に人工養魚池を開発して養殖漁業が新たな産業となった。ただ、草原が乾燥化して放牧に影響が出るなど、水の新たな利用法を巡って問題が噴出した。水規制の問題などから20世紀の稲作の導入や植林プロジェクトは失敗に終わっている。
プスタは最終氷期(約7万~1万年前)後に形成されたもので、ティサ川が流れ、野生動物が植物を食み、人間が放牧を行い、ティサ川の流れを制御し、樹木を伐採することで誕生した。自然の草原をベースとしながらもその姿は時代時代に変化しており、それでも4,000年以上にわたって継続し、いまなお持続可能な農業に対する挑戦が続けられている。
世界遺産の資産はホルトバージ国立公園とその周辺で、おおよそ東のバルマズイヴァーロシュ、西のポロスローとティサ湖、南のピュシュペクラダーニ、北のウイセントマルギタといった町に囲まれた一帯となっている。ただ、その中でも開発が進んでいる都市域や新しい農耕地は含まれておらず、中心付近のホルトバージでもそうした市街地は除かれている。かつての主要都市は東のデブレツェンと西のティサフュレドで、前者からトランシルヴァニア方面、後者からブダペスト方面に主要道が伸びていた。
最初期の人類の痕跡が土を盛り上げたクンハロムや石を積み上げたクルガンだ。直径20~50m・高さ5~10mの半球形または円錐形で、紀元前2000年ほどまでさかのぼる。一般的にクンハロムやクルガンは乾燥地に築かれたが、必ず近くに水源を有している。これらは後の時代に墓地として使用され、マジャール人によって近くに教会堂が建設された例も少なくない。
中世はデブレツェンとティサフュレドを結ぶライン上に集落が発達した。一例がホルトバージやナゲギェス、ナドゥヴダール、ナギヴァンで、こうした集落の多くは教会堂を中心に築かれた。といっても住居や教会堂はアシや木材、アドベ(泥にワラを混ぜて作った日干しレンガ)を利用した簡素な建物で、当時のものは残されていない。プスタにはほとんど人工建造物が存在しなかったが、冬に家畜を収めておくための家畜小屋がアシで築かれていた。冬の間、チコーシュ(ウマ飼い)やグヤーシュ(ウシ飼い)、ユハース(ヒツジ飼い)の男たちはこうした小屋で動物を世話していた。
プスタ特有の家畜がハンガリー草原牛と呼ばれるハンガリアンステッペン(ハンガリアングレイ)だ。9世紀頃にマジャール人がもたらした古代品種の一種で、現在はハンガリーの国産牛となっている。白い身体と大きな角が特徴で、雄牛は最大で高さ155cm・体重900kg、雌牛は高さ140cm・体重600kgほどに成長する。乳牛・肉牛・農耕用に多用され、人々の生活を支えた。ラツカヒツジはらせん状の角を持つヒツジで、こちらもマジャール人が持ち込んだものと伝えられている。中型のヒツジで、最大で高さ72cm・体重75kgほどになり、白や灰色、黒の羊毛を産出する。他にもウマのノニウスウマ、ブタのマンガリッツァと特徴的な種が少なくない。
養魚池は19世紀に築かれるようになり、最盛期は約6,000haを占めた。ホルトバージ大養魚池は1973年に設立された中央ヨーロッパ最大の養魚池で、17の池を有していたが、現在は10の池が稼働している。鉄道などの施設が残されているほか、減ってしまった湿地の代わりに水鳥や渡り鳥の重要な生息地となっている。
プスタにおける数少ない石造の歴史的建造物がホルトバージ川に架かるキレンチユク橋だ。ハンガリー語で九穴橋を意味する新古典主義様式の橋で、石橋としてはハンガリー最長の167.3mを誇る。建設は1827~33年だが、この地の木橋については14世紀から記録がある。
キレンチユク橋の東に立つホルトバージ・チャールダは18~19世紀に築かれたチャールダ(旅館・食堂)で、現在は地元のワインやプスタの料理を提供するハンガリー料理店として営業している。伝統的なチャールダは木造平屋でアシなどを葺いた茅葺き(かやぶき)あるいは小さな木片を並べた柿葺き(こけらぶき)で、ふたつの家屋が向かい合って築かれ、馬小屋を備えてた。こうしたチャールダはホルトバージやナゲギェス、ナギヴァン、ティサフュレドなどにも残されている。
ハンガリーのプスタは牧歌的社会によって構成された文化的景観の現存する卓越した例である。
ホルトバージ国立公園の景観は数千年にわたる伝統的な土地利用形態の痕跡を手付かずで目に見える形で伝えており、人と自然の調和の取れた相互作用を示している。
ホルトバージ国立公園に代表されるプスタは自然の草原、レスの尾根、アルカリ性の牧草地や放牧地、大小の湿地帯(主に沼沢地)の複雑なモザイクであり、先史時代から牧畜に理想的な条件を提供し、この地域に大きな家畜育種文化が出現する以前から存在していた。この草原と湿地のモザイク状態は文化的景観の自然的基盤であり、この地には4,000年以上にわたる伝統的かつ継続的に使用されてきた証拠が保存されており、伝統的な畜産や酪農に関連する人工的要素を含むさまざまな要素によって表現されている。
1972年にホルトバージ国立公園が創設され、自然保護区として法的な保護下に入ったことで、こうした要素の保存と資産内の景観を継続的に利用するための適切な条件が整えられた。ただ、国立公園外においても有機的に接続された草原や分離された草原の断片が存在し、荒らされていない伝統的な放牧地として機能しているため、バッファー・ゾーンを設定して保護する必要がある。
一部の伝統的な家畜品種を利用した広範な放牧地や自然状態で維持されている非使用地といった歴史的な土地利用の主要素はいまだ継承されており、文化的景観はその構造と機能的な複雑さを維持している。こうした景観の調和は幾世紀にもわたって多くの芸術家や詩人・作家にインスピレーションを与えてきた。また、伝統的な土地利用の様子を伝える人工的要素(木製の掘り井戸、チャールダ、橋、一時的な宿泊施設)はその素材(アドベやアシ等)・形状・建築構造(あるいはフェンスのような特定要素の特徴的な欠如)・使用方法といった点において何世紀にもわたって進化を続けてきた特徴や技術を保存・維持している。土地利用に関する農牧業や手工芸、大衆的な習慣や祭祀といったコミュニティの伝統文化の保護は意識的な実践とその継承によって確保されている。